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52 まるで子犬みたい
少し息を切らした声で問い掛けられる。
駆け寄ってきた人影は、朗らかな顔立ちをした三十代ぐらいの女性だった。焦げ茶色のショートカットを三角巾でまとめており、シンプルなワンピースの上には生成のエプロンを着ている。一見すると武器などの所持もなく、危険性はなさそうな人物だった。
「はい、そうですが」
ニアが肯定を返すと、女性は嬉しそうに口元を緩めた。その目がじわりと涙で潤んでいくのを見て、ニアはひどく驚いた。目を見開くニアを見上げて、女性が深々と頭を下げてくる。
「突然お声をかけてしまって申し訳ございません。いつかお会いできたらお伝えしたいと思っていたんです」
「何をですか?」
「私たち家族は、もともとはバドラ子爵が管理している北の領地に住んでおりました」
女性の口から出てきたバドラ子爵という名前に、過去の記憶が一瞬で脳裏を過ぎった。バドラ子爵は、七年前フィルバートとともに悪徳貴族を処罰しまくっていた頃に、領地と財産剥奪の上で国外追放した貴族の一人だ。領民に対しても無茶な税収が行われ、そのせいで北の領地では凍死者や餓死者まで出ていたことを思い出す。
目の前の女性がそんなところで暮らしていたかと思うと、眉尻が情けなく下がった。
「それは……さぞ大変だったかと……」
それ以上言葉が出てこなかった。ニアが黙り込んでいると、顔をあげた女性はふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
「え?」
「ニア・ブラウン様と第一王子様がバドラ子爵を追放してくださったおかげで、私と夫と娘は飢え死にせずに済みました。ニア・ブラウン様は、私たち家族の命の恩人なのです。ですから、いつか感謝をお伝えしたかったのです。私たちを救ってくださって、心から感謝しております」
そう言って、女性がまた深々と頭を下げる。その仕草に、ニアはとっさに首を左右に振った。
「いいえ、それは違います。俺たちは遅すぎたぐらいです。犠牲者が出る前に動くことができず、苦しめてしまった領民の方にはむしろ謝罪しなくてはいけません」
逆にニアが頭を下げると、女性は驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと首を左右に振った。
「北の領民たちは、貴方がたに感謝することはあれど恨んでいる者は一人もおりません」
「ですが……」
「最初に聞いたときは本当に驚きました。まさか十三歳と十六歳の少年が、あの狡猾で欲深いバドラ子爵を追放したなんて」
言った後に、女性が、あっ、と小さく声をあげて口元を掌で押さえる。
「少年などと失礼なことを言って申し訳ございません」
「いいえ、大丈夫ですよ」
ニアが柔く微笑みかけると、女性は安心したように胸を一撫でした。そのまま少し弾んだ声で続ける。
「その後の第一王子様とニア・ブラウン様の活躍は、まるで活劇でも聞いているかのようでした。まだ成人もしていない少年たちがこの国に蔓延(はびこ)る悪を次々と成敗して、これまで報われなかった、虐げられてきた者たちを光の下へと引き出してくださった。この国をより良い世界に変えてくださった」
口に出すにつれて感情が高ぶってきたのか、女性の声音がかすかに涙で震えていく。その声音に、周りにいた民衆まで足を止めるのが見えた。民衆たちが小さくさざめきながら、ニアをじっと見ている。辺りから「あの方がニア・ブラウン様?」「第一王子のロードナイトの?」などという声が聞こえてきて、ニアはかすかに頬を赤らめそうになった。
だが、周りを気にする様子もなく、女性は言葉を続ける。
「今まで、私たちを気遣ってくれる貴族なんていませんでした。下の民は、ただ税を吸い上げるための消耗品でしかなく、餓えようが死のうがどうだっていいと放り捨てられていました。ですから、第一王子様とニア・ブラウン様が北の領地を救ってくださったときは驚きました。私たちを、一人の人間として見てくださる方がいるのだと思って……」
そこまで言うと、女性は目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。
身につまされるものがあったのか、周りで立ち止まっている民衆からもグスッと小さく鼻を啜る音が聞こえてくる。ニアを見つめる民衆の眼差しに憧憬と畏敬が混ざり始めているのを見て、ニアは思わず視線を伏せた。
女性はまるでニアを英雄のように扱うが、この七年間で手から取り零してしまったものは大量にあった。守り切れずに失われた命も数え切れないほどあるだろう。それを思うと、周囲からの眼差しに自分が見合っていない気がして、妙に罪悪感が募った。
湿っぽさを振り払うように、女性が口元に溌剌とした笑みを浮かべる。
「当時は産まれたばかりだった娘も、今年で無事八歳になりました。今は北を出て、こちらで家族で花屋を営んでいます」
女性が語る言葉に、ニアはほっと息を吐いた。
「それは、よかったです。ご家族ともに健やかなら、本当によかった」
込み上げてきた安堵にふにゃりと表情を緩めると、どうしてだか一瞬周りがざわめいた。驚いて辺りを見渡すと、なぜか民衆はみなニアからパッと視線を逸らしてしまう。
ニアが困惑に眉尻を下げていると、女性が楽しげに笑い声をあげた。
「ふふっ、まるで子犬みたいですね」
「え?」
奇妙な言葉を問い返そうとしたとき、不意にサクラの甲高い声が響いた。
「えっ、さっきお花って言った? あなた、お花屋さんなのっ?」
近くの屋台の前で砂糖がけの果物を食べていたサクラが、ずかずかと女性に近付く。女性は、子供みたいに口元をべたべたに汚したサクラを見て目を丸くしたが、すぐさま接客業らしい笑みを浮かべた。
「はい。西広場の上で花屋を開いていますよ」
「わたし、お花だいっすきなの! ねぇ、お店に案内してくれる?」
サクラがこてんと首を傾げてお願いすると、女性は和やかな声で答えた。
「もちろんです。ご案内しますね」
そう言って、女性が先導するように歩き出す。サクラはキャアッと嬉しそうな声をあげると、ぴょんぴょんと跳ねるような足取りで女性の後をついていった。その後ろを、うんざりとした表情のダイアナや、目を爛々と輝かせた騎士たちがぞろぞろと並んで歩いて行く。仕方なくニアとロキも、その一同についていった。
女性の店舗は、西広場の長い大階段を登り切った先にあるようだった。階段を登り始めて中腹にさしかかった頃、ふと一人の騎士の足取りが遅くなっていることに気付いた。先ほどまで意気揚々とサクラの横を歩いていたのに、今は一同から遅れてぜえぜえと息を切らしている。
「どうした?」
ニアが顔を覗き込んで声をかけると、騎士はこちらへと青ざめた顔を向けてきた。
「申し訳ございません……突然気分が悪くなって……」
答えるなり、騎士がガクッと膝を折る。慌ててその身体を支えて、階段に腰かけさせた。
「大丈夫か? 医師を呼んだ方がいいか?」
「いいえ……吐き気だけなので、少し休めばよくなるかと……」
弱々しい声で答えて、騎士が両手で頭を抱える。その様子を見て、ニアはとっさに階段上を見上げた。
サクラや他の騎士たちは遅れた騎士を気にする様子もなく、どんどん階段を登って行っている。ダイアナは心配そうに一度こちらを見下ろしたが、流石にサクラを放ってこっちに来るわけにもいかないのか、そのまま足を進めていた。
それを見て、ニアは逡巡するように視線を揺らした。流石に体調不良の騎士を放っておくわけにもいかないし、だからといってダイアナをあの中で一人にしておくのも不安だった。
どうしようかと悩んでいると、ふとロキの声が耳に入った。
「こいつは俺が見ておくから、お前は先に上に行け」
青ざめた騎士の隣にドカッと腰を下ろしながら、ロキが言う。その言葉に、ニアはとっさに首を左右に振った。
「いえ、ロキ様を一人にするわけにはいきません」
「一人じゃねぇし」
ロキが堂々とした仕草で隣の騎士を指さす。だが、体調不良の騎士にロキの護衛ができるとは思えなかった。
ニアが眉を顰めていると、ロキは放り捨てるような口調で言い放った。
「いいから行けって。俺だってこの三年間馬鹿みたいに鍛えられたんだ。自分一人ぐらいは自分で守れる。それに今は――ダイアナを一人にするな」
ぶっきらぼうな口調だが、その言葉からロキがダイアナを心配しているのが伝わってきた。その気持ちに口元がかすかに緩む。ニアの笑みに気付いたロキは、威嚇する犬のように鼻梁に皺を寄せた。
「おい、何も言うなよ。何も言わずに、さっさと行け」
シッシッと追い払うように手を動かされる。
「何かあったら階段上に向かって大きな声をあげてくださいね。すぐに駆け付けますから」
ニアがそう言うと、ロキは過保護な母親を見るように唇をへし曲げた。ニアはロキに一礼をしてから、一気に階段を駆け上がった。
階段の一番上まであがると、そこは少し開けた場所になっていた。展望も良くてデートスポットになっているのか、階段のすぐ横にある花屋でカップルが花束を買って、すぐさま相手に贈っている姿が見えた。おそらくそこが女性の店舗なのだろう。
花に溢れた店舗を見ると、サクラはまたはしゃいだ声をあげた。
「わぁっ、きれいなお花っ!」
店先に並べられた色とりどりな花を、サクラがうっとりと眺めている。その姿を見て、おそらく女性の夫であろう三十代の優しげな男性がにこやかに微笑んで言った。
「今の季節なら、こちらのライラックがオススメですよ」
店主が紫色の花を掌で示して言う。
「え~、紫ってわたし似合うかなぁ」
サクラが身体を左右にくねらせながら言う。騎士たちがまるでコーラスのようにサクラを褒め讃えているのを右から左へと聞き流していると、ふと花の向こう側からこちらを見ているあどけない眼差しに気づいた。
大量の花に隠れるようにして立っていたのは幼い少女だった。焦げ茶の髪を頭の両脇でおだんごにしていて、薄緑色のワンピースを着ている。きっとこの子が先ほどの女性の娘だろう。
「ミーナ、ほらご挨拶して」
女性がミーナと呼ばれた少女の背中に手を当てて、そう促す。だがミーナは、じっと食い入るような眼差しでサクラの方を見つめていた。
そして不意にハッとしたように小走りに駆けてくると、ミーナは自身の手に持っていた真紅の花をサクラの方へと差し出した。
「これ、どうぞ!」
憧れの人と出会ったように、ミーナの頬は薄桃色に染まっていた。キラキラと輝くミーナの目を見て、サクラがこれ見よがしに両頬を押さえる。
「えぇっ、わたしにくれるのぉ?」
言いながら、サクラが差し出された花に手を伸ばす。だが、ミーナはすいっとサクラの手を避けると、更に大きな声をあげた。
「騎士様、どうぞ!」
ミーナの眼差しは、サクラの後ろに立っているダイアナへとまっすぐ向けられている。その瞬間、サクラの顔からすぅっと表情が消えるのが見えた。
ダイアナはミーナに近付くと、目線を合わせるように軽く身を屈めた。
「私にくれるの?」
「はい!」
「ありがとうね」
そう言って花を受け取ると、ダイアナは女性へと視線を向けた。
「こちらはお幾らですか?」
「それは茎が曲がってて売り物にならない花だったので、騎士様がお嫌でなければどうか受け取ってください」
女性がそう答えると、ダイアナはふわりと柔らかく微笑んだ。そのまま花を耳上の髪にさして、ミーナへと笑いかける。
「似合うかな?」
「とってもきれい!」
「ふふ、嬉しい。あなたもとっても可愛いわ」
ダイアナが目を細めて言うと、ミーナは恥ずかしがるように視線を伏せた。その和やかな光景にニアが口元を緩めていると、不意にサクラの声が聞こえた。
「あっ! あれってなぁに?」
サクラが頭上を指さしている。その声に視線をあげた直後、猛烈なスピードで漆黒の鳥が目の前を横切った。鋭い羽が頬を掠める感触に、うっ、と鈍く声が漏れる。
通り過ぎた鳥が何だったのか考えるよりも先に、突然幼い悲鳴が耳をつんざいた。
「きゃああぁっ!」
反射的に悲鳴の方を見やると、サクラがミーナを階段の方へ突き飛ばしているのが視界に入った。ミーナの小さな身体が、階段へと向かって後ろ向きに倒れていく。それを見て、ニアは驚愕に目を見開いた。
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