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番外編1 大切なニア坊ちゃん(ジーナ視点)
ジーナは激怒した。必ず、ニア坊ちゃんに手を出した不埒な輩を滅さなければならぬと決意した。ジーナには地位も力もない。ジーナは、ただのメイドである。心優しき伯爵家に仕え、毎日平穏に暮らしてきた。けれども、仕える主人への敬愛は人一倍大きかった。
今日ジーナは、子供が産まれてから長らく暇(いとま)を貰っていた屋敷へと訪れていた。久しぶりにニア坊ちゃんが休暇を取って実家に戻ってきたと、わざわざダイアナお嬢様がジーナに手紙を送ってくださったのだ。
数年ぶりに見るニア坊ちゃんは、ジーナの記憶よりもずっと大人びているように見えて、ジーナは思わず涙ぐみそうになった。
「ニア坊……ニア様、お久しぶりです」
昔の癖で坊ちゃんと呼びかけてしまって、慌てて言い直す。だけど、ニア坊ちゃんは苦笑いを浮かべて首を左右に振った。
「坊ちゃんに戻してもらっても構わないよ」
「ですが」
「昔は坊ちゃん付けで呼ばれるのが恥ずかしかったけど、今は坊ちゃんって呼んで貰った方が気が楽なんだ」
そう答えるニア坊ちゃんの目には、かすかな憂(うれ)いが滲んでいるように見えた。きっと城で大変な思いをたくさんしてきたんだろう。冷酷だと噂の第一王子にいびられたり、こき使われたりしているのかもしれない。
そう思うと、ジーナはまたじわりと目が潤むのを感じた。
「お仕事は大変ですか?」
訊ねると、ニア坊ちゃんは口元に苦笑いを浮かべた。
「大変だけど、やり甲斐のある仕事だよ。それに国のために働けるのは名誉なことだ」
「とても、ご立派になられましたね」
口に出した瞬間、ぽろりと涙が溢れた。ほろほろと涙を零すジーナを見て、ニア坊ちゃんが驚いたように目を丸くする。だが、すぐさまポケットからハンカチを取り出してジーナに差し出してきた。
「ジーナは相変わらず涙もろいなぁ」
ほら、これ使って。と促されて、ジーナは両手でそうっとハンカチを受け取った。ジーナが上等な絹のハンカチで涙を拭っている間に、ニア坊ちゃんは膝を曲げてその場にしゃがみ込んだ。ジーナの足にしがみ付くようにして立っている男の子に目線をあわせて、ニア坊ちゃんがにっこりと微笑む。
「初めまして、ニア・ブラウンです。きみのお名前は?」
優しく声をかけてくるニア坊ちゃんに対して、今年で三歳になるジーナの息子はもじもじと恥ずかしそうに身体を揺らすばかりだ。
「ほら、お名前言って」
ジーナがそう促すと、息子はようやく唇を薄く開いた。
「マー……クス」
「マークス? 良い名前だね。マークスは何歳になったんだ?」
マークスが両手をパッと開く。一本ずつ指を折っていき、最後に残ったのは四本の指だった。
「四歳?」
「いいえ、三歳です」
ジーナが訂正すると、ニア坊ちゃんは楽しそうに肩を揺らして笑った。
「マークスはお菓子は好き?」
「すき……」
「じゃあ、一緒に食べに行こうか」
ニア坊ちゃんが、しゃがみ込んだままマークスの顔を覗き込むように緩く首を傾げる。途端、それまで二人の穏やかなやり取りに微笑んでいたジーナの顔が一瞬で強張った。服からわずかに覗いたニア坊ちゃんの首筋に、赤い痕が散っているのが見える。
硬直するジーナに気付く様子もなく、ニア坊ちゃんがマークスの小さな手を握って笑いかけてくる。
「中でマークスにお菓子あげても大丈夫かな」
「え、あ、はい」
ほとんど上の空のまま答える。すると、ニア坊ちゃんはマークスを連れて屋敷の方へのんびりと歩いて行った。屋敷に入っていく二人の姿を、ジーナは呆然と眺めた。
ニア坊ちゃんの首にあったのは、明らかな性交の痕だ。ニア坊ちゃんも、もう二十歳だ。身体を重ねるような相手がいたとしてもおかしくない。そう考えながらも、ジーナは自分の頭がぐるぐると空回りしているのを感じた。
「いや……それにしても、痕多すぎない?」
自分の口から無意識に言葉が零れ落ちていた。ニア坊ちゃんの首筋に散った赤い痕は一つや二つではなかった。それこそ見える範囲だけでも、数え切れないほどの痕が残されていたのだ。その痕からは、露骨過ぎるほどの独占欲と執着心が滲み出ていた。
そう考えた瞬間、ジーナはぞわっと背筋に悪寒が走るのを感じた。頭の内側で、これまでの出来事がカチャカチャと音を立てて整理されていく。
――どこか憂い……というか色気を帯びたニア坊ちゃんの表情。
突然、休暇を貰って実家に帰ってきたこと。
四年前にニア坊ちゃんを気に入って、自分の側近にした第一王子。
ちまたでは、第一王子はニア坊ちゃんをひとときも自分の傍らから離さないと聞いた――
そうして、ある考えに思い至った瞬間、ジーナは一気に自分の眼球が燃えるように熱くなるのを感じた。唇がわなわなと震えて、握り締めた拳に痛いくらい力が篭もる。身体の奥底から、憎悪に近い憤怒がマグマのように湧き上がってきて止まらない。
ジーナが怒りに身を震わせていると、後ろからポンッと腕を叩かれた。振り返ると、ダイアナお嬢様が立っていた。
「ジーナ、こんなところに突っ立ってどうしたの?」
長閑(のどか)に訊ねてくる声に、ジーナは掠れた声を返した。
「ダイアナお嬢様……ニア坊ちゃんが……」
「ニアお兄さまが?」
「ニア坊ちゃんの純潔が奪われてしまいました……っ!」
悲痛な叫び声をあげると、ジーナは両手で自身の顔を覆った。ダイアナお嬢様は一瞬ギョッとしたように目を剥いたが、すぐに事態を把握したのか、ジーナの背中を優しく撫でてきた。
「あぁ……ジーナも気付いちゃったのね」
「ダイアナお嬢様もお気付きですか」
「そりゃ、あんなにたくさん痕を残されてたら気付かない方が無理よ」
気付いてないのはお父様ぐらいかしら。と続けて、ダイアナお嬢様が、ほぅ、と小さくため息を漏らす。その姿を見つめたまま、ジーナは低い声で訊ねた。
「相手は、第一王子ですか」
「ええ、確実に第一王子ね」
ダイアナお嬢様の返答に、ジーナはキッと目尻を吊り上げた。全身の毛が逆立ちそうなほどの憤怒が、体内でメラメラと燃え滾っている。
「ニア坊ちゃんも同意の上でしょうか」
「同意だったら、きっとお兄さまは実家に帰ったりなんかしてないでしょうね」
淡々とした口調で、ダイアナお嬢様が答える。その言葉に、ジーナはますます自身の怒りのボルテージがあがっていくのを感じた。全身が高温の青い炎で包まれているような感覚だ。
「ダイアナお嬢様、私でも扱えそうなナイフを一本お貸し頂けないでしょうか?」
「ちょっとジーナ、ナイフで何をするつもりなの」
「城に潜り込んで、第一王子のイチモツを切り落としてきます」
完全に目を据わらせているジーナを見て、ダイアナお嬢様は困ったわねとばかりに片頬に手を押し当てた。
「ジーナ、無茶なことを言わないで」
「たとえ無茶でも、どうしても許せません。ニア坊ちゃんに無体を働くなんて……」
口にすると余計に苦しくなって、グズッと鼻が鳴った。
小さい頃からずっと大切にお世話をしてきて、周りを思いやれる優しい子に育ってくれたのに――まさか男である主君に迫られて無理やり関係を強いられるなんて、そんなひどい話があるものか。
「メイドとして城に潜り込んで、寝ている隙に股間を突き刺せばどうにか――」
刺すシュミレーションのためにジーナが素振りをしていると、ダイアナお嬢様が慌てたように声をあげた。
「待ちなさい、ジーナ。貴女には素敵な旦那さんやまだ小さな子供がいるんだから、危ないことは考えないの」
「ですが、お嬢様」
「ねぇ、ジーナ。私も貴女と同じ気持ちよ。ニアお兄さまに手を出しやがったクソ野郎を去勢して、木に吊して顔面が潰れるまでボコボコに殴り付けてやりたいと思ってるわ」
容赦のないダイアナお嬢様の言葉に、ジーナは同意を示すように深々とうなずいた。
「でもね、大切なのは私たちの気持ちじゃなくて、ニアお兄さまの気持ちなの」
「ニア坊ちゃんの……」
ジーナが反芻すると、ダイアナお嬢様は少しだけ遠い目をした。視線を空へと向けたまま、ひどく釈然としない口調でダイアナお嬢様が続ける。
「本当にちっとも全然欠片も納得できないし、心の底から理解できないんだけど……ニアお兄さまも、第一王子に想いを寄せてるみたいなの」
「あり得ませんよッ!」
反射的に金切り声でそう返していた。ジーナの絶叫に、ダイアナお嬢様は何度もうなずいた。
「そうよね、あり得ないわよね。でも、そのあり得ないことが起こっているの」
「ニア坊ちゃんの趣味悪すぎですっ!」
これまでニア坊ちゃんの悪口なんて一言も言ったことがなかったが、流石に耐えきれなかった。
「だって、第一王子といえば冷酷非道で、普段はちらりとも笑わないって有名じゃないですか! そのくせ敵をネチネチ追い詰めているときだけは楽しそうに笑うって……そっ、そんな性格ドブ野郎に、じゅ、純真無垢なニア坊ちゃんが恋するなんて……っ」
あまりの衝撃に、段々と過呼吸みたいになってきた。両手で胸を押さえて荒い呼吸を繰り返すジーナの背を、ダイアナお嬢様が甲斐甲斐しくさすってくれる。
「解るわ、ジーナ。信じられないわよね」
「こんなの世の摂理に逆らっています……」
「ええ、私たちにとっては世界滅亡の序章ぐらいの出来事よ」
その言葉の過激さに、ダイアナお嬢様もジーナと同じように内心では怒り狂っているのだと解った。本当はジーナよりもよっぽど、ニア坊ちゃんを汚した男に報復してやりたいと思っているのだろう。
だが、ダイアナお嬢様は、憎悪を腹の底に沈めるようにゆっくりと瞬くと、穏やかな声で続けた。
「第一王子がニアお兄さまをこのまま放置したり、雑に扱うようなら、私の人生をかけても報いを受けさせるわ。生まれてきたことを必ず後悔させてやる」
そう言って、ダイアナお嬢様は怖いくらい美しい笑みを浮かべた。ジーナが見惚れてしまうぐらい完璧な笑顔だ。
「だからね、もう少しだけ様子を見ましょうジーナ」
「様子を、ですか?」
「ええ、第一王子がこれからどうでるかを観察するの。私たちが復讐をするのは、それからでも遅くないわ」
静かに諭す声に、ジーナは荒ぶっていた心がすっと落ち着いていくのを感じた。確かにダイアナお嬢様の言うとおりだ。もし完璧な復讐を果たすのであれば、相手の動きを見てから、じっくりと準備をする方がいい。
「そのときには、必ず私にもお声がけください」
ジーナがそう懇願すると、ダイアナは、もちろん、とばかりに目を細めて微笑んだ。
数時間後、マークスと追いかけっこをして遊ぶニア坊ちゃんを複雑な気持ちで眺めていると、にわかに屋敷の方が騒がしくなった。
慌てて屋敷に戻っていったニア坊ちゃんの後を追う。すると、ジーナが今まで見たこともないほど美しい顔立ちをした青年が、大量の青薔薇の中でニア坊ちゃんをキツく抱き締めているのが見えた。
「ニア、悪かった。戻ってきてくれ」
美貌の青年がそう哀願の言葉を漏らすのを聞いて、ジーナはようやくその青年が第一王子なのだと気付いた。第一王子はひどく切なげな眼差しで、ニア坊ちゃんを見つめている。その瞳に滲む愛おしさに気付いた瞬間、ジーナはどうしてだか泣き出しそうになった。
――第一王子も、ニア坊ちゃんのことを想っているんだ。
そう解って安堵しているのに、雛鳥が遠くへと巣立っていくような切なさが込み上げて胸がギュッと締め付けられた。
「おかぁさん、どうしたの?」
ジーナの手を握り締めたマークスが、不思議そうに訊ねてくる。ジーナが涙で潤んだ瞳で見下ろすと、マークスはこてんと首を傾げた。
「かなしいの?」
シンプルな問い掛けに、ジーナはかすかに泣き笑いを浮かべた。
「悲しいんじゃないのよ。ただ、ちょっと寂しいだけ」
「さみしい?」
「うん、そうね。もう『坊ちゃん』じゃなくなっちゃったから」
ジーナの返答に、訳がわからないとばかりにマークスがパチパチと目を大きく瞬かせる。その仕草に笑みを浮かべながら、ジーナはぼんやりと考えた。
小さい頃からずっと大切にお世話をしてきた坊ちゃんは、もうジーナの手から離れて、別の人の腕に抱かれている。それにどうしようもない寂しさを覚えるけれども、受け入れなくてはならない。だって、きっと愛する人に愛されて、ニア坊ちゃんは幸せになれるはずなのだから。
ダイアナお嬢様に案内されて、ニア坊ちゃんと第一王子が中庭の方へと進んでいく。その姿を眺めていると、ふと第一王子がジーナの方を見やった。その眼差しを受けて、ジーナはゆっくりと頭を垂れた。
『どうか、この人がニア坊ちゃんを傷付けませんように』
そう祈りを捧げながら、そっと顔を上げる。そこには三人の姿はもうなかった。
それから三年後、街中に配られた号外を見て、ジーナは声をあげて泣いた。
わんわんと大声で泣きじゃくるジーナを見て、七歳になったマークスと夫のアランが驚いたように目を見開いている。だが、今はその眼差しも気にならなかった。
英雄ニア・ブラウンと第一王子の婚姻が書かれた号外を両手で高く掲げて、ジーナは大きな声で叫んだ。
「あぁ、ニア坊ちゃん万歳!」
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