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番外編8 世話の焼ける弟(クロエ視点)

   どうして、こんなにポンコツに育ってしまったんだろう。  執務机の前で深くうなだれ、両手で頭を抱えた主君を眺めながら、私はぼんやりとそんなことを考えた。 「クロエ。ニアへの贈り物だが、花と宝石と菓子以外に何が良いと思う」  そう口早に訊ねてくるフィルバート様に、私は緩くため息を漏らした。 「いい加減、ニア様を怒らせる度にプレゼント攻撃をするのはおやめください」 「だが、怒らせてしまったものは仕方ないだろう」 「それはフィルバート様が、ニア様は胸だけでなく尻もでかいなどとデリカシーのないことを言ったからでしょう」  口に出しながら、改めて深々とため息が溢れてくる。  どうして他国の重鎮と話しているときは一言も間違ったことは言わないのに、伴侶相手だとこうも失言のオンパレードになるのか。それもフィルバート様のニア様に対する甘えなのだろうとは思う。だが、その度に羞恥で全身を真っ赤にするニア様が何とも気の毒だった。  私の発言に対して、フィルバート様は平然とした声を返してきた。 「ニアの胸と尻がでかくなったのは事実だ」 「ですから……」  もう呆れて言葉も出てこなくなる。ズキズキと痛み始めた頭を片手で押さえたまま、私は目を閉じた。  普段は誰よりも冷徹で聡明な名君・フィルバート様は、伴侶であるニア様のことになると一気にポンコツに成り下がってしまう。子供でも分かるような判断を誤り、温厚なニア様を盛大に激怒させる。  今回も、ニア様の胸と尻が大きくなっていることを、よりにもよってダイアナ様とロキ様の目の前で言ってしまったというのだから救いようがない。そして、ニア様はつい先ほど顔を真っ赤にしたまま、実家であるブラウン家の屋敷へと帰ってしまった。  私は頭から手を外すと、投げやりな声を漏らした。 「いっそ『もう二度と胸や尻が大きくなるような行為はしません』という誓約書を持っていった方が許していただけると思いますよ」 「それは無理だ」  迷わず即答が返ってきて、私は反射的に舌打ちを漏らした。途端、フィルバート様がジロリとこちらを見やってくる。鋭い視線から顔を逸らしつつ、私は淡々とした口調で言った。 「つい先日、ニア様が城下で開かれている劇団の舞台チラシを見て、面白そうだと呟いておりました」  そう告げた瞬間、フィルバート様は軽くパチリと目を瞬かせた。形の良い唇に、薄らと笑みが滲む。 「流石だな」 「お褒めにあずかり光栄です」 「早速チケットを手配してくれ」 「手配済みです。劇団には事前に話を通しておりますので、そのまま劇場にお向かいください」  私が答えると同時に、フィルバート様が立ち上がった。執務机の上に置いていた書類を何枚か手に取ると、それを私に差し出してくる。 「ここ数日、西との国境付近が騒がしい。リィデン王国がまた良からぬことを考えている可能性がある。お前が率いて、偵察に向かえ。人員の選定はお前に一任する」  指示を受けながら、素早く書類に目を通す。そこには隣国であるリィネン王国の直近の国勢が分かりやすく書かれていた。私と会話しながら、これだけの内容をまとめていたのかと思うと、思わず舌を巻いてしまう。 「かしこまりました。すぐに潜入に長(た)けた女たちを集めます」 「気を付けろ。危険だと判断したら深入りするな。無事に戻ることを優先しろ」  そう告げる言葉に、私は軽く目を瞬かせた。とっさに口元に苦笑いが滲む。 「私のご心配をしてくださるのですか?」 「俺は、いつだってお前を心配しているさ」 「それはずいぶんと面白い冗談ですね」 「伝わらないのは残念なことだな」  戯れるような口調で言うと、フィルバート様はじっと私の方を見やった。真剣な眼差しに私がわずかに身を固くした瞬間、不意にその口元がふっとほころんだ。 「俺は、お前を姉のように思っているよ」  姉という言葉が耳に入ったとき、私の身体の内側では不思議な感動が広がった。滅多に波打つことのない水面に、淡い細波が広がって、私の心を震わせる。唇がわずかに戦慄きそうになるのを、頬の内側を噛んで堪える。  だけど、私のやせ我慢など見通したように、フィルバート様は微笑んだ。ニア様に出会う前は、一度も見たことのない穏やかな笑みだ。まるで固い蕾がゆっくりと花開くような笑みを見る度に、私は心の内で安堵する。フィルバート様がニア様に出会えてよかったと。凍り付いていたこの人の心が、ようやく温かい場所に辿り着けてよかったと。そう思えるのだ。  私は、ふぅっと大きく息を吐き出すと、大きく肩をすくめた。 「姉だと思っているのなら、夫夫(ふうふ)喧嘩の度に相談するのはやめてください」  私の真似をするように、フィルバート様も大きく肩をすくめる。 「姉だから相談しているのだろう」  そう言い放つと、フィルバート様は私の肩をぽんと叩いた。 「今までも、これからも頼りにしている」  当たり前のように告げられた信頼の言葉に、一瞬泣く直前みたいに咽喉が詰まるのを感じた。誤魔化すように咽喉を掌で撫でてから、目元の眼鏡の位置を直す。 「ご期待に添えるよう、今までも、これからも尽力いたします」  私の返答を聞くと、フィルバート様は何も言わずに口角を吊り上げた。それから外套(がいとう)を羽織ると、颯爽とした足取りで歩き出す。 「ニアを迎えに行く」 「かしこまりました。ご武運をお祈りいたします」  決闘に向かう主君へと告げるような台詞を言うと、フィルバート様は楽しげに肩を揺らした。  執務室から出て行く背を眺めてから、私はふっと息をついた。 「まったく、世話の焼ける弟ですね」  ひとりごとを零すと、自分でも思いがけず口元に柔らかな笑みが滲んだ。

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