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番外編7 「生産者は私です」じゃねぇんだよ(ロキ視点)
――やっぱり気のせいじゃない。確実にデカくなってる。
眼前でぷるんっと揺れる雄(お)っぱいを見て、ロキは確信を深めた。ニアが長い棒を上下に振るう度に、たわわに実った胸筋が四方八方に揺れ動くのだ。その動きに視線を奪われて、ついつい棒を振るう腕から力が抜けそうになる。
「ロキ様、集中しなさいッ!」
ニアの叱り付ける声が聞こえる。だが、その声と一緒に胸筋がぶるんっと跳ねるものだから逆効果だった。
――なんだよ、あの胸。水でも入ってんのかよ。
そんな思考がよぎった瞬間、ニアが棒を強く下から上へと向かって振り上げるのが見えた。まずい、と思ったときには遅く、両手に握っていた棒が跳ね上げられて掌から離れる。見上げると、頭上高く飛んでいく棒が見えた。
「あー……」
ぢんぢんと痺れる両手を感じながら、遠く離れた場所に落ちる棒を眺めていると、ニアの呆れた声が聞こえてきた。
「戦闘中に集中を切らすなんて、これが訓練じゃなかったら死んでいますよ」
ぶつぶつと言いながら、ニアが自身の棒を地面に置いて、ロキの両手を掴んでくる。小言を言いながらも、ロキが怪我をしていないか確かめているようだった。
「いや、集中力が切れたのは、お前の――」
「俺の?」
ニアがきょとんと首を傾げる。その子供っぽい仕草を見て、言いかけた言葉が咽喉にグッと詰まった。目の前の無垢そうな男に『集中力が切れたのは、お前の雄っぱいが目に毒すぎるからだ』なんて下世話なことを言うのは、流石にはばかられた。
複雑そうに顔を歪めたまま、ロキはうめくような声をあげた。
「……お前、俺以外にも訓練の相手をしてやったりすんの?」
今日もブラウン家の用事でダイアナに会いに登城したところを、偶然ニアに見つかって、有無を言わせず訓練場に引き摺り込まれたのだ。
ニアとダイアナの筋肉バカ兄妹は『健全な心は、健全な肉体から!』という信念のもと、ことあるごとにロキに鍛錬を詰ませようとする。だが、ロキとしては『そろそろ本気で勘弁してくれ』というのが本音だった。全世界の人間が、お前らと同じ体力と根性を持っていると思うなと苦言を申し立てたい。
そして、棒術の実戦訓練をしている最中に、ニアの胸筋の肥大化に気付いたというのが事の発端だった。しかも、よくよく見れば、胸だけでなく尻も大きくなっている気がする。ニアの尻を包む騎士団のズボンが、ミチミチと張り詰めているように見えた。
ロキが半目で肉付きのいい尻回りを眺めていると、ニアは不思議そうな声で答えた。
「騎士団の者から希望があれば、訓練をつけることもありますよ」
その返答に、ロキは眉間にググーッと深い皺を寄せた。
「お前、それ、フィルバートから何も言われねぇの?」
さり気なく胸辺りを指さしながら訊ねるが、ニアは余計に困惑した様子で眉尻を下げた。
「それって……何について、フィル様から言われるんですか?」
本人にまったく自覚がない。そのうえ、フィルバートもニアの胸筋が大暴れしていることに、まだ気付いていないのか。厄介なことに気付いてしまった。とばかりにロキは小さく舌打ちを漏らした。
ニアにどう伝えるべきか、と苛立ちながら爪先で地団駄を踏んでいると、ふと弾んだ声が聞こえてきた。
「ニアお兄さまっ」
騎士団の制服に身を包んだダイアナが、軽やかな足取りでこちらに駆け寄ってきている。ダイアナの姿を見ると、ニアの表情があからさまにパッと明るくなった。
「ダイアナ、城にいたのか」
「うん、今日は内勤なの」
嬉しげな声で答えながら、ダイアナがニアの腕にしがみ付く。すり寄ったダイアナの側頭部がぽよんっとニアの胸に当たるのが見えて、ロキはとっさに頬を引き攣らせた。
「おい、ダイアナっ」
焦った声をあげると、ダイアナはちらりとロキを見やった。
「あら、ロキもいたの?」
絶対に最初からロキの存在に気付いていただろうに、わざとらしいことを言う。
ロキがブラウン家の養子になってから、ダイアナの姉ムーブがより顕著になった。分かりやすく言えば『弟を尻に敷く姉』になったということだ。
兄に対しては強火すぎるブラコンなくせに、弟には打って変わって冷淡な態度とはどういうことだ、と一度問いただしてやりたい。だが、問いただしたところで『ニアお兄さまは特別なの』という一言が返ってくるだけだろうが。
ぽよんぽよよんとニアの胸で頬を弾ませ続けるダイアナを見て、ロキは思わず声をあげた。
「ちょっと、こっち来いよ」
言いながら、ダイアナの腕を掴む。ダイアナはムッと顔を歪めたが、それでもロキに引っ張られるままに足を動かした。
鍛錬場から出た辺りでロキが立ち止まると、ダイアナが不機嫌そうに口を開いた。
「いきなり何よ」
「いや、お前も絶対に気付いてるだろうが」
「気付いてるって、何のことよ」
「シラを切るな。早めにアレをどうにかしねぇと、またニアが変な輩に狙われるぞ」
ロキが鍛錬場の方を指さすと、ダイアナは鼻梁に皺を寄せた。
実際、騎士団の中にもニアに想いを寄せている輩は多いのだろう。フィルバートから奪おうなどという考えはないにしても、一度だけでも相手をして貰えないかと妄想している不埒者は数え切れないほどいそうだ。
その不埒者どもを思い浮かべたように、ダイアナが苛立たしげに舌打ちを漏らす。続けて、ダイアナは深々とため息を漏らした。
「お兄さまのお胸のこと?」
「やっぱり気付いてるじゃねぇか」
「そりゃ気付かないわけないじゃない。明らかに大きくなってるもの」
「じゃあ、なんで本人に言ってやらねぇんだよ」
ロキが非難めいた声をあげると、ダイアナはカッと目を見開いた。
「そんな変態みたいなこと、お兄さまに言えるわけないじゃないっ」
強い口調で言い返されて、ロキは思わず後ずさった。確かにダイアナの言うとおり、本人に伝えようとすると、どれだけオブラートに包んでも変質者になってしまいそうだ。
「一回さり気なく指摘しようと思って『最近、胸筋の鍛え方を変えたの?』って聞いてみたのよ。でも、きょとんとした顔で『別に何も変えてないけど、もしかして太ったように見えるか?』って言われて、それ以上は踏み込めなかったの。だって……」
そこで言葉を止めて、ダイアナが頭痛でも覚えたように額を片手で押さえる。その姿を見て、ロキは弱々しい声で続きを呟いた。
「だって、原因はどう考えてもフィルバートだもんなぁ……」
口に出した瞬間、フィルバートの顔がぽこんと頭に浮かんだ。性欲なんて欠片もなさそうな冷血な顔をしているくせに、あいつがとんでもないムッツリすけべであることは分かっている。どんどんエロい体付きになっていくニアがその証拠だ。
頬に手を当てながら、ダイアナが、ほぅ、と吐息混じりの声で言う。
「でも、ぽよぽよで気持ちいいから、あれはあれでいいかなって思い始めてて」
いや、見逃してる理由の大半はそれだろう、とツッコミたくなる。
「だからって、アレをそのままにしておくのは目に毒すぎるだろう。最悪、血迷った奴がニアに襲いかかるぞ。ニアは自衛できるだろうが、襲った奴がフィルバートに処刑される羽目になる」
「お兄さまを襲うようなゴミは、処刑されて然(しか)るべきよ」
「そうかもしれねぇが、ニアが傷付くぞ」
ニアは自分のせいで誰かが処刑されたと知れば、罪悪感を抱えてしまうような人間だ。そういう人間だからこそ、実母を失ったあともロキはニアを憎み切れなかったのだ。あの男が、他人を心から思いやれる優しい人だと知っていたから。
「だから、襲われるような原因は、事前に潰しておくべきだろうが」
ロキの指摘を聞くと、ダイアナは渋々といった様子でうなずいた。
「ただ、どうやってお兄さまを傷付けずに、恥ずかしがらせずに伝えたらいいのかしら」
ダイアナが悩ましげに呟く。ロキも頭を抱えてしまった。
「そうだな――『おっ、こんなところにデカいメロンが二個もあった』って冗談っぽく胸を掴むとか」
「そんなクソな真似したら、頭をカチ割るわよ」
冗談っぽく言ったというのに、ダイアナは目尻を思いっきり吊り上げた。ふざけたことをほざくな、と全身から怒りのオーラを漂わせている。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよっ」
お手上げだとばかりにロキが両手を振り上げたとき、寒々とした声が響いた。
「お前たちは何を話しているんだ」
声の方へ視線を向けると、涼しい顔をしたフィルバートが立っていた。フィルバートの姿を見た瞬間、ダイアナが胸に手を当てて敬礼の姿勢を取る。
「王子殿下――」
「挨拶は不要だ。何を話していた」
挨拶を述べようとしていたダイアナを遮って、フィルバートが端的に問い掛けてくる。おそらく漏れ聞こえた会話の内容から、二人がニアの話をしていたと気付いているのだろう。
冷たく見据えてくるフィルバートを見返して、ロキは唇をヘの字にへし曲げた。
「あんたのせいだろ」
「俺のせいだと?」
「ニアの雄(お)っぱいがデカくなってんのは、あんたのせいだって言ってんだよっ!」
ロキが自棄(やけ)になって大声で叫ぶと、フィルバートはしらっとした様子で答えた。
「ああ、俺が育てた」
平然としつつも、どこか誇らしげな声音だった。まるで我が子の成長を自慢するような口調だが、その内容が最低過ぎる。
フィルバートの発言を聞いたダイアナが、明らかに蔑みの表情を浮かべている。その眼差しは明らかに『ドクズが……』と言っていた。
「生産者を聞いてんじゃねぇよ! お前が原因なら、アレをどうにかしろっ! ぼよんぼよん揺れやがって、歩く卑猥物になりつつあるぞっ!」
「あんな可愛い男を卑猥物などと言うな」
反論にちゃっかり惚気(のろけ)を混ぜられた気がして、余計に腹が立つ。
ロキが両手で頭を掻き毟って発狂しかけていると、ダイアナが事務的な声をあげた。
「このままではお兄さまが周りからイヤらしい目で見られることになりますが、それでも宜しいのですか?」
「それは絶対に駄目だ」
ダイアナの問い掛けに、間髪入れずにフィルバートが答える。
フィルバートは、ふぅ、と小さくため息を漏らすと、鍛錬場の入口の方へ視線を向けた。
「ニア、来い」
その台詞に、ロキはとっさに身体を強張らせた。ギギッとぎこちない動きで、鍛錬場の入口へ視線を向ける。すると、数秒後によろよろとした動きでニアが姿を現した。その顔は、可哀想なくらい真っ赤に染まっている。更に両腕で胸を覆っているということは、おそらく先ほどの会話も聞いていたのだろう。
「あの……ひっ、卑猥物で、すいません……」
今にも泣き出しそうな声で、ニアが呟く。大柄な男だというのに、まるで小動物のように身体を縮こまらせている。
「ニア、お前のデカい胸が揺れるから、今後外ではサラシを巻くようにしろ」
フィルバートがいけしゃあしゃあと気遣いゼロな発言をする。その台詞を聞いて、硬直していたロキとダイアナは一斉に声をあげた。
「デッ……デリカシー!」
こいつはデリカシーを一体どこに置いてきた。母親の腹に完全に置き忘れてきただろと思わざるを得ない無神経さに、ロキとダイアナは唖然とした。
デリカシーに欠けるフィルバートのせいで、気の毒なことにニアは羞恥のあまりぷるぷると小刻みに震えている。震えるニアに近付いたフィルバートが、自然な仕草でその腰に片腕を回した。
「お前は尻もデカいが、そちらはサラシを巻くわけにもいかないからな」
だが、できる限りマントで隠した方がいいだろう。と追い打ちのようにフィルバートが言う。その台詞を聞いた瞬間、ピシャーンと雷でも落ちたみたいにニアの身体が跳ねた。
顔面を真っ赤にしたまま、ニアがわなわなと拳を戦慄かせる。
「フィ、フィル様……」
「ああ、何だ?」
フィルバートが、ニアの頬へと愛おしげに片手を伸ばす。だが、ニアはその手を勢いよく叩き落とした。
「実家に帰らせて頂きますッ!」
そう叫ぶなり、ニアはドスドスと荒い足取りで歩き始めた。胸はまだ両腕で押さえているが、歩く度に肉付きのいい尻がばるんばるんと上下に揺れているのが見える。
立ち去るニアを見て、フィルバートが驚いたように目を見開いている。
「ニア、待て。なぜ怒っている」
追い縋るように言いながら、フィルバートがニアの後ろを追いかけていく。母親を怒らせて、置いていかれた子供みたいな姿だ。
その情けない姿を眺めていると、隣に立つダイアナがボソッと呟いた。
「愚かすぎる……」
ロキは同意を示すように静かにうなずいてから、こう返した。
「フィルバートは、ニアに関することだけはポンコツだからな」
「ポンコツにもほどがあるわ」
「でも、あれが次期王なんだぜ……」
むしろ、実質的にはすでに王なのかもしれない。大国を完璧に統治している男が、今は胸と尻のデカい伴侶を必死に追いかけているのかと思うと、もう笑いしか出てこなかった。これは悲劇なのか、それとも喜劇なのか。
せめて喜劇であってくれと願いながら、ロキはしばらく乾いた笑いを零し続けた。
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