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序章 善意通訳
──孤高を気取る一匹狼は、群れからあぶれた落ちこぼれだった──
市街地から離れた夜の森を、一台の貨物車が走っている。後部座席のシートは簡素で、積荷スペースが広く取られた大型のバンだ。中には男が三人。
「にしても、こんなに上手くいくとは思わなかったぜ」
ハンドルを握る太った男が言った。
「単純だったさ。いつも通りドン・カルロの名前を出せば真に受けた」
助手席の男が応じる。ひょろりとした痩せ型で、頭は車の天井につきそうなほど座高が高い。
「お前にとって復活祭 と首領 の命令と、どっちが重要なんだ?ってな」
「金曜から断食なんかしてただろう。その厚い信仰心を抑えこむほどの忠誠心だったか」
「あいつは居場所を失う事を何より恐れてるんだ。あんなナリして、実はとんでもない小心者なのは知ってるだろ」
後部座席に座った小柄な男が少し不安げに訊ねる。
「けど、ほんとに上手くいくのか? もし、あいつに嘘を伝えたって、上に知れたら……」
前列の二人は自信たっぷりに否定する。
「バレやしねぇさ。この事は俺たち以外、誰も知らねぇんだから」
「仕事について誰かに話してるわけもないだろうしな。一匹狼を気取ってやがるのが悪いんだ」
前日の雨でぬかるんだ道に、まだ新しいタイヤの跡がくっきりと残っている。その後を追う形で、車を走らせていた。
一匹狼か、と太った男が繰り返す。
「確かに、楽しげに話してるところも見た覚えがねえ。家族 だってのに……」
三人と、くだんの人物の間に、血のつながりはない。しかし『血の掟』なる規律を有する組織に所属している。同じ屋根の下に暮らし、互いの利益のために繋がり、守るべき仲間という意味で、彼らは〈ファミリー〉だった。
「あいつが歌って踊ってるところを想像できるか? 夕食が終わってもすぐ部屋へ引っ込むだろう」
「パーティーでも、壁際にぼさっと突っ立ってるだけだ。初めはブティックのマネキンかと思った」
その人物は、こちらから話しかければ応答はする。しかし、場を盛り上げよう、会話を続けよう、人生を楽しもうという意思が感じられないのだ。仲間を「友人」と表現する事があるが、一つ屋根の下に住んでいなければ友人になりたいとも思えない性質だ。
そう言えば、と後部座席の男が相槌を打つ。
「さっきも、出ていく姿を見たから声をかけたけど、返事もしなかったぜ!」
「仕事の前は一言も話さなくなるのさ」
助手席の男が言い、鼻で笑った。
「真面目すぎるんだよ。北部の人間みたいにな」
運転席の男も馬鹿にしたように言う。
「酒も一滴も飲めないんだと。シチリア島生まれ が聞いて呆れる」
イタリアの南端・カラブリア州に拠点を置く男たちは、橋を渡った先にある島の気質もよく知っていた。ガイドブックには『マンジャーレ、カンターレ、アマーレ!』の文句が踊る。美味い物を食べ、楽しく踊って、熱い愛を交わすと言う人生観だ。そんなラテン系のルーツを持つ自分たちこそ、世界が持つイメージの典型であると自負している。
時を同じくして、一人の男が文字通り“黙々と”仕事をこなしていた。
森の奥には小屋があり、独居老人が余生を過ごしている。今回受けた「依頼」の内容は、この老人の抹殺だ。
なんでも若かりし頃は警察の幹部として、マフィア対策の前線で活躍していたらしい。数年前に退職し、その座を退いてからも尚、相談役として警察や政府に助言をしたり、個人的にも社会の闇を嗅ぎ回っているという話である。
自分たちの組織にとっては、間違いなく目障りな存在だった。
目的地の手前で車を降りると、ピストルを手に歩き出した。
ブーツの底にぬかるんだ土がへばり付くのも構わず、レザーパンツに包まれた長い脚を動かし、大股で歩く。仕事のため、命令ならば、とその鍛えられた体はひとりでに動き、突き進むかのようだ。
木立の中には人目もなく、月の光も届かない。うなじにかかる長さの黒髪も、ズボンと同じレザーのジャケットも、鍛えられた体躯も、夜闇に溶け込んだ。
三人組を乗せたバンは速度をそのままに、走り続ける。それに伴うように、車内で繰り広げられる陰口も続いていた。
「ドン・カルロは何であんな奴を可愛がるんだ」
「可愛がられてるんじゃない。〈アルフィド〉が勝手になついてるのさ」
前列の二人の会話を、後部座席の男は黙って聞いている。
「自分に居場所──住む場所と仕事、ファミリーを与えてくれたと。マフィアになるべくしてなったようなもんだ」
マフィアとは、広義に犯罪を行なう集団・組織の呼称である。活動の目的は、主に富と権力を手に入れる事だ。
ファミリーの一番上にドンがおり、その下にアンダーボス、そして複数人のカポ・レジームという幹部が持つグループから成る。グループに属するのはソルジャーと呼ばれる構成員で、そのまた下にはアソシエーテという準構成員……と組織図はピラミッド型を模す。
構成員はそれぞれが需要と供給を補い合ってあらゆる仕事をこなし、それに関わる事でファミリーとして扱われる。バカンスに連れて行けず捨てられた飼い犬のように、行く宛をなくした野良犬にも、住む場所と仕事、そして仲間が与えられるのだ。
しかしファミリーと言えど、組織の下層、一端の構成員がドンやアンダーボスにお目通りする事は難しかった。
ドンの右腕として、法律などにも精通したコンシリエーリという相談役がいるが、それも幹部クラスのカポ・レジームが問題を抱えた際に頼る存在である。
そんな中で、取り立てて目につく男が居る。ソルジャーでありながら自身より下は持たず、一人で仕事をこなすいわゆる〈一匹狼〉として、我らがドン・カルロの耳に届いているのだ。
今まさに、この車内で話題に上がっている人物でもある。
与えられる仕事、命令とあらば殺人も厭わないこと自体は、この裏社会──暴力の世界では珍しくない。しかし、組織に入るための試練、儀式を終え、ドンやファミリーに忠誠を誓った男たちの中でも、さながら〈忠犬〉のようだという。
誰かと共闘する事はなく、ただ黙って、恐れを知らないかのように確実に「仕事」をこなし、戻ってくる。
〈忠犬アルフィド〉は、それを繰り返すうちに生み出された、寡黙で冷酷な殺し屋 のニックネームだった。
需要と供給で成り立つ世界において、他の構成員と進んで打ち解けようとしない態度は、孤高の存在を気取っているように見受けられる。
おおよそ話し好きで積極的なはずの国民性の中で、冗談のひとつも言わず、酒も飲まず、仕事の前になると声をかけても返事すらしない。妻子を持たない身で、他に行く場所も家もない。ゆえに拠点という一つ屋根の下で寝食を共にする仲であるにもかかわらず、群れようとしない一匹狼。
その一方で、有能なヒットマンとして、属する組織の上層部から存在を認められ、受けた依頼をこなしては多額の報酬を手に入れる忠犬。
いけ好かないのも当然だ。
「ひょっとするとアッチの意味で可愛がられてるのかと思ってたぜ。バターでも塗って……」
片手でハンドルを握ったまま、空いている手で耳たぶを弾く。人差し指にはゴールドの指輪がはまっていた。
「そんなはずがない。パスクアに向けて断食するような野郎だぞ」
「ドンへの忠誠心には抗えねぇんだろう。あんなに稼いでるくせして女の影も見せねぇし」
「カトリックの奴らは婚前交渉もしない主義なんだろ?」
助手席の男が確かめるが、運転席の男は思い出したように言い返す。
「昔、パーティーの後に人数分の女を呼んだが、あいつに宛てがわれた女は翌朝怒って帰っていったな……」
「売春婦にベッドで説法でもしたか」
「あるいはいつもみてぇにずっと黙り込んでたか」
トントン拍子に言い合いが続く。
「犬のモノは相当らしいから、テクニックの問題じゃねぇだろうな」
「やめろ。我らがドン・カルロが犬のアレでよがってる所なんざ……」
そこまで言い、前列のふたりは同時に吹き出した。
自分たちの首領がアナルセックスをしているシーンなど、見てしまったら両目を潰したくなることだろう。
首都ローマに内包されたバチカンを総本山とするキリスト教において、同性愛はご法度だ。
男女の相互補完、子を成し、種を繁栄させるのが自然とされている。性行為は快楽を得るために行われるものではないとし、厳密には自慰や婚前交渉、避妊、そして離婚も禁じられている。
たとえ同性結婚が認められていようと、犯罪を生業とする男たちに法律の話など焼け石に水。
痩せた男が、笑いながら窘める。
「ドンだってゲイじゃない。シニョーラが居るし、息子たちもほとんど成人してるんだぞ」
「あいつの方が女役ならどうだ?」
「いい加減にしろ。これ以上おかしな想像をさせるな」
「まあ、いくら綺麗な顔だからって、あの彫刻みたいな筋肉じゃ無理だろうが」
運転席の男はそう言ってさらに笑うが、助手席の男は途端に笑みを消した。
「……女みたいな顔もいけ好かないが、幽霊みたいな青白い肌も気味が悪い」
本人が居ないのを良いことに、言いたい放題であった。本人に聞こえるように言った事もあるが、やはり何も言い返して来ず、気にしていない風なのが余計に気に食わなかった。
「名前の通り、そこらの白人より白いだろ」
「出身がサンタルフィオってだけだろう。あの辺にはよく居る名前だ」
運転席の太った男の言葉を受け、後部座席から声が割り込む。
「ずっと気になってたんだが……なんで忠犬アルフィドなんだ?」
助手席の痩せた男が一度振り向き、それから不思議そうに運転席に目をやる。目的の人物について、こんなにも知らない奴を何故乗せてきたのか。
そう咎めるような視線を向けられ、仕方なく説明する。
「ドン・カルロの忠犬だからだよ。あの忠犬フィドさ、フィレンツェの広場に銅像がある」
第二次世界大戦中の一九四一年、工員カルロ氏は怪我をした仔犬を保護し、フィドと名付けた。フィドはカルロ氏に可愛がられ、毎朝一緒にバス停まで行って出勤する主人を見送り、夕方になれば主人をバス停まで迎えに行った。
しかし一九四三年、勤め先の工場が空襲を受け、カルロ氏は還らぬ人となってしまった。そんな事とも知らないフィドは、それからなんと十四年間もバス停に通い続けたのだ。
降りてくる人を切なげに見つめる犬の姿は見る者の心を打ち、新聞にも取り上げられ、話題を呼んだ。やがて忠誠心を称えて表彰までされ、最期はカルロ氏の墓地の近くで死んだ。その亡骸は主人の墓の隣に埋葬されたという……
当時生まれていなかったとしても、聞いた事くらいあるだろう。海の向こうにも似た話が存在すると聞く。あまりにも有名な、忠犬フィドの物語である。
それでも小柄な男はきょとんとしている。太った男がバックミラーを見上げ、からかうように訊ねる。
「お前、新聞ってモンを読まねぇのか?」
「おれは文字が読めないんだ」
しばらく歩き続けると、丸太作りの小ぢんまりとした家が見えてくる。拓けた場所に建つのはまるでおとぎ話の絵本に出てくるような、木こりでも住んでいそうなログキャビンだ。
機械で均一に切り出した建材を使うマシンカット工法が主流の近年、ハンドヒューンと呼ばれる手づくりの丸太で小屋を建ててしまうなど、ターゲットはよほど体力のある男なのだろうか。
力自慢という割には、セキュリティーという言葉など存在しないかのような佇まいだ。元警察官とは信じがたいほど呑気なものである。
春の夜の月明かりに照らされるばかりで、センサーライトはおろか、扉の前に立ってみても外の様子を確認するための窓やスコープもない。
呼び鈴もなかった。年季の入った鉄製のドアノッカーが取り付けられているだけだ。ライオンを模した形で、口に輪をくわえている。アンティークのコレクションでよく目にするような、ありふれた代物だ。
月明かりを受けてぼんやりと光る白い手がその輪を掴み、木製の扉をノックする。
しばらくすると、扉越しに眠そうな声が応じた。
『誰だ? こんな時間に……』
「…………」
弾を込めたピストルは後ろ手に握られている。沈黙したまま、相手が出てくるのを待った。
助手席の男がぼやく。
「それにしても、遠いな……」
ハンドルを握る男がちらりと横目で見やる。
「もうじきに着く。ナポリに近い方がいいと言ったのはお前だろう」
「ゴミ集積所があるし、ターゲットの別荘もある。今夜はいろいろと都合が良いんだ」
窓から見える景色は真っ暗で、どこを走っているのか分からなくなりそうだった。舗装されていない道の両脇に鬱蒼と生い茂る木々は不気味ですらある。
「本物の幽霊でも出そうだ……あいつ、この道をひとりで抜けて行ったのか」
小柄な男が窓の外を見ながらこぼした。
「言っただろ、あいつは犬でありオオカミだ」
太った男が言い返す。
「牙じゃなく足で狩りをする。相手が疲れ果てるまで、地平線の果てでも、地獄の底でも追いかけるのさ」
そうして遠くまで行き、戻ってくる様子もまた、帰巣本能を持つ犬のようだった。主人と引き離されたコリーが、何百マイルの距離を歩いて戻ってきたというイギリスの短編小説も、名犬の物語として有名だ。
ヘッドライトが照らすタイヤの轍は一台分。助手席の男が付け足す。
「今回は追ってもいないだろうがな。逃げた形跡もないし、この時間だ。年寄りはとっくに寝てる」
今回の舞台となるログキャビンの間取り図は手に入れている。ヒットマンにも、依頼の際に同じ物を渡してあった。仕事を終えても、目撃者の有無を調べるため、しばらくそこに居るだろう。
運転席の男が前方を見たまま作戦を確認する。
「まずは俺が声をかける。返事があれば、仕事は終わったってことだ」
一人が玄関で気を引いているうちに、あとの二人が裏口から奇襲を掛ける。本来、狩りというのは群れで行なうものだ。
後部座席から不安げな声が返ってくる。
「返事が無かったらどうする?」
「道中にあいつの車があれば、十中八九キャビンに居る」
「でも……」
「三対一だぞ。イカれ野郎のくせに何をビビってる」
太った男が苛立ちまぎれに遮った。
「いくら殺しで食ってる奴でも、信頼した人間の前では油断する」
「コイツもあるしな」
痩せた男がそう言ってポケットから取り出した小瓶を振る。ラベルには『硝酸ストリキニーネ』とあるが、小柄な男には読めない。
「動けなくなったらズボンを脱がせて、ドンをよがらせたご自慢のブツも拝んでやろう」
下卑た笑いが起こる。やめろと窘めておきながら、気に入っていたらしい。
ひとしきり笑った後、ため息まじりのぼやきが続く。
「医療ビジネスの時代だってのに、わざわざ相手の元に出向いて殺しなんて……」
「そのお陰でこうして邪魔者を消せるんだ。あいつに最期の花を持たせてやろう」
犬死にではない、という事が同じファミリーである自分たちからの別れの手向けになる。そう運転手に宥めるように言われるが、助手席の男はポケットに瓶をしまいながら、思い出したように顔をしかめる。
「このオレ様が頭を使って稼いだ金より、あの犬のエサ代の方が高かったと思うと馬鹿馬鹿しくなる」
「仕方ねぇさ。しくじれば自分がやられるぶん、報酬も高い。ゴミ処理や女の斡旋と違って誰にでもできる仕事じゃねぇ」
ヒットマンとしての腕は優秀だと認めざるを得ない。これまで構成員として組織にもたらした安全と晴らした報復は、ファミリーにとって有意義で、必要なものだったと言える。
フン、と鷲鼻を鳴らす痩せた男。
「そもそも暴力での解決なんて時代遅れなんだよ」
言葉の端々に、自身の頭脳を鼻にかけているのが滲む。
「前にも抗争に子供を巻き込んだ大バカが居ただろう。あれで世間の顰蹙を買った、ファミリーの面汚しだ」
「あれは凄惨な事件だが、仕方なかった。店に居合わせた女と子供が不幸だったのさ」
太った男はそう言い、空いている手で十字を切った。
後部座席の小柄な男は何も言わず、表情を消して前方を見つめている。簡易的なシートの上で尻の座りが悪そうだ。
助手席の男が話し続ける。
「ましてや女の斡旋なんてのは〈ワイズガイ〉の精神に反する。組織云々以前に、男として恥ずかしい」
ワイズガイとは「聡明な男」を表し、シチリア島を拠点に活動した最大の犯罪組織の呼称でもある。その裾野は移民の波に乗り、アメリカ・ニューヨークにも広がっているとされる。秘密結社的な存在とされているが、世間との癒着によって知らないふりをされているに過ぎず、実際には誰もが知る存在だ。
まだそれほど大規模でも有名でもないが、ドン・カルロを頂点に据えた自分たちとて考え方は同じだった。過去から続く考え方を元にしつつ、これからの時代に沿ったやり方で、ファミリーを守り、大きくしていく必要がある。
世界的に見ても高水準を誇る大学への留学経験をひけらかすように、流暢な英語で続ける。
「イル・ブリガンテは〈スマート・マフィア〉であるべきなんだ。能無しも臆病者も要らない」
森に響き渡る一発の銃声。
手にしたピストルを下ろしながら、詰めていた息を吐き、ようやく口を開く。
「……不用心だな」
床へ仰向けに倒れた体に近付き、屈み込んで、その首に指を当てる。肌理の粗い肌の下、脂肪に飲み込まれそうになる。数年前の話とは言え警察官にしてはかなり頼りなく、だらしのない体だ。顎は脂肪に埋もれ、首が短かった。たくましさとは程遠い。
脈が止まっているのを確認した後、重いブーツで死体をまたぎ、照明も点けられていないログキャビンの中に立ち入った。
ターゲットの他に人は、すなわち目撃者は居ないか。はたまたペットは飼われていないのか。一人住まいの間取り図は頭に入っているが、念の為だ。
助手席のひょろりとした体がひねられ、後部座席を振り向いた。
「そんなスマートなオレ様が、おバカさんに分かるよう説明してやる」
くだんのヒットマンは、この男から今回のターゲットの始末を命じられた。馴れ合わずとも、ファミリーに絶対の信頼を置く忠犬は、確実に獲物を仕留めたことだろう。
しかし、それはでっち上げた嘘の依頼だ。
独居老人は有力な警察の成れの果てなどではなく、金融界の重鎮。医療機関にも顔が利き、彼が首を縦に振らないと、こちらのビジネスが成立しないような老害である。引退する様子も見せず、厄介な存在だ。
「その年寄りが自分のビジネスに邪魔だったから、あいつをだまして殺させるってことか?」
小柄な男が驚いたように聞き返す。初めて聞く話のような反応だが、彼はこの車に乗る前に、運転を担う男から大筋を聞いていた。記憶力や理解力といったものが足りないようだ。
「だましたなんて人聞きの悪い。スマートなオレ様は善意で、納得できるように言い替えてやったのさ。今みたいにな」
スマートという自称が気に入ったらしく、うさんくさい笑顔を浮かべ、話し続ける。
かのヒットマンはファミリーの掟にそむき、無関係な人間を殺した事となる。
世間から見ても、報復や抗争に巻き込んだわけでもなく、マフィアが一方的に一般人の命を奪っただけだ。自分たちのビジネスや利益に必要だったというのは、真っ当な理由には到底ならない。
しかも、誤って殺してしまった相手は、高齢とは言え各筋で名の知れた存在。やがては大事になるだろう。それこそ、警察や、他のファミリーとの抗争の引き金となるかも知れない。
そこで、自分たちは奴のミスに気付いて追いかけ、始末するのだ。
遺体はナポリにある産業廃棄物の集積所に捨てる。あとは綺麗好きの〈エコ・マフィア〉が、汚染物質だらけのゴミと一緒に跡形もなく処理してくれるだろう。
個人的な邪魔者を排除できるだけでなく、ファミリーの裏切り者を制裁した結果になるのだ。
「手柄を立てりゃ、そのうちカポ・レジームにものし上がれるかも知れねぇぞ」
「組織を守ったヒーローになるんだな!」
運転席の男と後部座席の男がわくわくした調子で夢を語り、助手席の男は気取った様子で応じる。
「オレ様はコンシリエーリを目指そう。お前たちの頼れる相談役になってやるよ」
木立の中に、ひっそりと一台の車が停められている。道からはずれた闇の中でも黒い車体のフォルムが分かるほどに見慣れた、街中でもよく見かける車種だ。
「あいつの車だ」
後部座席の窓を覗き込んでいた男が言った。
やはり派手好きな性格でもないらしく、それもまた南部の人間らしくない。ドンはおろか仲間も乗せる機会もないからか、こうした裏社会に暮らすマフィア御用達の装甲もない。車越しの撃ち合いなど、想定もしていないのだ。
「こんな所から歩いて行ったのか……オオカミ男め」
月の光も届かず、真っ暗な森の中を一人で駆け抜ける。黒い髪をなびかせ、黒い皮の衣服をまとい、銃口と同じ鋭さと色をした瞳を持つ男。こんな不気味な場所で出くわしてしまったら、あの白人よりも白い肌は、本当に幽霊のように見えるかも知れない。
同じファミリーであるというのに、想像するだけでも身震いがする。整った顔に浮かんだ目付きが、仕事をこなすごとに鋭くなっていったのを知っている。
「俺たちは車だ。あいつの死体も運ばなきゃならんからな」
運転手は一度だけ溜め息をつき、アクセルを踏んだ。この肥満体で足元の悪い中を徒歩で進むなど、考えただけでも膝が痛くなる。
森の中をしばらく進み、やっと目的地である丸太小屋が見えてきた。
想像していたよりも小ぢんまりとした造りに、バンを停めながら鼻を鳴らす。
「金持ちの別荘にしちゃ、お粗末だな。ずっと昔から建ってるみてぇだ」
助手席に座っていた男がシートベルトを外し、準備を整えながら返す。
「格安で売りに出されてたんだろう。孫も居ない年寄りが独り寂しく休暇を過ごす場所だ。使用人も居ない」
キリストの復活を祝うパスクアは、移動祝日である。春分の日以降、初めての満月の翌日曜日と定められている。
今年のパスクアは四月十二日で、明日の月曜日も祝日となる。つまり三連休だ。世間では金曜日から休みを取り、家族や親戚と集まって祝うために帰省する者も珍しくない。
ターゲットがカレンダー通りの生活を送っているのは、ヒットマンにとっても依頼人 にとっても都合が良い。普段の生活サイクルがルーティン化していれば、狙いを定めやすいからだ。
三人は車を降り、二手に分かれた。運転席に座っていた男はそのまま玄関へ、あとのふたりは小屋の裏口へと回る。
玄関の扉は開け放されており、床には人間の足がのぞいていた。
「忠犬アルフィド、仕事は終わったか?」
太った男が声をかけた。
足元に転がる、自分より太った死体は真正面から銃弾を受けており、ドアを開けた途端に来客から撃たれた事が想定できる。玄関灯も点けず、寝起きの目をこすりながら応対したのだろう。
重いブーツが木の床を歩く音がした。
「誰だ」
暗闇から返事があった。警戒しているのがひしひしと伝わる声だ。
「おいおい。愛する友人に向かって、そんな言い方をしてくれるなよ」
玄関先に立ったまま、少し呆れたようにそう言うと、人の近付いてくる気配があった。
月明かりの中に、青白い肌が浮かび上がってくる。
「……どうして、ここに?」
現れたのは、長身を少し屈めた一人の男だった。
がっしりとした体躯とは裏腹、ひどく心細そうにしている。とても仕事を終えた直後のヒットマンとは思えない。足元に転がる死体は、間違いなくこの男に殺されたものだというのに。
「迎えに来てやったぜ」
太った男が優しく言うと、警戒心をむき出しにしていた鋭い目付きがみるみる内に和らいだ。深い色の瞳が輝く。さながら帰り道を見つけた迷い犬のように。
「珍しいじゃないか。そんな事、今まで一度も……」
「いや、悪かった。気付いたんだよ、お前はファミリーにとって重要な存在だってな」
太った男が笑みを見せると、
「そ、そうか?」
少しどもりながら、照れたように返してくる。見えない尻尾さえ振っているようだ。
さらに何かを言おうと喉仏が動く。
その首に、細い紐が巻き付いた。車の助手席に座っていた男が準備していたものだ。
作戦通り、裏口から回り込み、相手が正面へ気を取られている内に後ろから襲い掛かったのだ。
「ぐっ!」
食いしばった歯の間から呻き声が漏れた。
離させようと白い両手が首元に伸びて来るが、ひょろりとした体のどこにそんな力があるのか、紐の両端をつかんでがっちりと首を締めている。
「よぉ、忠犬。いや、今はオオカミ男か?」
からかうように訊ねる声を聞きながら、太った男が歩み寄った。
レザージャケット越しに、渾身の力で腹を殴りつけた。体重の乗った拳が深く沈みこむ。
よく躾けられた犬は首輪のようにした紐で絞められ、鳴き声を出す事もできない。気道を押えられ、苦しそうに舌を吐き出していた。
胃の腑が痙攣し、収縮する。熱い塊がせり上がってくる。食道を逆流する。
一瞬の後、喉が開放されると同時に舌の奥から駆け上がり、床へぶち撒けられた。数時間前、共にした夕食だ。まだ溶けきらない固形が酸の中を漂っている。
腕を離した男が後ろから頭を殴り、その中へ叩きつけた。
「うっ……」
呻き声が漏れ、解放された気道から苦しそうに息をするが、入ってくるのは血と吐瀉物と、靴の裏についた泥だ。倒れ込み、側頭部を打ち付けた木の床は堅く、痛みと共に脳が揺れる。
太った男と痩せた男は一度、目を合わせてにやりと笑った。
扉に頭を向ける形で足元にうずくまる長身と黒髪と黒い服は、暗い部屋の床に溶け込んで見える。
「…………」
自身が吐き出したものに頭をつけて倒れたまま、まだ何が起こっているのか理解できないという風で見上げてくる目。
顔に垂れた黒い髪の分け目から、白い肌に浮かぶそれは縋ってくる捨て犬のようでさえあり、オオカミの凶暴さなど見る影もない。
そんな、ドンとファミリーに忠誠を誓った、行くあてのない野良犬の中でも一際目立つ存在。
太った男が吐き捨てる。
「お前はファミリーに重要な存在だから、目障りなんだ」
会う事さえ難しいドン・カルロを慕う姿勢が、どこか主人を失った哀れな犬を彷彿とさせ、見る者の心に訴えるからかもしれない。
家族に対して無口従順であるはずの飼い犬が、一方では有能で、冷酷で、可愛げがない。それが、いけ好かないのだ。
痩せた男が先ほどの小瓶を取り出す。
「お薬の時間だ、忠犬アルフィド」
呼ばれても、まだ脳が揺れているのか呆然として横たわり、伸ばされた手を咬む事も知らず、何を言う事もできずにいる。その口へ、中身が流し込まれた。
「飲み込めるまで押さえてやろう」
痩せた男はにやりと笑い、その唇を閉じさせる。そして姿勢を起こすと、塞ぐように靴底で踏みつけた。
「石でも拾って来れば詰めてやるのに。まあ、普段から口が塞がってるようなモンだがな!」
口数の少ない相手を嘲けり、背後を振り向いた。
「おい、何をやってる、ヒーローの出番だぞ!」
呼ばれ、何か大きな物を手にした小柄な男が暗闇から現れる。
「腹は狙うな。せっかく飲ませた薬が出る」
口元を踏みつけたまま念を押す。
現れた男が持っていたのは、まだ薪になる前の重く太い丸太だった。小屋の裏で見つけたらしい。
「どこならいい?」
訊ねながら、まるで木の枝を拾った子供のような笑顔を浮かべている。
「本当にバカだな。まずは脚をやれ」
ひょろりとした体の上に乗った顎をしゃくって答えた。太った男が運転中に言っていた言葉を思い出す。
「オオカミの武器は足、らしいからな」
「なるほど、初めて聞いた!」
小柄な男は軽快に答えるやいなや、床に投げ出された脚めがけて巨木を振り下ろした。
空を切る音は鈍かった。重量と質量を持った木の塊が、遠心力を伴った勢いに乗り、直撃する。
大きな目が裂けそうなほどに見開かれた。
口を踏まれ、塞がれたままの、言葉にならない声が上がる。ひどく痛々しい、こもった叫び声が喉を震わせる。
満月の夜にはオオカミ男の遠吠えが聞こえるというが、今夜はすでに欠け始めた月だ。人々を震えあがらせるような猛々しさなど欠片もなかった。
何とか逃れようと、白い手が痩せた男の足首をつかむ。黒っぽい目を光らせていた月はいつの間にか雲に隠れていた。
しかし男は負けじとその足首をひねり、靴底をゴリゴリと擦りつけたり、踵で蹴りつけたりするだけだ。踏みにじられ、歯に当たった唇や頬の内側が切れた。
じわりと血の味が広がった時、一度持ち上がっていた丸太が、また同じように振り下ろされた。
悲痛な声がまた上がる。そうして、小柄な男は何かに気付いたようだった。
「さっきは返事もしなかった……おれを無視してたんだ!」
苛立ちに、ますます力が入る。彫刻のようだと評された筋肉はおろか、その下の骨をも砕かんばかりの衝撃が響く。
「ほら、もっと鳴いてみせろよ、犬のアルフィド!」
重い丸太が、上になった左半身、脚や腕を、執拗に叩き続ける。幼少期に力の弱い小動物をいたずらにいたぶったように、何度となく。
「どうせ毒で死ぬんだろ?」
小柄な男は手を休めずに確認する。
「毒じゃない。そのうち体の自由がきかなくなって、呼吸麻痺になる薬だ。反応があるのはそれまでだぞ」
薬品を持ってきた男の返事さえ届いているのかも分からない、怒りだけでなく狂気すら感じさせる調子で、重い音が繰り返される。
家の入り口に倒れている死体のように銃を使ってひと思いに撃ち殺すのではなく、三人掛かりでじわりじわりと嬲り殺そうと言うのだ。
これまでこの男が居るために自分たちが受けてきた屈辱や、憂さを晴らすために。
逆恨みや嫉妬心だと思われようと構わない。相手はいずれ死ぬのだから。
始まったばかりの暴行の様子を見ながら、太った男がこぼす。
「やっぱりとんだイカれ野郎だ。こんなヒーローに組織の平穏が守れるもんか……」
痩せた男は踏みつけていた口元からようやく足をどけ、今度は女のように綺麗と評された顔面を蹴りつけて笑う。
「確かに。これじゃ動物虐待だな、ハハハ!」
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