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第一章 ごみ拾い

南イタリア・ナポリからローマへの道を、一台の乗用車が走っていた。 やや奇抜で個性的なデザインの車体はフランス製で、メーカーが独自に開発したしなやかな足まわりから「猫足」とも呼ばれる。中には若い男が一人。 カーラジオからは、陽気なラジオパーソナリティーのトークが流れていた。 『……女性たちがパンを買うために行列を作り、イタリア男たちはその列に並ぶ女性を見るための行列を作った……』 国民性を表す有名な笑い話だが、運転席の男はハンドルを片手で握ったまま、眉間に皺を寄せる。目のすぐ上についた眉頭が、サングラスに隠れた。 「……ったく、いい迷惑だ」 一人、吐き捨てるようにつぶやいた。 ナポリで暮らすファミリーとのパーティーは、居心地の良いものではなかった。 今回は復活祭(パスクア)というキリスト教徒にとっては欠かせないイベントのために、都市部にある個人経営のレストランを何ヶ月も前から予約し、貸し切っていた。 言いつけに従って金曜日から大好物の肉を断ち、ようやくご馳走にありついた。伝統的なチーズとサラミのパイに、トマトソースパスタのオーブン焼き、メインディッシュは子羊のロースト、デザートは復活のシンボルであるハトを模したケーキ。 子供たちはタマゴやウサギの形をしたチョコレートや、タルトに夢中だった。新たな生命が誕生するタマゴや繁殖力の強いウサギもまた、パスクアを象徴する。 そんなおめでたい食卓で、仕事の話がされる事はない。おかげで自分たちのメインビジネスですら誰にでもできる仕事、外からの評価は三流マフィア、下火など散々な言われようだ。 そればかりかここ最近は、個人のプライベートにも干渉してくるようになったのが、ますます居心地の悪さを感じさせた。 よくデートをする相手はいないのか、一体どんな女性が好みなのか、と。 現代、晩婚化の波は世界中に広がっている。 この国においては、一度結婚してしまうと離婚には大変な手間と時間がかかる事も、その要因として大きいだろう。人々は信心深く、法律の土台となった宗教観念は、離婚を善しとしない。中絶も、離婚も、認められたのは今からたった五十年前のことだ。 現在は法律上、結婚と同等の権利が与えられる事実婚状態で、子供を育てるカップルも多い。未婚でいる事で得られるメリットもあった。 一方で、血が繋がっていないとは言え家族なのだから、若い衆の将来が気になるのも分かる。恋や愛を情熱的に語る彼らが盛り上がっているのも見ている。 昨日も、ファミリーの食事会の席で恋人を紹介するべく連れてきたり、チョコレート・エッグにジュエリーを入れてプレゼントしたりしているカップルが居た。 また、単身者向けの商品や家賃は割高であり、経済的な負担などのデメリットが大きいのも知っている。 だからと言って、年頃のイタリア男に浮いた話の一つもないのはおかしいと言い張り、女性の紹介まで持ちかけてくるのは、あまりにも安直で、余計なお世話というものだ。 明け方、ナポリにある邸宅の、リビングに置かれたソファーで目を覚ました。床やテーブルには、同じく独身で、家族も持たない若い衆の寝姿があった。 ドンとその妻、兄弟姉妹や、彼らの息子や娘や孫など血の繋がった家族が暮らす場所であり、ファミリーの拠点でもあるそこへ、レストランでのパーティーを終えて泊まっていたのだ。 ゲストルームがあるにもかかわらず、みな酒に酔ったままのような、幸せそうな寝顔を浮かべて、だらしなく転がっていた。起こそうという気も起きなかった。 一人、軽くシャワーを浴びて、身支度を整えた頃、ファミリーの女性陣が続々と起きてきた。 ドンを父とするならば、母や伯母、あるいは姉妹にあたる彼女らはリビングに転がった若い衆を手際よく起こし、キッチンに立った。 今日も祝日であり、昨日レストランで包んでもらった残りの料理を持ってピクニックに行くと誘われたが、道路が混む前に帰るからと断ってしまった。 朝食も断り、エスプレッソを淹れ、別れの挨拶とハグやキスを交わす間も、今度こそはかわい子ちゃんを紹介して、生きている内に孫の顔を見せてねと冗談半分に言われた。半分は本気のつもりだったのが見てとれた。 組織に属する身で、組織の頭に君臨する首領(ドン)や、その妻でありファミリーの母にあたるシニョーラに逆らう事はできない。 女性の紹介は間に合っているし、こちらから紹介するつもりもない。そう言い返す事ができず、不機嫌なまま、愛車の「猫足」を転がして帰路に着いたのである。 カーラジオでは司会者のトークが終わり、今度は音楽が流れてくる。毎年サンレモで開催されるポピュラー音楽祭での優勝経験も持つ、若い歌手の曲だ。ベテランアーティストが第一線を走り続ける音楽界において、いま最も勢いがあると言える。 好きな曲だったので、聞き飽きる事はない。思わず口ずさんだ。それだけで、機嫌が少し直っていた。 美味い物を食べ、音楽を聴いて楽しく踊るのは好きだ。この愛車のデザインや、パーティーに参加したジャケットとシャツのように、派手なものも好きだ。グリルされた赤身の肉も、それによく合う赤ワインも好きだ。 その「好き」という感覚を、誰かと共有できるならばもっと良いだろう。 しかし、そこには必ずしも恋愛感情を伴わなければならないものか。もし仮にそうだとしても、その相手は、誰かに決められたものでなければならないだろうか。 職業柄というべきか、顔の広い自分には「仕事仲間」が沢山いる。いわゆるマフィアの仲間を表す「友人」も、そんな意味を持たない友人も居る。結婚などせずとも、子供などおらずとも、過不足なく暮らしている。 それはファミリーに伝わっているはずなのだ。離れていても、こうした機会がある度にわざわざ顔を出しているのだから。彼らにとって、それでは充分ではないというのか。 ホルダーから紙カップを取り上げ、帰りがけに持ってきたコーヒーをすする。左側の運転席の窓を開ければ、春の温暖な気候に乗った心地よい潮風が吹き込んでくる。 有料道路を使えば二時間の距離。およそ倍の時間がかかるが、下道を行けば海沿いのドライブが楽しめた。 地中海に面したこの国には、美しい自然と歴史があり、それらを芸術や食といった文化が彩っている。 中でもナポリは、ピザ発祥の地とも言われる。街には多くの歴史ある美術館や博物館、礼拝堂がある。ヴェスヴィオ火山と、その噴火によって消失した古代ローマ帝国のポンペイ遺跡も。法王が愛したという神秘的な青の洞窟も、ナポリ湾に浮かぶカプリ島にある。イタリアの中でも有数の観光名所だった。 大きなフロントガラスには朝焼けが映り、後部座席にも繋がるサンルーフ付きの車内が明るさを増す。 コーヒーを置いてハンドルを持ち替え、窓枠に片方の肘を預けた。平均よりも少しばかり華奢な所為で腕の位置が高くなってしまい、あまり楽な体勢ではないのだが、慣れたものだ。明るい茶色の瞳を日光から守るためにサングラスをしてみても、マフィアという言葉の持つ凶悪な響きとは結びつかない顔立ちを隠しきれるわけではない。 外から見るとその様子は、生意気な青少年が瞳と同じく明るい茶色の髪を風になびかせて運転しているように見えてしまう。 対向車線の遠くから、大きなトラックが走ってくるのが見えた。 まだ早い時間、交通量もほとんどない。祝日だと言うのに取り憑かれたように仕事をするような人々を、勤勉と表現するのは正しくない風習である。 そんな人目の少ない時間をわざわざ選んで走ってくるのは、許容量を越える荷物を山と積んだ、違法者だ。 サングラスを外して目を凝らした先に、よく知った顔が現れる。思わず笑みが溢れた。 すれ違うより先にトラックは減速し、ハンドルがゆっくりと切られた。左折する形で、すぐ脇の煉瓦の壁で囲まれた敷地へと入っていく。 そこは、廃棄物の集積場だった。中の面積は想像もつかない。 同じように減速して車を入り口に寄せるように停め、ちょうど飲み終わりそうな紙カップを手に車から降りた。 「おはよう、チーロ!」 目の前に停まったトラックに向かって片手を挙げ、声をかけた。高い位置にある運転席の窓が開き、髭面の男が顔を出す。 「ディエゴ……ディエゴじゃないか!」 チーロと呼ばれた男はそう言うなり、降りてきて、ディエゴと呼ばれた男とハグを交わす。 「久しぶりだなぁ! まさかこんな所で会うなんて」 「北部から船に乗って、さっき着いたところさ」 体を離し、ディエゴはチーロの顔を見上げる。 「下道を選んで正解だった! 今日は予定もねぇし、のんびり帰ろうと思って」 友人との再会に喜び、上目遣いになると、ますます顔があどけなくなってしまう。 チーロの後ろから、金髪の男が現れた。背が高く、彫りの深い顔立ちをしており、首にはタトゥーがのぞいていた。 「こいつは、ルカ。俺と同じチームに最近入ってきて……」 気付いたチーロが紹介するのと同時に、ディエゴは手を差し伸べていた。手首にシルバーのブレスレットが光る。 「ディエゴだ。よろしく」 「どうも」 金髪の男が軽く返事をしてその手を握る。 チーロが二人の間に立って紹介する。 「ディエゴと俺は、ほとんど同時にファミリーになった。長い付き合いだ」 「お会いできて嬉しい」 ルカがにっこりと笑みを見せ、ディエゴも目尻をさらに垂れさせた。 「こちらこそ!」 握手がほどけるのを見計らってチーロが訊ねる。 「最近の調子はどうだ?」 「上々! 事業は順調だし、自分の家も買った」 「そうなのか! すごいじゃないか」 「今度招待しよう。オレは天職を見つけたかも知れない」 ディエゴが胸を張って答えると、チーロはその肩に手を置いた。 「まさに〈開拓者(イル・ピオニエーレ)〉だ」 「それを言うならお前らもだろ?」 いたずらっぽく言い返すディエゴ。 三人の属するマフィアファミリーの名は、「開拓者たち(イ・ピオニエーリ)」だ。 その名の通り、ディエゴはファミリーがそれまでメインビジネスとしていたのとはまったく別の新規事業を立ち上げ、軌道に乗せていた。 「失礼、あなたは何のお仕事を?」 やりとりを聞いていたルカに訊ねられ、ディエゴは簡単に答える。 「仲介業者だよ。クライアントから依頼を受けて、ヒットマンに渡す。その仲介手数料がオレの稼ぎだ」 「手数料? 上前をはねてるんじゃないのか」 横から茶化すように言ってくるチーロに、ディエゴは笑って首を振った。 「働かない者は食えない。きちんと働いた者には、きちんと支払われるべきだろ」 イタリア南部の国民性は、一概に仕事熱心とは言いがたいとされる。しかしディエゴは、自身の事業を軌道に乗せるために、何より信用が大切だと知っていた。 それから、確認するように訊ね返す。 「お前ら、ちゃんと給料は貰ってんだろうな?」 久々の再会に喜びを覚えるほど、ファミリーとはいえ離れて暮らしている。ルカとも初対面だし、チーロの現在の暮らしぶりも、ディエゴはよく知らない。 問われたチーロはもみあげから繋がる顎髭に手をやって答える。 「ゴミ処理で稼げる給料なんて知れてるがな」 イ・ピオニエーリのメインビジネスは、産業廃棄物の収集・処理業だ。 あまり注目されない仕事だが、人々の生活には欠かせない存在である。業者がストライキを起こすと町中にゴミが溢れる。埋め立て地の確保が追いつかない時期もあり、昨今はゴミの分別の重要性についての関心も高まってきている。二○一八年にはシチリア島でも義務化された。 〈エコ・マフィア〉を自称する巨大な勢力が国中のゴミ処理業者と提携し、収集と処理を一手に引き受けている。 イ・ピオニエーリはその下につき、北部から回収したゴミを船で輸送してくるだけでなく、ナポリ周辺の廃棄物集積場まで運搬する工程も担当していた。チーロとルカは今まさにその仕事中らしい。 息抜きとばかりに、友人と談笑するのは自然な事だ。 「北部の奴らは喜んで金を払う」 チーロの言葉に、ルカが笑みを見せた。 ストライキを恐れた国民や政府によって納付される額から上前を跳ねられた分が、イ・ピオニエーリら下請けの収入源となる。 ワーカーホリック気味な北部と、バカンスのために働くような南部の気質から、しばしば「北が稼ぎ、南が使う」と揶揄される事がある。いずれにせよ、食うためには働かなければならないということだ。 「忙しいんだな。最近はパーティーにも来てないし……」 「呼ばれてない」 抑揚のない短い返事に、ディエゴは一瞬、言葉に詰まる。 「そう、なのか?」 家族と認められていれば、呼ばれるのが当然だと思っていた。 しかしチーロはあっけらかんと続ける。 「ああ、別にいいさ。どうせ老夫婦のホームパーティーだろう」 確かにドンとシニョーラは高齢で、そこへファミリーが集まる様子は、本当に血の繋がった親戚同士が集まって開催するホームパーティーと似ている。 今回はレストランだったが、普段は邸宅のテラスで母親(マンマ)たちお手製の料理を囲み、ワインを飲み、それぞれの近況報告から政治経済にいたるまで、さまざまな話をする。音楽をかけて歌って踊り、夏にはプールで泳ぎ、夜には花火をし、数字合わせ(トンボラ)やトランプをして遊び、とにかく楽しく賑やかに過ごす。 今朝もそうだったように若い衆は夜中まで騒いで、そのままソファーや床で寝る。一方で身を固めて子供を持つ者は、早い時間からきちんと寝室やゲストルームへ行き、おやすみのキスをしてベッドで眠るのだ。 「きちんと孝行するお前は、立派な息子だ」 優しげなチーロの言葉に、ディエゴが苦い顔をする。 「あいにく、そうも言ってられなくなってきた。シニョーラ……マンマが結婚を急かしてきて」 旧友と新しく知り合った友人に胸の内を明かしかけた時、トラックの後ろから、しわがれ声の怒号が飛んだ。 「チーロ! ルカ! 何をしているんだ、荷降ろしがまだだろう!」 それを聞き、やれやれと首を振るチーロ。彼はディエゴと同時期にこの社会に飛び込んだが、まだまだ下働きの身のようだった。 「今日は会えてよかった」 別れの挨拶を交わし、肩を抱き合い、軽く頬にキスをし合う。ルカとはもう一度握手を交わした。 「ああ、オレもローマに帰るよ」 ディエゴがそう応じると、きびすを返しかけていたチーロが聞き返す。 「ローマに戻ったのか。故郷が恋しくて?」 「そんなんじゃねぇよ、中部のほうが色々と便利なだけだ」 ディエゴが数年前に買った家は、首都ローマの近郊にある。 ファミリーの拠点すなわち親元とも呼べるナポリを離れ、南部と北部の間にあるその場所を選んだのは、事業のためと言うところが大きい。人の往来が豊富で、情報が盛んに交わされる。交通の便もよく、機関が動きさえすれば目的地がどこであっても足を伸ばしやすい。 多くにとって仕事は金を稼ぐための手段だが、ディエゴにとっては居を移す理由のひとつになり得た。 チーロとルカがひらりとトラックへ乗り込む。 「連絡する! ルカもまた会おう!」 「ああ、良い旅を!」 声を掛け合い、ドアを閉めたトラックは敷地の奥を目指して行った。 一人残されたディエゴは辺りを見回し、 「さてと……」 誰に言うでもなくつぶやいた。手には空になった紙カップを持ったままだ。 少しだけ、集積場の中を歩く事にする。イ・ピオニエーリの管轄でありながら、その一員であるディエゴ自身にとっては初めて訪れる場所だった。 いつもは仕事や予定があり、有料道路を猫足で駆け抜けるように往復する。たまに海辺のドライブと洒落込んで下道を通って帰る事はあっても、気にも留めなかった。 ここには、国中の様々な場所から集められた廃棄物がいくつもの小高い山を成し、文字通り山積している。日が昇り始めていたが、その下でもちょっと気を付けて見ればネズミが這い、虫が飛び回っている。先ほどチーロたちと話している時は気付かなかったが、当然ながら悪臭も漂っていた。紙カップ一つくらいその場に捨ててしまっても、何かが変わるわけでもなければ、誰かが気付く事さえなさそうだ。 しかしディエゴは、自分の目で、どのような有り様なのか確かめようと思った。 美しく賑やかな観光地の近くでありながら、景観も臭いもかなり劣悪な状況だ。産業廃棄物の中から毒性の強い物質が検出された事もあり、環境汚染が問題になっていた。 ファミリーとの食事会に居心地の悪さを感じるのは、結婚を急かされるからだけではない。 仕事の話が交わされる事のない食卓、高齢のドンとシニョーラ、家族を大切にはするがマフィアファミリーとしての方針には頓着しようとしない構成員たち。彼らを憎んではいない。 ただディエゴは、イ・ピオニエーリが、メインビジネスによって、自分たちの拠点のあるナポリの環境を悪くしているという矛盾にも気付いているのだ。そしてそんな事業をメインビジネスとせざるを得ないのが、ファミリーの現状なのだ。 この場所を訪れ、産業廃棄物の回収や処理に従事した経験こそなかったが、テレビや新聞やラジオ、それ以外でも所属するファミリーが、彼らのしている事が、どのような評価を受けているかを知っていた。自身に関係のある事柄ほど、嫌というほど目や耳につくものだ。 誰にでもできる仕事をするしかない下火の三流マフィアと呼ばれても、否定できない自分がいた。 ナポリは国を代表する観光地であり、たまに訪れるこの街の美しい景色や文化も、ディエゴは気に入っている。大切なファミリーと、占める縄張り──彼らが暮らす街を守ろうとする事こそが、〈ワイズガイ〉ではないのだろうか。 そんなことを、考えてしまっていた。 他人と付き合うのが好きな性分は、話し好きな国民性もあいまって、交渉力にも長けた。顔の広いディエゴに、人材紹介・派遣業はまさに天職なのだろう。ヒットマンとクライアントの仲介など、マフィアという立場だからこそできた事業だ。 ファミリーの活動方針に疑問を抱きながら、ドンに逆らう事も、その話を切り出す場も与えられない。そんな一構成員が、居心地の悪いファミリーから距離を置くには、自分で稼ぐ方法を見つけるのが一番だった。 先ほどのチーロやルカは、ディエゴほどのスキルを持たない。末端に所属する構成員として、ただ組織から与えられる仕事をこなすしかないのだ。 それぞれが需要と供給を補い合ってあらゆる仕事をこなし、それに関わる事でファミリーとして扱われる。バカンスに連れて行けず捨てられた飼い犬のように、行く宛をなくした野良犬がふたたび住む場所と仕事、そして仲間を手に入れるには、何かの組織の一員となるしかない。それが犯罪組織であると理解していても、名誉と金が手に入るとなれば背に腹はかえられない。 そうでなければホームレスとして、都市部で物乞いやゴミ漁りなんかをして有り余る時間を過ごす事になる。大きな荷物を脇に置いて、のんびりと昼寝している姿を目にする事もある。 明日の保証さえないのはどちらも同じ。どちらが良いか、決めるのは自分自身。ここは、きわめて個人主義の社会だ。 矛盾に気付き、居心地の悪さを覚えて距離を置きながらも、ディエゴは組織を抜けようとは微塵も思わなかった。 事業を立ち上げた旨を伝えても、特に反対するでもなく、それまでディエゴにさせていた仕事は別の者に振ろうという返事だけだった。ファミリーの歴史に新たな一頁を刻もうとする若い衆を馬鹿にしたり、妨げになろうとしたりする者はいなかったのだ。 むしろ居を移すと伝えた時のほうが、シニョーラたちが寂しがると引き止められたほどだ。彼らはやはり血の繋がりのない家族だった。 ディエゴはふと足を止めた。 「何だ? あれ……」 前方にあるゴミの山の奥から、人間の脚のようなものが二本、見えている。 肌色の塗料のはげたマネキンやにしては、筋肉の付き方が精巧で、一本は黒ずんでいるようだ。 好奇心と怖いもの見たさに吸い寄せられる。ゴミの山を回り込むようにして、近寄っていく。 そこには、白人系というだけでは説明がつかないほど、血の気のない真っ白な肌をした男がいた。 ひどい暴行を受けた末に遺棄されたのだろう。全身が血と傷と痣だらけだ。 やや面長な貌は見ている方が辛いほど腫れ上がり、青紫に変色した箇所。鼻と口から流れ出た血は首元まで赤黒く染めていた。絡まった髪には、乾いた血と吐瀉物が固まってこびりついている。 身に付けているのは丈夫なレザーの衣類らしかったが、それすら破れてしまっている。そこからのぞく肌もまた白く、靴底の形の痣がついていた。 黒ずんだ片脚は内出血によって変色しているようだ。太腿辺りで折られてしまったらしく、不自然な方向にねじれ、曲がっている。 そして、なぜか下半身には何も身に付けていなかった。 死体を見るのは、もちろん初めてではない。 今の事業を始めるずっと前、儀式を終え、暴力の世界に身を置くファミリーの一員として、与えられるままに仕事をしていた時期は、ディエゴにもある。窃盗、恐喝、麻薬や銃取引、売春斡旋、闇市、賭博……稼ぐ為なら何でもした。今でこそその在り方について考えてしまうワイズガイの精神など、当時は知った事ではなかった。 ディエゴはその死体にしばらく見入っていた。 表情は歯を見せて笑っているように見え、反らせた背中をゴミの山に預けた体勢は、糸の切れてしまったあやつり人形に似ている。だから捨てられてしまったのだろうか。すべてのあやつり人形が、言葉を話す松(ピノ)の丸太から作られるわけでもなければ、女神に魂を与えられ、夢に出てくる妖精によって優しい心を持った人間になれるとも限らない。妖精も、神も、実に不平等なものなのだ。 あるいは価値を見誤り、捨てられてしまった絵画のようでもある。題を付けるならば『置き去りにされた美』とでも言おうか。 生前はさぞ良い男だっただろう。 腫れて変色していても、女性のように、ともすれば女性よりも美しい顔立ちと、彫刻のように筋肉のついた大きな肉体の組み合わせは、アンバランスでありながら絶妙に調和している。 日焼けした肌こそが好ましいとされる世の中では、不気味がられて敬遠されるかも知れない。しかし陽の光を弾く磁器のような白い肌と黒い髪や睫毛のコントラストもまた、芸術品のように見事だった。 どれくらいそうしていたか、トラックの走る音に、ディエゴは我に還る。友人たちが仕事をしているのだ。 あまりここで時間を食っては、道路が混む前にとピクニックを断ったのが嘘になってしまう。 車を停めた敷地の出入り口に戻ろうと歩き出した。その時だった。 「天使……」 背後で、低い声が聞こえた気がした。 ディエゴはぴたりと足を止める。振り向き、声を掛けた。 「……生きてるのか?」 早足で歩み寄ると、腫れたまぶたの下に、青みがかった暗い灰色の瞳が覗いている。 「おい、オレの声が聞こえるか?」 「こんな、俺でも……神のみもとに……」 言い終わらない内に、再びぐったりと背を預けてしまう。次の瞬間、大きなあやつり人形の全身がびくびくと痙攣し、背中がのけぞった。きりきりと歯ぎしりのような音も聞こえる。 「おい、返事を……」 ふたたび呼びかけた時、ふっと、辺りに影が落ちた。雲にしては動きが早すぎる。 ディエゴが顔を上げると、先ほどのトラックが荷台を開いてこちらへ傾け、山のような積荷を下ろそうとしていた。 陽の光を遮るほどうず高く積まれた荷物は、街中に捨てられたゴミか、不法投棄された産業廃棄物だ。どんな成分を持った物質が紛れ込んでいるかも定かではない。 辺りに漂っていた嫌な臭いが強くなる。本能的に、嗅いではならないと思わせる。 「待て! 止めろ!」 ディエゴは迫ってくる臭気を腕で振りはらい、大声を上げた。 身軽な自分一人なら、降ろされるゴミなど後退りすれば避けられる。しかし、目の前には動く事のできない人間が居る。 どんな事情があったのかは知らない。それでも、まだ息のある人間が、不潔なネズミと害虫が這い回る中、ゴミに埋もれ、押し潰されて死んでいくのを見届ける趣味はない。ワイズガイの精神などではなく、心を持った人間として、見殺しにする事ができなかった。 「チーロ! ルカ!」 続いた呼びかけに、ようやくトラックの動きが止まった。あと数度でも傾けば、一緒に巻き添えである。 ディエゴは急いで上着を脱ぎ、ひとまず倒れている男の腰に巻きつけた。止血すべき箇所は他にもあるが、前を隠してやるのが最優先だと判断したのだ。 それからゴミの山へ体を寄せて片腕を取り、自身の肩へ回した。 「ディエゴ? まだ居たのか?」 動きを止めたトラックから、先ほどと同じように身を乗り出したチーロの声がする。 「ああ! 少し待ってろ、人が倒れてるんだ……」 返事をしたものの、担ごうとした体は予想以上に大きく、重く、なかなか思い通りに立ち上がれない。ようやく持ち上げようとしても、今度はゴミに足を取られ、バランスを崩してまた倒れてしまった。 「チーロ、チーロ! 手を貸せ!」 相手に背を向ける位置にあっても、ディエゴの声はよく通る。自分一人の力ではどうする事もできないとなると、友人を頼るしかない。 ドアを開閉する音があり、その衝撃で、ぎりぎりまで傾いていた荷台が揺れた。 積み上げられた廃棄物がわずかに滑るのが見える。嫌な予感がする。 崩れ落ちてくる。 「うわーっ!」 ディエゴは悲鳴に似た声と、意識を失った男と共に、その下敷きになってしまった。 いくつものゴミ袋が、新聞や雑誌が、空き瓶とその蓋が、頭や顔に落ちてきて次々と叩き付けられる。 すぐ脇で、大きな物が周囲のものを巻き込みながら転がり落ちる音と、ガラスの割れる音がする。ディエゴは思わず目と口をきつく閉じた。 ゴミのなだれがひとしきり収まった後、ディエゴは閉じていた目をそっと開け、首を動かした。 見ると、目と鼻の先に大きなブラウン管テレビが落ちていた。 筐体に押しつぶされた重みで画面は破裂したように割れ、鋭いガラスが突き出している。あと数十センチずれていれば、命は無かったかもしれない。頭に落ちてきたのが軽い物ばかりだったのは、不幸中の幸いだった。 「バカ野郎!」 ディエゴは思わずゴミの中から、友人に向かって怒鳴った。声がゴミの山々に反響し、空へと抜ける。 「何してんだよ! 死ぬところだっただろうが!」 そんな事になっているとはつゆ知らず、トラックとゴミの山を回り込む形で、髭面のチーロが現れる。金髪のルカも一緒だった。 「お前こそ何をしているんだ、宝探しか?」 ここにはいい物なんて落ちてないぞ、と呑気に言うが、そこには確かに人の姿があった。落ちてきたゴミに埋もれるような形で、ディエゴもその脇に並んでいる。 「誰だ、そいつは。死んでるのか?」 「知ってるわけねぇ……でもまだ生きてる、さっき動いてた」 助けを求めながらイライラした態度で言い返す。 軍手をはめたチーロとルカは慣れた手つきで掘り起こすようにゴミをどかし、そんなディエゴたちをすくい出す。 動けるようになった筈だが、ディエゴはまだゴミの山に背中を預けたまま立ち上がれず、うんうんと唸っている。まるで自分の体より大きなぬいぐるみを持って帰ろうとする小さな子供のようだ。 チーロとルカは思わず笑ってしまった。 「笑ってんじゃねぇ、早く起こせよ! 本当にクソだなお前たちは!」 思い通りにならないとすぐに吠え立てる。ディエゴはまるで自身の体の小ささを知らない狂犬だった。 飼い主は穏やかな老人で、甘やかされ、躾をされずに育った挙げ句、主人ですら手の付けられない暴れん坊に育ってしまったようだ。 「そんな事だから三流って呼ばれるんだ、売春婦の息子ども!」 かつてサッカー世界大会の決勝戦において、著名な選手が相手選手に頭突きをしたとして退場する騒ぎがあった。その際に発せられたのは、彼だけでなく彼の家族をも侮辱する言葉だったとされている。 実際に、チーロとルカの実母の職業を知っているわけではない。侮辱するために言ったのだ。感情的になったディエゴの言葉遣いは、品がいいとはお世辞にも言えなかった。 チーロは言い返す事はせず、かがみ込み、目を閉じている男の脇に手を入れる。 「ゴミ処理は仕事だが……ゴミ漁りなんざホームレスのする事だ」 その体はだらりと力なく垂れ、腕も折れてしまっているらしい事が分かる。ルカにも同じようにして、支えさせた。 「漁ったんじゃねぇよ! 落ちてたから拾おうとしたんだ!」 小さな狂犬がむきになって言い返した。 「そうしたらお前ら、ゴミを落としやがって! こんな死に方してたまるかよ」 ようやく助け起こされるまで、ディエゴは肩にかけた腕をしっかりとつかんでいた。 立ち上がると、男はぐったりと寄りかかってくる。 と、腰に巻かれていたジャケットが落ちた。 赤い血の中に洒落た刺繍の浮かぶジャケットは、たしか先ほどディエゴが着ていたものだ。角度や光の当たり方によって違う柄に見えるジャケットは暗い色をしており、何もつけていない下半身は血と痣だらけで、肌は病的なまでに白い。 チーロとルカは顔を見合わせる。 一瞬のためらいの後、ルカがそのジャケットを拾い、ふたたび男の腰に巻かせた。股の間にぶら下がったそれが揺れるのを、なるべく見ないように。 そうするのを見守りながら、チーロはディエゴを諭すように問う。 「どうするつもりだ。そんな物を拾って……」 「とりあえず家に連れて帰る。ネヴィオなら何とかできるだろ」 「ネヴィオ? あの爺さん、死んだんじゃないのか」 チーロはさらに戸惑ってしまうが、あっけらかんと答えるディエゴ。 「いや、実はまだ生きてるんだ。しぶとい年寄りだよ」 「だとしても、もう医者じゃないだろう。告訴された時に免許も剥奪されたはずだ」 「資格がなくても腕さえあれば治療はできるからな。ムカつくけど、こういう時にこそ呼ばねぇと」 言葉遣いにも品がなく、すぐ不機嫌になり、それでいてすぐ機嫌を直す。よく怒り、よく笑う。自身の感情や欲求に素直なところも、チーロと出会った頃から変わっていない。実年齢より若く見えるどころか、少年のようなディエゴは、新しく見つけたおもちゃに早くも夢中だった。先ほどの不機嫌な様子はもう影を潜めている。 「また連絡する! 食事もしよう、ルカも一緒に」 早口でそう言うと、ぬいぐるみにしては随分と可愛げのない男を担ぎ直した。そしてほとんど引きずるように、ずるずると集積場を出ていった。 「やれやれ。治療が必要なのはあいつ自身だ」 チーロは顎髭をさすって言った。汚れがついたが、今さら気にしても仕方がない。 「癇癪持ちってことかい?」 金髪のルカが訊ねる。先ほど、少々笑ってしまっただけで初対面の相手にも怒鳴り付けてきた。いや、そうなる前からゴミの中でイライラしていた。気が短い性格を治療する事などできるのだろうか。 「いや、短気なのは別にいい。だからディエゴなのさ。喧嘩っ早いが、けろりと忘れるしな」 ころころと機嫌の変わりやすいのも、感情的になりやすいのも、口汚いのも昔からだ。それは諍いの火種となる事もあったが、いつでも素の自分をさらけ出して他人とぶつかる事ができるという長所でもあるようだった。だからこそ顔が広く、相手を知り、仕事に結びつける事ができるのだ。 チーロは人差し指で、自分の耳たぶを弾いて見せた。 「ただ、デカい男と見ればすぐに持って帰っちまう。あれは病気だ」 デカい、というのが、一人では持ち上げる事もできなかったあの体躯を指しているのか、それともあの白い腿の間にぶら下がったモノのことを言っているのか、ルカは考えない事にした。 ただ、彼が結婚を急かされて苦い顔をしていた理由はそこにあるのだろうと納得する。 ふと、長身で顔立ちの整った仕事仲間を見て、チーロが少しからかうように言う。 「お前も気を付けろよ。あんまり近付くと、ケツに行かされる」 重い体を後部座席に押し込むと、車体がわずかに跳ねた。 5ドアハッチバックタイプで、広めに作られた三人分のシートに体を横たえても、長く白い脚はまだ車外にはみ出してくる。それを持ち上げて折りたたむようにさせ、勢いよくドアを閉めた。 「ハア、ハア……」 両膝に手を突き、肩で息をするディエゴ。 ここまで担いでくるだけでも、思わぬ重労働になってしまった。チーロとルカに運ぶまで手伝ってもらえば良かったのだ。気が急いていたのを自覚する。 シャツの袖で顔を拭ったが、べっとりとした血と吹き出してきた汗が混ざりあうだけだ。 日が昇り、気温が上がり始めている。春の陽気と乾燥した過ごしやすい気候の中、ディエゴは汗だくになっていた。邸宅でシャワーを浴びたのが何日も前のことのように思える。男を拾うために、ゴミの山に埋もれてしまった。嗅覚も麻痺しているのか、どんな臭いかも分からなくなっていた。 「クソッ」 不快感に悪態をつく。 シャツのボタンをはずして脱ぎ、軽く体を拭いた。パーティーに行くようなお気に入りのシャツだったが、その帰り道に血と汗とゴミに汚れた服を着続ける趣味もない。 運転席のドアを開け、汚れたシャツを後部座席に放り込む。荷物のように横たわらせた体の上へ、ぱさりと乗った。 シートに乗り込みながらスマートフォンを操作し、ハンズフリーにした状態で通話を繋ぐ。 「もしもし、ネヴィオ? 生きてんだろうな?」 キーをひねり、農業大国自慢のパワフルなエンジンがかかる。勢いよくアクセルを踏んだ。愛車が飛び出すようにして発進する。 もう、海沿いのドライブを楽しんでいる場合ではない。 ディエゴは有料道路の入り口を目指して、迷いなくハンドルを切った。走り心地は、それでもスムーズでしなやかだ。 「ゴミ捨て場で、ちょっといい物を拾った。すぐに帰るから、くたばる前に見に来いよ」

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