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第二章 医療補助

イタリアの中部、ローマ郊外から伸びる道を、一台の古い車が遠ざかってゆく。幅の細い道の多い街乗りにも適したコンパクトカーだ。中には老いた男が一人。 パステルカラーの車体が可愛らしく、遠くまで広がる夕焼けの色と同化して、溶けてゆくようだった。その後ろ姿を見送り、ディエゴは家の中へ戻った。 昼頃に帰宅したディエゴと、契約を結ぶ〈プライベート・ドクター〉のネヴィオは、ナポリ近くの産業廃棄物集積所で拾われたという男の介抱にあたっていた。 大きな鼻に大きな老眼鏡を乗せたネヴィオは、リビングのソファーに無造作に寝かされた男の顔を覗き込んだ。 「お前たちは、本当に聡明な男の集まりだな」 もちろん皮肉である。日頃から、冷静で論理的な発想ではなく、暴力と恐怖によって問題解決を図った連中を患者としている。彼の元に担ぎ込まれるのは、そのほとんどがマフィアや犯罪者だ。 抗争に巻き込まれたり、犯罪の被害に遭った気の毒な一般市民の治療は公共の医療機関が担当する。 「オレのファミリーじゃない。ファミリーの仕事場で拾ったんだ」 ディエゴが改めて否定したが、ネヴィオにとってはマフィアが連れてきた患者に変わりない。 「最近は医療界隈にも噛んで来おって……点滴や輸血もバカにならん」 老いた背中は曲がり、他人を批判する聡明な頭はディエゴの胸辺りの高さにある。残り少ない白髪越しに、向こう側が見える。生え際はすっかり後退して、広くなった額には大きな痣があった。この痣は生まれつきらしく、赤みを帯びた薄茶色をしている。 「そういうのは来る時に用意しておくモンじゃねぇのか、プライベート・ドクター?」 「いい物を拾ったと聞くだけで状態が分かるならそんな奴は医師じゃない、魔術師だ」 なけなしの衣服を手馴れた風で取りると、ぼやきながら血や汚れを拭き取り、診察に取り掛かった。 「破傷風の症状に似ておるな」 怪我をした傷口から原因となる菌が入り込み、神経毒素をつくり出す事で発症する破傷風。報告数は毎年百例近くあった。感染すると筋肉の激しい痙攣や、背中を弓のように反らせる後弓反張、顔の筋肉が笑っているように収縮する痙笑、呼吸麻痺などが起こる。 「傷だらけでゴミ捨て場に居たんだって言っただろ」 報告を繰り返したディエゴに、ネヴィオはわざとらしく感心したように応じる。 「ほほう。三週間もゴミ捨て場に寝ていたか」 感染してから症状が出るまでの期間を潜伏期間と呼び、破傷風のそれは短くても三日間。長ければおよそ三週間にもなる。 「だとしたらそこに住んでいたんだろう。誘拐犯め」 「……いつからかは知らねぇけどよ」 面白くなさそうな反応を見、ネヴィオはしたり顔で患者に向き直る。ソファーの上で苦しげに歯を食いしばっている顔には、ディエゴの家で作られた氷が乗せられていた。 「それに、見たところ三十代前半。ガキの頃にワクチン接種は受けとるはずだ」 はじめは従事軍が対象だったが、一九六八年には幼児への定期予防接種が開始した。それ以前に産まれた世代のほか、若年の男性の発症率が高い傾向にあるが、それは他と比べ生活において傷害を受ける行動が多い事が原因と考えられている。 が、それはあくまでも破傷風の話だ。目の前の患者の症状が似ている、と言ったまでである。 マフィアや犯罪者を相手にしているネヴィオにとっては、予防接種が普及した病気よりも自然な可能性を思いつく。 「となると、毒でも飲まされたのかも知れんな。くだらん掟を破った者への罰として……」 「くだらん掟じゃねぇ!『沈黙の掟』は遵守されるべきだ」 わざとらしく顔を見て言うと、やはりディエゴが反論してきた。単純で分かりやすく、言いたいことを口に出す方なのでストレスを溜め込む事は少なそうだが、頭に血が上りやすい性格だ。 「沈黙だか血の掟だかは知らんが、わしの耳に入っている時点でその沈黙は破られておる」 そもそも、と手にしたペン型のライトで相手の鼻先を指す。 「シシリアン・マフィアのものだろう。それを真似た時点で三流なんだ、開拓者ども(イ・ピオニエーリ)」 偉大なる前身的存在があり、そこへ乗っかる形で集まっておきながら「開拓者」を名乗るのはおこがましい、ということだ。ネヴィオにしてみれば何とも皮肉で、滑稽な名前だった。 そんな名前がいつから使われているのかも、そんな掟がどのようにして制定されたのかも、先代や先々代のドンはおろか高齢のドンの若かりし頃の様子すら、若いディエゴはよく知らないのだろう。 「イ・ピオニエーリにも、長い歴史はあるんだからな……」 案の定、遠吠えのように曖昧に言うだけだ。所詮は例に漏れず、野良犬同然になった挙げ句に、もともと存在していた組織に所属しただけの身に過ぎない。 その歴史に新たな一頁を刻むべく、新規事業を立ち上げたディエゴはまさしく開拓者と言えたが、ネヴィオにとっては医療報酬を工面する手段がどうあれ知った事ではない。 男の片目をこじ開け、光を当てる。顔に乗せられていた氷が床に転がった。 全身の筋肉の収縮は、外部からの刺激によって起こっているように見える。だとすれば、神経系に影響を及ぼす毒物だ。 「……キニーネか」 小さくつぶやかれた言葉に、ディエゴがめげずに聞き返す。 「キニーネ? マラリアを治療する薬じゃないのか?」 「悪い空気」を意味するマラリアと名付けられた熱病は、古代ローマ帝国でも既に確認されており、つい最近の二○一七年にも死亡事例が報告されている。 沼地などに棲む原虫を媒介にして感染するため、当時は沼に近付くと病気になると信じられていた。ちょうど、大浴場に行くと性病になると言われていたように。ある時はローマ帝国崩壊の要因の一つ、またある時は白人の墓場などと恐れられたマラリアの特効薬こそ、キナの樹皮から採取される成分から作られるキニーネだ。 「硝酸ストリキニーネ、だ」 また訂正され、ディエゴは洗っていたタオルをバケツの中に投げつけた。拭き取った血や泥で汚れた水が跳ねる。自分から無知をさらしたようで気分が悪いらしい。それでも黙ってはいられないのがこの男だ。 「それはドーピング剤だろ」 一九○四年、アメリカ・セントルイスのマラソンで金メダルを獲得した選手のドーピングが判明した。その際に使用されたのが、硝酸ストリキニーネだった。 「興奮剤の代わりにする者はおるが、一歩間違えれば命を落とす」 老医師ネヴィオは短気な若者のそんな態度にも、動じるどころか、目もくれない。 「害獣駆除に使われる薬品だ。殺鼠剤や、オオカミ退治の毒餌したりな。常に興奮しとるお前には用のない物か?」 「うるせえ、オレは情熱的な男なんだ」 ディエゴという名の若者は時々この言葉を使って良い様に自称するが、ある程度付き合いの長いネヴィオに言わせるともっと適切な表現があった。 「情熱的というより、頭に血が上りやすいと言うんだ。高血圧は万病の元だぞ」 ストレスがかかると交感神経が刺激され、血圧が上昇する。血圧が上昇すると血液が激しく流れて血管の内部を傷付け、劣化させてしまう。修復が上手くいかなければ硬化するほか、体の中でも脳や心臓など重要な部位にある血管が破れたり、詰まったりすれば命の危険に繋がるのは言うまでもない。生活習慣や大きな気温の変化のほか、苛立ちやプレッシャーを受けるなど精神的な要因もストレスになりうる。 ネヴィオと出会った頃のディエゴは成人して間もなく、あどけない顔立ちと人懐っこさが魅力的な青少年だったが、たとえ十年経ってもそのままであるかのように知識量や冷静さといったものが足りない。むしろ少年の小生意気な可愛げはなくなり、なまじ力を持ったぶん憎たらしさは増していた。 「誤った知識は身を滅ぼすぞ」 忠告するように言った。 己の知識が足りず、真実を知らないがゆえに、情報の正誤を見やぶれなかったり、恐れなくても済むものまで恐れたり、警戒するべきものに目が向けられなかったりするのは愚かだ。聞きかじった知識をひけらかし、知った風な口をきいていると、いつか自分にはね返ってくる。 「何だそれ、自戒か?」 ディエゴが嫌味っぽく返す。 「それで告訴までされて、免許も剥奪されたんだもんな」 「あれは誤診じゃないと何度も言っただろう。裁判でも主張した。わしの処置は間違っていなかった」 「こうして犯罪者の専門医になってるんだ。充分身を滅ぼしてるだろ」 「あのまま病院にいても待つのは定年退職だった。医療に携われるなら患者が何者だろうと、わしの知ったことじゃない」 社会の少子高齢化は、今や先進国に共通する課題となっている。それに伴い、定年退職や年金支給の年齢は引き上げられるのが一般的だ。 しかしイタリアでは昨年、その対象となる年齢の引き下げが行なわれたのである。元々定年について明記された法律もなく、年金支給が開始する頃にリタイアするケースが多い。選挙戦を前に公約として掲げられ、早期退職者が続出した結果、財政は赤字となってしまった。現場も人手不足に悩まされているという。 それもまた、現場を離れたネヴィオの知った事ではない。 「天職を見つけた気分はお前にも分かるだろう」 「患者を天に帰す職か?」 国民の八割が信仰すると言われる宗教において、命とは天におわす神なる存在から預けられた限りある物であり、まっとうした後は神のいる天に帰らなければならない。 「オレは直接殺しには関わってねぇけどな」 もちろん法律も定年退職も、三流とはいえマフィアであり、若さを持ったディエゴにも関係がない。 ネヴィオが手を止める。 「今すぐ処置を止めて、こいつを天に帰してもいいんだぞ。お前はゴミを漁って死体を運んだ事になるがな」 男の腕に繋がったチューブを握って見せる。脱水症状を防ぐための点滴が、スタンド代わりのポールハンガーから吊り下げられていた。 途端にディエゴは口を閉ざし、睨む。正体不明の男を人質に取られたように。こうした場合は、下手に犯人を刺激しないのが重要だ。 「むやみに口を開くからそうなるんだ。水を替えるついでに頭でも洗ってこい」 ネヴィオの言葉を受けたディエゴは何も言い返さず、バケツを持ってバスルームへ向かった。頭からゴミをかぶってから、まだシャワーを浴びていなかった。 「ロバの頭を洗っても、時間と石鹸が無駄になるだけだがな」 見送ってから、ネヴィオは患者を刺激しない程度の声量で言った。のろまなロバは愚か者を象徴する。 医療に携わるのが天職と言ったネヴィオが、担ぎ込まれた患者をみずから手にかけるはずがないのだ。 今度は歯ぎしりをしている口を開けさせ、口腔内を確認した。また男の体が痙攣し、跳ねる。 上顎や喉、食道がただれている。嘔吐した後、何のケアもされなかった事によるものだ。唇の裏側や頬は切れ、血がにじんでいる。歯は欠けずに残っていたが、本来であれば鋭い犬歯の先がほとんど平らになっていた。 「臓物は綺麗だろう。こういう場合は内臓破裂も珍しくないが……あばら骨はやられておる」 手術用のプラスチックグローブをはめながら言った後ろに、水を入れ替えたバケツを持ったディエゴが一度戻ってきていた。 往診の荷物にエックス線などの設備はないが、粉砕骨折と判断したのは正解だった。複数の破片になってしまった骨同士を、ワイヤーやプレート、ネジで繋ぎ合わせて固定する。 ネヴィオはこれまで、故意に皮膚や肉を切られ、体の内部を操作される違和感と痛みに、年甲斐もなく泣き叫ぶ屈強な男たちを何人も見てきた。おそらく会った事もない神や、この場に居るはずもない「お母ちゃん(マンマ)」を呼んで助けを求めようとする。そうしながらも、自分たちが誰かにしてきた行ないを悔いる様子は見せない。 しかし今日の患者は、ソファーの上で手術を受けている間も、麻酔や睡眠薬の必要もないほど大人しい。 硝酸ストリキニーネは、中毒症状として意識障害を引き起こすものではない。摂取してから三十分と経たないうちに反応が現れ、意思とは関係なく起こる筋肉の収縮と、それでも手放す事のできない意識のなかで、強い不安と恐怖感を覚えるものだ。 呼吸麻痺を狙って飲まされたのだとしても、意識を失うまで暴行しては威力も半減だろう。〈聡明な男〉が聞いて呆れるほど、執拗かつ自制心に欠ける犯人像が目に浮かぶ。 患者は、生かそうとする処置すら迷惑がるように眉間に皺を寄せながら、冷笑を浮かべている。 加えられた暴行よりも心因的なショックを受け、現実から逃れるために目を覚ます事を拒否しているようにも見えた。あるいは暴行を受けた後にショックを受けて、衝動的にみずから服薬してしまったのかもしれない。ポジティブで楽天的な性格ではない国民も存在する。この世に、ありえない話などないのである。 本当にくだんの薬品を飲んだと仮定して、二十四時間を過ぎれば生存率は上がる。ゴミ捨て場でディエゴに見つけられたのが日の昇る時間であり、逆算して、今夜が山場だろうとネヴィオは結論づけた。 さらに、もし生き延びた場合、顔面の腫れがひくまでは一週間、そのほか口腔内のただれ、体じゅうに受けた打撲や挫傷を含め、鼻と腕と肋骨の骨折が治るまでは三ヶ月、そして、左脚の粉砕骨折の完治までは半年かかるという診断だ。 また、肌の色が白いため顔には目立つ痣が残りやすく、転子下を骨折していれば回復しても歩行には杖が必要になる可能性がある。経過観察とリハビリのため、定期的に往診する事となった。 ネヴィオが現在どこに暮らしているのか、ディエゴをはじめ契約世帯はくわしく知らない。呼んでから家まで来る時間を計算すれば範囲は絞られるが、わざわざ調べる必要性も感じられないものだ。 医師免許を取り上げられ、世間では死んだ事で通っている老人が、白昼堂々、街を歩いているとは考えにくい。ともすれば幽霊だと勘違いされかねない。契約世帯側も、その名前が表す通り、何処かの地下室でも間借りしているのだろうと踏んでいる程度だ。 診察と処置を終えたプライベート・ドクターは器具を片付け、そばで見ていた家主を呼び寄せる。 「暗くて静かな部屋にしておけ。外部からの刺激が症状を呼ぶ」 この家は近郊型の集落にある一軒家で、同居人やペットは居ない。ディエゴとは都市部のアパートに居る時からの付き合いだが、まだ三十歳にもならない彼がガレージ付きの古い家を買い取ったのは、事業が軌道に乗り始めたからだと聞いている。 都市部、特にローマでは築年数の長いアパートが多く、歴史的価値のある建造物に、今も人が住んでいる事はざらにある。若年層の平均年収はさほど高くなく、それでいて家賃は建物の価値に比例して上がるので、ルームシェアという形も一般的だ。 やがて家庭を持つのを機に郊外に一軒家を買ったり、代々受け継ぐ家を自分たちの暮らしやすいように改築したりする。 前者の場合は引っ越しの際も家具はそのままにされ、何世代も前から修繕を重ねて使い続けられる重厚できらびやかな内装を気に入って物件を決める者もいる。後者であれば景観保持のため一度建てた建物を取り壊す事を禁じている自治体が多いので、外から見えない内側をフルリノベーションしてしまうのだ。 ディエゴは、そのどれにも当てはまらない。家族も持たず、親から受け継いだわけでもないこの家に、たった一人で暮らしている。 「何でここじゃダメなんだよ?」 「呼吸停止を防ぐためだ。お前に光や音のない生活ができるか」 なディエゴはただでさえ身振り手振りが大きく、すぐによく響く声を上げる。テレビの隣には据え置き型のスピーカーがあり、いつでも音楽をかけられるようになっている。 「物置でも地下室でも構わん。この趣味の悪い部屋よりマシだ」 家自体が古いので内装くらいはせめてモダンに、という考え方も最近は増えている。美しい物を善とし、スタイリッシュでありながら、伝統も重んじるイタリアは食文化や美術品だけでなく、家具ブランドも世界的に人気を誇る。 近年その名が知られてきたブランドの家具で統一感を持ってまとまったインテリアが、ネヴィオの目にはそう映った。れんがと木造を組み合わせた家に、落ち着いた配色で装飾が少なく、洗練されたそれらのデザインやセンスが悪いのではない。普段の派手好きで頭と口の軽い家主に合っていないのだ。 シャワーの後、髪を湿らせたままのディエゴが負けじと言い返してくる。 「趣味が悪いはずねぇだろ。一流のインテリアデザイナーが自分の家にする気で手がけたんだから」 「前に歯の手術をした男か?」 「わざわざプライベート・ドクターに会わせなくても、普通の医者にかかれるような奴だよ。こんな世界とは無縁だ」 腰に片手を当て、タオル越しに頭を掻く。その上半身は裸のままで、肩や腕の内側、腰などの箇所にブラックアンドグレーのタトゥーが刻まれていた。 タトゥーは一時的な痛みこそともなうが、特に禁じられているわけでも、奇異の目で見られるわけでもない。アクセサリー感覚で入れている者がほとんどだ。自身の気に入った柄や、重んじる信念、時には恋人の名前を刻む場合もある。中国や日本で使われる漢字や、宗教的な意味を持つ梵字なども人気だ。 当時のディエゴも本人なりの考えを持って入れたのだろうが、マフィアという言葉の持つイメージに結びつきにくい、華奢で日に焼けた体に刻まれたそれもまた、凶悪性というよりもデザイン性を高く感じさせる。 「そういう友人だって、居るんだからな」 顔の広い彼には、いわゆるマフィアの仲間を表す「友人」も、そんな意味を持たない友人も居る。 また特別な意味を含む相手であっても、その関係を解消すれば友人に戻る事がある。言外に含まれた意味を、ネヴィオは察していた。 「大方、その家具屋との“寝心地”で選んだんだろう」 元々ディエゴ一人で暮らすつもりでなかった事は、本人に合わないインテリアの趣味や、二人掛けのテーブル、華奢とはいえ女性と座るにしてはやや広めのソファーが物語っている。ベッドルームには大柄な男性と肩を並べて眠れるサイズのダブルベッドがあるのは見るまでもない。 そんな広めのソファーに収まりきっていない、大きな体を見下ろすディエゴ。 「……オレは今でも気に入ってるから良いんだよ」 一流と呼ばれて業界で活躍するにあたり、名前が知られれば知られるほど、表には出せなくなる過去が増えるものだ。 茶色い瞳の先では真っ白な全身が包帯を巻かれ、ミイラのようになっている。相変わらず目を閉じた人形のようで、今も死んでいるのか生きているのか定かではないほど大人しい。こんなものをリビングに飾っている事こそ、趣味の悪いインテリアだ。 外へ繋がる玄関扉の前に立ったネヴィオは改めて、カーテンやクッションにいたるまで、プロフェッショナルがこだわったという内装をぐるりと見回す。 「いつまで住むかも分からん家に、何をここまでこだわる事があるんだ」 マフィアは、自分や家族の安全を守るため、今ある生活を捨てて逃亡しなければならない事もある。力も持たない一構成員の立場ではその費用がかさみ、首が回らなくなるなどもままある話だ。 またマフィアのファミリーだという素性が知られていれば、普通の商店で買い物をしても、より高額な支払いを求められてしまう場合もある。 映画のモデルになるような荘厳かつ華やかな生活や、富と権力が得られるのはマフィアの中でも上層部のひと握りで、下層階級の男たちはみじめな生活を強いられている。いつかは自身もあんな風にと夢を見ながら、ひとまずは自分の居場所を守るため、彼らは罪を犯してでも金を稼ごうとしているのだ。 ディエゴは顔を上げ、ネヴィオがそうしたのと同じように改めて自宅の中を見回す。 ソファーの前にはくり抜いた天板にガラスをはめ込んだローテーブルがあり、その向こうにはテレビとスピーカーがある。窓辺にある暖炉はリノベーションする前からあり、暖房としては使っていないが飾りとして残しておいたものだ。モダンな内装に溶け込む煉瓦造りのそれは、圧迫感ではなく趣を感じさせる。 家は多くにとって、自身の誇りであり自慢すべき社交の場だ。 「いつまでか分からなくても、たった今、オレはここで暮らしてるんだ。今の人生を楽しむための環境を整えて何が悪い」 世界各国の幸福度を調査した際、高い数値を出すのは、ラテンアメリカ諸国だ。そこに住む人々は、経済格差、紛争や内戦など環境による負荷も大きく、身の安全すら保障されない中で、自分たちは幸せだと感じている。 一方で、もう七十年以上も戦争をしていないにも関わらず、戦争による犠牲者よりも多くの自殺者を出している国もあるという。 この場合の幸福とは、生活および人生における満足度が高いことを示す。無いものについてあれこれ思い詰めるのではなく、今あるものに目を向ければ満たされた気分になるのは当然である。結果に表れているのは考え方の違いだろう。過去から続くその民族の考え方によって作られた国民性は、簡単に変えられるものではない。 ディエゴはマフィアである以前に、彼らと同じ思想を持つラテン民族であった。 人生は楽しむためにある。歌って踊り、美味い物を食べて、酒を飲み、愛を交わせばそれで良い。 先々のことを心配するあまり今を疎かにするのは、あまりに残念な事で本末転倒というものではないか。ことに年若い彼はその気が強いように見受けられた。 「それを拾ってきたのも人生を楽しむためか? 男型の人形は珍しいがな」 拾われた男は確かに人形のようだが、ネヴィオのからかうような調子は別の意味を含んでいた。 「そんなんじゃねぇよ。放っておけなかっただけだ」 ディエゴはもちろんそれを理解しながら、見ているほうが痛みを感じるほど腫れあがった顔を直視している。患部を冷やすために当てていた氷は、床に落ちて溶けていた。 血や汚れを拭き取られた顔は拾ってきた時より手入れされた人形のようでますます美しくなっていたが、腫れていない部分の肌はやはり白人よりも真っ白で、血の気がない。ガーゼは顔の傷にあてるだけでなく、鼻にも詰められいる。 おもむろにタオルをソファーの背もたれに放ったディエゴが、ネヴィオに確認する。 「もう動かして平気なんだろうな?」 「固定できる部分はした。担いでいけ」 何のことないという風で言うだけなら簡単である。 うんざりした表情を浮かべたディエゴが肩を一度上げ、落とす。やはり喜怒哀楽が分かりやすく、拗ねた子供のようだ。 「重いんだよ、コイツ……」 車庫から担いでくるだけでも一苦労で、寝室のベッドまで連れていくのを諦めたほどだったらしい。 一方でネヴィオは余裕の表情だ。 「そこに飾っておいて、お前が物置部屋で生活したらどうだ? あるいはベッドに飾るか?」 仮に医療現場で使う担架やストレッチャーがあったとしても、力自慢でもない若者とさらに小柄な老人の二人で移動させるのは困難そうだ。最低でも四人、可能ならば六人の人手が欲しいところである。ましてや患者の運搬は医師免許を剥奪された身の仕事ではない。 「オレは普段通りに生活するし、コイツはセックス・ドールじゃない。目を覚ましたら色々聞くんだ」 きっぱりと言ったディエゴの頭に、一つのアイデアが浮かんだらしい。シャワーを浴びてさっぱりした事で、思考が切り替わったのかも知れない。パチンと指を鳴らす。 「いいこと思いついた!」 大きな声で言い、ソファーの肘掛けにたたんでおいたブランケットを取り上げる。氷が落ちてわずかに濡れた床に広げると、大きな体をソファーから半ば転がし、半ば落とすようにした。ぐにゃりと崩れ落ちてくる。 人形の片足が当たり、ポールハンガーが倒れる。大きな音がした。動かなかった体が反応し、びくんと跳ねる。 「乱暴にするな。今夜が山だと言ったのが聞こえなかったか?」 様子を見ていた元医師がたしなめたが、若者は粗雑に言い返すだけだ。 「ここまでして、死んだらそれまでの命だったってことだ」 自分が苦労して連れてきた事も、プライベート・ドクターを呼びつけ治療させた事も水の泡になると言うのに。 ブランケットの上を突き転がして包帯の塊を横たわらせ、立ち上がってブランケットの端を持った。リビングと廊下の間には木製の細いアーチがある。 「どうせゴミと一緒に処分される予定だったんだし、拾い物をどうしようがオレの勝手だろ」 重い家具を運搬する要領で、ずるずると床の上を引きずってアーチをくぐり、物置部屋に繋がる廊下へと消えていった。 「世の中には、死体に欲情する者が居るらしいな!」 聞こえるようにネヴィオが声を張って言う。合意するはずもない屍を姦する、あるいはそうした欲求を抱く性的倒錯の一つとされる、死体性愛または死体愛好(ネクロフィリア)のことだ。 「そんなんじゃねぇって言ってるだろ!」 廊下の奥からよく通る怒鳴り声に続き、床を跳ねるような音がした。 *** 「明日死ぬかも知れんと思っている割に、随分とご執心なことだ」 ディエゴからの支払いを受け取り、ネヴィオは舐めた指で紙幣を一枚ずつ数えて言った。 夕方に一度発ち、ふたたび訪ねて来てから、暗室の埃っぽさと散らかりように文句を言いながら、床に転がされた体に輸血の処置を施していた。玄関脇に置いていたポールハンガーも物置部屋に運び込まれていた。 「わしは家具職人じゃないんだ。ゴミ捨て場で拾ったセックス・ドールの修繕にいくらかけるつもりか知らんが」 「そんなんじゃねぇって何度言えば分かる、クソ野郎!」 リビングに隣接するキッチンからまたしても怒鳴り声が飛んできたが、ネヴィオは淡々と応じる。 「怒りは体に毒だぞ。心疾患のリスクが上がる」 「誰のせいだよ!」 「お前が感情をコントロールできないのはわしの責任じゃあない。前に渡したカモミッラ茶はどうした?」 「いま淹れてる! カップを温める時間も待てねぇのか、寿命が迫ってるんだろうな!」 イライラと言い返したディエゴが、両の手にマグカップをふたつ持って現れる。普段から釣り気味の眉がますます険しくなり、狂犬のように歯をむき出して苛立った表情は、愛らしさの欠片もない。しかし、よく吠える犬は咬まないものだ。 ネヴィオは、先ほど手術台として使っていたソファーではなく、その前に置かれたローテーブルにちんまりと座っていた。腰の曲がった小さな体は体重も軽く、天板にはめ込まれたガラスが割れる心配もない。 「テーブルと椅子の区別もつかなくなったか。老眼鏡、買い換えた方がいいんじゃねぇのか?」 ローテーブルにマグカップをひとつ置き、もうひとつを持ってソファーに腰を下ろすディエゴ。中に入っているのは湯気の立つハーブティーだ。 「テーブルだろうと洗面台だろうとベッド代わりにするお前も眼鏡を買うべきだ」 ネヴィオも同じように言いながらひとつを持ち上げ、同時にすする。古代ギリシアでは大地のリンゴとも呼ばれたカモミールの、柔らかく甘い香りがした。すでに老眼鏡ははずしているので、湯気でレンズが曇る事はない。 「犬みたいな体位(ドギーバック)は深く入るだろう。尻にも腰にも負担がかかるな」 キッチンに置かれたテーブルは木製の二人掛けで、ちょうどディエゴが身を乗り出して尻を突き出せるくらいの高さらしい。家具屋との寝心地で選んだ、とはそういう意味だ。 明らかに不機嫌な表情を浮かべながらも、ディエゴは強気に返す。 「オレはそんなに背も高くないし腰痛とは無縁だ。腰の曲がった年寄りには羨ましいだろ」 「若さを過信するな。二十代はそう長くない」 「いくら腕がよくても、人間を若返らせる事はできねぇもんな。若返りの薬でも研究したらどうだ?」 「どんな薬にも、効かん場合はあると分かったな」 澄ました調子で言うネヴィオに、ディエゴはころりと表情を変え、思い出したように聞き返す。 「薬? さっきの硝酸ストリキニーネのことか?」 「そうやって、覚えた知識をよく知りもせずすぐに使おうとする辺りが未熟なんだ」 先ほどの患者に薬品の作用があった事は、見ていれば分かる。 何事も用法や用量を誤れば、毒にも薬にもなる。ちょうど、脳の抑制を外すドーピング剤にも、害獣駆除の毒薬にもなるのが分かりやすい例だ。 「恐らく飲ませた人間も、半端な知識をしたり顔で披露したんだろう。あの男の場合は、自分で飲んだのかも知れんがな……」 治療を迷惑がるような態度以外にも、普段からストレスを受けているのは、身体の様々な部位に現れていた。 老医師は長年の経験から独り言のように言い、未熟な若者はやはり理解していない表情を浮かべていた。 「自分で毒を飲むなんて、ありえるか?」 「わしの知った事じゃあない。誘拐してきたのはお前だ」 「ゴミ捨て場には住んでねぇよ、絶対。危うくオレのファミリーがゴミと一緒に処理しようとしたんだぞ」 そう言い、思い出したように続ける。 「また死んだって思われてたぜ? ネヴィオ。本当に、いつくたばるんだ?」 ネヴィオが医師免許を剥奪されてからしばらく経つ。過去に起こした事件によって告訴され、表立って街を歩けなくなってしまった。チーロがそうだったように、死んだと勘違いされていても無理はないのだ。 以降はこうした裏の社会での面倒事、厄介者の世話をする「モグリ」の無免許医師として、往診という形で暗躍している。 不便でもあるが、都合のいい面もある。ホームドクター制をとる国では、まずかかりつけ医の診察を受け、それから各種の医療機関にかかる。治療のための予約が一ヶ月先という事も珍しくない。 そんな中で、プライベート・ドクターは直接契約を交わした相手の元へ、いつでも駆けつける事ができる。今日のように、一度発ち、再び必要な物を届ける事も、世帯からの紹介で素性の分からない患者を治療する事も可能だ。ディエゴ以外にも契約を結んでいる者から、物置部屋に収納された男以上に緊急性のある用件が来なければ、だが。 同じく表立って病院にかかれないで、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる人間にとって頼らない手はない。 その分、医療報酬もかなり高額となるのだ。 カモミッラ茶を飲み終え、帰り支度をしたネヴィオが出る頃には、夕方から夜になりかけていた。周囲に高い建物がなく、暮れかかった空は広い。月はまだ出ていない。 「若い者は甘やかされ過ぎなんだ。マフィアであろうが、マンマの手料理が恋しいだろう」 玄関扉を出たネヴィオは、まだディエゴと言い合っている。頬と頬を合わせるような別れの挨拶は、この二人の間では交わされない。 「シニョーラの料理は美味いけど、ファミリーとは離れて暮らしてるんだ。実の親にも甘やかされた覚えはねぇ」 「そんなお前がゴミ捨て場で男を拾ったなんて話したら何と言ってくるんだ?」 「おい、今は特にその話題を出すな! 思い出したくもないんだ。わざわざ報告する理由もない」 追いかけてきたディエゴもまだイライラと言い返しながらプライベート・ドクターの荷物を積み込む。 「家族総出で神に赦しでも乞うのか? 昨日の復活祭も祝ったんだろう」 「ムカつく! オレは招かれたから行っただけだ、マンマの手料理じゃなくレストランの料理を食いにな!」 「タトゥーまで入れておきながら。十二月の降誕祭はどう過ごすんだ?」 「祝うわけねぇだろ! 神なんか──」 大声で言い続けていたディエゴの口を、ネヴィオは先ほどのペンライトで塞いだ。 「それ以上は口にするな。わしが帰ってからにしろ」 郊外の小さな集落とはいえ人目が無いとは言えない。自分の存在をあまり世間に知られると厄介な上に、この若者の声質はよく通るので目立ってしまう。公共の場で口にするべきではない言葉を発させるつもりはなかった。 「分かったな(トゥット・キアーロ)?」 ペン先を唇に突き立てられ、不服そうにしている顔をまっすぐに見上げる。レンズ越しには大きく見えるが、ひとたび老眼鏡を取ればその目は小さかった。 先ほどのハーブティーは、以前ミラノの専門店から取り寄せたものだ。一九○○年代初頭に、リキュールやシロップを取り扱うハーブの薬局として経営を始めた老舗で、中でも一番有名なカモミールには鎮静効果がある。感情の起伏が激しく、常に興奮しているようなディエゴにはぴったりだと皮肉が込められているが、本人はそんな事にも気付かず、腹を立て続けている。薬が効いてない、とはそういう意味だったのだ。 開放されたディエゴが声を押し殺し、恨めしそうに言う。 「クソッ。モグリのモグラめ。玉があるのが羨ましいかよ?」 確かに大きな鼻も、小さな体も、今となっては暮らしぶりも、まさしくネヴィオという名が表す「モグラ」といったところだ。かつては日光にあたると死ぬと思われていた動物のモグラには陰嚢が無く、陰茎が後ろ向きに生えている。 運転席に乗りかけたままのネヴィオが言い返す。 「そろそろ自分の立場を理解したらどうだ、ホモ野郎(フローチョ)」 男性同性愛者、中でも受け身の立場にある者を罵る言葉は、街中の日常会話でも時おり使われる。しかしそれをわざとディエゴに向かって言う事にこそ意味があった。 「性病になったあかつきには、どうせ使ってない竿を切り落としてやるからな」

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