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第三章 文化交流
郊外にある古い一軒家の前を、大きなトレーラーを牽引した貨物自動車が走り抜ける。幌付きのトレーラーは家畜を運搬するためのもので、中には牛が数頭。
車体から鼻先を突き出し遠ざかってゆく呑気な鳴き声が聞こえ、暗室に寝かされた男は目を覚ました。
この家に担ぎ込まれてから三日が経過していたが、みずからの意思で目を開けたのは初めてのことだ。
ちょうど、ルームウェアに着替えた家主が小さなランプと今朝の新聞を持って入ってきた。
家に居る時間があるのなら、容態が変化していないかを見ておくのが〈プライベート・ドクター〉からの助言だ。彼の言うとおり、黙ったまま自宅で死なれてはかなわない。何かあればすぐに呼びつけるつもりだった。
翌日には手足が床を叩く音もしなくなり、筋肉の収縮や痙攣が治まったのを確認していた。
家主ディエゴは物置部屋に一脚の椅子を持ち込み、家に居る時間はそこで過ごすようになっていた。ポールハンガーに引っ掛けた点滴や輸血のバッグを取り替え、終わってからはその針を抜き、止血帯を取り付けたのも彼だ。
使っていない荷物を置いているそこは確かに普段から暗くて狭く、窓がないため換気も満足にできず埃っぽい。居心地のいい場所ではなかった。
それでも、床に敷いたブランケットの上で、もう一枚ブランケットを掛けられ、眠り続けるその顔を眺めていた。暇つぶしをしながら、鼻をおさえるように巻かれた包帯の上にある目が開くのを待っていたのだ。
そんな中で訪れた、変化だった。
「よお、やっと妖精に魂を入れてもらえたのか。松ぼっくり ?」
そう声をかけられても男は何も言わず、あお向けのまま部屋の中をゆっくりと見回している。自分が呼ばれたとも理解していないようだ。
包帯とその下の肌は、床に置かれた小さな光源に照らされて淡い黄色になっている。
「ここは……」
頭から巻かれた包帯に顎を固定されており、唇をわずかに開ける事しかできないらしい。そこから発せられた声はこもり、聞きとりづらいほど低い。
「地獄……じゃないのか?」
自信なさげに疑問を口にした男の視線が、ようやくディエゴに向けられる。暗い部屋の中で、暗い色の瞳は輝きを失っていた。長い睫毛が肌に影を落としている。
「失礼な奴! 助けてやったって言うのに」
腕を組み、思わずそう言ったディエゴに、男は横になったまま首をひねって聞き返す。
「助けた?」
全身に受けた傷が痛むのか、眉間に皺を寄せて歯を食いしばり、顔をしかめる。筋肉の引き攣った笑いではなかった。
見下ろすディエゴは脚を開き、座面に手を置いた。
「ナポリ近くのゴミ捨て場で死にかけてたんだぞ、変な薬も飲まされて。お前、重いから運ぶの大変だったんだからな」
それを聞き、男は再び顔を天井へ向けてしまった。苦々しい表情を浮かべ、長い睫毛にふち取られた目を閉じる。
「余計なことをしてくれたな……」
ディエゴは驚いてしまった。あまりにも聞き捨てならない言葉だ。
「どういう意味だよ」
言い返すと、男は目を閉じたまま、小さく開く口でぶつぶつと文句を続ける。
「本当なら今頃、死んでるはずだった。天使を見たんだ……」
死んだ人間が、その魂が、果たしてどこに行くのか。そもそも魂というものは存在しているのか。それは現在生きている人間には確認のしようがなく、頭で考え、想像するしかない。
死は誰にも平等に訪れるが、それがいつ、どんな形になるかは誰にも分からない。唯一確かなのは、今こうしている間にも、刻一刻と迫っているという事だけだ。自身が滞りなく過ごしているこの時間が唐突に終わりを迎えるという未知、それにはおそらく苦痛を伴うという予想は、恐怖となって人々の胸にある。得体が知れないがゆえに、人は往々にして死を怖れる。
自身の理解を超えた存在に対する恐怖や苦痛、不安を取り除くために何か絶対的な対象を据え、それを信じるのが信仰だ。
その信仰対象を一般的に神と呼び、共通の信仰対象を崇め、いつからか定められた教えとそれに則って活動する事を宗教と呼ぶ。宗教は時に心の支えとなり、時に生き方の指針となる。
世界中で、信仰者すなわち信者の多い宗教としては、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教が挙げられる。もちろんそれら以外の仏教や儒教、ユダヤ教から、どこかの国の名も知らぬ民間宗教にいたるまでが、それぞれに信仰対象と、異なる教えや考え方を持つ。
例えばある宗教において、ことある宗派において、人は生まれながらにして神に背いてしまう罪人であると考えられている。それらの罪をすべて背負って一度死に、復活した「救い主」を神と同一とみなして信仰対象とし、信仰する事で神から愛され、自分たちの罪も清められるという教えだ。
信者たちにとって命とは天におわす神から預けられた限りある物であり、まっとうした後は神のいる天に帰らなければならない。したがって、自然な死は神のみもとへ向かう行為であり、祝福を受けるべきものであるという。
神の使いとしてその言葉を伝令し、その意思を実現する者は天使と呼ばれる。
もし神が誰かの死を望むならば、実際にその者に死を与え、その魂を天へと連れてゆくのも天使の役割だ。すなわち天使は〈死の執行人〉とも言えるだろう。
この男は、その姿を見たと言うのだ。
そのはずが、気が付いてみれば全身に包帯を巻かれ、自由のきかない体となって生きていた。顎も固定されて話しづらい。そんな状態で窓もない部屋に押し込められ、ブランケットにくるまれて床に転がされていた。
「狭苦しい場所に連れてこられて、身動きも取れやしない……治療したのはお前か?」
喉や口腔内にはまだ違和感があり、何より目を覚ましてしまった事で強い痛みを感じるようになっている。
そんな不満が、見ているだけでもひしひしと伝わってくる。
男の問いかけに、ディエゴは呆気に取られていた。
彼を連れてきたのも、プライベート・ドクターを呼んで治療させたのも、確かにディエゴの判断だ。ホームレスのようにゴミを漁ったなどと仲間にからかわれながら、頭から廃棄物をかぶり、気に入りのシャツを血と吐瀉物まみれにして重い体を運んできた。人生を楽しむために男型の人形を拾ってきたと言われようと、自分の意思をもって、物置部屋に寝かせておく事を決めたのである。
助けてやったと言葉の上では言ったものの、貸しを作ろうと言う気はなかった。だが、そんなことを言われてしまうとも予想していなかったのだ。
「あのまま死なせてくれれば良かったんだ」
低い声で冷静に言われたそれは、決して自嘲的な調子ではなかった。
死体だと思って立ち去ろうとした時、何やら言っていたことを思い出す。
『こんな、俺でも……神のみもとに……』
望んでいた事が潰えてしまったというのか。自身の運命を受け入れる事を拒むばかりか、ディエゴの判断をも受け付けないと捉えられてしまう。
「……なら、出て行けよ」
声を押し出した。理解が追いつくまでに時間がかかると、咄嗟には大きな声が出せないものだ。
しかし、たとえ初対面であろうと、自分の失態を笑った相手を売春婦の息子呼ばわりしたディエゴが、互いの素性さえ明かす前にそんなことを言われて、黙っていられるはずもなかった。笑われてしまったのも、この男を救い出そうとしたからなのである。
乱暴に床を蹴るようにして立ち上がり、椅子が倒れる。大きな音がした。
「出て行けばいいだろ! どこへでも行って、野垂れ死にしちまえよ! クソ野郎!」
よく通る声が狭い物置部屋に響く。両手を胸の高さで振り回すようにする。身振り手振りが大きくなる。
ディエゴは、自身の判断が間違っているとは思わない。その行ないを否定された事に腹が立っていた。せっかく死の山場を越えた命であろうと、本人が望まないのであれば意味がないのだ。
人形小屋に誘拐されて燃やされてしまえばいい、樫の木に吊るされろ、大きなサメに食われろ、などとあやつり人形の辿った悲劇が続く。薬品を飲まされ、骨を折られ、全身を痣だらけにされた仕打ちでは足りないほどだ。児童文学に馴染みがなくとも、あれほど有名な作品であれば誰でも知っている。
しかし男は驚いた様子も見せず、口を小さく動かすだけだ。
「……じゃあ外へ連れていけ」
寝転んだまま包帯を巻かれた片腕を上げる態度には、とても重症を負って介抱されたとは思えないふてぶてしさがあった。手がわずかに震えている。
「お前、今の自分の状況を理解して言ってるんだろうな?」
思わず言ったディエゴだったが、男は態度を改めるどころか、
「お前には今の俺が自分で動けるように見えるのか?」
と言い返した。
糸の切れた人形にあるのは自由ではなく、不自由らしい。動けるはずもないのだから。
まっすぐに見上げてくる目の周りには、痛々しい痣ができている。
ディエゴはイライラとその脇にかがみ込んだ。
首から広い背中へと腕を回し、上体を起こさせるだけでも一苦労だ。伸ばされていた腕をとり、肩を貸そうと体を寄せる。
が、持ち上げようにも、持ち上がるはずもない。それはゴミの山から連れ出そうとした時と同じだ。動かない間に多少筋肉が落ちていたとしても、体格が違いすぎる。
「この死に損ない……」
恨めしそうに吐き捨てた。しかし深い色の目を横へ向け、睨んでくるのは相手も同じだった。
「誰のせいだ」
責めるような口調で、男は短く言った。
仕方なく、肩にかけていた腕を下ろさせるディエゴ。
「クソッ」
短く吐き捨てた。外に連れていけと言った割に、男はみずからの意思で動くつもりもないらしい。これではここへ運んできた時のように、ブランケットに載せたまま引きずる事も不可能だ。
腰を下ろしたディエゴがそのまま後ろにある壁にもたれると、男もそれにならう。床に置かれた小さなランプが壁に映し出す影が小さくなる。
「…………」
「…………」
部屋の隅に直角に向き合う形で座った二人は、しばらく沈黙した。
視線を上げるとお互いの顔を見ている事に気付き、そのまま睨み合いになる。
宗教は人々に救いを与え、支えになるべく存在しているが、考え方の違いは争いの原因となる場合もある。
先に解決に動き出したのは、ディエゴだった。
「……分かった。オレがお前を生かした事が正しいかどうかは、一旦置いておこう」
そう言って一度立ち上がり、扉の脇にあるスイッチを押しに行った。倉庫用の電球は壁を這ったコードで吊るされ、シェードもかぶらずに天井からぶら下がっている。
入れ替わりに足元に置いていたランプを消し、改めて向き直る時には、苛立った表情は消えていた。
今度は手を背中に回すのではなく、正面に差し出す。
「ディエゴだ。よろしく」
その手と顔の間を往復する男の視線は鋭いままだが、構わず続ける。
「ここはローマにあるオレの家で、お前の治療は友人がやった。ナポリに行ってたのは野暮用だ」
怒りを抑え込んだと言うより、けろりと忘れてしまったような態度の変わりようだ。
ぶつかっていたのは意見や価値観であって、人格をそのまま受け入れないというのは筋が違う。男は先ほど目を覚ましたばかりで、お互いのことは何も知らない。つい感情的になってしまったが、ようやく話ができるようになったというのに追い出そうというのは実に勿体ない事ではないか。
それからディエゴは口角を持ち上げ、人懐っこい笑みを見せる。マフィアという素性を知らない相手なら、簡単に信頼してしまうような顔立ちだ。
「…………」
黙って見ていた男もやはり少しは警戒を解いたのか、動かせる右腕をゆっくりと上げる。
「……アルフィオだ」
差し伸べられた手を握り、小さな声で応じた。
それを聞くなり、少しだけ声を立てて笑うディエゴ。
「色白のアルフィオか。そのままだな」
倒れた椅子を起こす事もせず、先ほど座っていた位置に戻ってまた腰を下ろす。狭い部屋でこうしているのは、少年時代にそうしたように、屋根裏部屋で友人と遅くまで語り合ってるような気分になる。
「祖父も同じ名前だ」
アルフィオと名乗った男は淡々と返した。
「なんだ。ジェペットかと思ったのに」
冗談を言ってみるディエゴ。アルフィオは不思議そうな表情を浮かべてその顔を見る。
警戒心から来る銃口のような鋭さが薄れると、一気に魅力的になる目元だった。
痣に囲まれてこそいるが、腫れはかなり引いていた。眼窩が深く、睫毛が長く、むき出しの電球が作り出す影が濃い。青みがかった灰色の瞳は大きく、目そのものもやや黒目がちだ。
「……いいや、アルフィオだ」
しばらく間を開けてから、何の面白みもない返事をされ、
「いま聞いた」
ディエゴは白けたように言い返した。かの有名なあやつり人形を作ったおもちゃ職人の名は、ジェペットというのだ。すぐに何かひらめき、パチンと指を鳴らす。
「わかった! 父親の名前がジェペットだろ?」
「いいや……」
大真面目に否定しながら、なぜそんなことを言うのかとでも言いたげに見つめられ、ディエゴはやりづらくなった。
「……冗談だよ」
ディエゴはアルフィオに、スープを用意した。昨夜、自身の夕食にと作った残りで、缶詰のトマトソースを鍋に開け、野菜と肉を入れて柔らかくなるまで煮込んで軽く味付けしたものだ。
消化器系は影響を受けていないだろうという診断だったが、起きぬけでいきなり肉汁のしたたるステーキを平らげるとは思えない。そもそも口も大きく開けられないのだ。
床に座ったままブランケットにくるまってスープをすするアルフィオの肌は、やはり白かった。大量出血によるものと思っていたが、輸血を受け、温かいスープを飲んでも血色が戻る様子はない。体じゅうに巻かれた包帯の色とほとんど同じだ。
「アルフィオ爺さんも色が白いのか? 水牛のチーズみたいに」
めげずにからかいも込めてみるディエゴだったが、やはりアルフィオは表情ひとつ変えない。
「サンタルフィオで生まれただけだ。肌の色や名前に深い意味なんてない」
三世紀ごろ、スペイン貴族の三兄弟が流刑にされ、そこでキリスト教の殉教者となった。そのうちの一人・アルフィオの名前を冠した基礎自治体 は、シチリア島のカターニア県にある。
長男に祖父と同じ名前を付けるのは、南イタリアに現代も残る伝統だ。
「ディエゴという名前も……そうじゃないのか?」
スプーンを止め、アルフィオが聞き返してきた。
思わず表情が明るくなるのを自覚するディエゴ。人形がみずから口をきき始めたのだ。
「オレの名前は情熱的って意味だよ」
立てた膝に頬杖を突き、笑顔で答えた。しかしアルフィオはまたしても、きょとんとするだけだ。
何日間飲まず食わずだったのかは分からないが、彼はディエゴが用意すればするだけ、その腹へと収めていった。大きな体は回復に向かって動き出しているようだ。
「オオカミに似てるって言われないか?」
食べっぷりを見ていたディエゴが唐突に訊ねた。大食いの人物を表す際に牛や豚、あるいはオオカミに例える事がある。
ただ、アルフィオという男はどう見ても草食動物ではない。筋肉質な体格と、今でこそ折れてしまっているが彫刻のような脚はどう見ても逃げるためではなく、獲物を追いかけるためのものだ。加えて目付きが鋭いばかりか、癖の弱い黒髪と、顔や体、手足が白いところがますますそう思わせた。また硝酸ストリキニーネは、オオカミ退治にも用いられたという。
途端に、アルフィオの手が止まる。
「……その話はしたくない」
口をきく事ができ、食事もとれ、元気になったように思えたのもつかの間、急に肩を落としてしまった。過去に、似ている動物や、オオカミにまつわる嫌な出来事でもあったのだろうか。
「似てるって言われるんだな、やっぱり」
その反応を見たディエゴが確信を得て言ったが、アルフィオは返事もしなくなり、暗い表情のまま皿を空けた。
食器を片付けたディエゴが戻ってきても、アルフィオは壁にもたれて座り、やや下方を見つめていた。
オオカミの話を持ち出された事がそれほどショックだったのか、これから話すべき内容について憂鬱になっているのか。あるいはそのどちらも、なのかも知れなかった。
話し合わなければ何も分からないのだ。これほどの男に瀕死の重症を負わせた相手も、廃棄物の山積する中に放置されていた経緯も。
「何であんな所で寝てたんだ? 大体の予想はつくけど」
椅子に腰を下ろしたディエゴがようやく本題に入り始めた。
「まさか住んでたなんて言わねぇよな? それともオオカミに襲われたか?」
イタリアは、国獣をイタリアオオカミと定めている。ローマのサッカーチームのシンボルマークにも、双子の少年とオオカミが描かれている。
そんなオオカミは、一八○○年代には全土に棲息していたが人間の手によって年々減少し、一九七○年頃からは保護活動が開始された。現在は半島を縦断するアペニン山脈などで姿が確認されているものの、ナポリで人が襲われるなどの事件は聞いた事がない。また治療を受けた体に歯型は無かったし、食いちぎられてもいなかった。
アルフィオは視線を落としたまま、ぽつりぽつりと告白を始める。
「俺は……人を殺した。一人や二人じゃない」
暴力の世界に身を置くディエゴにとっては、想定の範囲内だった。ネヴィオも診察に来た時点で、聡明な男の集まりだなどと皮肉を言っていた。およそ表の世界で生きる人間の受ける仕打ちではない。
「それが俺の仕事なんだ。命じられたら、そうする以外に……」
「ちょっと待て。懺悔を聞くために松ぼっくりを拾ったんじゃない」
言い訳をするような口調をさえぎるディエゴ。問いに対して、明確な返事になっていない。
「お前はどこの誰で、何があった?」
分かりやすいよう端的に訊くと、アルフィオはまた少し沈黙した。
ゆっくりと言葉を押し出す。
「……サンタルフィオで生まれて」
「それはもう聞いた!」
言い終わらぬ内に、ディエゴがまたしてもよく通る声を響かせていた。立ち上がり、両手の指の先をつけ、上に向けて前後させる。
「何なんだよ、お前! ふざけてるのか!」
この男は先程から冗談を言っても理解していなかったくせに、自分は冗談のようなことを真剣な表情で言うのだ。会話のテンポも悪く、内容も噛み合わない。なぜディエゴが怒り出したのかも理解していない風で見上げている。
両手を胸の前で合わせ、その先で相手を指した。
「本当に人形頭なんじゃないか? よく騙されるだろ」
児童文学でも、あまり深く考える力を持たないあやつり人形の少年はすぐに騙され、大変な目に遭ってしまう。
そう言われてアルフィオはようやく、何かに気付いたようだった。
「騙されたのか? 俺は……」
ことごとく反応の鈍い相手に、ディエゴは呆れてしまう。
「オレが聞いてるんだよ、それを」
どうやらこのアルフィオという男は、話すのがあまり得意ではないらしい。みずからの言葉で物事を伝える事も、相手からの問いかけに適切に答える事も、それを繰り返して会話をする事も。
「そうでもなきゃ、普通に生きてて毒を飲まされるなんてしねぇだろ。心当たりはないのか?」
マフィアの抗争の線は濃厚だったが、まだ確証が得られたわけでもない。
何かしらの恨みを買い、罠にはめられてしまった可能性も考えられる。彼を騙した人物は、毒を飲ませるだけにとどまらず、大怪我もさせ、ゴミ捨て場に遺棄した。そちらが原因で死んでいたかも知れないのだ。
「心当たり……」
ただつぶやくだけで、まだ質問の意図が届かないらしい様子を見かね、ディエゴはさらに分かりやすいよう伝える。
「殺されるようなことをしたのかって聞いてるんだ。仕事で失敗したとか、殺した人間の身内の報復や、借金取りに追われたとか……」
たとえば目の前の男がギャンブル依存症で、刺激を求めるために過激なルールのあるゲームに参加したり、それで多額の借金を抱えて逃げ出したりした事を、否定する材料はない。
まだディエゴは彼について、名前と出生地、そして仕事として人を殺した事しか知らないのだ。
古代ローマ帝国の時代、コロッセオでは剣闘士が同じ剣闘士や猛獣を相手に、命を張った闘いを繰り広げていた。円形闘技場を埋める観客たちは刺激を求め、その勝敗に金銭を賭けた。次第にエスカレートし、試合に敗れた剣闘士には死を与える事まで要求した。
「負けた奴を殺していいゲームでもしたか? 毒を飲ませたり、殴ったりしていい、なんてルールで」
あるいはそうしたゲームに、剣闘士役として参加したのかも知れない。
その言葉を受け、また何かに気付いたように切り出す。
「俺のいる組織には、『毒の誓約』というものがある……」
誓約とは、みずからの意志で誓いを立てた約束事であり、あらかじめ設けられたルールより一概に厳しく、重い存在と言っていいだろう。ゲームなどではなく、もっと厳しく、重い決まり事を破ったのだろうか。
「……組織を脱退する者は自分で毒を飲むか、自分をピストルで撃つんだ」
他者から依頼を受けて目的の人物を殺害し、金銭などの報酬を受け取る事で生計を立てるのが殺し屋だ。
殺し屋には組織に所属し上からの命令に従う者と、いわゆるフリーランスとして仕事を請け負う者の二種類がいる。
命じられたらそうする以外の道はない、と言っていたことからも、アルフィオは組織の上層部に忠実かつ、それほど権力のある地位ではなかった事が分かる。
服毒にせよ、銃で自分を撃つにせよ、いずれにせよ待つのは死。『毒の誓約』とは、一度でも関わった以上裏切りは許さない、というその組織の強固さを表しているだろう。
「脱退するために毒を自分で飲んだのか?」
「違う!」
アルフィオが初めて声を張って否定した。内側からの衝撃によって痛みが走ったらしく、すぐに堪えるように眉間に皺を寄せて歯を食いしばる。
「……脱退なんて考えもしない……俺の、唯一の居場所だ」
切なげな声が呻くように言うのはディエゴの耳に聞こえていたが、ようやくつかんだわずかな情報をたぐり寄せるように追い込んでいく。
「誰かに毒を飲まされて、殺されかけたんだな? 騙されたとしても結果的には脱退したのと同じじゃねぇか」
「違う、俺の意思じゃない……」
アルフィオは頑なに否定するだけだ。
埒が明かず、すぐさま質問の仕方を変えてみるディエゴ。
「誰に騙されたんだ?」
「言えない。情報を漏らせば組織を裏切る事になる」
「同じ組織の人間ってことだな?」
またしても言葉尻をとらえ、確かめた。アルフィオは唇を噛み、目を伏せてしまう。
「…………」
この場合の沈黙は、肯定と同じだ。話すのが苦手なだけでなく、咄嗟に嘘もつけない性分らしい。
「ほら見ろ。やっぱりお前のほうが裏切られて、組織から追い出されたんだ」
現実を突きつける言い方をされ、アルフィオはますますうつむいてしまう。
包帯を巻かれた手が、ブランケットの端を握りしめていた。
死なせてくれれば良かったなどと言い返してきた強気な態度は、もはや見る影もない。
容赦なく口撃していたが、それを見たディエゴは図らずも同情してしまう。
「……分かった。まずお前自身の事情をはっきりさせよう」
大きな体は全身ガーゼと包帯まみれで、どこからどう見ても重症の怪我人だ。痛々しい痣をつけた顔に浮かべる悲しげな表情と、大きな体でうなだれる切なげな態度。伏せられた黒っぽい瞳。それは強く孤高なイメージのある国獣のオオカミなどではなく、捨てられた犬を彷彿とさせる。
ペットが生活に根ざしたイタリアにおいて高い人気のある大型犬だが、世話や躾が難しく、飼い主の負担も大きい。無責任な人間が考えなしに飼い、捨ててゆくのだ。
「組織の名前は? それすら言えないっていうつもりじゃねぇよな?」
「…………」
予想通り、捨て犬は答えない。元の飼い主への忠誠心を捨てられないようだ。
「言えよ。名前を教えるくらい、どうってことないだろ」
また椅子に座ったディエゴは視線を合わせるよう前のめりの体勢になった。
「せっかく生き延びた、お前のことが知りたいんだよ」
安心させるように言うと、灰色の瞳に少しだけ光が宿った。それでも虐待を受け、傷付いた犬はまだ、手を差し伸べてきた人間という存在をふたたび信用して良いものかどうか、判断に迷っている。
その頭を撫でる代わりに、更にたたみ掛ける。
「オレが信用できないか? さっきのスープに毒でも入ってたか? お前に毒を飲ませた奴らより、信頼できると思うぞ」
なぜ助けたのかと言われたら、まだ息のある人間を、同じ人間として見殺しにできなかったからだ。そうして助けた相手の素性を知りたがる事を、不自然だとは思えない。
長い沈黙があった。
「俺は……」
アルフィオは何度も言いかけては言葉を切り、やがてすべてを諦めたような表情で打ち明ける。
「イル・ブリガンテは……マフィアグループで、俺の家族 だ」
ようやく引き出した答えに、ディエゴは息を吐いて姿勢を起こした。背もたれに背中を預けて腕を組み、天井からぶら下がった照明を見上げる。
「〈無法者 〉か。聞いた事がある気がする」
記憶を探ろうとすると、アルフィオが続けてきた。
「昔、カラブリアにいた武装グループの名前だ。直接関わりがあるわけじゃないが……」
一八○○年代、イタリア統一運動が各地で行われた。道程は決して短く平坦なものではなく、六十年近くに及んでいた。
その際、南部の山岳地帯にいた貧しい農民たちは、権力的な支配から逃れるため、送り込まれた軍に武力で対抗したという。当時の統率者の名は現在も、山賊かテロリストとして、あるいは義賊的なレジスタンスのリーダーとして語り継がれる。彼らはゲリラ的な戦い方をし、法に背く事もあったため、無法者と呼ばれる。
そんな古いグループから取ったのだとしても、偶然同じだったにしても、ファミリーとしての歴史はさほど長くないと思われた。
「最近になって、我らがドン・カルロの名前は知られるようになったかもしれないな」
続けて口にしたのは、構成員として忠誠を誓った首領と思しき名前だ。
「イル・ブリガンテの、ドン・カルロ……」
反芻するディエゴ。頭のどこかに引っかかるような響きだった。テレビや新聞などの情報媒体で見聞きしたのかもしれない。
視線を相手に戻し、確認する。
「そいつがお前に毒を?」
「な、なんてことを言うんだ! そんな、ありえない……俺はほとんど会った事もない!」
アルフィオが今まで以上の剣幕で声を張り上げた。またすぐに歯を食いしばって痛みを堪えるのを繰り返す。
強い忠誠を感じさせる態度とその発言に、ディエゴも驚いてしまった。
「お前のドンなのに、ほとんど会った事がないのか?」
昨日のパーティーでファミリーの父としてふるまい、孫たちを可愛がっていた、あの年老いた男性もまた、マフィアのドンなのだ。彼はディエゴを遅くに出来た息子よろしく愛し、接している。
不思議そうな質問を受け、アルフィオも不思議そうに返す。
「簡単にお目にかかれるはずがないだろう? 俺は一介の構成員で、ただ命令に従うだけだ」
そして何かに気が付き、
「その……マフィアの世界というのは、そういうものなんだ……」
居心地悪そうにつけ加えた。
まるきり違うファミリーの在り方に、ディエゴは開いた口が塞がらなかった。
だがこれで、はっきりした事が一つある。自宅に連れて来てしまい、追い出せなくなってしまった男は、自分のファミリーであるイ・ピオニエーリ、あるいはその仲間でないという事だ。
「……なるほど」
頭の中を整理し、気を取り直す。仁王立ちになるディエゴ。
「これで、お前をいっそう外に出せなくなった」
その言葉に、アルフィオが顔を上げる。深い色をした目が曇る。一度捨て犬のようだと思ってしまうと、怯えているようにも見えた。気に入らない事があっても、吠えも噛みつきもしない。小さな犬が身の丈も理解せずにやかましく吠えたてる一方、大きな犬ほど従順で臆病なものなのだ。
外に連れていけと震える手を伸ばしてきたのも、警戒心と、自分は死んで神のみもとへ行くという認識を阻害された恨みと考えるのが妥当だ。嘘のつけない不器用者である。強いふりなどする性分でもないだろう。
ディエゴは自分も身の上を打ち明ける。
「実はこう見えて、オレもいっぱしのマフィアなんだ。お前とは別のファミリーのな」
マフィアという凶悪な響きとは遠い外見をしているのは自覚している。そして、そんな他人の興味を惹く容姿に生まれたからこそ、広い人脈を持つ事ができていた。身につける服や靴、車にもこだわって自分の魅力を引き出した上で、自信を持って他人にぶつかる。自分に自信のない相手と、進んで一緒に過ごそうという者はそういない。マフィアに似つかわしくない容姿や人好きな性分もまた、ディエゴの武器だった。
にわかに驚いた様子を見せたアルフィオが何か言うより先に続ける。
「『毒の誓約』のことはよく分からねぇが、こっちにも守るべき『沈黙の掟』がある」
三流と呼ばれた下火のマフィアにも、譲れない誇りがある。シシリアン・マフィアが設けたという掟に則り、自分たちも遵守するべきものだ。
『別のファミリーと二人きりで会ってはならない』
それが、イ・ピオニエーリにおける決まり事の一つだった。
少しだけ華奢な体躯を目いっぱい使い、明るい茶色の瞳を見開いたディエゴが、本領発揮とばかりに勢いづいて話し始める。
「お前が別のマフィアファミリーの一員である以上、オレはその掟を破った事になる。知らなかったじゃ通用しない」
組織の規律とも言うべき掟を破った者がどうなるかは、アルフィオを見れば分かる。脱退の意思がなかったとしても、友人の手で葬られるほど、つらく苦しい事はない。
「そんなのはごめんだ。だから、お前の存在は、ファミリーには秘密にさせてもらう」
有無を言わせぬ風で告げた。
「幸い、ファミリーはナポリに暮らしてるんだ。訪ねてくる事はないし、お前が外に出なけりゃバレない」
早口で巻き舌が強くなっていた。壁にもたれた人形は反論どころか相槌も忘れてしまったようだ。
「それとも故郷に帰るか? そのサンタルフィオの親兄弟や、アルフィオ爺さんはどうしてる?」
質問でようやく一方的な調子が区切られ、アルフィオは返事ができるようになった。
「家を出てから一度も帰っていない。おそらく死んだと思われてる」
それからまた下を向き、まるで懺悔をするように、
「そうでなくとも……罪を犯したなんて、もう息子として受け入れてもらえない」
とつぶやいた。
家族を大切にし、季節のイベントに合わせて休暇を取り、帰省するのは当然だ。そんな中で一度も帰っていないという事が示すのは、やはり後ろ暗い部分らしい。
「家庭や、恋人は? カラブリアにいるのか?」
「明日死ぬかも知れないのに、家庭を持つなんてできるはずない。恋人もそうだ」
アルフィオは分かりきったことを聞くなという風で顔を上げて答えたが、今度はディエゴが理解できないと首を傾げる。
「そんな事ないだろ。さっきから、おかしなことを言う奴だな」
マフィアファミリーに所属している、裏社会に身を置いている以上、いつどこで抗争が起こり、死闘を繰り広げる事になるか分からない。それは確かだ。イ・ピオニエーリは今でこそゴミ集めをメインビジネスとしているが、そのゴミ捨て場で死体を見ても驚かない程度の経験もしている。
だが、ディエゴにとってはその事実と、アルフィオの主張は矛盾しない。ファミリーのパーティーに、自分の恋人を連れてくる者も居るのだ。
二人はまたしても意見が異なるようだった。殺しに関わるのはあくまでも仲介業者としてのディエゴと、実際にしくじれば自分の命は無いという環境に身を置き続けていたアルフィオの違いだろうか。
「だから、組織だけが俺の家族で、居場所なんだ……」
それほどの覚悟で忠誠を誓っていた組織から追い出された現実を、受け入れたがらないのも無理はない。
目を覚ました時から、外に放り出されて野垂れ死にする事さえも厭わない態度だった。
唯一の居場所であった組織を追われた彼にはもう、家族も、行く宛もない。どうやら先ほどから抱かせる捨て犬のような印象は、あながち間違いでもないようだ。
飼い主から虐待を受けたり、捨てられたりしたペットは施設に引き取られ、ケアを受ける。この国では原則として殺処分は禁止されているため、他の新しい飼い主が見つかるまで保護されるのだ。町中で野良犬を見かけないのは、そうした手当がされているからである。
アルフィオが話の意味を理解するのが遅いのはすでに把握できた。ディエゴはその顔を覗き込んで分かりやすく伝える。
「オレが何を言ってるか分かるか? 捨て犬アルフィオ。今日からここがお前の家だ」
ディエゴは動かせないアルフィオを、このまま自分の家に置いておくと決めたのだった。
元々、二名で暮らすつもりで買い揃え、整えた環境だ。ドンとファミリーが暮らすような邸宅ではないが広さは充分にあるし、天職を見つけ軌道に乗せた事業主には大型犬を飼うための経済的な余裕もある。
続けざまに、このローマ近郊にある一軒家には自分しか住んでいない事、友人である医師のネヴィオが定期的に往診に来る事などを説明した。
留守にしている時間も長く、四六時中はりついてはいられないが、もし動けるようなら家の中で好きに過ごして構わないとも。物置部屋の床に敷いたブランケットより、リビングに置かれたソファーのほうがまだ寝心地は好いかもしれない。
アルフィオはディエゴの唐突で強引な決定に、飲み込まれてしまったようだった。これから軟禁状態になると告げられているのに、何を言い返す事もできずその顔を見上げている。
「もし外に出たいなら、組織を抜けたと認めるんだな」
そう繰り返し告げても、動かしづらい首を左右に振るのがやっとといった風だ。
それを承諾と受け取り、ディエゴはさらに話し続ける。
「イル・ブリガンテについても、少し調べさせてもらう」
「それは……」
途端に、アルフィオが何とか口を挟もうとした。自分が与えてしまった情報だ。目の前の人間を信用したために、ファミリーに何かあってはというその態度を制するディエゴ。
「待てよ、誰も争おうなんて言ってないだろ。お前の心配するような事は起こさねぇよ」
そう言って、アルフィオに横になるよう促した。目を覚ましたとはいえ、回復には遠い。必要なことだけ聞き出せば、あとは休ませるべきだった。
素直にブランケットに収まった脇にしゃがみ込んで言い聞かせる。
「ただ、あの集積所のあるナポリはイ・ピオニエーリの縄張りなんだ。友人も働いてる。無許可で死体を捨てていくなんて困る」
「死体じゃない。現に生きてる」
「オレが拾わなかったら、今ごろゴミに埋もれて死んでた」
横になったアルフィオが口だけで訂正したが、ディエゴはきっぱりと言い、得意げに眉をはね上げる。
「お前を生かしたのは正解だった。色々話してもらうぜ」
先ほど一旦置いておいた話題だ。アルフィオは言い負かされたようにぐっと唇を引き結んだ。
大切なファミリーと、占める縄張り──彼らが暮らす街を守る事もまた、ディエゴが考えるワイズガイの在り方だ。
別の組織に縄張りを荒らされたとなれば、抗争にもなりかねない。しかし現在のイ・ピオニエーリに勝ち目があるのかと考えると、残念ながら首を縦には振れなかった。若い衆総出でぶつかったとしても、捨て身の闘いになるだろう。自分の命なら賭ける覚悟があったとしても、高齢のドンやシニョーラ、そしてナポリを危険にさらすわけにはいかないのだ。
アルフィオの存在を秘密にしておけば、ひとまずは争わずに済む。やられっぱなしの屈辱もあるが、自分たちの身の程を弁えずに得体の知れない相手に挑むのは聡明とは言えない。これもまた、ファミリーを守るための方法だった。
ただ、警戒しておくに越した事はない。
「オレはこれから寝る。さっき帰ってきたんだ。起きたら続きを、捨てられた経緯から聞かせてもらおうか」
満足げに立ち上がったディエゴは伸びをし、扉のほうへ踵を返した。照明のスイッチに手を伸ばしながら振り返る。
「聞かせると言っても……」
その姿を目で追っていたアルフィオが言いかけて、また口をつぐむ。返事をすれば捨てられたと認めてしまう事になる。
ディエゴは明るい茶色の瞳でその顔をまっすぐに見つめた。なだらかなカーブを描くまぶたの下の眼差しは眠そうだが真剣だ。
「死に損ないの口がどれだけ固いのかは知らねぇ。でも絶対にお前にも、オレが正しいって認めさせるからな」
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