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第四章 地域活性

ローマにあるスペイン広場には、華やかな装飾を施された三台の観光馬車が待機している。前部にはそれぞれ馭者が一人。 しかし、乗ろうとする者は居ない。これらは何も知らない観光客をターゲットにした、違法ビジネスだからだ。 まずは物珍しげに寄ってくる観光客を、にこやかな笑顔で迎え入れる。この辺りを周遊するのだと言い、価格は実に良心的だ。客を馬車に乗せ、案内がてら街の景色や観光名所をぐるりと巡る。 しかし、いざ料金を請求する時になると、馭者は豹変する。客が言語が分からない事などにつけ込んで、法外な値段をふっかけるのである。 通訳案内や、ミサンガ売りなども手口は同様で、地元の住民ならば決して引っかかりはしない。声をかけてきても、相手の身分を知れば金も取らずに逃げてゆく。 ことに気張った衣服に身を包んだ観光客とはまるで違うディエゴなどには、寄り付きもしない。ここに居る何人かは、ディエゴがマフィアだという事も理解しており、むしろ関わりあいになりたくないと思っているほどだろう。 通りかかったディエゴはいつも以上に不機嫌な表情で、それらと、階段の上にある教会を睨んでいた。 マフィアほどの力や覚悟はなく、薄汚い根性で小銭を稼ぐ連中のことは元より嫌っていたが、ディエゴには他にも嫌いな物があった。 それが原因で、出がけにアルフィオと喧嘩をしたのだ。 感情のまま一方的に話す短気なディエゴと、訥々と話すうえに冗談も通じず何を考えているのか分からないアルフィオの間に、小競り合いは絶えなかった。 出掛けるついでに、物置部屋を覗いて声をかけた。 「これから都市部に行くけど、何か必要な物は?」 「聖書が読みたい。出る前に持ってきておいてくれないか」 横になったまま、扉の方へ首をひねって答えたアルフィオの頼みに、ディエゴが訂正するように繰り返した。 「買ってくる物はないかって聞いてるんだ。家を出る前の話をしてるんじゃない」 「ディエゴが出かけている間に読んでいたいんだ。片手でも読めるし、貸してくれないか?」 その返答に、ディエゴは眉頭を下げ、怪訝な表情になって訊ねる。 「……人殺しのクセに神を信じてるのか?」 「それとこれとは関係ないだろう」 冗談を言っている風ではなかった。マフィアや|殺し屋《ヒットマン》が信仰心を抱く事は、矛盾していないと言うのだ。 それ以上追及せず、端的に答えた。 「持ってない」 「なに?」 今度はアルフィオが包帯の下で眉を歪めたが、ディエゴはきっぱりと繰り返す。 「ウチには聖書は無いって言ったんだよ」 「そんな馬鹿な……」 耳にした言葉を理解できないとでも言いたげに、大きな体を起こしかけた。連れてきてから一週間が経とうとしており、妖精に魂を入れてもらったあやつり人形よろしく自分の力だけでも起き上がれるようになっていた。 「家中くまなく探してみろ。出て来られるんならな」 扉から身を乗り出してからかうように言い、さらに付け足す。 「オレは無教徒なんだ。|神なんか×××だ(×××・ディーオ)」 吐き捨てたのは、自身にこの運命を課した神という存在自体を罵る言葉だ。ひと昔前であれば口にする事さえはばかられると、あの口の悪い老人ネヴィオにも止められた最低のフレーズだった。 アルフィオが包帯を巻かれた首をねじり、大真面目に否定する。 「そんなことを言うもんじゃない。神への冒涜だ。取り消せ」 「神が何をしてくれるっていうんだ?」 理解できないという風で言い返した。それから頭を指差し、挑発して見せる。 彼が薄汚い違法ビジネスと同様に嫌うもの、それは神と教会だ。 「神は俺たちを愛してくださるんだ。人が起こすどんな罪も背負って、赦して……」 質問の意図を理解できずそのまま受け取り、答えようとした説法をさえぎる。 「ムカつく。二度とその話はするな、不愉快だ」 ディエゴは不機嫌を絵にかいたような顔になっていた。 「天使も、お前を迎えになんて来なかっただろ」 「それは……」 「とっとと認めろ。お前は見放されたんだよ。ファミリーにも、その神って奴にもな」 言葉に詰まったアルフィオに捨て台詞を吐いて扉を閉めた。必要な物は聞いていない。 体組織の損傷は酷く、激しい痛みも伴うだろうが、アルフィオが目を覚ました以上、本人の意思次第で動く事は可能になるはずだった。 肩を貸しさえすれば廊下を抜けて玄関まで歩いて行くだろうし、そこで突き飛ばしでもすれば外へ閉め出す事もできた。車の助手席に乗せ、自由のききづらい体を山中へ運んで、そこに置き去りにする事も。 それでも、追い出すつもりはない。口論できるという事は、改善の余地があるという事でもあるのだ。 拾ってきたぬいぐるみが口をきくようになっただけでも、ディエゴにとっては夢のような展開である。あやつり人形を作った彼も、女神に願いを聞き届けてもらった時はこんな気分だったのだろうか。 近くでは陽気なジェラート屋が屋台を出して売っていた。 老若男女問わず、人々は皆、ドルチェが大好きだ。今日も仕事終わりと思しき数人が列を作り、立ったまま色とりどりのジェラートにかぶり付いている。 教会の前に位置する、映画の撮影地にもなった階段では現在、座り込んだりジェラートを食べたりする事は法令により禁じられている。 ディエゴは彼らを横目に広場を抜けると、ひとけの少ない方へ歩みを進めた。何匹もの猫が闊歩する通りをしばらく行く。誰かに飼われている外飼い猫なのか、自由猫なのかは分からない。 薄暗い街角にぼんやりと座っている小柄な老婆に声をかける。 「よお、チェチーリア。調子はどうだ?」 「|仔犬ちゃん(クッチョロ)だね?」 かすれた声で聞き返し、目を閉じたまま顔を上げた。黒い髪と肌をしており、年老いた皺だらけの顔はアジア系だ。 「|その通り(キアーロ)!」 ディエゴは明るくはっきりと言い、痩せた手首をしっかりとつかむ。すると老婆は安心したように笑みを浮かべ、反対の手を伸ばしてきた。姿勢を屈め、その手に顔を触らせる。 「仔犬ちゃん、最近ナポリには行った? ファミリーは元気かい?」 優しく質問をしながら、顔の凹凸を辿り、犬をあやすのと同じように頭や頬をわしわしと撫でた。 「先週行ってきたばっかりさ。みんな元気だよ」 自然と、口調が柔らかくなるのを自覚する。相手が自身を仔犬のように可愛がる、高齢の女性だという意識がそうさせた。 気に入らない事があれば狂犬のように吠えたてるディエゴだったが、愛しい存在を小さい物に例えて呼ぶのは愛情表現だとしっかり理解している。 「あと、オレより犬みたいな奴にも出会った」 「へえ、あなたの顔がますます見てみたくなったねぇ」 「オレの顔はあんまり犬っぽくないだろ? ソイツはデカくて、見た目も黒と白で、オオカミに似てるけど、中身は臆病な犬みたいなんだよ」 犬の話をしていると、目に傷のある真っ黒な猫がどこからともなく現れ、すぐ脇を走り去っていった。この辺りの住人が餌付けしているのかも知れない。足取りは軽やかで、まさしく「猫足」といった具合だった。 黒猫は古来より、魔女の使いとして不気味がられ忌み嫌われる。黒猫が横切ると不吉な事が起こるという迷信も、世界各地に存在する。 しかし近年、イタリアでは熱心な動物愛護団体の活動により、十一月十七日が『黒猫の日』として制定された。あえて不吉な数字を並べたその日に、黒猫の社会的地位を向上させるべく署名運動も行なわれている。 話を一度切り、ディエゴは表情を少し真剣なものに変える。 「……それで、聞きたいことがある」 それを読み取ったようにうなずく顔は穏やかな表情を浮かべたままだ。 「カラブリア州のイル・ブリガンテについて何か知っていることは?」 「最近物騒な噂を立ててるマフィアかい?」 顔を触る手をそっと離させた。ディエゴの表情が一瞬だけ険しくなるが、深い皺の中で閉じたままの目には見えない。 「そうだ、武装グループじゃないほうの。カルロって男が首領らしい」 「何日か前に、自分たちのビジネスに必要だったからと、罪のない老人を殺したニュースが出ていた。悪どい連中だね」 「別荘で殺された老人の件は新聞で読んだ。それ以上の、もっと詳しいことは分かるか?」 手招きをされたディエゴが顔を近付けると、かすれた声をひそめて耳打ちしてくる。 「それ、もっとくわしく聞かせてくれ」 その場にしゃがみ込み、ポケットから取り出した紙幣を節くれだった手にしっかりと握らせた。彼女はそれを鼻へ持っていき、においを嗅いでから、自分の上着のポケットへしまう。 犯行に使われたピストルは持ち去られていたが、銃弾を見ると初めから至近距離での射撃を想定されており、殺しに慣れたヒットマンの仕業と思われる。従来より火薬量が多く、反動も強いピストルを使っている事や、部屋の奥に残っていた足跡からも、実際に手を掛けたのは力の強い大柄な男である可能性が高い。 また現場が終の住処ではなく別荘として使われていた事、一人の時間を狙うなど被害者の行動パターンを把握していた事から手口はかなり計画的だ。部屋の入口付近には複数人の足跡が残っていたのも、組織的な犯行を裏付ける。 被害者の死によって利益を得る対象を絞り込んでゆくと、最近医療ビジネスでその存在を示し始めた〈スマート・マフィア〉イル・ブリガンテが割り出された。 拠点のあるカラブリア州は経済的にも脆弱なため、金融界の重鎮の殺害により、金融機関におけるマネーロンダリングも行なわれると予想される。 ドン・カルロを頂点とする彼らは野心的であり、社会における地位を確立するためには手段を選ばない。その名の通りの無法者で、他のマフィアファミリーよりも暴力的かつ閉鎖的な姿勢だ。普通、殺しを依頼する場合は何重にも人を介し、捜査が及んでも足がつかないようにするものだが、自分たちの力を誇示する目的もありそうだった。 ヒットマンもファミリーのメンバーなのか、彼らに依頼された身なのかは不明だが、問題解決のためならば武力行使に出るケースも多い。抗争に子供が巻き込まれた事件など残忍な行動が目立ち、仲間への制裁も凄惨なものだと言われている。 マフィアの犯行と確定すれば、いずれ政府や警察は捜査を進めるのを諦める。法治国家でありながら長い歴史を持ついたちごっこに付き合っていられるほど、暇ではないのだ。 現場までのタイヤ痕が一台分である一方、現場から数キロ離れた場所では持ち主不明の車が見つかっている。また、被害者とは違う人物の血痕なども残っており、そちらはまだ遺体として見つかっていないのが不可解な点だ。 もちろん、被害者に恨みを抱いた一個人が彼らに依頼したという線も消えてはいない。いつまでも引退する兆しを見せず、家族もいない老人は、頭痛の種ともなり得るものだ。 いくつかの有益な情報を得た後は、また広い通りに出た。 ローマを北から南へと流れるテベレ川に沿って行くと、東西の岸には先ほどのスペイン広場とはまた別の広場や美術館、博物館、遺跡などが所狭しと並ぶ。 歩くディエゴは無意識のうちに、犬の散歩をしている人の姿を、これまでより目に留めていた。 「かわいいな、オスか? メスか?」 思わず声をかけ、手を振ってしまうほどに。 そんな事をしながら橋を西へと渡って細い通りに入り、小さなスーパーマーケットの前に見知った顔を見つける。そこには若い女が段ボールを敷いて座っていた。やはり痩せていて、黒い肌と髪と瞳だ。ただ目はぱっちりとしており、顔には皺もなかった。 「よお、かわい子ちゃん。足の具合はどうだ?」 目の前にしゃがみ込み、汚れたスカートを指した。裾が広がり、脚が見えないようになっている。 「あんたって、意地悪ね」 恨めしそうに言われ、ディエゴは歯を見せて笑った。そばには杖が立て掛けられている。 「今日はチビは居ねぇんだな。必要ならミルクくらい買ってくるぞ」 「家で寝てるの。ミルクは別の人がくれたし、オムツもまだあるから、今日は商売の話でもどう?」 汚れた頬を持ち上げ、白い歯を見せる。黒い瞳が輝いていた。その態度に、ディエゴは少し感心したように応じる。 「お前もたくましくなったな、|お母ちゃん(マンマ)って感じだ。子供を産むってやっぱりすげぇよ」 「私のこと売春婦扱いした男全員に復讐してやらなくちゃ」 強気な言い方をされ、眉根を寄せて笑う。まだ金銭を渡す事はしない。買い物をするのは、商品を見てからだ。 「それで、何を聞かせてくれるって言うんだ?」 すぐ近くの橋の下で暮らしていたホームレスの荷物に、何者かが火を着けた。火はまたたく間に広がり、荷物だけではなくその脇で寝ていた男の毛布にも燃え移った。水辺で暮らしていたというのに、彼は火を消すために川へ飛びこむ事もかなわなかった。現場はまだその時の煤で黒く汚れている。 目撃者はおらず、犯人も捕まっていない。いたずら心からだったのか、嫌がらせなのか、何かの腹いせなのか、その目的も分からない。 商売を持ちかけてきた割に、若い女の話は先ほどの老婆と違って何とも不明瞭で、説得力に欠けている。しかしディエゴはひと通り話を聞くと、ポケットから硬貨を出し、脇に置かれた空き缶の中へ入れた。小さく硬貨のぶつかる音がする。 「あの人にも声をかけてあげて。最近来たばかりなの」 そう言って指された先を追うと、中年の男が川べりに座っていた。小太りの体型にも、肌や髪の色にも、まったくと言っていいほど共通点が見られない。 「お前たちの仲間なのか?」 「仲間と言えば仲間だし……そうじゃないと言えばそうじゃない」 やはり説得力のない言葉に、ディエゴはため息をつく。 「|売春婦め(トロイア)、そんなこと言ってると、また男に逃げられるぞ?」 からかうように言うと、そばに杖を立て掛けた彼女は、座った体勢のまま拳で叩こうとしてくる。 「なによ、女を抱いた事もないくせに!」 立ち上がったディエゴは笑顔のままで、ひらりと逃げるように、示された方へと向かう。そうしながら、一度ふり向いて言葉をかけた。 「家は安全なんだろうな? 子供は宝物だろ、盗まれねぇようにしろよ!」 日がな一日おなじ場所に座って街を観察している者に話を聞けば、新聞やテレビで報じられるよりも詳しい情報が得られる。彼女たちは空き巣や詐欺師のほか、ディエゴなどの裏社会の関係者を相手に商売をする情報屋だ。 客は金銭だけでなく、自身の持つ何らかの情報と引き換えに彼女らと「売買」している場合もあるため、噂話以上に価値のある情報が手に入る事も多い。情報屋同士でも勿論コミュニケーションをとっており、同じ境遇に立つ者としての仲間意識はそうした関係にも生まれている。 問題はその正確さだ。日銭欲しさに嘘をつく者ももちろん居る。しかし、わざわざ金を払って手に入れた内容がもし嘘だった場合、町はおろかこの世にも居られなくなる場合があると、ディエゴは伝えてあった。知らなければ知らないと答えれば済むのだから。 仲間であって仲間でないと紹介された男は、やはりそのルールというものを理解していなかったらしい。聞けば簡単に嘘と見破れる話をして、小銭を稼ごうと帽子を脱いでアピールしてきた。 この男は、ディエゴの正体すら知らない。しかしその方が、都合がいい場合もある。マフィアであると明かせば、気の小さい者なら寄り付きもしなくなってしまうからだ。 「そこに寝ていたホームレスが火だるまになって死んだのを覚えてるか?」 ディエゴにとっては、先程仕入れたばかりの情報さえも交渉の材料になる。たとえ確定的なものでなくとも。 「嘘ばかり言っていると、今夜は寝苦しくなるかも知れないな」 商売とは、信用と信頼の上にこそ成り立つ。 ディエゴが一定額分の信頼を寄せる彼女たちは元々、五世紀頃の北インドにルーツを持ち、ヨーロッパ中を移動する放浪民族だった。みな一様に痩せていて、小柄で、黒い肌と髪と瞳を持つ。 市街地で生活しない者は、ナポリやローマの郊外にある簡素な居住区で暮らしている。そこにあるのは、動かなくなったキャンピングカーやテント、キャンプだ。 移民の受け入れや不法滞在を厳しく取り締まる政府と、国民がやりたがらない仕事を外国人に任せたい労働現場との摩擦が起こる社会問題は、世界的にも珍しくない。 放浪民族と言いつつ定住地を持ったとて、立ち退きを迫られたり、強制退去させられてしまったり、事前通知もなく家を取り壊されたりしている。 家を追われるほか、体の具合が悪くなるなどして仕事ができなくなると、市街地に出てきてゴミを漁ったり、スーパーや教会の出入り口付近で物乞いをしたりして暮らすようになる。いわゆるホームレスだ。そうして決まった場所に座り、街を観察するようになる。 あるいは犯罪者に協力をするだけでなく、みずからの手を犯罪に染める者も出てくる。彼らが起こしたとされる事件の嫌疑も決して少ないとは言えない。先ほどの広場での観光馬車のような違法ビジネスではなく、強盗や誘拐、放火などがニュースで取り沙汰されている。 それはたとえ子供であっても、例外ではない。幼い身でありながら金を稼ぐ事を要求される彼らは、未成年という立場を武器に地下鉄などで暗躍するスリだ。特徴的な容姿を持つ少年グループに出くわした場合、下手に首を突っ込まず、とにかく距離をとって逃げるのが最も有効である。 街を歩いていると差別用語で呼ばれ、気を付けろと警鐘を鳴らされる。一方、その劣悪な居住環境や暮らしをかえりみない事は人種差別だとして、活動する団体もいる。 放浪民族とそれぞれの国の歴史は長く、解決までの道のりは遠い。どちらが正しいのか、決めるのは自分自身。ここは、きわめて個人主義の社会だ。 ひと通りの用事を追えたのを見計らったように、スマートフォンにメッセージが入った。 「仕事仲間」が仕事を終えたとの連絡だ。用件だけの端的な文章を確認したディエゴは歩きながら通話を繋ぐ。 『もしもし?』 女性の中ではかなり低い声が応対した。 「オルサ、仕事は終わったのか」 『そう連絡しただろ?』 無愛想な返答に構わず続けるディエゴ。 「方法はいつも通りか? まさかハニートラップじゃねぇだろうな」 おどけて言ったが、電話口に聞こえるのはため息だ。 『はあ……全部いつも通りだよ』 「仕事のためなら女装してホテルに行った男だって居たんだぜ?」 『あたしはコールガールじゃない』 「ああ、オレが客でもお前みたいなデカくて気難しい女は呼ばない」 『こっちもあんたみたいにチビでバカな男とは頼まれたって寝ない』 「気が合うな、オレもデカい男は好きだ! でも、お前より大きい男なんてバスケットボールの選手くらいしか居ないだろ」 先ほどは川沿いを南下したが、今度は街なかを北上しながら歩く。日が落ち、人けが増え始める。誰もディエゴが殺し屋と話しているとは思わない。 『何のためにメッセージにしたと思ってるんだい? くだらないお喋りに付き合うほど暇じゃないんだよ』 電話越しの声はますますぶっきらぼうになるが、通話を切ろうとはしない。 「確認のための電話だよ。こういうのは信頼が大切だろ?」 『全部依頼された通りにやってる。あんたの話は関係ない内容が多すぎる』 「落し物や忘れ物は?」 『ない。きちんと置くものは置いてきた。写真もすぐに送る』 「上出来! 確認したら残りを渡すから。後はオレの仕事だ」 『必要な事だけやればいいんだよ。他にもやる事があるだろ?』 「|依頼人(クライアント)に連絡を一本入れるだけだ」 と、正面から少年がぶつかって来た。 ディエゴは一度言葉を切り、身を|(かわ)す。スリの手口など町を歩き慣れた身には手に取るように分かる。 「……ったく、週末なのに熱心なことだぜ」 誰に言うともなしにつぶやいたが、応答があった。 『この日が狙い目だと言ったのはあんたじゃないか』 「オレが調べたんじゃない。クライアントが持ってきた情報だ」 言い返し、続ける。 「オレもさっきまで情報収集はしてたけどな」 カレンダーは頭に入っているが、カレンダー通りの生活を送るわけにはいかない。仕事と余暇の区別を時間で切り分けられない代わりに、用事をまとめて済ませたり、仕事仲間がそのまま友人となったりする。 「近々、中部にくる用事はないのか? オルサ」 『さっきも言っただろ、暇じゃないんだよ。あんたたちと違ってあたしには本業があるんだ』 「そんなことを言ってるから北部の奴らは……って言われるんだよ」 ワーカーホリック気味な性質を持つ、との意味を込めて、相手に見えもしないのに片手の人差し指と中指を折り曲げた。 「本業と言えば、オレの愛車もそろそろ点検してもらわねぇとな」 『ミラノに来る事があれば連絡をよこしな』 北部・ロンバルディア州の州都であるミラノはローマに次ぐ大都市だが、その距離は六○○キロメートル近い。高速道路を使ってもおよそ六時間かかる。 「それだけ走れるなら点検なんてしなくていいだろ」 ディエゴは笑って返事をした。それに釣られたように、電話口の声が少しだけ上機嫌になる。 『あるいは、道中の工場にあたしが居る時だね』 仕事は仕事でも、自身の本業の話になると意気込みが違っていた。 『レッカー車さえあればどこからでも引っ張ってやるよ』 それからディエゴは時間を潰しがてら、トレビの泉近くにあるショッピングアーケードへ向かった。 歴史的な建築物を改装し、ローマ出身の俳優の名を冠したそこには、バールやレストラン、人気ブランドのブティックのほか、大きな書店がある。 おもちゃ職人は魂を手に入れたあやつり人形を学校に行かせるために上着を売って教科書を買ったが、事業主であるディエゴには怪我をした大型犬を引き取り、プライベート・ドクターと契約し、情報を買う程度の余裕がある。 ただ、“それ”を買う気が起きなかった。宗教関連書の棚の前まで足を運びはしたが、そんな場所に自分が立っている事自体が、ディエゴにとっては非現実的なのだ。旧約、新約、またはその両方が、文庫サイズから中・大型、様々な装丁をされて並ぶのを見ただけで、うんざりしてしまった。 聖書には挿絵のある子供向けのものもあり、そのまま進めば児童書の棚に行き着く。と、先日から脳にこびり付いてきて離れない児童文学の文庫本が見つかった。 「アイツにはこれで充分だ」 ディエゴはにやりと笑い、当てつけのようにその一冊を買い求めた。 帰ってから、あの矛盾だらけで説法好きなお堅いヒットマン上がりに渡してやるつもりだ。作者の名前を見て、前の主人の名前でも思い出していれば良いのだ。 月の出てくる時間になった。左側が光る細めの月は、下弦の月から新月へと向かう途中だ。 ディエゴは巨大な彫刻をあしらったトレビの泉を越え、コロッセオの裏手へ足を伸ばした。 ライトアップされたコロッセオから東へ伸びる『ゲイ・ストリート』は、週末の夜とあって賑わっている。 ゲイ・クラブやカフェが軒を連ねるこの通りの公的設置は、キリスト教の総本山バチカンを内包するローマにおいて、実に画期的だった。 二○一六年には同性カップルを含めた事実婚カップルを結婚と同等とみなすシビル・ユニオン法が全国で導入された。それでもなお、宗教家との小競り合いは絶えないし、同性愛者を含めた|性的少数者(セクシャル・マイノリティ)への偏見や差別も無くなったとは言いがたいのが現状だ。結婚ではなく、同等の権利を認める、という法律自体にも差別的な雰囲気は拭えない。 慣れた足取りで歩いてゆき、一つのクラブに入る。入口の扉や看板には『 |Chiaro di luna(キアーロ・ディ・ルーナ) 』とある。 小規模の店内は、男性性を強調するような熱気と匂いと、音楽に満ちていた。ダンスフロアの奥に、ドリンクや軽食を注文するバーカウンターがある。 派手な装飾やネオンを模した飾り看板、色とりどりの照明やそれを受けて輝くミラーボールはあるが、足元は暗く、至近距離に近付かなければ相手の顔も見えず、声も聞き取りづらい。 流れる音楽はハウス系のクラブミュージックで、人影からわずかに見えるブースではDJが片腕を振り上げて回している。それに合わせて、半裸の男たちが体を擦り合わせるように踊っていた。 「コロッセオでは剣闘士が剣と剣をぶつけ合ってあってたんだ」 「俺たちも自慢の剣をぶつけ合おうぜ」 そんな下卑た会話が聞こえた。 ディエゴは熱狂する人と人の間をすり抜けてカウンターに着いた。 「あら、噂をすれば」 カウンターの中の男が、ディエゴの顔を見て声をかけてくる。焦げ茶色の髪を短く刈り込み、派手なシャツを着、はだけた胸元からは、たくましい胸筋とその上に生えた胸毛が見えている。 「何の話だ?」 ディエゴが聞き返すと、男はカウンターに並んだ二人連れの客の顔を見る。二人とも肌が白く、金髪を刈り込んで四角いフレームの眼鏡を掛けていた。血縁関係がないのは分かるが、ふくよかな体型までよく似ている。 「例のインテリアデザイナーがまさかゲイだったなんて、って話してたんだ。北イタリアを代表する存在でしょ?」 「僕はずっと、そうじゃないかって言ってたんだよ。建築雑誌で初めて見た時からね」 「見た目だけじゃ分からない。イタリアにはお洒落でカッコいい人が沢山いるでしょ?」 「ゲイは美的センスに優れてるから、デザイナーやアーティストには多いんだよ。僕のビジネス・パートナーみたいにね」 「もう、旅行だからって浮つかないでよ。ここの人はもっと上手に言うよ、きっと」 客が英語混じりのイタリア語で口々に言ったのは、ままある噂話だ。 まだ偏見や差別の残る社会において、自身の|性的指向(セクシャリティ)を公にする事で不利益を被る例は少なくない。そのため、ほとんどがノーコメントを貫いたり、曖昧な言い方をして濁したり、|多数派(マジョリティ)であるふりをしたりする。そうした不利益や世間からの好奇の目、本来ならばいわれのないバッシングを覚悟で事実を打ち明ける事を、カミングアウトとという。 人々はジェラートも好きだが、有名人のゴシップも大好きだ。カミングアウトのように勇気ある行動として評価するほか、新恋人との熱愛発覚や壮年夫婦のDV騒動、関係者とのいざこざなど話題に事欠かない。国内外問わず映画や音楽、スポーツ界のスターや、ロイヤルファミリーといったセレブのプライベートに目がなく、パパラッチと呼ばれるカメラマンは彼らの日常を切り抜く事で生計を立てている。 「公式にカミングアウトしたのか?」 訊ねると、片方が首を振る。 「そうじゃないけど、さっきすれ違ったんだよ。このローマのゲイ・ストリートに居たんだ」 「居ただけじゃゲイかどうか分かんねぇだろ?」 「若い男の肩を抱いて歩いてた。これはもう明白でしょ?」 その言葉に思わず苦笑したディエゴを、カウンターの中の男が指す。 「さっき話してた、ローマにもそのデザイナーが手がけた家があるって。一軒はこいつの家よ」 すると、二人の客の興味はがぜんディエゴに向けられた。 「すごい! 知り合いなの?」 「注文したってすぐには引き受けてくれないでしょう、どれくらいかかったの?」 「さぞかし素敵な家に住んでるんだろうね! 写真ある?」 「もしかして個人的に依頼できたの?」 「だとしたらどうやって知り合ったの? やっぱりこの辺り?」 カウンターの男がさらに興味をかき立てる言い方をする。 「そりゃあ“個人的”な知り合いだもの。自分の家をコーディネートするようにしたでしょう」 ディエゴは矢継ぎ早な質問攻めには応じず、カウンターの男を睨んだ。 「寝てる犬を起こすんじゃねぇ。今は普通の友人なんだよ」 その返答に、二人連れはディエゴと例のインテリアデザイナーとの関係性を察したらしい。 「……それは残念だったね」 一方が眼鏡の上の眉をハの字にして慰めるように言った。もう一方も悲しそうに下唇を突き出した表情を浮かべている。 「いいさ。部屋は今も気に入ってる。施行代も浮いたしな」 ディエゴが冗談を混じえて返すと、二人連れは途端に明るい表情になって笑った。 それから二人は乾杯を求めようとして、握手に切り替える。 「トムとディックだ」 と片方が名乗った。手で示した順番から察するに、手前がトムで奥がディックらしい。 「なら、オレはハリーだ」 得意の人懐っこい笑顔を見せながら言ったディエゴに、トムとディックは手を叩く。握手をしたのとは逆の手に、揃いのイエローゴールドの指輪が光っていた。 「僕らも建築とデザイン関係の仕事をしていてね、公私共にパートナーさ」 「デザインウィークに合わせて旅行に来たんだ。この週末で南イタリアを回って帰るよ」 「ミラノの家具の見本市は知ってるでしょ? だって彼の、友人なんだもん」 ディックが言った通り、毎年四月にミラノで開催される家具やインテリアデザインの見本市は世界最大規模で、毎年多くの国と地域が参加する。偶数年である今年は、キッチンやバス・トイレなどの水回りに関する展示も周囲の会場と日程で開催されていた。 トムが少し姿勢をかがめ、周囲をうかがうように上目遣いになる。 「実はミラノでも彼を見たんだ。だからさっき、ローマでも見かけて驚いた」 「北部にはフィレンツェもあるのに、どうしたんだろうね?」 その後ろでディックが不思議そうに続けた。 「その肩を抱いてた男がこっちにいるんじゃないか?」 ディエゴはなんの事ないという風で言い、肩をすくめてみせた。トムとディックは納得したように顔を見合わせ、よく似た表情でうなずいた。 それから、グラスを空にした二人はダンスフロアへ踊りに行くと言った。カウンターに背を向け、よく似た体型同士でくっついてそれぞれに肩を、腰を抱く。 歩き出しながら、肩を抱かれたディックが英語でつぶやく。 「月曜にアメリカに帰ったら誰かに話しちゃいそうだ」 言われたトムは顔を近づけてたしなめる。 「いけないよ、僕のかわい子ちゃん。これは旅行中、いや今夜だけの秘密だ」 「分かってる。でも本当に驚いたなぁ」 「いつか本人もカミングアウトする気になるさ。今はまだ法律もきちんとしてないし、キャリアが大切なんだろう」 そうして二人はフロアの人の波にとけ込むと、向き合う体勢になった。音楽に合わせて踊り始める。 公言していないセクシャリティなどを、本人の意思に反して他人が周囲にばらしてしまう事をアウティングという。 他人にとってはほんの興味本位であったとしても、当人は学校や職場で差別を受けたり、コミュニティーに居づらくなったりといった死活問題となる可能性がある。悪意があろうとなかろうと、取り締まる法はなくとも、モラルに欠ける行動であり間接的な殺人だ。自分にとって不都合な事を、他人に知られるまいと隠すよう努めている事を、言いふらされるのがどれだけのことか。考える頭も持たない者が犯しがちな行為である。 一般的に弱い立場にあるマイノリティを、そうした問題から守るべく行なわれているのがゾーニングである。 例えばこのゲイ・ストリートに、カミングアウトしていない有名人が訪れて、同性と肩を組んでいるのを見聞きしたとしても、それはこの場所だけの秘密とするべきだ。秘密は守られるものであり、間違ってもメディアに情報を売って金儲けなどを考えてはならない。夜が明ければ彼らが戻ってゆく普段の生活を、脅かしてはならない。 そうした共通認識があり、|範囲(ゾーン)が分けられているお陰で、お忍びでやって来たとしてもアウティングの懸念なく安心して過ごせるというわけだ。 カウンターに向き直ったディエゴは、いつの間にか右隣にも客が増えている事に気付いた。背が高く、がっしりとした体格が視界の端に映る。 が、まずは言うべきことがあった。 「ちょっと久々に来たと思えばこれかよ!」 怒り気味の口調で言っても、相手は悪びれる様子もなくカウンターの奥に腕を突いている。 「別れて有名になった恋人の名前をこんな形で聞く気分はどう、ハリー?」 「べつに何とも。オレは肩書きに惚れたワケじゃねぇし。あとお前はハリーって呼ばなくていい、パオラ」 ディエゴが訂正する。先ほどのはほんの冗談だったが、名乗るタイミングを逃していた。 パオラと呼ばれた男は陽気に冷やかす。 「もうちょっと早く来れば通りですれ違ってたかも!」 ゴシップ好きな性格がにじみ出る態度に、ディエゴは眉をしかめる。 「毎年ナターレに送られてくるカードで充分だ」 その表情のまま、ようやくグラスビールを注文する。店に来てから随分話していたが、まだ一滴も飲んでいなかった。 ビールを注ぎながらも、さらに質問は続く。 「シビル・ユニオンが導入されるのが遅かったかしら?」 「いや、むしろ導入されてから一緒に暮らそうとして家を買ったんだ。別れたのはその直後」 「今をときめくインテリアデザイナーと実業家のゲイカップルなんて話題になりそうなのに、惜しかったわね」 「ゲイってことでは注目を浴びたくないんだろ。オレも有名になりたいと思わねぇし……どうせ続かなかったんだ」 「続けられなかったの間違いじゃない?」 からかうように言いながらビールを差し出し、 「来るのが久々になった理由も、その家に連れ込んだ新しい誰かさんと楽しんでたんじゃないかって」 と笑みを浮かべた。 ディエゴはそれを受け取り、口をつける前に話し出す。 「あいにく明るい時間の方が忙しくしてた。|復活祭(パスクア)を祝いにナポリまで帰ったり、犬を拾ったり……」 すぐ隣に立っている男が視線を投げかけてくるのを感じる。 カウンターの男は、そうだった、と思い出したように手を打つ。 「毎年のことだけど、|名前の日(オノマスティコ)も嫌がるあんたがパスクアなんてね」 「参加しないとマンマがうるさくて。肉を食えないなんて冗談じゃねぇよ」 そうして軽い近況報告をしていると、見慣れぬ若い従業員が割って入ってくる。 「パオロ、ナッツの在庫が少なくなって……」 「ここではパオラよ! 何度言えば覚えるの?」 パオロと呼ばれたパオラは別の客のためにグラスにビールを注ぎながら、きつい剣幕で切り返した。 トム、ディック、ハリーのようによく居る名前だが、ジョン・ドゥやマルコ・ロッソのように偽名ではない。どちらも同じ一人を指す。 つづりがoで終わるパオロは男性名で、aで終わるパオラというのは女性名だ。もちろん例外もあるが、欧州圏の名付けは往々にしてこの法則に従っている。 従業員は意図的に間違えたのではないのだろう。慣れないのだ。胸毛を生やした屈強な男を女性名で呼ぶことに。 派手なシャツを着てカウンターでビールを作り、陽気に客と話し、従業員を叱咤するのは、このゲイ・クラブ『キアーロ』の店長である。男性なのは一目瞭然だが、ここゲイ・ストリートに居る間は「パオラ」と名乗り、そう呼ばれる。三人称で呼ぶ時は「彼女」という表現が望ましい。 生まれ持った性に違和感を感じる者もまた、同性愛者と同じく一定数存在している。その違和感の程度も、体の性を変える性適合手術を望む者も居れば、社会的な立場を異性として認められて満たされる者、異性の格好をすることで平静を求める者や、性別は男女どちらでもない又はどちらでもあると答える者など、実にさまざまだ。 そんな幅広い「性」を象徴するレインボー柄の大きなフラッグが、奥の壁に垂れさがっている。 店名『キアーロ・ディ・ルーナ』の意味は「月の光」。月の出ている時間、すなわち夜のみ営業する、明るい太陽の下では求められない出会いやつながり、楽しみを求める者たちの居場所だ。 そんな願いを込めて名付けられたこの店に、若い従業員は雇われたばかりで、店舗内での仕事はおろかそうした文化にも不慣れらしかった。 「|理解したの(トゥット・キアーロ)?」 ナッツの在庫について手短に説明したあと、パオラは確認しながらグラスビールを差し出した。カウンターの端に居る客に届けるように示す。若い従業員はうなずき、ビールを運んでいった。 「さあ、なんの話だったかしら」 向き直ったパオラが聞き直す。 「ナポリでパスクアを祝わされて帰ってきた」 手短に答えるディエゴ。 「で、これからバカンスのシーズンだってのに犬を飼うんですって?」 「ケガをしてて、ほっとけなかったんだ。それに、前から言ってるようにオレはバカンスには行かない」 「どんな犬を飼ってるの?」 隣に居た男がついに声をかけてきた。 グラスに口をつけたディエゴが返事をするより早く、パオラが口をはさむ。 「気をつけなさい。その男、〈ウサギ野郎〉よ」 それを聞いた男はディエゴの顔にふたたび視線を移し、軽く訊ねてくる。 「へえ? 怖がりってこと?」 敵に対峙しても争う術を持たず、一目散に逃げていく様子から、臆病者のことをしばしばウサギと呼ぶ。長い耳やつぶらな瞳、ひくひく動く小さな鼻といった見た目の愛らしさではなく、その生態にこそ特徴があった。 「勝手に言ってるだけだ。オレは別に……」 ディエゴは意味を理解しているものの、むきになって反論する気も起きない。侮辱されていると知れば短気な性格はすぐに怒り狂いそうなものだが、この程度は許容範囲だった。 「実はボクも犬を飼ってるんだよ。かわいい女の子さ」 男はそんなディエゴに興味がある様子で、会話の糸口を広げてくる。 「散歩は一日一回。ここがトリノじゃなくて良かった」 北部・ピエモンテ州にあるトリノでは、犬を一日三回散歩に連れていかなければ罰金を取られてしまうという。 ディエゴは残念そうに言い返す。 「散歩には行けないんだ。まだ引き取って一週間も経ってないし、ケガをしてるから」 「ケガをした犬を引き取るなんて、立派だね! すごいや!」 友人がブリーダーをしていることなどを話す相手の視線が、盛り上がる会話とは違う熱を帯びているのにも、ディエゴは気付いていた。 「犬が好きな人に悪い人は居ないよ!」 「ああ、オレもそう思う」 同調すれば、ますます嬉しそうに身を乗り出してくる。 容姿や服装から判断するに、ディエゴよりも少しばかり年上だろうか。がっしりとした長身と、それでいて無邪気な話しぶりと、熱を持った視線のアンバランスさにそそられる。 「それで、どんな犬を飼ってるんだ?」 自分が相手に興味を持っている事を、態度で示す必要があった。質問という形は、それを相手に伝える手段として有効だ。 「待ってね、写真は沢山あるから見せてあげる」 男はいそいそとスマートフォンを取り出し、画面を操作し始めた。 不意に別の視線を感じ、顔を上げるディエゴ。カウンターの中で手を動かすパオラが、冷ややかな目で見下ろしていた。 「なんだよ」 思わず言っても、パオラは一度口笛を吹くような仕草をするだけだ。 「ほら!」 写真を探しあてた男が画面を見せてくる。 そこには可愛らしいボルピノが映っていた。雪のように白くて小さな体とちょこまかとした動きが特徴の、イタリアを代表する犬種のひとつである。 ディエゴは画面を覗き込む拍子に、相手に体を寄せる。男が生唾を飲んだのが、はっきりと聞こえる距離まで。 「かわいいな」 素知らぬ風で言ったのち、近付いた顔の中、ブルーの瞳をまっすぐに見つめて訊ねる。 「名前はなんて言うんだ?」 「えっと……ドナテロ」 少し恥じらうような間をあけて答えられたのは、男性名だった。 「ドナテラじゃないのか? メス犬なんだろ?」 首をかしげて見せるディエゴに、男はすっかり骨抜きにされたようだ。 「彼女はカーラだよ。ドナテロはボクの名前さ」 「だと思った。ドナテロ、いい名前じゃないか」 偉大な芸術家・彫刻家の名からとったのだろう。かつて多くの美術品を生み出したドナテロの手は、すでにディエゴの腰に添えられていた。あるいは、例のカラブリアの山賊として語り継がれる名前かも知れない。 ねえ、と呼び掛け、耳に唇を寄せてくる。高い鼻先がディエゴの髪にあたる。 「ボク、すぐそこのアパートに住んでるんだ。キミさえ良ければ、いつでも本物の彼女に会わせてあげられるんだけど……」 もう片方の手に握ったままのスマートフォンを主張する。ディエゴはわずかに顔を離し、視線を上げて聞き返した。 「()()()()?」 ちょうど、二人のグラスは空になっていた。気が利くのか利かないのか、次は何を飲むかと聞いてくる従業員も居ない。 「彼女もきっと、キミを気に入ると思うよ」 ドナテロが体を寄せてくるが、ディエゴはわざとらしく考えるような間を空け、ダンスフロアの方へ視線を移した。流れているのは、ゆったりとしたR&Bに切り替わっている。先ほどの二人連れが絡み合うようなキスをしていた。 「……一曲踊ってからにしよう」

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