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第五章 食料提供
照明も点けていないガレージに、一度振った車体が後ろ向きに入ってくる。中には親子ほど年の離れた男が二人きり。
一台分のスペースはガレージの中でもかなり左側に寄っており、運転手は家に繋がる扉を開けるために、いつも運転席側を壁に近付ける癖があった。
ガレージからの扉は、家の廊下に繋がっていた。
中に入るなり、ふたりは抱き合った。華奢なディエゴはキスをしながら、壁に押し付けられる。
「バスルームは?」
ふちのある眼鏡をはずし、息を上げた男が訊ねてくる。背が高くすらりとした体型を包む、びしりときまった品のいいスーツ。一刻も早く脱がしてしまいたくなる。
ディエゴは右側を指差し、体を押し付け返す。
「トンマーゾ、オレも一緒に……」
うっとりとした声で言い、眼を上げる。若い頃にはよくモテたというのが嘘ではないと分かる、甘いマスクだ。
年齢はディエゴよりもかなり上、ともすればディエゴと歳の近い娘など居るかも知れない。普段の父親としての顔からは想像のつかない、夜の顔をしていた。甘えてしまいたくなる。実の親にも、親代わりのドンにさえ、甘やかされた覚えなどないというのに。
一緒にバスルームに入ると、もつれ合うようにして服を脱がせ合った。
褐色の肌に包まれた、引き締まった体を惜しげもなくさらけ出す。各所に刻んだタトゥーがアクセサリーのように映えている。
「はあ……」
感嘆のため息が聞こえ、称賛が続く。
「君は本当に素晴らしいよ、ディエゴ……」
洒落た服などなくとも、ディエゴは充分に魅力的だったのだ。
実年齢よりもあどけない顔立ちに、平均より少しだけ華奢な体つき。腕や脚、そして下腹部に申し訳程度に生えた毛は柔らかい。成人向けのビデオに出てくるような少年の危うさと、しっかりと成人した健康的な男性らしさ、それでもまだ年若い瑞々しさなどをあわせ持つ。
「そうだろ? もっとじっくり見て、触っていいぜ」
ディエゴは、同じ性的指向を持った同性や、友人以上の関係を望んでくる異性の目に、自分がどう映るかを理解していた。そして、自信を持っていた。
全裸になったディエゴが洋式便器に座り、その隣のビデにトマゾが座る。壁に向かう形で腰を下ろしたトマゾがシャワーで股間を洗っている内に、ディエゴは用を足した。
「私は、前だけでいいんだろうか?」
立ち上がり、足も洗いながら訊ねてくる。トイレを流したディエゴが立ち上がって聞き返す。
「そういうのが好きなのか?」
タオルを渡し、トマゾが水気を拭き取る間に、場所を入れ替えたディエゴがビデにまたがる。蛇口をひねり、股間にシャワーをあてた。
「そういうの、というか……」
歯切れが悪く、返答に困っているようだ。それを聞きながら、専用のソープをつけて丹念に洗うディエゴ。
一度流して、今度は洋式便器と同じように座り直す。無駄な肉のない引き締まった脚を開いた体勢のまま、顔を見上げて確認する。
「その歳だし、慣れてるんだろ? こういうの」
「いや……実は初めてなんだ。君のような若い男の子は……」
しどろもどろに返事をする甘いマスクが、みるみる赤くなっていく。ディエゴは胸を締めつけられるのを感じた。
「……分かった、教えてやるよ。パパ?」
自身の親代わりであるイ・ピオニエーリのドンのことさえ、「父親 」や「お父さん 」と呼んだことはない。
しかしディエゴは、こうした関係を持つ相手がかなり年上の男性の場合、時おり「パパ」と呼ぶようにしていた。それは相手がディエゴとの年齢差を気にしていればこそ有効で、自身の娘や息子と同い年ほどのディエゴとの関係に背徳感という名の興奮を加える事ができるのだ。
ディエゴは脚を開き、しなやな腰を前に突き出した。手で周囲を洗い、そのままソープをつけた指を後ろに挿入する。生殖器ではないそこは、周りをほぐし、マッサージする事で少しずつ受け入れやすくなる。
「これ、ホントはパパにやってほしいところだけどな」
ねだるように言うと、トマゾが顔を寄せてきた。またキスをする時、左腕で背中を支えてくる気遣いに優しさを感じてしまう。
トマゾの右手が、ためらいがちに脚の間へと伸びてくる。
「……いいよ、そのまま」
ディエゴは挿し入れていた二本の指の間を広げて見せた。恐る恐るという感じで、他人の指が入ってくる。自分の指を離すと、開いていた襞がすっぽりと飲み込んでしまう形になる。
「ああっ」
思わず上げてしまった声とともに、トマゾの腕をつかんだ。さらにキスをねだる。
唇を合わせ、舌を絡めた。下半身から内側をかき回す動きはひどくゆっくりしたもので、それでいて口内をかき回す舌の動きは激しい。
指の本数を増やし、周りをほぐすようにさせながら、心地好い場所を教えておく。既に興奮しきっており、触りやすくなっているはずだった。
「少し硬い所があるだろ。そこを、覚えておいてほしい」
北インドに始まった哲学のある学派において、そこは〈聖なる場所〉とも呼ばれる。
トマゾは顔を伏せ、
「私も男だから……それは知っている」
囁くように返事をした。ディエゴは笑ってしまう。
「やっぱり、そういうのが好きなんだな。今日はしねぇけど」
明るい茶色の瞳に照明の光が透けていた。とろんとした表情になると、形のいいカーブを描く上まぶたが下がり、その瞳を半分ほど隠すようになる。
そうして何度か出し入れさせた後、引き抜かせた。上目遣いになり、笑顔を見せると、ふたたび唇が重なる。
「もう充分。優しいんだな、パパは」
手と体の内側に残ったソープを洗い流し、中にも湯を入れ、一度溜めてみる。力を抜いて吐き出すが、汚れは出てこなかった。
いよいよ準備を終えたディエゴは水気を拭き、トマゾの耳に顔を寄せた。
「昨日、一番好きなワインが手に入ったんだ。酒の力も必要だろ?」
バスルームから出る前に、脱ぎ捨てられていた相手のシャツを拾った。肩に掛けるように羽織って見せ、顔色をうかがう。
「似合うか?」
体のサイズ感がまるで違い、父親の服を着て得意げに見せびらかす息子のようだった。
「よく似合っている」
甘い声と共に、はだけられたシャツの前に甘いマスクが埋められ、平たい胸や腹に唇が押し付けられる。
「可愛いディエゴ。男の子にこんなことを言うのはおかしいだろうが、許してほしい……」
ディエゴは自分よりも低い位置にきたその頭を撫でた。
「別に、嫌な気はしねぇ」
「まさかローマに来てこんな事になるなんて、こんなに魅力的な子と出会ってしまうなんて……君は私の天使だ」
慣れた風で言われながら、荒くなった息が胸に当たるのを感じる。
「……そんなんじゃねぇよ」
聞こえるか、聞こえないかの音量で言い返した。
否定こそすれ、雰囲気を壊したくなかった。相手が自分の魅力に飲まれ、酔いしれ、夢中になっている様を見ているのは、征服感のような、肉体的な快楽とは別の快感で満たされるものだ。
またもつれ合うようにしながら、後ろ手に扉を開き、手を繋いで廊下へ出る。ベッドルームに行く前に、来た道を引き返してキッチンへ向かう必要があった。キッチンはリビングを抜けた先にある。
話題のインテリアデザイナーと共に一式を揃えた自慢のリビングに行くと、テレビが点いていた。これまで何度放送されたか分からない、古い映画がまた流れている。
ローテーブルを挟んだ位置にあるソファーには、ここへ運び込まれた時と同様、白と黒の大きな体が横たわっていた。物置部屋から持ち出したいつものブランケットをかぶり、静かに目を閉じている。
「アルフィオ、アルフィオ、起きろ」
ディエゴはまるでいつもそうしているかのように慣れた風で腕を伸ばし、その体を乱暴に揺する。まだ傷は癒えていない。
呼ばれたアルフィオが目を開けてふり向くと、裸にシャツ一枚を羽織ったディエゴと手を繋ぐ見知らぬ男が居る。
状況が理解できていないのは、客人も同じだろう。呆然とソファーの上を見つめている。
「…………」
アルフィオは何と言い返すべきか分からないようだった。唇がぎゅっと引き結ばれ、横に伸びる。喉に何かを詰められたように、喉仏こそ上下するが、言葉は出て来ない。ただ黒目を右往左往させる事しかできない。
そこへ、ディエゴが有無を言わさぬ様子で言う。
「今夜は物置で寝てくれ。こんな映画、何度も観てるだろ?」
テレビの白っぽい光を受けた両眼がぎら付いていた。
命じられた通り、慌ただしく起き上がるアルフィオ。ブランケットの下には、〈プライベート・ドクター〉から貰った、ワンピース型の古い病院着を着ていた。
動揺しているのは明らかだった。動かせる手でソファーに上げていた足を下ろし、床に置いた杖も突かずに立ち上がる。裸足のままブランケットを引っつかみ、小脇に抱え込んだ。
「いい夢を。また明日」
そう言ってきた同居人の顔を一瞥する暇もなく、片足で跳ねるようにしてリビングを出ていった。
尻尾を巻いて逃げ出した犬か、跳ねていくウサギのようなその様子を見届けたあと、トマゾは不思議そうに向き直った。
「ディエゴ? いまの彼は……」
しかしディエゴの方はすでに火がついてしまっており、燃え上がるのを待っている。いちいち説明している余裕などない。
「いいんだ、気にしないで。ただのルームメイトだから」
そう言って相手の顔を両手でつかむと、また唇を寄せていく。
こんな風になるのは久々の事だった。
先週出会った犬好きのドナテロとはあの後、一夜限りの関係で終わってしまった。相手の視線に気付いたディエゴは興味本位で身を任せてみたのだが、やはり相性が合わなかったのだ。
小さな狂犬ディエゴが、『キアーロ』の店長パオラから〈ウサギ〉と呼ばれるゆえんは、臆病さではなく、その性生活にあった。
ウサギは復活祭 において多産のシンボルであるように、繁殖力が高い。
というのも、他の多くの動物と違って発情期が周期的ではなく、条件さえ揃えばいつでも行動に出てしまえるのだ。オスのウサギはその性質から成人雑誌のモチーフにまでなっており、自分より弱いと判断すれば相手がオスであっても発情し、マウンティングやスプレーなどを起こす事がある。
“彼女”らがディエゴを〈ウサギ野郎〉と呼ぶのは、ドナテロのように迫ってくる男性を、好みとあらばすぐに相手取ってゆくからだった。今夜のトマゾもそうだ。廃棄物の山積所で再会したチーロも、背が高く、顔立ちの整ったルカに向かって「デカい男と見ればすぐに持って帰ってしまう」と話していた。条件さえ揃えば、いつでも行動に出てしまう、ウサギ野郎なのだ。
抱き合ったまま、ソファーになだれ込む。
シャツ越しの背中がいやに温かく、先ほどまで寝ていたアルフィオの体温がそこに移っているのが分かった。
覆いかぶさり、キスを交わす甘いマスクが、点けっぱなしのテレビに照らされ、深い影を乗せている。
キスに男女の違いはない。吸い付いたり、押し付けたり、唇で唇を挟んだりする。そこに舌も加えて、息を上げ始める。余裕の無さそうな下半身とは裏腹に、乱れきる直前の紳士然として、若いディエゴにさまざまなキスを繰り返してきた。
「ワインを取ったら、ベッドルームに、行くから……」
ディエゴはされるがまま顔を見上げ、その頬に指をすべらせ、タトゥーの入った腿をすり付ける。
しかし吐息混じりに、ここで、このまま、と小さくねだられてしまった。
ディエゴはひとつ息を吐く。
「……そう言うと思ってた。情熱的なのがいいよな」
脚を絡ませ、キスを受けながら、ソファーのクッションの裏に手を入れた。忍ばせていたスキンを取り出す。フィルムを噛み切り、下方へ手を伸ばして中身を装着させる。トマゾは下半身が毛深かった。
***
翌朝、アルフィオは物置部屋から出てきていなかった。
ディエゴが二人分の朝食を準備したところ、昨夜連れてきた客人は、朝食は家族ととるべきだと言い、呼んでいたタクシーにそそくさと乗り込んでしまった。
ディエゴが車内を覗き込んで呼びかける。
「また会えるよな? パパ……」
「約束はできない」
昨日の乱れ方は夢だったのかと思わせるほど、冷静な返事だ。
きっちりとスーツを着、タクシーの中でもスマートフォンを取り出し、誰かに電話を掛けている。
「もしもし? ああ、おはよう、ネズミちゃん 。パパは昨日は遅くまでローマで仕事だったんだ」
ドアが閉まる寸前、見えたのは確かに父親としての横顔だった。
「今から空港に向かう。愛してるよ」
走り出したタクシーを見送ってようやく、ディエゴはアルフィオの顔を見ていない事に気付いたのだ。
物置部屋の扉をノックをしても返事がないので、扉越しに呼び掛けた。
「おはよう、アルフィオ。起きているか? 具合でも悪いんじゃねぇだろうな?」
しばらくしてから、こもった低い声がした。
『ゲイだから神を嫌うんだな……そうなんだろう?』
突然の問いかけに驚いたディエゴだったが、その表情はアルフィオには見えない。すぐに苛立った声で返す。
「……神の話はするなって前に言わなかったか?」
『この問題は避けて通れない。ディエゴ、お前も教会に行くんだ。そうすれば───』
最後まで聞く耳を持たなかった。硬い革靴で、目の前の扉を勢いよく蹴りつけていた。
ドン! と大きな音が響く。
扉越しの説法はぴたりと止まり、木製の扉はびりびりと震えた。
「そんな古代人より遅れた考え方を持つ奴がまだ居るとは驚きだ」
古代ローマ時代から、男色は存在していた。かの有名な英雄ガイウス・ユリウス・カエサルや、ローマ帝国が最も栄えた時代の五賢帝らがそうだったように、男性が美少年を寵愛するのは珍しい事ではなかった。
制度化こそされていなかったものの、少年愛は結束を強め、青少年を立派な男性となるよう教育する目的を持っていたのだ。
英雄は色を好むというが、その代表とも呼べるカエサルは世界三大美女の一人、エジプトの女王クレオパトラをはじめ女性とも関係を持った、いわゆる〈両刀使い〉であった。彼は現代においても「すべての女性の夫であり、すべての男性の妻」と呼ばれる。
少年愛のみならず、固い絆で結ばれた男性同士が友愛の先にそうした関係を持つのも自然な事だった。まだキリスト教が国教とされていなかった時代には、同性同士の結婚の記録も残されている。
パートナーの死を嘆き悲しみ、巨大な霊廟を建てたり、彫刻を造らせたりしながら、彼らは後世に語り継がれるほどの深い愛情を示してみせた。
昨夜のディエゴのように男性同士での性行為において受け身である事は恥とされたが、それも過去の話だ。
いつもの怒鳴り声ではなく、扉に顔を近付けて静かに告げる。
「オレが何で怒ってるか分かるか?」
物置部屋からの返事は無い。
偏見というものは長い年月をかけて積み重ねられ、無意識のうちに感覚へと根付き、嫌悪感へと結び付いているものだ。特定の感覚を抱く事に対して、その理由を聞かれて言葉で説明するのは困難だ。
特にアルフィオは、話すのが得意ではない。ディエゴの質問に、求めている答えなど初めからなかった。
「いいか? 同性愛は病気じゃない。教会に行こうが、医者にかかろうが、治るモンじゃねぇんだ」
たとえば医療のベテランであるネヴィオは、ディエゴを散々からかいこそすれ「治療」しようとした事などない。
精神医学の分野において、『同性愛は病気でない』と結論付けられたのは一九七三年のことだ。
それまでは同性愛を治療すると銘打ち、嫌悪療法や臓器移植などの手段が取られていた。嘔吐やてんかんの発作を起こす薬物を注射されたり、火傷を負うほどの電気ショックを与えられたり、分泌物に異常があると信じ他人の精巣を移植されたりと、およそ人道的ではない方法だった。
驚くことに二○二○年現在においても、同性愛者の矯正施設なる物は存在する。その中では治療プログラムと称し、入所した青少年たちに、自身らは間違った存在だと洗脳をかけ続けるのだ。ゲイである事を“克服した”職員がおり、目指すべき手本であるかのように振る舞っているという。
片や他人を愛する事を教え、立派な成人に育て上げるため、片や自身の抱く性愛や自分たちという存在は間違っていると思い込ませるため──古代ローマ時代の男色文化と現代の同性愛矯正プログラムは滑稽なまでに相反している。
『……そうじゃない。ディエゴ、お前は勘違いを』
まだ食い下がろうとしてくるアルフィオに、ディエゴはもう一度、強く扉を蹴ってみせた。
狭くて暗い物置部屋にいるのは、大きい図体をしていながら、雷にも怯える臆病な犬らしかった。ぴたりと鳴き声が止み、縮こまって震えている様子さえ想像できる。小さな犬ほど身の程を知らずよく吠え、大きな犬ほど怖がりなものだ。
「分かったか ?」
脅すように問いかけるが、相変わらず返事はない。
動物愛護法によって守られ、リードも着けずに街中を悠々と歩く小さな彼ら彼女らよりも、死に損なって行き場を失ない、家の中に閉じ込められている男のほうが哀れでさえある。
ディエゴは一度深く息を吸い、扉越しに呼びかける。
「三つ数えるうちに出てこい。一緒に朝メシを食うなら、これからも家族で居させてやる」
せっかく準備した二人分のトーストとゆで卵、コーヒーは、まだ冷めていない。フルーツを入れたヨーグルトもたんまり残っている。
「もし出てこないなら……」
物置部屋の中で、がさごそと動く音がして、言葉を切った。
堅い物が壁にぶつかり、床に倒れる音、軽い物がいくつか散らばる音が続く。物置部屋に持ち込んだままにしていた椅子、不安定な状態で壁に立て掛けていた棚や、そこに入れた荷物を思い出させる。
それから、重い物を引きずるような音が近付いてきた。
三つ数える前に、扉は開いた。
しかし目線より高く予期した位置に色白の顔はなく、扉がひとりでに開いたように見えた。
足元から声がする。
「俺が容易に動けないのを知っているくせに」
アルフィオは歯を食いしばり、床を這って来ていた。部屋の中には、家主が思い出した通りの物が散乱している。
「昨日、杖をリビングに忘れた。ディエゴがあんな事をするから……」
床に倒れた体が恨めしげに見上げてくる。ひと言も発さず、逃げ出すようだった姿が思い出される。突然起こされた事に驚いただけではなく、家主と来客の関係を忌避するような態度ですらあった。
差し伸べた手を、灰色の瞳が不自然なほどしっかりと追いかけてくる。ディエゴはまた苛立ちを覚えた。
「触られたらゲイが感染するとでも思ってんのか? バカなやつ。そのまま犬みてぇに這いずってろ」
「そんなこと言ってないだろう……思ってもいない」
弱々しい声と視線が、起き上がらせてやろうとした手の動きを、やはり追いかけてくる。
「なら何なんだよ、その目は」
「動いてるものがあると追いかけてしまう。自然な事だと思うが」
正直な返事に、思わず吹き出してしまうディエゴ。喜怒哀楽が分かりやすく、機嫌の変わりやすいのは昔からだ。
「お前は本当に、犬みてぇな奴だよな」
仕方なく肩を貸してやる。
立ち上がった長身の体は、それほど重くはなかった。片脚しか使えないが、重心が安定しているので以前のような負担はないのだ。
連れ立ってキッチンに向かいながら、アルフィオが小さく告白する。
「……イル・ブリガンテでは〈忠犬アルフィド〉と呼ばれていた」
「忠犬アルフィド? あの忠犬フィドから取ったのか?」
「誰が言い出したのかは知らない。おまけに主人の名前がカルロだったからな」
アルフィオの口調が過去形になっている事に、ディエゴは気付かなかった。見ず知らずの者が付けたというニックネームが可笑しかった。
「それ、気に入った!」
先程の苛立ちなどすっかり消え、笑顔になっている。
すぐ隣にある横顔を見上げた。
「相変わらずオオカミにも似てる」
包帯の下にあるのは相変わらず色白く、美しい顔だったが、出会った時より少し伸びた黒髪がその目元や耳にかかり、隠すようになり始めていた。
かつての忠犬アルフィドはため息を吐く。
「どちらにしろイヌ科でしかないんだな……」
「満月の日はまだ先だ。変身するなよ、〈オオカミ野郎〉」
ウサギ野郎ディエゴはまた笑い、慰めるようにその広い背中をさすった。
ダイニングテーブルにつき、向かい合って朝食をとった。白と黒の大型犬を引き取ってから三週間が経つが、生活サイクルの違う二人にとっては初めての事だった。
病院着から出た片腕は固定され、もどかしくトーストにジャムを塗るアルフィオの様子は不憫そのものだ。顔の腫れはひいたものの痛々しい痕は大きく残っているし、鼻の上にもガーゼが貼られている。
「お前の服を用意しなくちゃな」
おもむろにディエゴが提案した。
これまでアルフィオは全身に包帯を巻いたミイラ状態で過ごし、寒ければブランケットやガウンを羽織らせていた。
しかし昨夜の来客の驚いた顔は、家に他の住人が居た事と、彼の生々しい傷痕や痣、包帯やガーゼの存在両方に向けられたものだった。当人たちは慣れてしまっていたが、やはり家の中でもこんな格好で過ごすのは不自然ということだ。
「どんな服が好きだ? レザーか?」
血だらけでボロボロになったレザーの服とシャツは、捨ててしまった。下半身には何も着けていなかった。足元も常に裸足だ。
「黒は仕事の時に目立たないし、レザーは丈夫だから。それだけだ」
アルフィオは淡々と答え、垂れてきた前髪を耳にかける。その丈夫な素材すら破ってしまう暴行を受けて、なお生きていた。
「そろそろ髪も切りたい頃だろ」
「ハサミがあれば自分で切る。もう何年もそうしている」
「へえ、器用なもんだ」
感心したディエゴは、ふと思いついて質問する。
「人を殺すのが仕事だったんだよな、忠犬アルフィド?」
「お前まで……まあ、いい。それがどうした?」
呼ばれたアルフィオはわずかにうんざりしたような表情を見せたが、そのニックネームを教えてしまったのは自身である。
トーストをかじり、咀嚼しながら訊ねるディエゴ。
「ハサミで人を殺せるか? オレの仕事仲間には、ペン一本で殺した奴がいるんだ」
アルフィオは少し考えるようにした後、マグカップを置き、包帯の巻かれた片腕を動かしづらそうに上げて見せた。
「ペン一本も必要ない。この腕さえあれば」
「今は使い物にならないみてぇだけどな?」
意地悪く言われ、またうんざりしたようにため息を吐く。
「……俺はディエゴを殺そうなんて思っていない」
「え?」
「ハサミを貸したら殺されるかも知れないと、警戒したんだろう?」
その言葉に、ディエゴは歯型のついたトーストを持ったまま固まった。
アルフィオはさらに続ける。
「俺は楽しんで人を殺すようなイカれ野郎じゃない。仕事だったから、命令だったから、従っていただけだ」
きっぱりと言い切る口調に、呆気に取られる態度と、普段の二人が逆転したようになる。
我に還ったディエゴはトーストを見つめ、独り言のようにぽつりとこほす。
「アルフィオに殺されるなんて、考えつきもしなかった……」
「そんな馬鹿な。それ以外にどうして聞く必要があったんだ」
「ただの興味で聞いただけだよ。この家では、食事の席で仕事の話をしても良いことになってる」
あっさりと言い、残りのトーストを頬張る。
アルフィオは何かを考えるようにしばらく沈黙し、
「……俺も、一つ聞きたい事がある」
と改まって切り出した。
「初めて会った日から考えていたんだ。ディエゴは警戒という言葉を知っているか?」
珍しく、皮肉めいた口調だった。暴力や殺しの世界で生きている自分たちにとって、あって当然と思っているそれが欠けていると言うのだ。
ゆで卵の殻を割っていたディエゴが視線を上げる。
「自分はどうなんだ? 何で死にかけたか、思い出してみろ」
「俺は……あの時は何年も一緒に暮らしたファミリーが相手だったから、つい、気が緩んだ。油断していたんだ」
以前は受け入れたがらなかった出来事を、少しだけ打ち明けるアルフィオ。今も気が緩んでいると言うのだろうか。
「アルフィオこそ、信頼って言葉を知ってるか?」
ディエゴは深く追及する事はせず、同じように訊ねてみせた。
「家族 だったんだろ、それは油断とは言わねぇんだよ。オレがお前を家族と思ってるのと同じで、裏切られたのは不運だっただけだ」
しかしアルフィオは納得できない様子だ。
「まだ知り合って一ヶ月も経っていないのに、よくもそんな……」
油断ではなく信頼だったと言うのならば尚更、そんな相手に裏切られ、殺されかけた傷は簡単に癒えるものではない。警戒心の無さは他人と繋がる事を容易にする魅力でもあったが、能天気とも言えた。ましてや、明日生きているかどうかも分からないという意識から家庭はおろか恋人すら作らなかった孤独なヒットマンには理解できないらしい。
「何年も一緒に暮らした家族に裏切られた奴なら目の前に居るけどな」
ディエゴはスプーンを口に運びながら軽い調子で応じた。
手を止めたアルフィオがふたたびため息をつき、訴える。
「……仮に、家族と思っているなら恋人を紹介しておいてほしかった」
「紹介?」
「ああ、ゲイだから言い出しづらかったのかも知れないが、来ると分かっていれば俺もソファーで寝たりしなかった」
「どうやって紹介するんだよ? 昨日知り会ったばっかりなのに」
ディエゴが不思議そうに聞き返すと、ガーゼの上についた両眼がこぼれ落ちそうなほどに見開かれる。今まで以上に信じられないと言いたげに。
「その日に知り合ったばかりの男と……寝たのか?」
「そんなに驚くような事か? 都市部で声をかけられたんだ。家族も居るみてぇだし、恋人になれるのは生まれ変わってからかもな」
冗談まじりに言い、話している相手の身持ちの堅さと敬虔ぶりを思い出し、先回りして制する。
「説法はやめろよ? 思うままに生き、人の生き方には口を出すな、って言うだろ」
しかしアルフィオが気にしたのはそこではなかった。
「やはり警戒心が無さすぎる。マフィアというのは本当なのか? ナポリでゴミ集めをしているファミリーなんて聞いた事がない」
途端に、ディエゴが上がった眉尻をさらに釣り上げた。
「いま、イ・ピオニエーリを侮辱したか? クソ野郎」
「侮辱していない。ファミリーの全員がディエゴのようなら分かるが……」
それはファミリーのことこそ侮辱していないにせよ、ディエゴを侮辱していると解釈できる言い方だった。
「ならそっちのファミリーは全員、今のお前みたいに誰のことも信頼しねぇのか? そんな中で裏切られたお前がバカだったって事になるぞ!」
よく通る怒鳴り声が響いた。
アルフィオは一度身をすくめるが、果敢にも言い返してくる。
「だから……ファミリーですら裏切るのに、どうしてディエゴは何も警戒しない? 同じマフィアとは思えない」
傷と痣だらけの彼は自身の経験を元に警告したつもりなのだろうが、何ともまずい言い回しだった。
ローマ育ちの罵声が飛ぶ。
「一緒にするな! お前の死んだ先祖までクソだな !」
先程まで何気ない話をしていたかと思いきや、口論にもつれ込んでしまっていた。常に一触即発の空気が流れているというわけではないのに、二人にはこうした小競り合いが絶えない。
初めて言葉を交わした時より口数の増えたアルフィオだったが、比例して、気に障る失言が増えていた。
元より口が立ち、腹も立てやすいディエゴが天板に手をついて立ち上がり、何倍もの強い剣幕で言い返す。
「そもそもドン・カルロがいい例だ! Il なんて、最初からファミリーを作るつもりもなかったんじゃねぇのか!」
ドン・カルロという名前を出され、忠犬の顔つきが変わる。大きな瞳が翳 った。
「それでマフィアファミリー? イル・ブリガンテが、信頼する相手を間違えるバカ犬の居場所なワケねぇだろ! 追い出されて正解だったな!」
「…………」
傷口を広げるような言い方をされ、うつむき、口を閉ざしたアルフィオに追い討ちを掛ける。
「どうせ今みたいにずっと黙りこくって、言われるまま仕事してただけだろ? イヌ科のクセして群れる事もできねぇのか!」
「…………」
先の主張はどこへ行ったのか、あっという間にやり込められてしまった。
唇を噛む相手に、ディエゴはふと温度を落とす。
「お前がオレを信頼しないのは勝手だ。けど、いつかオレが正しいって認める日が来る」
自信ありげに言い、椅子に座り直すと、ヨーグルトの器に手を伸ばした。
「一晩で信頼できる相手も居るしな。オレは情熱的な男だから分かる」
一方でかなり前から止まったままの食事を見つめるアルフィオが悔しげに言葉を絞り出す。
「……物置部屋の“寝心地”を知っているんだな」
またしても珍しい、多数の意味を含んだ切り返しだ。
にやりと笑みを見せ、唇の端についたヨーグルトを舐めるディエゴ。
「あいにくブランケットの上で死体と寝る趣味はねぇよ」
「死体じゃない。現に生きてる」
「ならさっさと食え、オオカミらしく」
動こうとしないアルフィオが口だけで訂正したが、ディエゴはきっぱりと言い、得意げに眉をはね上げる。
「オレの素晴らしいクローゼットがお前を待ってるんだから」
朝食を終えるなり、ディエゴはベッドルームに戻ってクローゼットを開いた。
「お前の着られるサイズをオレが持ってるワケがないんだけどな……」
例によって、怒りはもうすっかり影を潜めている。言いたいことを言い、問題に決着を付ければ後腐れしないものだ。
杖を突いたアルフィオが片足を引きずり、少し遅れてついてくる。
一人で暮らしていた家のクローゼットには、当然ながらディエゴに似合う物しかない。
平均よりも少しだけ華奢な体型にフィットするサイズ感と、生まれつき明るい髪と瞳、対照的な浅黒い肌に合い、ややあどけない顔立ちに映える色。数自体は他よりこころもち多めに持っている程度だが、ベルトと靴の色は外さない。秋冬物は“犬小屋”にある。
衣類を取り出しては、後ろにあるベッドへ投げていく。
「合わせてみて、似たデザインや大きいサイズを用意しよう」
一度全部出してしまって、適当な物を選ぶつもりなのだ。シャツ、ジャケット、ネクタイにチーフ、ベルト、ズボンがベッドの上に次々と積もっていく。
「色んな店を回って、相談もしたいけど、お前が出歩けるようになるまでガマンだな」
ひしゃげた一着のジャケットを見、アルフィオは息をのんだ。
自家用車やパーティー用のスーツは派手な物を好むディエゴが、先日ナポリで開かれたファミリーとの食事会に着て行ったものだ。
落ち着いた色の地に、複雑な柄を描いた刺繍が、前面にも背面にもほどこされている。わずかに光沢のある素材が使われており、窓から射し込む光の当たり方や目にする角度によって、柄が変化するように見える。袖を通していれば、体の動きに合わせて一瞬一瞬でも違って見えるだろう。
まるでそこに、朝日に輝く美しい翼でも生えているかのように。
「天使……」
背後で、低い声が聞こえた気がした。
ディエゴがぴたりと手を止める。ふり向き、声をかけた。
「何だって?」
よろよろと歩み寄り、ベッドにできた小山から覗いているジャケットを引っ張りだすアルフィオ。
「…………」
返事もせず、感銘を受けたようにしげしげと眺めている。
「それが気に入ったか? オレの一張羅なんだ、服を見る目はあるらしいな!」
クリーニング屋泣かせだったと誇らしげに言いながら見ると、アルフィオの目には、涙が溢れていた。
いくら洒落好きな性格だったとしても、気に入る服に出会っただけで、そんな風になるなど有り得ない。
「どうした! 傷が痛むのか!?」
驚いて訊ねるディエゴ。
治療を受けている間は泣き言ひとつ言わなかった。それが今になって、大の男が涙を流すほど事があるだろうか。
心配して駆け寄った華奢な体に、アルフィオががっしりと抱きついた。
「うわっ!」
予想だにしなかった行動に、思わず声を上げる。
ウサギにとって、大きな動物に突然抱え込まれる事は、捕食される事を連想させる。ペットとして飼育されるウサギが人間に抱き上げられるのを好まないのも、その臆病さと生存本能ゆえだ。
抵抗するのを無理やり抱きしめると、ショックを受けてみずからの心臓を止めてしまう。争う術を持たない臆病者に唯一与えられた、痛みや恐怖から逃れるための最後の手段だと考えられている。
しかしディエゴは、臆病者ではなかった。
「……なあ、アルフィオ? 本当にどうしたんだ?」
包み込んでくる厚い筋肉の感触と体温、確かに動いている相手の鼓動を感じる。自分より大きな男にこうされるのは、昨日の今日だ。悪い気などしない。
「…………」
杖を離した大きな体躯は何も答えず、不自由な腕と、体重を預けるように寄り掛かってくる。されるがまま、ディエゴはその腕をしっかりとつかんでいた。
二人分の体重を支えるよう足を踏ん張っていると、首筋に鼻を埋め、匂いを嗅ぐように擦りつけられる。涙が肌に落ちてくる。
そうしながら、アルフィオが潤んだ声でつぶやくのが聞こえてきた。
「あの時見た天使は、お前だったんだ……」
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