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第六章 動物愛護
近年人気のバカンス地・プーリアへの高速道路を、何台もの自家用車やレンタカーが横切ってゆく。その脇には、犬が一匹。
七~八月のバカンスシーズンには、多くの国民が最低でも二週間、中には一ヶ月にもなる休暇を過ごすため、いっせいに海沿いの地を目指す。
バカンスにペットを連れて行くのは、何かと面倒となる。こうして飼い犬たちはその道中、山道や高速道路に置き去りにされ、捨てられてしまう……
犬や猫をはじめペットを守る法律も多く制定されたが、一方で簡単にその自由や命が奪われているのもまた事実だ。イタリアでは殺処分が認められていないため、新しい飼い主が見つかるまでのケアが必要となる。そのための費用や人手不足も叫ばれていた。
そんな社会問題を、初めて気にかけた様子でテレビ越しに見つめているのは、かつて「忠犬」の異名を持ったアルフィオだ。
腰の高さに合わせた杖を突き、立ったまま、食い入るように画面を見ている。他人事とは思えない、とでも言いだけに。
外から聞き慣れた車の音がすると、室内犬は廊下の方を振り向いた。「猫足」が石畳を滑る音だ。
「ほら、忠犬、二日ぶりのご主人様はここだぞ!」
ガレージのシャッターを閉める音に続いて、廊下の扉が開き、元気な声が帰ってくる。ここローマ近郊にある一軒家の家主ディエゴだった。
一見すると人懐っこい容姿と洒落た衣装に身を包んだ好青年の彼は、傷付いた大型犬を保護した立派な若者であり、友人の“獣医師”と共に治療にあたる親切な介護者であり、そしてナポリを拠点とするマフィアファミリーの一員である。
さらに自身の気に入らない事があると歯をむき出して吠えたてる小さな狂犬でもあり、性生活は奔放なウサギ野郎とも呼ばれている。彼が相手に選ぶのはいつも「デカい男」で、セックスの際は受け身側に回る。そう、ディエゴは同性愛者だ。
リビングで杖を突いて迎えたアルフィオが腰を少し屈め、ディエゴは背筋を伸ばす。抱き合い、互いの頬に唇を押し付けた。
ディエゴは確かに同性愛者で、彼とひとつ屋根の下に暮らすアルフィオは体が大きく、彫刻のように美しく、そして股の間には同じく大きなモノをぶら下げているのを出会った時から知っている。
が、共同生活を送るこの二人の間に、人々が熱く語る恋や愛は交わされていなかった。ルームメイトで友人、そして家族だった。
アルフィオはディエゴの髪やうなじ、服に鼻をすり付け、匂いを嗅ぎ始める。まるで本物のペットの犬や猫が、帰ってきた家族にするように。
「いつもと違う……」
顔を離さず、こもった声で言った。ディエゴが聞き返す。
「違う?」
「血のにおいがする」
遠くを睨むような目をして短く答えた。香水の奥に混じった、ほんのわずかな手がかりをつかもうとする警察犬のように。
「最近、ますます犬に見えてきた」
ディエゴは笑って受け入れているが、忠犬の異名を持つきっかけとなった男には、お目にかかる事さえ簡単にはかなわなかった。
今のアルフィオは一度捨てられ、新たに生きていく場所と家族を与えられたばかりの哀れな犬に似ていた。ゆえに、さまざまな事を恐れている。
人間から虐待を受け、捨てられたペットたちは体だけでなく心にも傷を負い、人間と同じく鬱症状を発する事がある。そうしたペットのケアにあたるのもまた、人間だ。
理由を想定しながら、恐る恐る確認する。
「まさか……誰かを?」
「いや、ちょっとモメただけだ」
あっさりと答えたその体を、大きな眼で探る。
「どこか怪我は?」
「大丈夫だよ。オレはただの仲介業者だし、いざって時はそのつもりだ」
相手がどんな奴だろうとな、と立てた親指を下に向けて見せた。
古代ローマ時代、コロッセオで行なわれていた闘技において、観客たちが負けた戦士を殺すよう要求した時のサインだ。現代もスポーツの試合などで、選手へのブーイングに使われる。
「そんな事、するもんじゃない」
アルフィオは小さく首を振り、また鼻を埋める。
「人殺しなんて、他に能のない人間のする事だ」
二日ぶりの感触を味わうようにしながら、それにしても、とつぶやく。
「七月に入ってから忙しくなったな……」
壁に掛けられたカレンダーは一般的なデザインで、日付の部分に聖人たちの名前が書かれている。瀕死の重症を負い、この家に引き取られたのは三ヶ月前のことだ。鼻や腕、肋骨の骨折や挫傷は「ほぼ完治」という診断を〈プライベート・ドクター〉から受けていた。残るは色白い顔についた痣と、脚の複雑骨折だ。
「毎日夕食を作って待っているのに、帰って来なかった」
わずかに恨めしさを滲ませると、腕の中のディエゴがすかさず反論してくる。
「何日か帰らなくてもお前が飢えないようにしてるだろ? 往診があるなら金も置いて行ってるし」
キッチンに立つようになったのは、腕を動かせるようになってからだ。すっかり鈍った体を起こし、衰えた筋力を取り戻すため、ネヴィオに相談の上、リハビリテーションと家事全般、そして患部の負担にならないワークアウトを許可されていた。
家を出てゆく家主を見送り、トレーニングメニューを終えてからは、テレビを観、本を読み、踊れもしない音楽を聴いて過ごす。掃除や洗い物と、サイズ違いの二人分の服を洗濯してアイロンをかけ、食事を用意してからは、ただ大人しく帰りを待つしかない。
ディエゴが一人で暮らしている事になっているこの家には、ディエゴと連絡を取り合う手段が無かった。彼が外で何をしているのか、例えば空襲を受けたとしても、アルフィオには分からない。
「……ディエゴが居ないと不安になる」
真剣に伝えるが、当の本人は茶化すように返してくる。
「一匹でお留守番もできねぇのか、忠犬アルフィド。番犬はさせられねぇな」
本人から聞いて以来、ディエゴはそのニックネームが気に入ってしまったようで、よく使っていた。
「…………」
上手く伝わらない事に、もどかしく歯を食いしばる。抱きしめる腕に力を込めた。臆病な大型犬はよく躾けられ、吠える事も知らず、話すのが得意ではなかった。
一方でそうされる事にも慣れたディエゴは、点けっぱなしにされたテレビに視線を移していた。
「おい、見てみろよ、アルフィド。お前の主人がテレビに出てるぞ」
画面には最近ますますその名を世間に知られる〈スマート〉なイル・ブリガンテのドン・カルロと妻、息子たちが海辺でバカンスを満喫する様子を発信した、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのページが映し出されている。彼らはメディアが大好きな、いかにもなマフィアらしい。マフィアファミリーもビーチでくつろぐのか、と話題性は抜群だ。富と権力を手に入れる為なら、手段は選ばない連中だった。
「イル・ブリガンテ」には「いたずらっ子」という意味もあるが、動物虐待はいたずらではなく、犯罪である。
今のアルフィオには、やはり捨て犬のような悲しそうな顔をして画面を見つめる事しかできない。
「……もうファミリーじゃない。もう俺にとっての首領 じゃないんだ」
後で知ったところによれば、森の中の別荘で遺体で見つかった男性はただの金融界の重鎮で、殺す必要などなかった。ドンからの命令も、組織の脅威となる元警察などというのも嘘だった。アルフィオは騙されたのだ。何の罪もない市民を殺したとしてファミリーが社会の顰蹙を買うきっかけを作り、追い出される理由となってしまった。
自身がどれだけ信頼していたとしても、裏切られ、殺されそうになった挙げ句、ゴミ同然に捨てられたのは事実だ。当初こそ受け入れられなかったが、体力が回復してくるにつれ、現実感も取り戻してきていた。
「組織を抜けるなんて考えもしないって、あれだけ言い張ってたクセに。お前の忠誠心なんてそんなモンかよ」
ディエゴは軽い調子でからかいながら体を反転させ、自分の愛らしさを理解した子供が親兄弟にそうするように、背中を預けてきた。夏になってからかぶる機会の増えた帽子の似合う小さな頭が、アルフィオの鼻先に来る。
「……俺の意思じゃなかったのは確かだ」
茶色い髪に口元を埋め、言葉を押し出した。
「今、あのドン・カルロが戻ってこいって言ったら帰るか?」
下方から声がする度、振動が伝わる。カラブリアまでは車でも五時間かかるけど、と付け足してくる彼は、そんな事など有り得ないと分かっているはずだ。
「この家を訪ねてくるのはディエゴの友 人 ばかりだろう。誰かが俺を訪ねてきた事があるのか?」
「いや、無いな。人が来てもお前は物置に引っ込むし」
本人の言う通り、アルフィオの不在を嘆き、行方を追ってこの家を訪ねてきた者は一人も居ない。「友人」からの制裁を受けて、死んだものとして扱われているからだろう。自分を拾った男の言っていた通り、組織を抜ける儀式と同じ結果になってしまった。
もう血の繋がった家族からも、居場所だったマフィアファミリーからも、そして世間からも、存在を認められていない。
オオカミは、ほとんどが家族で構成された「パック」という群れで生活する。実直な人間と同じように上下関係を持つ、社会的な生き物だ。
パックは最上位にアルファと呼ばれる優秀な個体がおり、その下に複数のベータ、そして最下層にいる個体オメガから成る。マフィアファミリーの組織図をピラミッドのような三角形とするならば、オオカミの群れの階層は菱形を模すと言えるだろう。
それぞれのパックは縄張りを持ち、ナポリ程度の広さから、大きなものになると大都市ローマほどの面積を持つようにもなる。
彼らに『血の掟』や『毒の誓約』といったものが存在するのかはまだ解明されていないが、鳴き声やボディーランゲージなどでコミュニケーションをとる。
狩りの際は連携して自慢の足で追いかけ、獲物を複数で囲うようにして追い込む。そうして、シカなどの大型動物の群れであっても弱い個体を見極めて狙い、首に食らいついて仕留めるのだ。
では、ターゲットを確実に仕留める“アルフィオ”は、イル・ブリガンテにおける“アルファ”だったのか。
その答えは否だろう。パックの中心となるアルファは、ドンとその妻シニョーラのごとく力のある雌雄のペアで、繁殖の機会を得るのも彼らだからだ。
くだんの個体は妻子もなく、拠点のひとつ屋根の下で共に暮らしていた「家族」からもコミュニケーションがとれないとされていた。ソルジャーでありながら自身より下は持たず、黙々と一人で仕事をこなしていた。さしずめ最下層のオメガといったところだ。
〈忠犬アルフィド〉はイヌ科でありながら、群れる事ができなかった。
能力が高くとも、社会性が欠けていればやがて孤立するのは、人間が最もよく分かっている。浮いた話の一つもない年頃のイタリア男が、売春婦以外とのセックスにありつくのは容易ではない。
しかもそんなオオカミの社会では、群れからはじき出されてしまった個体は、縄張りの隙間を縫うようにして、ひっそりと孤独に生きていくしかない。
孤高を気取っていると思われがちな「一匹狼」はその実、群れからあぶれた落ちこぼれでしかないのだ。
忠誠を誓えば行く宛をなくした者にも住む場所と仕事、そして仲間が与えられる組織の一員でなくなり、人目を避けて生きる今、捨て犬アルフィオはもはやオメガですらなかった。
その身元を引き取ったディエゴはすなわち、捨て犬の新しい主人とも言える。住む場所や食事、着る服を与え、家族同然に可愛がっているのだ。
情報を集めてきたのも、瀕死の体をふたたび歩けるまでに回復させたのも、ディエゴだった。
これは一度死にかけた命である。しかし実際に死んではいない。ならば主人にその命を預け、大人しく従順になるのは、忠犬にとって自然だった。今日もそうして、彼の帰りを待っていたのだ。
寄りかかられた体勢のまま、アルフィオが伝える。
「だから、親愛なるディエゴ。今の俺にとっては、お前が主人で、唯一の──」
しかしディエゴはその言葉をさえぎるように体を離し、向き直った。
「待てよ。よそのファミリーのペットを誘拐した覚えはねぇぞ。懐かれても困る」
目を伏せ、口を閉ざすアルフィオ。思っていることを口に出したとて、受け入れられなければ意味が無い。
するとすぐにディエゴが顔を覗き込むように寄せてきた。
「おバカさんだな、オレとお前はルームメイトだろ? 対等ってことだよ」
目尻の甘く垂れた、見覚えのある笑顔になっていた。いつもの罵倒ではなく、親しみを込めた「おバカさん 」という言葉は、彼にも自分にも似合わない気がした。
それから、今度はいたずらっぽい笑みを見せる。
「あと、そういう情熱的な言葉は、発情したメス犬を口説く時にとっておくんだ」
腹が減った、とキッチンへ向かう背中を、アルフィオは杖を突いて追いかけた。
バカンスシーズンに入り、街は閑散としている。ほとんどの店が閉まり、人の気配も少ない。
だからこそ、このシーズンは狙い目、なのだ。
復活祭 の休暇を過ぎれば、夏のバカンスはどこへ行くのか、いつから何週間ほど居るのか、表の社会はそんな話題でもちきりとなる。皆それを楽しみに働いているようなものだ。
ターゲットがカレンダー通りの生活を送っているのは、殺し屋 にも依頼人 にも都合が良かった。
仲介業者ディエゴが紹介した「仕事」の大半はバカンス地のホテルやコテージ、キャンプ場などで行なわれるだろう。あるいは人目のなくなった集合住宅や街角で、ひっそりと遂行される場合もあるだろう。
仕事を終えたヒットマンから連絡を受け、後金を支払い、クライアントに連絡をすれば、ディエゴの仕事もまた完了となる。
仲介業は、忙しかった。すっかり油断しきった相手を人目のない場所で殺すのは、いつもより容易い。そんな依頼が多い言わば稼ぎ時に、バカンスになど行っている場合ではないのだ。情報収集に、打ち合わせと称した食事会、時には現場の視察やヒットマンの派遣などで、家を空ける時間は増えていた。
キッチンに入り、ディエゴは普段と違う様相に気付く。
「何だ? これ」
食卓にはスライスした玉ねぎと厚切りオレンジのサラダや、揚げナスとチーズを乗せたオリーブオイルのスパゲティ、仔牛肉のソテーなどが並んでいる。
今夜はその奥、冷蔵庫横のキッチンカウンターにワインボトルが置かれ、ヒマワリが生けられていた。花はやや小ぶりで、花弁の黄色は淡い。ざっと見て十本以上で、花束から移し替えたようだ。
街なかにはそこかしこに花屋があり、バチカン周辺では大きな花市場も開かれ、シスターの姿を見かける。が、男所帯に生花など飾る趣味はない。
後ろからアルフィオが答える。
「ディエゴの留守中に訪ねてきた男が居て……もちろん応対してはいない。しばらく待っていたが、玄関に置いて行ったらしい」
「外に出たのか?」
カウンターに歩み寄ったディエゴが振り返って確認してきた。
「枯れてしまうと思ったんだ。だから、つい……」
扉をわずかに開け、隙間から腕を出して引きずり込むように回収した。空き瓶を洗い、一度は陽の当たる窓辺に置こうとしたが、外からの視線が気になり、キッチンに置く事にしたのだ。
「仕方ねぇ奴だな」
意外にも主人は呆れたように言っただけで、さほど怒らなかった。瓶に立て掛けられた小さなカードを見つけ、開封する。手首にシルバーのブレスレットが光る。
「それも一緒に置いてあって……」
「だろうな」
目を通しながら短く応じ、
「あの野郎。このオレが花で喜ぶとでも思ってんのか」
と独り言を言って、口元に笑みを浮かべた。
七月中旬、最高の見頃を迎えたヒマワリはみずみずしく、ブルゴーニュ型のワインボトルに咲き誇っている。一度視線を移し、花に軽く触れるディエゴ。
「種はビールに合うつまみになるんだったな」
用意された夕食を食べながら、今夜もディエゴは赤ワインを飲んでいた。この家で酒を飲むのは一人だけで、同居人はどれだけ勧められても飲もうとしない。
サンタルフィオは伝統的なワインの生産でも知られ、中心部には葡萄とワインの博物館を有する。さぞワインにうるさいかと思いきや、アルフィオは下戸 だった。そのためディエゴは自分の好みで買い付けてきた物を、ワインセラーに常備している。
一方で食材は、キッチンに立つようになったアルフィオが所望したものを買ってくるようになっていた。
シチリア島生まれ が振る舞うのはもっぱらカターニア県の郷土料理だ。バター風味のライスに溶き卵と小麦粉をまぶしたコロッケ、煮込んだ豆類をフェンネルで味付けしたポタージュ、エトナ山を模した真っ黒なイカスミのリゾットでディエゴを驚かせた事もある。
オレンジやピスタチオ、魚介類の豊富な故郷の味は、島を離れてから一度も帰っていなくとも覚えている。
大抵のイタリア人にとって料理とは人生に欠かせないものであり、男女を問わず、若い頃から大好きな母親 に教わるものだ。親子でキッチンに立ち、一緒にニョッキを作るなど、ほほえましく当たり前の暮らしをしていた時期は、アルフィオにもある。
「アルフィオはどんな子供だった?」
唐突に、ディエゴが質問を投げかけてきた。
身の上話はひと通りしていたが、幼少期や、血の繋がった家族の存在はお互いにほとんど知らない。色白のアルフィオは南部の伝統に則って、祖父と同じ名前を与えられた長男であると伝えた程度だ。
アルフィオは口に運ぼうとしていた手を止め、顔を上げる。釣り上がった眉をすぐ上にくっ付けた双眸と見つめ合う形になる。
「静かな子供だったと、思う」
「今も変わらないだろ? それは見れば分かる」
もっと具体的にだよ、と咀嚼しながら切り返され、視線を外し、また考え込む。
「……両親に連れられて、教会には欠かさず通った。聖書も毎日のように読んだし、それが普通だと思っていた」
「それも想像通りだな。何の面白みもねぇや」
訥々と話し、時おり水を飲むアルフィオを急かすような相槌でディエゴが応じる。見ているだけで分かることをくどくどと続けてしまうのも、やはり話す事自体が得意ではないからだ。
「初恋は?」
また唐突に訊ねられ、アルフィオは飲んでいた水でむせた。咳き込む間に、笑い声が聞こえる。
「イタリア男が浮いた話の一つもねぇのは……ってのがウチのファミリーの口癖だ」
恋や愛の話を肴に、美味い料理を食べ、ワインを飲む。パーティーや食事会の場ではごく当たり前の光景であり、楽しい時間の過ごし方だ。
咳払いをし、生真面目に話し始める。
「めずらしい綺麗な金髪で……六月のチェリー・フラワー・フェスティバルで出会ったんだ。しばらく親しくした。ひとつ歳上だったと思う」
もう二十年近く前の話だ、と言う割にはしっかりと覚えている。初恋とは、そういうものだ。
「やっぱり、金髪に青い目の女は人気なんだな」
納得した様子のディエゴに、当のアルフィオは不思議そうに聞き返す。
「どうしてそう思う?」
「オレに聞くな。女の好みが分かるわけねぇだろ」
移民の国イタリアの人々は様々なルーツを持つが、ディエゴのように髪と瞳が茶色で肌の色が濃いのが一般的だ。そして、そんな一般的な男性に好みを聞けば、高確率で「ブロンドヘアにブルーの瞳のかわい子ちゃん」という返事が返ってくるものだった。
ディエゴはワインを一口飲み、さらに質問を続ける。
「それで、その金髪のかわい子ちゃんとはどんなデートを?」
「日曜学校の後に待ち合わせて、一緒に海を見に行ったり、家に蜂蜜を食べに来たり……」
「その後は?」
「高校へ進学すると言って、町を離れて行った。それきりだ」
「それきり?」
「ああ」
拍子抜けしたように繰り返されても、アルフィオはいつも通りだ。
「つまり、相手の女もクリスチャンだったってことか?」
そしていつもながら、質問の意図をつかみかねる。
「……そうだな」
間を空けた挙げ句、出て来たのは短い返事だけだった。ディエゴが見透かしたように指摘する。
「何か言おうとして止めただろ、今」
必要な言葉が出て来なくなったり、適切な言い方ができなかったりする経験が重なると、唇を引き結んで、話す事自体を諦めてしまう事があった。また、嘘をつく事も下手だ。
「素早く答えなければ、怒るじゃないか。どうしてそう短気なんだ」
「お前の話すのが遅いんだよ!」
案の定怒り始め、革靴の底で床を蹴りつけるディエゴ。アルフィオとの会話は、ただでさえ短気な彼を苛立たせやすい。
「何でいつもそんななんだ? 包帯も取れてるのに、まだ口が開かないのか?」
このディエゴという男は声も身振り手振りも大きく、口数が多く、自身と同じだけの会話のペースと、理解力や切り返し、ユーモアのセンスを求めてくる。アルフィオを相手に、だ。
「こ、これでも、かなり話している方だ」
詰まりながら返事をした。一緒に暮らす内、とにかく応答する事を覚えていた。
誰かと電話をしていても今のように、快活に笑っていたかと思えば突然怒り出し、よく通る声と巻き舌を強める姿に、少しだけ慣れたとも言える。大きな声や音を出されれば驚き、話す隙を与えられなければ黙り込んでしまうのは相変わらずだが、応答してもせずとも、気に入らなければ怒鳴られるのは、もはや日常の一部だった。
ディエゴは自身も小さな狂犬でありながら、臆病な大型犬の飼い主として、その日常のすべてを持っている。
「やっぱりおかしな奴。思ったことを言えばいいだけなのに」
それでも、先ほどリビングで言ったように、彼の中ではふたりは対等らしかった。まるで旧友とふざけ合い、喧嘩をするような感覚なのだろうか。
「ディエゴも……おかしな奴だ。俺と話していてイライラするのに、話しかけるのをやめない」
絞り出すように返すと、ディエゴが首を傾げる。明るい色の瞳と、オリーブオイルのついた下唇が照明に光っている。
「話すのは当たり前だろ。一緒に暮らしてるんだから」
「ファミリーからは、いつからかほとんど話しかけられなくなった。俺も、仕事の話や、必要なことだけ伝えて……」
一時は情報を渡せば組織を裏切る事になると頑なに口を閉ざしていたが、組織を離れた今となっては、世間話程度にしかならない。
ディエゴがパチンと指を鳴らす。
「だから捨てられたんだな。大型犬は人気なのに、アルフィオには可愛げってモンが足りねぇ」
「……じゃあ、どうしてディエゴは俺を捨てないんだ?」
怪我をした他人を見つけ、介抱したのは心ある人間として自然だったとしても、毎日腹を立てさせる可愛げのない存在を傍らに置き続けている。
『別のファミリーと二人きりで会ってはならない』
という掟を守るためだったが、その別のファミリーから亡き者として扱われている今はそうする必要性も怪しい。
ディエゴの表情が消える。上まぶたの形のいいアーチが窄められ、輝きも消えた。
いつもの怒号ではなく、静かな声が聞き返してくる。
「このオレがあいつらと同じように、ペットを殴ったり、捨てたりするような無責任な人間だって?」
「そんな──」
慌てて首を振り、否定するアルフィオ。やはり相手の怒りの沸点や引き金はどこに転がっているのか、皆目見当もつかない。あるいは本人にすら分かっていないのではないかと疑ってしまうほどだ。
次の瞬間、気まぐれなディエゴは歯を見せて笑った。
「相変わらず冗談が通じねぇな」
アルフィオは大きく息を吐く。
「……また怒っているのかと思った。ディエゴの冗談は笑えない」
「そもそも笑った事なんかないだろ、お前」
そう言ってディエゴはわざとらしく左右の頬を引き伸ばし、吊り上げる。
「見つけた時にこんな顔してただけだ」
夏の日差しに焼けた顔の中で、白い歯がずらりと並ぶ。歯ぎしりをする。痙笑の表情を再現しているらしい。
アルフィオは相変わらず笑わなかったが、
「……その顔は少しだけ面白い」
と正直に告げた。端正な顔立ちが歪められた、何とも間抜けな有様だったからだ。
「ムカつく。初めて会った時のお前の真似だからな。腫れて、変な色になって、玉みたいな顔してた」
また表情を変え、矢継ぎ早に言い返してくる。「睾丸に似ている顔だ 」というのが侮辱であるのは考えるまでもない。食事の席でも言葉遣いに品が無いのがディエゴだった。
「それで、どうなんだ? 相手はクリスチャンじゃなかったのか?」
突然話を戻され、アルフィオはまた置いていかれそうになる。
「いいや……」
「ほんとに遊び半分の恋愛はしねぇんだな」
噛み砕いた言い方をされ、ようやく質問の意図が理解できる。褒め上手な男性からちやほやされる事に慣れた女性は美しく、気が強く、積極的だが、簡単に体は許さない。
「曲がりなりにもボスお抱えのヒットマンだったんだ。売春婦の一人や二人、囲えただろ?」
あけすけな問いに、止まっていた食事を再開したアルフィオは黙って首を振る。
オレは情熱的な男なんだと決まり文句のように言って、豊富な経験談を話し始める者も居るだろう。一方で、繁栄を目的としない、快楽のための性交を善としないカトリックの教徒である。
「あまり良い思い出はないんだ。彼女たちは気が強いし……話のできない男の相手を嫌う」
「ボスの下で腰じゃなく尻尾を振る方が性に合ってたか?」
「……そうだったのかも知れないな」
「セックスなしの人生なんか、オレには考えらんねぇや」
ディエゴはフォークを持ったまま両手のひらを上に向け、肩をすくめた。体の関係から始まる交際もある現代において、物静かで純朴な少年の淡すぎる初恋など、信じられないと言った風だ。
「それは見ていれば分かる」
口調を真似るアルフィオ。
「情熱的なのは分かるが、誰かと深く愛し合いはしないんだな。法的には同性同士での結婚も認められたと聞いたが……」
浅黒い顔を、不快そうな表情がよぎる。
「うるせえ、お前のケツがその椅子の座り心地を味わえてるのも今のうちだ」
アルフィオが何かを言う前に、ディエゴはまたけろりと表情を変え、ヒマワリの花瓶に視線を移す。
「生き延びたからには、オレみたいに人生を楽しめよ、アルフィオ。さっさとケガを治して、二度目の恋を見つけるべきだ」
食事の時間は、相手に自分を知ってもらう絶好の機会だ。美味い料理とワインがあれば、誰しも饒舌になる。家族が居るなら彼らとの食事を欠かさず、その日あった出来事の報告をはじめ、必要なことは何でも相談し、共有する。それはマフィアの家族 であろうと変わらない。食卓に仕事の話は持ち込まず、ニュースやゴシップ、政治経済、哲学、恋や愛の話に花を咲かせ、意見を求める。
ディエゴのように、若い独り身でありながら一軒家を買い、「家族」の元を離れて暮らしているのはむしろ珍しかった。
「……こんな人生を歩むなんて、俺自身も思っていなかった」
同じようにヒマワリを見つめながら、アルフィオはおもむろに切り出した。
「俺は、祖父と同じ、養蜂家になるつもりだったんだ。兄弟の一番上だったから」
ディエゴが驚いたようにアルフィオに視線を移す。咀嚼を止める。
「へえ、それは初耳だ。見てても分からねぇ」
興味深そうに聞き返され、アルフィオは少しだけ照れくさくなる。
「そうだろう。今まで誰にも話した事がない。両親には司祭になると言っていたし」
「誰にも?」
「ああ、当の爺さんにすら」
「ジェペット?」
「アルフィオだ。俺と同じ。覚えてくれ」
するとディエゴは、目の前に座っている方のアルフィオが、養蜂家としてミツバチを飼い慣らすのを想像し、共有するように語り始める。
エトナ火山の東側。温暖な気候、晴れわたる青空、柑橘系の花の香りの中に立つ、作業服に身を包んだ長身。
祖父から名前とともに受け継いだ養蜂場は広く、木々に囲まれ、豊かさを見せつける。傍らには鮮やかな色をした花の似合う金髪の女性と、小さな子供が数人。
手編みの麦わら帽子の下には、銃口のように鋭く黒光りする視線が覗く……
次の瞬間、ディエゴは吹き出した。
「お前には似合わねぇよ! 今の人生以外、ありえねぇ」
言いたいことを一方的に話し、自身の想像があまりにも現実とはかけ離れていると気付いて大笑いする。そんな楽しげな様子を見たアルフィオも、
「自分でもそう思う。俺には殺ししか能がない」
と応じてから、スパゲティを巻きつけたフォークを口に運んだ。オリーブオイルとガーリックをふんだんに使っても、さっぱりした味付けだ。
咀嚼し、飲み込んだ後、少し間をあけてぽつりとこぼす。
「あの頃は、マフィアとなんて、絶対に関わるものかと思っていたのにな……」
目の前に座るマフィアファミリーの一員ディエゴの表情は、見なかった。
アルフィオの生まれ育った地中海で最も大きな島は、連綿と続く過去から、マフィアと切っても切れない関係を抱える。
秘密組織とは名ばかりで、連日のようにニュースでその存在をほのめかす内容が報じられ、街のいたる所に抗争の犠牲者の名前を刻んだ碑が建つ。それでも大人たちは、見て見ぬふり、知らぬふりを貫いた。まるで目と耳にプロシュートを貼りつけたように。
そんな社会で、シシリアンの多感な少年少女たちが受ける影響もまた、社会問題となっていた。
***
今回の往診の時間、家主ディエゴはまだ家に帰っていなかった。
保護者にあたる彼の付き添いがなくとも、問診に答え、経過を報告し、患部の診察や杖の調整を受ける間、アルフィオの受け答えはスムーズだった。
ひとしきりの診察を終えたネヴィオがローテーブルに腰掛ける。いつも通り、カモミールのハーブティーが用意されていた。
「少しずつだが、来る度に血色もよくなっておるし、口数も増えたようだな」
毎日一緒に過ごしているディエゴには分かりづらい変化だろうが、定期的な訪問の中でそう感じたらしい。
こちらから話しかければ応答はする。しかし、場を盛り上げよう、会話を続けよう、人生を楽しもうという意思が感じられなかった。初めての治療でさえも迷惑そうにしていたものだ。
それがどうしたことか、毎日リハビリに励み、次はどうしたら良いか、回復はいつ頃になるかと未来に希望を持つような質問までするようになっていた。
ソファーに座ったアルフィオもカップを持ったまま、自身の左脚を見下ろした。
「こんなに話せるようになったのは、ここに来てからなんだ」
「あの若造の早口にいちいち付き合っとるのか。道理で傷の治りが悪いはずだ」
体感としては、滞りなく回復している。ネヴィオの嫌味っぽい口調にも慣れていた。
「確かにディエゴは自分の言いたいことばかりだし、俺の話はあまり聞かない」
「ああ、落ち着きがないのも昔からだ」
「夕食が肉料理だっただけで子供みたいに喜ぶんだ」
「こうしていたか?」
ネヴィオは頬に人差し指をつけ、回してみせる。
「いいや、でもこれはよくやる」
答えたアルフィオは自身の指に口付け、天に向けて広げる。
「骨折しても料理の腕は無事だったようだな。美味い料理があれば話がはずむのは当然か」
「食事中もそれ以外でもよく話すし、それにすぐ怒る。俺が話せても、話せなくても……」
「いじめられておるんじゃなかろうな? あのバカは若い頃から生傷が絶えなかった」
「最近も何かでモメたと言ってはいたが……手を上げられた事はない。代わりに扉や床やテーブルをよく蹴っている」
ネヴィオにうながされる形で、現在の生活を話していた。現役から退いた老医師は短気な若者のように急かしたりせず、患者の言葉に耳を傾ける。
「昔の男が聞いたら悲しむな。今度は修繕職人が必要になる」
顔を上げて聞き返す。
「昔の男?」
「住んでいて自慢された事はないか? ここは一流の家具屋が手がけたらしいぞ。頭の軽い若造には勿体ない趣味をしているだろう」
大きな鼻の上に乗せた大きな老眼鏡をふり回すように部屋を見回すネヴィオ。
アルフィオもその動きを真似る。言われてみれば確かにそうなのだが、初めて気付かされたような気分だった。
「……実は、ディエゴのことはよく知らないんだ。質問をすると、いつも怒らせてしまう」
少しためらった後、打ち明けた。
「俺は昔から、話すのが苦手だ。皆、俺と話すのを嫌がるのに、ディエゴはそれを分かっていて、まだ話しかけようとしてくる」
「それで返事が気に食わなければ、また腹を立てるんだろう? 血圧を上げて、寿命を縮めたいのかと言ってやればいい」
老医師の言葉をそのまま受け取り、アルフィオは眉根を寄せる。
「俺がイライラさせて……彼の寿命を縮めてしまっているのか?」
「感情のコントロールができないのは、あいつ自身の責任だ。カモミッラ茶程度では鎮静できん」
アルフィオはカップの中を見つめる。
「……ディエゴは、唯一の家族だ。俺が言うのもおかしいが、できれば生きていてほしいと思う」
親類の余命宣告でも受けたかのような態度に、ネヴィオがわざとらしくため息を吐いた。
「はあ、この家は治療に良い環境とは言えんな。バカとホモが感染 ってしまう」
医療のベテランであり、感染症の知識もあるはずだ。アルフィオは真剣に反論する。
「ゲイは伝染らないと。ディエゴが言っていた」
すると、ネヴィオはカップを置いて立ち上がり、アルフィオの頭をノックするようにコンコンと叩いた。それから耳を近付け、頭蓋骨の中の音を聞くかのような仕草をする。
「何を……」
不可解な行動を訊ねられ、今度は慌てた表情を浮かべてみせる。
「こりゃいかん、手遅れだ! バカは伝染するという論文を発表せねば!」
それが老医師ならではの冗談であるとアルフィオはようやく理解し、そして、吹き出した。
「ははっ!」
声を上げて笑っていた。痙笑ではなく、笑った顔を見せるのは初めてだった。口を開け、少し細まった目の周りには、まだ痣が残っている。
「……バカでも顔に痣のある男は、いい男だ。若い頃に出会った天使が言っていた」
ネヴィオも今まで見せた事のない穏やさで言い、自身の額に広がる大きな痣を撫でて見せた。
アルフィオは顔をほころばせたまま応じる。
「天使を、見た事があるんだな。医療に携わっているから、機会が多いんだろうか」
「あるとも。美しい女性だった。結婚した途端に神が慌てて取り返しにくるほどにな」
プライベート・ドクターが自身のプライベートを明かしたのもまた初めてのことだ。
表立って街を歩けなくなり、どこかの穴ぐらに暮らしているのだろうとはディエゴから聞いていた。単独で行動するモグラの繁殖や子育てについて、詳細はまだ解明されていない。
「結婚、していたんだな」
「もう何十年と昔の話だ」
「〈ブロンドヘアーにブルーの瞳のかわい子ちゃん〉か?」
美しい女性と聞き、思わず訊ねていた。
「ブルネットのシシリアンだ」
あっさりと答えたネヴィオはふたたびテーブルに腰を下ろし、大きな老眼鏡を一度はずした。
小さな目に大きな鼻、皺の寄った口元に、アルフィオは〈いい男〉の面影をそれとなく探す。天使が伝令するのは神の言葉だ。
「……ディエゴには、顔が睾丸に似ていると言われた」
「お前の頭は陰茎だ と言い返してやったか?」
亡き妻を思い出し、穏やかだったのもつかの間、老眼鏡をかけ直したネヴィオはいつも通り口の悪い老人に戻っていた。
「お前もシシリアンならミンキエッテ・パスタでも食わせてやればいい。ほら、言ってみろ、テスタ・ディ・ミンキア……」
向き合い、幼児に言葉を教えるように繰り返させようとする。
「そんなこと、俺にはとても言えない……」
苦笑するアルフィオ。淡い色の唇から歯列がのぞいた。
「歯ぎしりはまだしているか?」
唐突な指摘に、その笑みが消える。目を見開き、はじかれたように相手を見る。驚いていた。診察中に歯ぎしりをした記憶はない。
「人に言われたのは初めてだ……どうして分かった?」
「犬歯が削れておる。ここに担ぎ込まれてきた時からな。薬品を飲まされるずっと前から、癖だっただろう」
ネヴィオはカップに口をつけたまま答えた。
咄嗟に、歯を隠すように唇を引き結ぶアルフィオ。足で狩りをするオオカミは、取り立てて鋭い牙を持たないものだ。
「ストレスがあると歯ぎしりをするのは珍しくない。就寝時は特にな。長年の癖で削れたとも考えられるが」
湯気に曇ったレンズ越しに、大きくなった目が見つめてくる。まだ老眼鏡を外していなかった。何かを見透かそうとするようなそれは、診察が続いている事を示していた。
「……寝ている時のことは、自分では分からない」
「まだあの狭苦しい物置部屋で寝起きしとるのか?」
「ディエゴはここで、ソファーで寝てもいいというんだが、落ち着かないんだ。その……」
ディエゴが見知らぬ男を連れて帰ってくる事は、今となっては珍しい事ではなくなっていた。
誰とどこから帰ってくるのか、はたまたどこかで夜を明かしてくるのかも分からない。ただ人の気配を察すれば、物置部屋に身をひそめるだけだ。
「その食いしばり癖は何か言いかけて止める時の癖だな。頬や上顎の辺りが痛くないか」
次々に言い当てられ、アルフィオは思わず片手で口元を隠した。老眼鏡などかけずとも大きな、灰色の眼で見返す。
「顎の力が強ければ、そのぶん歯茎にも負担がかかる。せっかく綺麗に残った歯が傷んでしまうぞ」
淡々と諭し、カモミールティーを飲み干すネヴィオ。
オオカミは鋭い牙を持たない代わりに、顎の力が強い。自分より大きな獲物に食らいつき、ぶら下がって地面に引きずり倒し、その身を食いちぎるためだ。
「……見ていて分かってしまうのか、驚いた」
患者は手の甲で口元を隠したまま、感心したように小さくこぼした。
ネヴィオは医師免許を剥奪されてなお、「モグリ」のプライベート・ドクターとしてアルフィオ以外にも多くの患者を抱える。据わった肝と物怖じしない口の悪さをもって、マフィアの構成員や犯罪者を相手取っている。立ち上がっても小さな、腰の曲がったその体に、どれだけの知識と経験が溜め込まれているのかは計り知れない。
「若い頃は歯科医を目指しておったものだ」
「そして今は医者ですらねぇ、と」
リビングの入口からよく通る声が飛んできた。先程よりも驚いて顔を上げたアルフィオの体がびくりと固まる。
腕組みをしたディエゴが、廊下につながるアーチに肩を預けて二人を見ていた。いつの間に帰ってきたのかも分からなかった。
ネヴィオは落ち着いており、いつもの調子で返すだけだ。
「感染源のお出ましか」
「ウチのペットの診察が終わったならとっととクソしに帰れよ、玉なし獣医」
歩み寄ってくるなり、ディエゴは相手の大きな鼻先に今回分の診察代を突きつけた。
「ああ、帰るとも。帰ってここを感染症の隔離病棟として登録してやる」
ネヴィオがそれをぶっきらぼうに受け取り、いつものように一枚ずつ数えながら言い返した。
「医師免許もねぇ奴にそんな事ができんのかよ」
「わしが面倒を見た医者は世に沢山おる。協会の繋がりを甘く見るなよ?」
「繋がり? ネズミの通るモグラ塚だろ。かえって病気になりそうだぜ」
「ペストがネズミから感染した割合は四分の一だ。人から人に伝染るほうが危なっかしい」
プライベート・ドクターの受け答えは、相手によって大きく異なっていた。一人ひとりの患者に向き合おうとした医師時代、多くの若者を育てた教育者でもあった名残のようだ。
先ほどまでアルフィオの話を親身になって聞いていたのとはまるで別人のように、ディエゴとは会話のペースも早く、語気も強く、口論のようでさえある。
荷物をまとめたネヴィオが老眼鏡をはずして折りたたみ、ディエゴの鼻先に突き立てる。
「これ以上色んなものを伝染させるな、ホモ野郎 」
「うるせえ! オレは性病じゃねぇし、ヤる時はちゃんと着けさせてるってんだよ!」
怒鳴るディエゴだったが、自然な動きで往診用のバッグを持っていた。
言い争いを続けながら外へ出て行く二人。
トランクを乱暴に閉める音や古いエンジンのかかる音が聞こえても、アルフィオは呆気に取られていた。
「どうしてあんなに喋れるんだ、あのふたりは……」
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