8 / 12

第七章 自立支援

暗くなった帰路を、二台の乗用車が走っている。前を走るのはディエゴの愛車で、もう一台はそこからかなり離れた位置を取りながら、それでも明確な意思を持ってその後をつけていた。 ディエゴは助手席に積んだファミリーサイズのジェラートが溶けないうちに帰らなければならず、後続車の存在も、運転手の正体も知らない。 およそ一週間前から、アルフィオは着実に計画を練っていた。 共同生活を始めて五ヶ月。今や狭苦しい物置部屋から、掃除の行き届いたリビング、バスルーム、洗濯機の中や、キッチンの冷蔵庫、戸棚の隅にいたるまで、この家はすっかりアルフィオの管理下にある。 外に出られない事になっている自分に代わり、入り用の物を買い付けてくるのは家主ディエゴだ。しかし家主とは言うものの家を空けている時間が長く、また彼は警戒という言葉を知らない。一晩寝ただけで相手を信頼していると言い切ってしまうような男だ。 アルフィオの思惑にも、買ってくるように頼んだのが普段はあまり頼まない品物である事にも、気付いていない。生クリームやリコッタチーズなど、準備は万端だった。 ほとんど立ち入る機会のないベッドルームに忍び込んだアルフィオは、足音を殺し、ベッドとクローゼットの間を通り抜けた。定期的な往診と毎日のリハビリの甲斐あって、まだ完治こそしていないが、杖も突かず、腰をかがめ、小走りする事もできるようになっていた。顔の痣もほとんど見えなくなった。 窓辺まで進んで立ち上がり、両手でカーテンをつかむと、勢いよく開け放つ。朝日が射し込んでくる。 「名前の日おめでとう(ブオン・オノマスティコ)!」 普段からは想像もできない大きな声で言った。 ベッドの中のディエゴは一度は何事かと飛び起きるが、窓際に立つ大柄な人影を認めると、ふたたび寝る体勢に戻ってしまう。 「……そんな言葉は久しぶりに聞いた」 眠そうな声で小さく言う彼の周りでは、無教徒であるのもすっかり認識されている。神や教会の話を嫌うディエゴに、聖人たちの話題を持ちかける事すらなくなっているのだ。 しかし五ヶ月前に知り合ったばかりのアルフィオが、それを知る由はない。 ダブルサイズのベッドに膝を突いて乗り上げ、中央に横たわっている体を揺する。 「おはよう、聖者様! 俺の天使! きょうは福者ディエゴ司祭と殉教者たちの日だ!」 「……オレ自身は福者でもないし聖人でもない。あと天使でもない」 主役とも言うべきディエゴはまぶしそうに顔をしかめ、うめき、シーツを引き上げてすっぽりと頭まで隠れてしまう。 本日、九月十一日は彼にとって年に一度の『名前の日(オノマスティコ)』だ。 欧州圏の人々には誕生日が二回ある、とも表現されるそれは、キリスト教にまつわる聖人や殉教者と同じ名前を付けられた者に訪れる特別な行事である。 カレンダーには日付に並んでその日にまつわる聖人の名前が書かれており、ほぼ毎日が誰かのオノマスティコだ。三百六十五では足りないため、複数の聖人が同じ日に定められている場合もある。 一五七八年、ポルトガルの都市コインブラに生を受けたディエゴ・カルバリオは、十七歳でイエズス会に入会し、勉学に勤しんだ。 やがて司祭となると日本へ渡り、北部にあるホッカイドウやトウホク地方を中心に活動した。日本語を学び、「長崎悟郎衛門」という日本名で熱心に教えを説く姿は見る者の心を打った。 しかし一六二四年、ミヤギ県センダイでキリシタン迫害を受け、信徒らと共に捕らえられてしまう。大雪の中を引き回され、凍てつく二月のヒロセ川に沈められ、最期まで信徒たちを励ましながら殉教した。その亡骸は切り刻まれて川へ流されたという…… 死後、その聖徳や聖性を認められた者には「福者」なる称号が与えられ、聖人として数えられる。キリスト教徒にとって聖人になる事は神に近付く事であり、最終目標とも言われる。 かの有名なダテ・マサムネの治める地で、命を落とすまで自身の信仰を貫いたディエゴ司祭と殉教者たちは、その信仰心を称えられて福者となったのだ。ヒロセ川近くの公園には彼らを記念した像があり、毎年二月の最終日曜日には殉教祭が行なわれる。 「アメリカのカリフォルニア州にはサンディエゴという都市もあるだろう」 そんな説明を受けても、こちらのディエゴは迷惑そうに、 「オレは聖人じゃねぇよ」 とこもった声で繰り返すだけだ。 「昨日ディエゴが食べなかった夕食は、さっき俺の朝食になった。きょうは必ず一緒に食べたい」 普段は自分の意見をあまり主張できないアルフィオが、めずらしくはっきりとねだる。 しかし今のディエゴにはその珍しさに気付く余裕も無いらしい。朝が苦手なほうでなくとも、突然起こされれば誰でもこうなる。 昨日の帰りも遅かったのだ。従順な飼い犬アルフィオは待ってこそいたものの、またしてもソファーで寝ており、帰宅したディエゴに寝ぼけたままでおやすみの挨拶とハグを交わした後、まっすぐに自身の「寝室」へ向かったものだ。 今朝はしっかりと目を覚ましており、キルトケットの盛りあがった上に四つん這いの体勢になった。 「夕食は腕によりをかけて作る。他の誰でもない、お前のためだ」 自分よりふた周り華奢な体を潰してしまわないようにしながら、布越しに顔のありそうな辺りにキスをする。その様子はすっかり主人になついた黒い毛の大型犬が主人の顔を舐めて起こしに来たようだ。 「美味けりゃ何でもいい」 気のない返事を続けるディエゴ。 「帰りにバニラ味のジェラートを買ってきてほしい」 「ジェラート?」 「そうだ。ジェラート屋のじゃなく、大きな、ファミリータイプの」 「なんでだ」 「溶けないうちに、早く帰ってくるだろう?」 だから当日まで頼まなかったのだ。スーパーマーケットが開いている時間でないと、夕食の材料が買えない事くらい外に出ずとも分かる。 シーツの中からは眠そうな声が返ってくるだけだ。 「……約束はできねぇ」 それでも、アルフィオはめげない。 「他のドルチェも用意する。何が食べたい?」 「急に聞かれても」 「ティラミス、パンナコッタ、カンノーロ、カッサータ、グラニータ、ジェラートに──」 「うるせぇな、静かにしろッ! 犬の鳴き声で苦情が来る」 よく響く大声とともに、短気なディエゴがついに顔を出した。 いつもは綺麗に剃った顔しか見ないが、口髭がわずかに伸びており、ようやく年齢相応の顔立ちに見える。また昨夜は開ききらないまぶたときっちりと締まったネクタイに隠れて分からなかったが、喉仏のわきに小さな痕がついており、内出血していた。 真上からそれを覗き込む形になっても、アルフィオの吠え声は止まらなかった。 「エスプレッソをかけてアフォガードも!」 「何なんだ朝っぱらから……」 はりきっているのは、アルフィオも自覚していた。 カレンダーに書かれる聖人の日はあくまでも宗派によって認められたものであり、それ以外にも存在する。 現にスペイン出身の殉教者「(サント)アルフィオ」ないし「アルフィウス」はこの家にあるカレンダーには載っていない。同じ名を与えられたアルフィオの故郷では聖人の日として五月十日が定められていたが、町を離れて何年も経っている上に今年は大怪我を負って一ヶ月の頃で、それどころではなかった。 だがオノマスティコと言えば、自分が生まれた誕生日ほどではないものの、友人から電話を貰ったり、一緒にパスティッチーニを食べ、コーヒーを奢ってもらったり、いつもより食事を豪勢にしたりと、本来ならば祝われてしかるべき日なのだ。 「……ったく、はしゃぎやがって」 主役はようやく起き上がろうとし、自分の上に乗っている大きな体を押しやる。両腕を突っ張り、幅の広い肩を押すが、アルフィオはびくともしない。 「ディエゴ」 青みがかった灰色の瞳でまっすぐに見つめる。 「約束してほしい。ジェラートを買って帰ってくると」 「誘われもせずオレの上に乗るなんていい度胸……クソッ、お前、重いんだよ!」 ディエゴが歯をむき出して怒鳴り、身をよじり始めたので、アルフィオはようやくベッドから下りた。 起き上がるなり、まくり上げたシーツを投げつけてくる。頭の上からばさりと載った。 「いつもそれくらい喋ってみろ」 よく通る声とともに、体に触れてくる。視界を奪われた飼い犬アルフィオは回れ右を命じられ、そのまま戸口へと直進し、ベッドルームから追い出されてしまった。 日が長い秋の初めでも、すっかり暗くなる時間。食事の準備を終えたアルフィオは満足げにひと息ついていた。金曜日に肉を口にしないのが伝統であったとしても、ローマに居ながら無教徒を自称するディエゴの家では、彼がルールだ。 「猫足」が石畳を走ってくる音が聞こえる。普段は短気でルーズな性格だが、約束通り、ジェラートが溶けないうちに帰ってきたらしい。 ずっと家に居るので、主人の愛車だけでなく、近隣住民の自家用車やバイク、店に荷物を積み下ろすトラックの音まで聞き分けられるようになってしまった。 しかし、違和感を覚えて立ち上がる。聞き慣れないエンジンとタイヤの音も、こちらに向かって来ていた。 また見知らぬ男を連れて来たのか、と一度や二度ではない経験を元に可能性を考えるが、すぐに打ち消す。 彼はいつも、相手を自身の愛車に乗せて連れ帰って来ていた。それに、そんな関係の相手なら一刻も早く結ばれたいとでも言いたげに、もっと車間距離を詰めているだろう。 あるいはオノマスティコを祝いに来た友人知人たちかも知れないが、そうだとすれば顔の広い彼のゲストが車一台で乗りきれるはずがない。ましてや今朝のあの態度を見て、“あの”ディエゴが自身の聖人の日を祝うために誰かを招待するとも考えにくい。 まだその存在に気付いているかも怪しいものだ。 アルフィオは一度物置部屋に引っ込んでから、リビングにある正面玄関ではなく、廊下の扉を抜けてガレージへ出た。 路上駐車が当たり前の社会で、わざわざ車庫のある家に住んでいるのは、ディエゴが自慢のフランス車にこだわりを持っている事の現れだ。 シャッターの閉まったガレージは暗く、センサーが反応しなければ天井の照明は点かない。奥へ移動し、工具箱を入れた棚や、換えのタイヤを積み上げた物陰に身をひそめる。 しばらくしてシャッターが開き、車が後ろ向きに入ってくる。運転手は、振り向いてこそいるものの、闇に溶け込んだアルフィオの姿に気付かない。 助手席に積んでいた荷物を取り出し、車から降りたディエゴが、ガレージのシャッターを閉めようとする。 「名前の日おめでとう、ディエゴ?」 外から聞き慣れない声がした。ガレージの前の道に、一台の車が停まっているのが見える。 「誰だ?」 振り向いたディエゴが聞き返すと、エンジン音が止まり、運転席から一人の背の高い人影が降りてきた。アルフィオも目を凝らす。すらりとした体型で、その体にぴたりと合ったスーツを着ているようだ。 ガレージの照明が点き、眼鏡をかけた甘いマスクが現れる。 「トンマーゾ! 何でここに!」 ディエゴの嬉しそうな声が聞こえた。 二人に気付かれないよう姿勢を下げ、壁づたいに車体の陰を移動するアルフィオ。コンパクトカーとはいえ、壁と車のドアの間に体が挟まりそうになってしまう。 「もう会えないと思ってたんだ……嬉しい!」 「私も会いたかったよ、何ヶ月ぶりかな?」 普段の狂犬のような態度とは別人のようになったディエゴと、穏やかで優しげな()()の男性の声がする。 アルフィオは運転席のドアの脇、そんな二人の横顔が見える位置まで来ていた。車体に隠れながら、様子をうかがう。 「ああ、ここは私が。聖者様?」 後を追う形でガレージに入り、荷物で片手のふさがっている相手に代わって、シャッターを閉める紳士的な振る舞い。茶目っ気を含んだ呼びかけ。 「悪いな。聖者じゃねぇけど……」 ディエゴも素直に任せる。後に続いた訂正も、いつもアルフィオにするような乱暴な言い返し方ではなく、努めて穏やかだ。 二人は仲睦まじげに視線を絡め合い、家の中へ入ろうとする。 と、ディエゴが扉を開けようとしたその時。 「……お前がディエゴで間違いないんだな」 トンマーゾと呼ばれた男が突然、豹変した。 ディエゴが荷物を落とし、両手を頭の高さに挙げるのが見える。銃口を向けられた時の動きだ。 思わず飛び出しそうになった自分を制するアルフィオ。 「トンマーゾ? 何をして……」 戸惑いを隠せないディエゴの声は悲しげですらある。 男が声を荒らげた。 「トマゾは俺の兄弟だ! 双子の片割れがゲイだなんて、あってたまるか」 恐ろしい形相でディエゴを睨みつける横顔は、つい先ほどの紳士と同じ人物とは思えない。 「父親がお前みたいな若い男と寝たと知って、トマゾの妻も娘も絶望を感じてるんだ。お前は聖者なんかじゃない! 悪魔だ!」 アルフィオは怒鳴り声を利用して足音を殺し、車体の前へ回り込んだ。シャッターとの距離が近く、大きな体を擦らないように気を付けながら。 わずかに姿勢を上げ、のぞき込むように男の手元を確認すると、やはりピストルが握られているのが見えた。 マフィアなど犯罪組織のように違法なルートから入手せずとも、むしろ犯罪歴が無い者にこそ、銃器を所持する許可証は発行される。施設の警備・護身用に小型のもののほか、射撃や狩猟が趣味ならばライフルを所持していても、不思議はない。 握り込まれた銃身は見えないが、間違いなくターゲットの脇腹に突きつけられているだろう。経験が乏しくとも、その位置で撃てば確実に当たるように。 「…………」 アルフィオの唇がきつく引き結ばれる。無意識のうちにその奥にある歯も固く閉じられ、食いしばっていた。 ディエゴの視線はまっすぐに相手の顔に向けられている。本人ではなく双子の兄弟だと判明し、恐ろしい形相に豹変したとしても、その甘いマスクに見惚れでもしているのか。 「あの時はトンマーゾの方から──」 「黙れ、ホモ野郎(ブーゾ)! 汚らわしいお前が兄弟をたらし込んで、俺の家族をめちゃくちゃにしたんだ!」 一方的な罵倒を受けた途端、ディエゴの表情が険しくなる。こうなってはたとえ見惚れていたのと瓜二つの顔立ちであろうと、関係が無かった。 「たらし込んだ?」 聞き捨てならないと言いたげに繰り返し、 「オレがそこらのメス豚やネズミより魅力的なだけだ。悪魔はそっちの方だろ」 わざとらしく挑発する。ピストルを突きつけられている状況すら目に入らなくなったようだ。 顔の脇に挙げていた右手の親指、中指、薬指を折ってツノの形を作ると、自分より背の高い相手の眼前に突きつけ返した。男女を問わず、それがどれだけの屈辱を与えるものか。 パートナーに不貞を働かれた者は、頭から悪魔のように角が生えると言われている。トマゾの兄弟を名乗る男のことも、トマゾの妻と娘に対しても、侮辱しているのだ。 「なんて奴だ──殺してやる!」 怒号が響く。手元を操作するのが見えた。左手でピストルの安全装置を外したらしい。 アルフィオはまだ動かない。下手に動けば、男を仕留めたとしてもその銃口の先に居るディエゴにも被害が出てしまう。 男は怒りに震える声の調子を落とし、途切れがちに命じる。 「殺してやるが……その前に懺悔しろ。神と、俺の哀れな家族に」 「断る」 ディエゴはなおも不快感を顕に、はっきりと拒絶した。 「オレは無教徒だ。神なんて×××だ(×××・ディーオ)!」 またしても吐き捨てられたそれは、自分にこの運命を与えた神を侮辱する最低の言葉。たとえ今この時殺されそうになっていたとしても、聖者であろうと天使であろうと、口にすることは許されない。 しかし目の前で起こる飼い主の危機に神経を集中しきった〈忠犬アルフィド〉にとっては、聞き覚えのあるそれが合図となった。 トリガーに指を掛けた男の死角で、長身は車のボンネットに乗り上げていた。 エンジンをカバーする金属板がへこみ、重いものが跳ねる音。照明が影に覆われ、接触の悪くなった電球のようにガレージがちらつく。 アルフィオはボンネットを蹴って跳び上がり、サンルーフの上を経由すると、ディエゴの背中と助手席のドアの間に滑り込むように着地した。 瞬く暇も与えなかった。 ディエゴの華奢な体を素早く右腕で抱え込み、そのまま家の扉に押し付ける。向けられている照準から外れるよう、大きな体で覆い、かばうように。 同時に上体をひねり、左腕を男の鼻先に突き出した。その先の白い手には、ピストルを握っていた。 「…………」 手入れの行き届いた銃口と同じく鋭い視線の上、髪と同じ色の眉の間には深い皺が刻まれている。狙いを定めるまでもない距離。口輪筋が引き攣り、少しだけ開いた唇からは歯ぎしりが漏れた。 黒い影が視界をよぎった直後、突如として現れた謎の男、視界から消えた憎き存在、そして自身に向けられた銃口。 いずれに男が反応するより先に眼鏡が割れ、甘いマスクに、ぱっ、ぱっ、と赤黒い穴があく。 血が吹き出し、整った凹凸の上を流れ出す。 撃たれた男は仰向けに崩れ落ちるようにして、閉じたシャッターへ倒れ込んだ。 「……無事か?」 ようやっと動くようになった口で、アルフィオが訊ねた。 ディエゴはその胸の中で、眉根を寄せている。 「苦しい。圧死しそうだ」 いつだったか汗だくになって運んだ大きな体と扉にはさまれ、押しつぶされそうになっていた。命を救われた結果より、いま自分が置かれている状況の不遇。それを訴えてくるのが実に彼らしい。 「神を侮辱した罰だ」 アルフィオは右腕に力を込める。逃げ出せない体を扉に押し付け、痛い痛いと訴えてくるディエゴの髪に鼻を埋めた。 *** 祝われてしかるべきオノマスティコの夕食は、これまでにないほど静まり返っていた。 普段はよく喋るディエゴは不機嫌な態度のまま、せっかくのご馳走に感想を述べる事もなく、大好物のワインにすら手をつけていない。アルフィオは何やら思い詰めた表情で、普段に輪をかけて話そうとしなかった。 つい先ほど命を狙われたディエゴと、それをすんでのところで救ったアルフィオはどちらも自身の行ないを(かえり)みていたが、互いに何を考えているのか、はかりかねていた。 しかし先にそんな沈黙をやぶったのも、やはりディエゴだった。 「ピストルはどこにあった?」 食器を片付け、ダイニングにふたたび腰を据える。これまで何事もなく過ごしてきたこの家で起こった重大な事件に、触れずにいられるはずはない。 「物置部屋の、荷物の中に」 いつもなら率先して後片付けをしているところだが、アルフィオは身じろぎもせず、天板の一点を見つめたまま答えた。顔に垂れた前髪が片目を覆い、白い肌に影を落としている。 思い出したように膝を打つディエゴ。 「ああ! すっかり忘れてた。何年も前にしまい込んだきりだ。よく見つけたな」 「ずっと家に居て、する事がないから、物置の整理と銃の手入れを」 答えるアルフィオは、散歩はおろか外出もできない飼い犬だった。ここがトリノなら罰金刑だ。 くだんのピストルは、リビングのローテーブルに置かれている。鈍い輝きを持つ小さな鉄の塊を一度見やり、視線を戻すディエゴ。 「殺し屋(ヒットマン)っていうのは、本当だったんだな」 アルフィオは思わず視線を上げる。 「疑っていたのか?」 「そうじゃねぇけど、目の当たりにした。あんな無茶な体勢で、正確に……」 「あの距離で的を外す方が難しい。オートマチックはあまり触る機会がなかったが」 天板の上に出した左手を、もう片方の手で触る。引き金をひいたのは、最後の「仕事」以来だった。 「仕事以外で人を殺したのは……きょうが初めてだ」 食事の間に考えていたことを、ようやく打ち明ける。 「誰かが後をつけて来ているのが分かって、ディエゴが危険だと感じた。ひとりでに体が動いていた」 視線は上げず、逮捕された犯罪者が猛省するように言葉を続ける。黒い前髪が片目を覆っていた。 「……前にも言ったが、ディエゴは不用心だ。腹の立つことを言われたとしても、あんな態度を取るのは命知らずとしか言えない」 「確かに。お前が居なきゃ今ごろオレは死んでた」 返ってきたのは、あまりにもあっさりとした返事だ。 アルフィオはテーブルに肘を突くと、組んだ指に目元を埋めた。祈りを捧げるのにも似た体勢になる。 「俺が首を突っ込む問題でないのは分かっている。お前が誰と寝ようが勝手だ。だが、あんな理由で、あんな形で死ぬのは……」 一度言葉を切り、大きく息を吐く。 「……ディエゴには、死んでほしくなかった」 警戒心や信仰心はおろか、品位も、ともすれば貞操観念も無いディエゴ自身が撒いた不運の種だ。しかしそれでも、アルフィオはその死を望まなかった。 「だから俺は……人を殺した。仕事でもないのに。ああするしかなかった……」 ヒットマン上がりが、暇を持てあまして見つけたピストルで、誰に命令されるでもなく他人の命を奪ったのだ。それは紛れもなく、アルフィオ自身の判断だった。 人を殺すにはあまりにも身勝手な理由だったかも知れない。罪悪感に近い感情がのし掛かってくる。後戻りはできない。 天井からぶら下がった照明を見上げていたディエゴが、ぽつりとつぶやく。 「……なら、仕事だったって事にすればいい」 思いもよらぬ提案に、アルフィオは顔を上げた。 「どういう事だ?」 聞き返すと、視線がまっすぐに向けられる。ディエゴがパチンと指を鳴らすのは、何かをひらめいた時の癖だった。 「お前が奴を殺したのは、オレからの依頼だったって事にするんだよ。事後契約にはなるけど」 「何を言って……俺はただの、身勝手な人殺しだ。ディエゴに死んでほしくないという気持ちだけで……」 「お前は人殺しじゃない。優秀な番犬だ」 強い調子にさえぎられ、アルフィオは口を閉じる。 じっと顔を見上げるだけで何も返事をしないでいると、いつものように噛みくだいて説明を始める。 「オレが何を言ってるか分かるか? 番犬アルフィオ。オレは今から、お前を雇う」 それから立ち上がると、テーブルに片手を突き、身を乗り出してきた。 「オレは依頼人(クライアント)と、お前たちヒットマンを仲介するのが仕事だ。オレだけの番犬──用心棒としてじゃない。もう一度、依頼をこなすヒットマンになれって言ってるんだ」 それはこれまでに一度として、二人が考えもしなかった発想だった。こんな出来事が起こらなければ、考えつきもしなかっただろう。 今を楽しく生きる事を最重要とし、先の事はあまり考えない性質のディエゴと、もはやこの家の飼い犬として振る舞うしか選択肢のなかったアルフィオに、また変化が訪れようとしていた。 明るい色の双眸が見つめてくる。 「お前は殺ししか能が無いんだろ? そんなお前だから雇えるんだよ」 早々にその存在や依頼主の危険を察知し、武器を持って身をひそめていた。一瞬の隙をついて飛び出し、不安定な体勢でも確実にターゲットを仕留めてみせた。仲介業者として、その腕を買おうと言うのだ。 「そうすれば、お前のやった事は単なる人殺しじゃなくなる。そんなに思い詰める必要もなくなるはずだぜ?」 ディエゴは彼なりに、アルフィオの態度を見て感じるところがあったらしい。 目の前でいつにも増して話そうとしないアルフィオが、罪悪感を感じていること。いつか自分が命を救った存在に、今度は命を救われた形になったこと。首を突っ込んできたのはアルフィオ個人の判断だが、その要因を作ったのはディエゴであり、それによって生み出された結果を、自身の力で帳消しにするつもりなのだ。 「…………」 アルフィオはようやく少しだけ、表情を和らげる。 ディエゴがアルフィオにそう感じているように、アルフィオにとってもディエゴは何を考えているのか分からない相手だった。声も身振り手振りも大きく、早口で、笑っていたかと思えばすぐに怒り出す。考え方も性にも奔放で、外ではどんな顔をしているのか分からない。それでいて、唯一の家族であり、失いがたい存在だ。 だから彼を守るために、仕事でもない殺人まで犯した。この家とディエゴ自身が、捨て犬だった自分にとって、新しい家族であり、居場所なのだ。 そんなディエゴもまた、アルフィオを思いやっているのが伝わってきたのだった。 「それに!」 ディエゴが一段と声を張り上げた。 「お前はまた外に出られるようになる!」 笑顔まで浮かべる相手とは対照的に、アルフィオは眉根を寄せる。不可解な言動に振り回されている気分だった。 「ま、待ってくれ、ディエゴ……俺にまた殺しをさせるつもりなのか?」 確認するが、上がった温度を落とし切らないまま言い返してくる。 「さっきからそう言ってるだろ!」 「だが、俺の存在は外に知られてはいけないと……ターゲットを毎回この家に呼び出すのか?」 ディエゴは顔の前で手を振った。 「バカ野郎、そうじゃねぇよ! 仲介業は順調でな、別のファミリーから腕の立つヒットマンを紹介してくれって言われる事もあるんだ。お前が仕事仲間になれば、オレと二人で居たっておかしくない!」 勢い付いてまくし立てられ、仕草に腹を立てる余裕もなかった。 クライアントもヒットマンもディエゴにとっては事業の関係者であり、ファミリーに定められた『沈黙の掟』を破る事にはならない。つまり、他のファミリーのヒットマンとして働いていた男の身寄りを引き取った事を、隠す必要もなくなると言うのだ。 「ああ、クソッ、何で今まで気が付かなかったんだろうな!」 ディエゴは自身のアイデアに感激してしまったらしい。上を向いた瞳が照明を受けて光っている。 まだ戸惑うアルフィオをよそに、ディエゴはキッチンの中を歩き回りながら、さらに話を詰め始めてしまう。事業のことになると止まらないのは、彼の持つおよそ南部の人間らしからぬ部分だ。 まず、仲介業者ディエゴがクライアントから依頼を受け、料金を受け取る。そこにはディエゴの受け取る手数料と、ヒットマンへ渡る報酬が含まれている。割高にはなるが、クライアントみずからヒットマンを探し出し、交渉し、依頼を飲ませるよりも単純だ。彼がビジネスとして目をつけたのはそこだった。 「他人を利用して人の命を奪おうとしてる奴が、カネに糸目をつけるはずもねぇしな」 のっぴきならない事情があり、混乱や憔悴していても、殺しは殺しだ。ディエゴは一介の事業者として個人の事情に立ち入りはしないが、本当に必要であれば借金をしてでも依頼してくるものだ。 そうして依頼を受けた次は、その仕事をヒットマンに割り振る。彼らもまた様々な事情を抱え、裏の社会で生きるようになった身だ。仕事──食い扶持と、やるべき事に飢えている。ディエゴは同じ社会に生きるマフィアとして、彼らとも仲間意識を芽生えさせ、友好関係を築いており、事業を立ち上げてからはその(つて)を利用して契約を結んできた。 雇用主と従事者の関係でありながら、ディエゴは彼らを「友人」や「仕事仲間」と呼ぶ。現場に出、危険を犯す彼らが居なければ自身の事業が成立しない。需要と供給によって成立し、労働に対して対価が払われるのが、仕事というものだ。 「働かない者は食えない。きちんと働いた者には、きちんと支払われるべきだろ」 ディエゴは最初にすべての依頼料を明確に掲示し、耳を揃えてクライアントから支払いを受ける。 「前金は三割。報酬から上前を跳ねるような事はしない。確実な仕事をすれば損はさせない」 またテーブルに戻ってきて、指を三本立てた。手首にシルバーのブレスレットが光る。 ヒットマンに前金として報酬の三割を渡し、ターゲットを始末させる。相場より敢えて安くしているのは、持ち逃げを防ぐためだ。 「重要なのは、信頼関係だ。クライアントとオレだけじゃなく、オレとヒットマンの間にももちろん存在してる」 信頼を裏切った者に用はない。ましてや失敗したとなっては、事業の信用問題になる。短気なディエゴでなくとも、顔に泥を塗られて、黙っておけるはずがない。 「前金を持ち逃げしたり、仕事をしくじったヒットマンが居れば、オレがクライアントになって別の奴に依頼して殺す事になってる」 マフィアファミリー「イ・ピオニエーリ」から、その名の通り〈開拓者(イル・ピオニエーレ)〉として、この事業を興した。ゴミ集めとはまったく違う道を切り拓き、軌道に乗せた。それはマフィアという立場があるからこそ成立したのだ。下火の三流ファミリーであろうとその名を借りた以上、それを汚さないようにするのは当然だった。 アルフィオはまたしても、ディエゴのペースに飲み込まれていた。共に暮らす事が決まった時も、相手に口をはさむ暇すら与えないこの一方的な調子に圧倒されたものだ。 「引き受けるなら、お前のやりやすいようにしてやる。銃や車が必要なら用立ててやれるし、死体や、面倒事の処理を引き受ける友人もいる」 「ヒットマン」と言っても、その方法は銃殺だけではない。目的遂行のためには、それぞれのやり方、働き方がある。 元はと言えば綺麗好きの〈エコ・マフィア〉が国じゅうのゴミ処理業を引き受けたのも、自分たちの証拠隠滅を画策しての事だ。その下についたイ・ピオニエーリの管轄にある産業廃棄物処理場にアルフィオが捨てられたのは、イル・ブリガンテの連中がそれを知っていたからだ。 幸運にもアルフィオは遺体として処理されずに済み、今こうしてふたたび、ヒットマンとしての勧誘を受けている。 「また仕事ができるんだぞ? 悪い話じゃねぇだろ?」 言葉巧みにスカウトする様子からは、この事業を通して人生を謳歌しようとしているのが見て取れる。まさに天職。どんな形であれ、他人と関わる事が好きなのだ。 ディエゴは相手と深く関わる事でその事情や特性を知り、仕事を割り振る。お陰で失敗が起きる可能性も低いというわけだ。 やがて殺害完了の連絡を受けると残りの七割を支払い、最後はクライアントに報告をする。いつも電話やメッセージのやりとりをしている姿は、ひとつ屋根の下に暮らすアルフィオもよく見ていた。 「何か質問は(トゥット・キアーロ)?」 ようやく一方的な調子が区切られ、返事ができるようになる。 「……俺の報酬は、しばらく医療費にあたりそうだな」 それで自身の犯した殺人が無かった事になるわけではない。だがディエゴの申し出を断る理由が、アルフィオにはなかった。 押し出すように言うと、ディエゴは目を見開いて否定する。 「ちょっと待て、貸しだなんて思ってない! ペットの世話は飼い主として当然だろ?」 「ディエゴ、この際だからはっきりさせておきたい」 「なんだよ、改まって?」 アルフィオは立ち上がり、先ほどディエゴがそうしたように天板に両手を突いて身を乗り出した。 「あいにくだが……俺の正体は犬じゃない」 真摯に伝えると、ディエゴの表情が歪んだ。 次の瞬間、上を向き、声を立てて笑い出す。よく通る声だった。 「そんなこと分かってる! まさかオレが本気で犬だと思ってるとでも思ったのか!」 ふざけて犬扱いこそすれ、たとえ命の恩人であれ、彼の中で二人の立場は対等なのだろう。 しかしアルフィオは冗談のつもりで言ったのではない。真剣だった。 「それでも良ければ、引き受けよう」 「……分かった、分かった。お前の気が済むならそうしてやるから、笑わせるな」 腹を抱えてひとしきり笑ったディエゴは返事をしたものの、まだ可笑しいと言いたげに膝に手を置き、肩を震わせている。 「ハア……でも、いずれはお前の口座も作らなきゃな。カラブリアの銀行はもう使えねぇだろ」 大きく息をつき、呼吸を整えると、ようやく椅子に座り直した。アルフィオもそれにならう。 「かなり先になると思うが」 「まったく欲のねぇ奴。早いとこ報酬を受け取って、イカした車に乗りたいとか、イカれた女を買いたいとか、あるだろ」 マフィアの主な活動目的は、富と権力を手に入れる事だ。 しかしアルフィオは静かに返す。 「……俺はただ、やる事が欲しかったんだ」 「やっぱり室内飼いは退屈だったか? これからは散歩でも教会でも、好きな所に行けばいいさ」 オレは行かねぇけど、と念を押してくるディエゴに、無理を強いるつもりはない。 「それよりも、居場所が欲しかった。ディエゴの役に立ちたかった。そうしないと、何か仕事をしていないと、いつまた追い出されるか……」 それを聞き、何かに気付いたディエゴが笑みを消す。 「もしかして、食事を作ったり、掃除をしたりして、家政婦みたいに働いてたのも?」 「何もしないのに家族と呼んで、置いておかれるなんて不気味だろう。そんな虫のいい話があるはずがない」 アルフィオは淡々と答えた。 「これからは俺にとってお前は飼い主であり、雇い主……それに友人で、家族で……」 「パートナーってことでどうだ?」 訥々と話すアルフィオの言葉に、ディエゴが割り込んで提案してきた。 「パートナー?」 「これからもこの家に暮らすだろ? ファミリーでもねぇのに、ルームメイトで、仕事仲間で、友人で、ペットで……なんて肩書きが多すぎる」 聞き返すと、親指から順に立てていく。が、途中で数えるのにうんざりしたように手を広げた。 「それに、オレはゲイだ。でもお前とは寝てない。クリスチャンとして、他の奴から誤解されたくねぇよな?」 ルームメイトであり、ペットと飼い主のような男性二人の共同生活は今後も続く。寝食を共にし、これからは一緒に仕事をする。ビジネスにおけるパートナーという表現は、確かにふさわしい。 「ビジネス・パートナーということか」 アルフィオが納得すると、ディエゴは椅子から腰を浮かし、手を差し出してくる。 「犬は、人類の最良のパートナーってな」 「俺は犬じゃない」 「分かってる。くわしい契約やサインはまた後だ。これからもよろしくな、パートナー?」 「……こちらこそ」 握手を交わし、〈パートナー〉としての契りを結んだ。ふたりの間には、まるで共犯者のような絆が生まれ始めていた。 「……ジェラートはどうした?」 はたと思い出して訊ねた。“欲の無い”アルフィオが今朝あれほど懇願したのは、世界中から羨望を浴びるような優越感をくすぐる流線型のスポーツカーでも、愛など口に出す事も馬鹿らしくなるような性的な快感に狂うセックスでもない。ファミリーサイズのバニラ味だった。 話す事すら苦手なのに、他の誰でもないお前のためと、嘘にもなり切らない嘘をついて手に入れようとした。抽出器から注がれるエスプレッソのかかった、人を殺した事に比べればほんの些末な罪悪感にも似たほろ苦いドルチェだ。 「そう言えば……たしかに買ってきたはず」 ディエゴも言われて思い出したようにつぶやく。溶けないうちにと買ってきたのに、二人とも色々な事があってすっかり忘れていた。 「ガレージだ!」 アルフィオは叫ぶなり立ち上がり、つまずきながら駆け出した。その俊敏な動きを、ようやく真相に気付いたよく通る声が追いかけてくる。 「お前、オレの名前の日にかこつけて自分が食べたかっただろ!」

ともだちにシェアしよう!