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第八章 防災運動

ガレージの前には、一台のスポーツカーが停まっている。逆三角形型をしたフロントグリルに特徴的なエンブレムを掲げ、鮮やかな赤色をした車体は丁寧に磨かれている。二人乗りだが、中には誰も乗っていない。 運転手だった人物は顔を二発撃ち抜かれ、ガレージのシャッター裏に倒れている。 「ディエゴ!」 アルフィオが慌てて戻ってきた。案の定、左手には、すっかり溶けて白い液体になってしまったジェラートのしたたる袋が提げられている。 リビングに仁王立ちになっていたディエゴがその顔を睨む。 「……ったく、ジェラートが溶けたくらいで」 呆れて言いかけた言葉をさえぎるように、アルフィオが右手を突き出してくる。握られていたのは、ひびの入ったスマートフォンだった。 誰とも連絡を取らなくなったアルフィオは、スマートフォンを持っていない。最後の「依頼」の前に森の中に置いてきた車も、ターゲットを射殺したピストルも、脱がされたズボンと下着とブーツも、今はどうなっていることか。 「さっきの男の、ポケットの中で着信音が聞こえて……」 飼い犬が拾ってきたのはガレージに倒れた死体の持ち主、トマゾの兄弟の物だ。 着信を知らせる画面には『 Tomaso(トマゾ) 』と表示されている。見えづらいが「m」の字は一つしかない。 もう一度顔を見上げると、アルフィオはひとつうなずいた。ディエゴはスマートフォンを受け取り、通話ボタンをスライドさせた。 「もしもし、トンマーゾ?」 無意識のうちにアルフィオに背を向け、話し始める。 『ディエゴ?』 電話越しに聞こえるのは、連絡先すら交換しなかった相手の声だ。 『君なんだな? 兄弟が家に行ったはず……』 「ああ、さっき来た。家族をめちゃくちゃにしたオレを殺すって……」 直立した飼い犬の視線が背中に刺さるのを感じながら、ソファーに腰を下ろす。 「いや、オレはこの通りだ。むしろ、この電話に出てるのがオレだってのがどういう意味か……」 『……君のした事は正当防衛だ。他人に銃口を向けるなら、自分にもその覚悟が必要だ』 相手の話しぶりが変わった。口調はあの夜と同じく優しいままだが、彼の口走るべき内容ではないように思えた。 『本来なら、私が君を殺すはずだった。友人として、油断させて……』 耳を疑う言葉に、ディエゴは表情が険しくなるのを自覚する。 出会った時に「 Tommaso(トンマーゾ) 」と名乗ったその正体は不明だ。仕事でやってきたビジネスマン風で、優しげに声をかけてきた。帰る時には父親としての顔を見せていた。触れてきた指の感触や手つきからして、ピストルを扱い慣れていたとは思えない。挿入された指の付け根や手首には柔軟性がなく、緩慢な動作でしか動かせないようだった。 「誰かに、依頼されたのか?」 トマゾの正体をディエゴが知らないように、殺しやその依頼で成り立つ社会で生きる身である事は打ち明けていない。だが思わず聞き返してしまっていた。 『くわしい事は知らないんだ。まとまった額が必要で……あってはならない事を引き受けてしまった』 その告白に、ディエゴは察する。 「トンマーゾ、いや、トマゾ。初めて会った時から名前も、何もかも、嘘ついてたんだな。でも嘘にしてはヘタすぎる……」 『確かに中には嘘もあった。だが何もかもじゃない。バスルームで君に言ったことはすべて事実だ』 「すべて?」 『ああ。私は結局家族にも、神にも、誠実になれなかったが……』 離婚手続きは煩雑で、長い別居期間も必要になる。離れたいと思ってすぐに実行できるわけではないこのシステムは、家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)などやむを得ない理由でも、中年の危機(ミドルライフ・クライシス)による気の迷いでも変わらない。自由に人生を謳歌し、華やかな恋愛こそすれ、結婚に対しては慎重になるのも当然だ。その上で結婚し、子供までもうけた相手が、同性愛者だったと判明したショックは当事者以外の想像にあまりある。 何らかのきっかけでトマゾが不倫をした事と、その相手が男だった事を知った妻と娘は嘆き悲しみ、兄弟は怒り狂った。親戚さえ彼はゲイだったのかと議論を交わしているだろう。性的志向が流動的なものであるという事はほとんど認知されていない。やがて兄弟は自分が憎き相手を殺してやると息巻いて、ピストルを握りしめ、車を飛ばした。そして、返り討ちに遭ってしまった。 「……分かった。また会えるなんて思ってなかったし、オレのために家族を捨てろとも言わない。ただ、オレを殺そうとした事は覚えておく」 『実は本当に二度と会えない。もうすぐ天使が迎えに来るんだ』 突然の告白だった。〈死の執行人〉とも言える存在を近くに感じながら、声色はどこか清々しい。 『だから遺していく家族に不自由させるまいと、こんなにも愚かな事を』 ディエゴはいつものように苛立ち、強く責める事ができなかった。 のっぴきならない事情を抱えた「仕事仲間」なら数え切れないほどいる。もし相手が仕事仲間であれば、事情に首を突っ込み、肩入れなどしない。ましてや自分を殺そうとした相手に、情など持っていいはずがない。 だがトマゾは違う。凶器の扱いや他人を欺く事に慣れてない人間が、別の人間の命を狙わなけれならないほどの状況に陥ったのだ。憤るべき対象は、この世での役目を終えようとしている彼ではなく、その裏で糸を引いた存在だろう。 「……やっぱりオレは、天使なんかじゃなかっただろ?」 告げられた内容に、返すのがやっとだった。しかしトマゾは優しく、はっきりと伝えてくる。 『君も私の天使だ、ディエゴ。最期に君と話せて──いや、君と出会えた事が幸運だった。私は自分自身に誠実になるべきだった』 いくつもの意味を含んだ後悔に、胸が詰まる。 『もしも別の形で出会えていたら、私たちは、良き友人になれていただろうか?』 「……友人じゃなくて良かったと思うぜ、パパ」 それ以上、会話を続ける事ができなかった。ディエゴは一方的に通話を切り、スマートフォンをソファーに放り出した。 カモミールティーの匂いがする。ふと気が付くと、カップを二つ手にしたアルフィオが立っていた。通話の内容は聞こえていなかったはずだが、エスプレッソの気分でない事くらいは理解したらしい。 「お前のした事は正当防衛だってよ。良かったな」 ソファーの背もたれに背中を預け、努めて明るく声をかけたが、長身の体躯はまるでマネキンのように立ったまま、灰色の瞳でディエゴを見つめている。 「死体と車の処理は明日の朝イチにしよう。今夜のうちに連絡しておけばいい」 独り言のように言葉を続ける。 ローテーブルには、弾を抜いたピストルと、使い慣れたスマートフォンが並んでいる。すぐに手を伸ばす気にはならなかった。 「……つらそうにしているディエゴを、初めて見た」 アルフィオがようやく口を開いた。背もたれに乗せた頭を転がすようにして顔を向けるディエゴ。 「どんなに魅力的な男にも失恋する事くらいあるだろ」 「失恋したのか?」 驚いたように確認され、苦笑した。 「オレも騙されたって言うべきだな」 不思議そうに立ち尽くしている相手のために、軽く姿勢を起こし、スペースを譲る。アルフィオはカップを差し出しながら、大人しく隣に腰を下ろした。 「一回寝ただけだけど、久々にいい男に出会ったと思った。でも女と結婚してたし、子供も居たし、オレのことを殺すつもりだった。それにもう長くねぇんだと」 二人してハーブティーをすすり、ディエゴだけが話し続ける。 「ちょっと期待してたのがすげぇみじめだ。生まれ変わったら一緒になれるかも、なんてよ」 キリスト教徒の魂は、死後、天国か地獄に行く事を迫られる。カトリックにおいては煉獄で生前の罪を清められた後に天国に向かうとも考えられている。いずれにせよ、新たな肉体に生まれ変わる輪廻や転生という概念は存在しない。ディエゴは冗談交じりに言ったそれがいかに虚しかったかを思い知っていた。 カップを両手で持ったアルフィオが顔を上げ、目元にかかる前髪を払った。ゆっくりと切り出す。 「俺は家族として、今もディエゴに幸せが訪れるように願っている。しかるべき相手と結ばれて……」 「結ばれるなんて期待するだけみじめになる」 かぶせるように言い返した。 「今を楽しむだけで良いんだ。気が向いた時にデカい男と、ワインを飲んで、情熱的なセックスができればそれで」 正面を向いていた横顔がふり向くが、視線はハーブティーに落としたままにする。 するとアルフィオは少し考えるように間をあけ、懲りずに教えを説こうとしてくる。 「誰が誰と寝ようと自由だとしよう。だが、それで別の誰かを、隣人を傷付けるなら……そんなのは愛じゃない」 「愛なんて最初から求めてねぇよ」 またしても強く言い返すディエゴ。 「何でか分かるか? お前の崇める神って奴に、愛する相手──お前の言うしかるべき相手と結ばれるのを邪魔されるからだ。代わりに、信仰するのもやめてやった」 「信仰していた事が、あるのか? 神を」 言葉尻をとらえて意外そうに聞き返してくるのを面倒臭そうに横目で一瞥し、カップに視線を落とした。 「オレは……」 今を生き、人生を楽しむ事に没頭してきた。不足している物ではなく、満たされている部分に目を向けて、他人と付き合ってきた。 そんなディエゴが打ち明けるのは、これまでアルフィオの前で触れずにいた自身の過去だ。 「十代の頃に近所の歳上の男と寝て、家を追い出された。家に同性愛者は要らねぇって。それまでは神のことも、家族のことも信じてたし、愛してた」 カップを置き、考えらんねぇだろ、と頭を指差す。 「相手の家にも行ったけど、知らん顔されて、いつの間にかローマから引っ越して行った。オレは初めて愛した相手にも、神にも、家族にも裏切られたんだよ」 信じていた者、何年も一緒に暮らした家族に裏切られ、行き場所を失なうという経験は、二人に通じていたのだ。 深い眼窩の下、長い睫毛から注がれる視線を感じながら、ディエゴはおもむろに服を脱ぎ始めた。 「ディエゴ? 何をしている」 戸惑った声をかけてくるが、シャツの前を開き、ベルトをはずし、ズボンと靴、靴下も脱ぎ捨てる。 「この際だから証拠を見せてやるよ。どうせ面倒なことを言ってくるから、お前にだけは隠してた」 嫌味っぽく言い、シャツを下ろして背中を見せた。後ろで息を飲むのが聞こえた。 「そんな馬鹿な……」 ディエゴの右肩、うなじの下から二の腕にかかりそうなほどの範囲には、荘厳な十字架を模したタトゥーが彫られていた。キリスト教のシンボルである縦長のローマ十字で、周囲には光が射したように放射状の線が伸びている。 ブラックアンドグレーのデザイン性の高いそれは、ファッション感覚で入れられる事も多い中で、やはり宗教的な意味合いから逃れられない。当時まだ今より若く、世間を知らなかった少年ディエゴは信仰心とともに選択したのだった。 今となっては神嫌いを公言する体にはあまりにも不釣り合いなほど神々しく、なめらかな褐色の肌の上に鎮座している。 「オレが誰かを愛するのは罪で、間違いだ。そんなことを教える奴らに、オレ自身が愛されたって何になる?」 以前アルフィオは、神とは俺たちを愛してくださる存在だと言った。どんな罪でも赦すと。だが、同性しか愛せないディエゴはその教えの中で誰かと愛し合う事が罪とされる矛盾を課せられている。 アルフィオからの返事を待たず続ける。 「だから無教徒になったんだよ。趣味で入れてるって言うために、他のも色々入れたけどな」 シャツから腕を抜き、その場にほうった。下着一枚になった左腕の内側、そして腰と腿にもタトゥーがあった。 前腕に彫られているのは、仏教の開祖であるブッダの座禅姿だ。螺髪頭に、納衣をまとい、薄目を開けて微笑を浮かべている。同じくその姿を身に付けていた観光客がスリランカを訪れた際、入国を拒否されたり、逮捕され、国外追放されたりしたケースがあるのは、やはり宗教的な意味を持つからだ。 そして腿にはヒンドゥー教の神の一柱、ガネーシャを据えていた。四本の腕の生えた恰幅のよい人間の胴体に象の頭を持ち、片方の牙が折れている。信仰の中心となる三位一体には数えられないものの、商業や財産を司るとされる。事業を立ち上げた自分にぴったりなのだと、こじつけられそうだった。 一気に話し終えたディエゴが向き直ると、アルフィオがはっとした表情で視線を上げる。信じられないものを目の当たりにしてから、やっと我に還ったようだ。 「だが……その所為で、死にかけただろう。俺はただ、相手を間違えるべきじゃないと」 訂正しようとする声はまだ平静を取り戻せていない。大きな瞳が左右に揺れ、焦点が合わないようだった。 「オレはただ寝たい相手と寝てるだけだ」 信仰心を反抗心と替えた若者は、あてつけのように次々と惹かれた男に身を任せる事にした。 「好きこのんでゲイに生まれたワケじゃねぇけど、どうせなら人間相手に、分かりやすく体で愛された方が良いだろ」 見せつけるように、自身の腰を撫でる。そこに唯一、宗教的な意味を含まない柄を入れていた。アブストラクトタトゥーは、無駄のない肉体を男性的にも、あるいは女性的にも魅せる。腰周りは、脂肪の少ない男性であればかなりの痛みを伴う箇所だ。それでもディエゴにとっては必要だった。 「誰かと寝ただけで、知らない所で誰かを傷付けてるなんて。オレの知った事じゃねぇ……」 苦々しげに言うと、ふわりと包み込むように両腕が回された。 「哀れなディエゴ……お前自身も傷付いていたんだな。よく分かった」 アルフィオが低い声で言った。座ったまま抱き合う形になっていた。 「確かにゲイなのはお前の責任じゃないし、俺は誰かを責めたり、咎めたりできる立場でもない」 子供にそうするように、大きな手が小作りな頭を撫でる。 惹かれる相手を、みずからの意思で選ぶ事は不可能だ。性的少数者である事実は、本人の選択でも責任でもない。恋愛感情はあれど性欲を持ちえない、性愛とは結び付かないという者もまた存在している。ディエゴはその限りではなく、相手と関係を持ったが、相手の家庭や人生を壊すつもりなどなかったのもまた事実だ。単に目の前に現れた、トンマーゾという男に惹かれたに過ぎない。 「やめろよ、別に同情されたいワケじゃねぇ。余計にみじめになる」 身をよじろうとも、離そうとせず、むしろ抱きしめる力を強めてくる。この腕さえあれば人を殺せると豪語した力に、抵抗の意思を示す方が馬鹿らしくなりそうだった。 「同情なんて、偉そうなものじゃない。友人として慰めたいんだ」 いつか買い与えたシャツ越しに、声の振動や、空気を吸い込む肺臓の音までが伝わってくる。懸命に考えながら言葉を継いでいるらしかった。 「この世界は……多数のために、少数が犠牲になるように、できているらしい。その少数に選ばれてしまった不運から、誰かを恨みたくなる事もあるだろう」 顎を引き、ディエゴの右肩に唇を落とす。信仰心と友情の間で、板挟みになってしまっているらしかった。 「だがディエゴがつらいと、俺もつらくなる……いつもみたいに怒っている方がマシだ」 肩に目元を埋めるようにされ、声が聞き取りづらくなる。 「ディエゴのことはよく知らないが……この五ヶ月、一番近くで見てきた。今もこうして一緒にいるのに、何もしてやれない、ただ祈る事しかできない自分が情けない……」 もはやアルフィオは自分のほうがつらいとさえ言いたげだった。その長い睫毛や癖の少ない黒髪がくすぐったく、直接触れた肌が体温を伝えてくる。 そうされながら、ディエゴはある事に気付いてしまった。 一人だけ、居るではないか。たとえ寝たとしても、誰をも傷付けずに済む、ディエゴ好みの「デカい」男が。 鳴らしかけた指をぐっと抑え、自分を包み込むほど大きな体に手を回せば、従順に応えてくる。 先ほど肩のタトゥーにそうされたのと同じように、白い首に唇を押し付けてみた。珍しい事ではない。頬やその周りにキスをするなど挨拶の一部だ。 アルフィオはやはり拒まない。ただ黙って、受け入れている。 柔らかな髪に指を絡めるようにしながら、唇を付ける位置を高くする。首筋から、耳の後ろ、輪郭、顎とたどっていく。 「ん……」 やっとアルフィオが違和感に気付いたように身を硬くした。わずかに顔を離し、上目遣いに見つめる。 「アルフィオ……」 主人からの呼び方に普段と違う雰囲気を感じ取り、唇を引き結んだ。 そこへ、ディエゴは自身の唇を寄せていった。軽く触れ合うだけのキスをする。カモミールの香りが、甘く鼻を満たす。 驚いたアルフィオはすぐに顔を離し、ディエゴの顔をつかむように片手を添えた。 「ディエゴ、いま何をして……」 親指の腹で相手の唇をぬぐい取るようにする。ただ当たってしまっただけだと言いたげに、まるで汚れを拭き去るように。 それから自身の唇も軽く舐め、灰色の虹彩を左右にさまよわせる。 「相手を間違えるなと……言ったばかりだ」 両肩をしっかりとつかみ、さながら気のふれた友人を正気に戻させるように訴えてきた。 「オレは間違ってねぇ」 しかしディエゴは明確な意思を持って言い、まっすぐな視線で射抜くように跳ね返した。 「見つけたんだよ。寝ても、誰も傷付けずに済む奴を」 アルフィオはクリスチャンで、その中でも長きにわたり同性間の愛とセックスを認めていないカトリック系である。最近は愛のみにおいて容認の動きはあるものの、そんな事を教会嫌いのディエゴが知る由もないし、知ったところで意味など成さない。 重要なのは、彼が孤独である事だ。捨て犬が最も欲し、失なうのを恐れた居場所。今やそのすべてがディエゴによって作られている。 裏を返せば、ディエゴが寝る相手にアルフィオを選んでも、傷付く者は出ないということになる。命を落としかけても、数ヶ月連絡を取らずとも、嘆き悲しみ、怒り狂ってピストルを握りしめ、車を飛ばしたりするような家族も友人も妻も子供も居ないのが何よりの証拠だ。 ディエゴは矢庭(やにわ)に相手の膝に乗り上げ、キスを繰り返した。ソファーになだれ込む形になる。アルフィオは肘掛けに後頭部を押しつけられながら、顔をそむける。 「ディエゴ、冷静になれ……こんな事をしても、幸せになれないのは、分かるだろう」 その顔に、拳が振り下ろされる。乾いた大きな音が響き、臆病なアルフィオは固まってしまった。 ディエゴは相手の美しい顔のすぐ脇、木製の肘掛けを殴りつけていた。 「オレはデカい男とできれば満足だって言ってんだよ!」 よく通る声で怒鳴った。いつものように怒っている方がマシだと言ったのはアルフィオだ。 「違う、これは正しくない、こんなのは……」 それでも大きな目を見開き、悲しげに見上げてくる。 「俺たちは、友人で、家族で……ビジネス・パートナーだと、言ったじゃないか……」 「……そうだな」 懸命に言葉を探し、説得を試みるアルフィオに、ディエゴは思わず口元がゆるむのを感じた。 口達者な人間が、大型犬に丸め込まれるはずなどない。 「なら、ビジネスでも構わねぇ」 肘掛けに手を置き、逃げられないようにする。仮に逃げ出したとてどこにも行く宛などないのも、分かりやすく伝えなければ言っている意味を理解できないのも知っている。 「お前はオレに買われるんだ、アルフィオ。仕事なら人を殺したって許される。なら男と寝るくらい、問題ねぇだろ」 ビジネスとして、セックスのパートナーになれと言うのだ。 その提案に、アルフィオはまたしても言葉を失なった。口を開けこそするものの、声も出てこなくなったように小さく首を振る。 「お前と寝る……売春になれと? 俺に?」 ようやく押し出された精一杯の言葉に、ディエゴは頭を掻いた。 「この言い方は好きじゃねぇけど、女役はオレだ。お前はオレの、情だ」 売春に携わる事──売春婦を買う事も、あるいは女性を斡旋する事も〈ワイズガイ〉の精神に反する。またある者に言わせれば、女性を大切に扱わない事は、イタリア男の精神に反する。 だがディエゴもアルフィオも、女性ではなかった。咎められるいわれはどこにもない。 「愛なんか無くていい。ゲイになれとも言わねぇ。感染するものも、減るものもない上に、医療費だって早く回収できる。何も損はねぇだろ?」 「お前の冗談は笑えないと……」 聞き分けの悪い犬に馬乗りになったまま、右の前足を取り、自身の前へ導くディエゴ。下着越しにもはっきりと分かり始めた形を触らせる。 「…………」 向けられた視線は、おぞましい物を見るかのように変わっていた。 「これがオレなんだよ。冗談ならどれだけ良かったか」 ウサギは条件さえ揃えばいつでも行動に出てしまえる。特にオスのウサギは自分より弱いと判断すれば相手がオスであっても発情し、マウンティングやスプレーなどを起こす事がある。まさしく今のディエゴだった。 「一番近くで見てて、幸せになるよう願ってて……何で今のオレが求めてるモンが分からねぇんだ」 〈ウサギ野郎〉が求め続けてしまうのは、手に入れる事を諦めた愛よりも深い、今すぐに手に入るセックスだというのに。 「だが……」 「ああ、うるせえ! 普段は大人しいクセに! 話すのが下手なら吠えるなよ、クソ野郎!」 キスを止め、今にも噛みつきそうな剣幕で言いつけた。下敷きにした筋肉質な体が硬直する。 その黒髪から覗く白い耳に口を寄せ、よく聞こえるように訊ねるディエゴ。 「もう捨て犬に戻りたくねぇだろ?」 それまでとは違う、突き放すような冷やかな声に、動かなかった体が反応し、びくんと跳ねる。その片足が当たり、ピストルと弾薬が床に落ちて転がる音がした。 「それは、それだけは……」 アルフィオはそこから先を口にする事もできず、青ざめた白い顔を左右に振った。どうか捨てないでほしいと訴えかける。眼は縋ってくる犬そのもので、孤独でこそあれ、オオカミの凶暴さなど見る影もない。 そんな哀れな犬に飼い主ディエゴが仕込むのは、あまりにも品のない芸だった。 「なら黙ってオレを抱け。この死に損ない」 *** 床に敷かれたブランケットをシーツ代わりにする趣味はないが、トリガーをひき慣れた指と銃弾の圧に耐え慣れたしなやかな手首にはそそられる。だがディエゴはそれ以上に、一刻も早く結ばれたいとまで感じていた。 バスルームでの下準備を終えてベッドルームに向かうと、初めて買った情夫は服も着たまま、ベッドに腰掛けていた。まだ天井の照明も煌々と点いている。 「ムードのねぇ奴。分かってたけど」 呆れたようにこぼし、壁の間接照明に切り替えた。 薄暗い中を、裸のディエゴが歩み寄る。要所にタトゥーを入れた浅黒い肌が、バランスの良い骨格と引き締まった体を包む。普段は日に当たらない箇所の肌の色もやや濃く、他人の眼を釘付けにするには申し分ない。 だがアルフィオは自身と正反対の肌の色や体つきをした、自信にあふれた裸体を眼で追うものの、食指一本動かそうとしない。 これからベッドを共にしようという相手がそんなにも薄い反応である事は、ディエゴにとって初めてだった。 「別にいいさ。ずっとそうしてろ」 強気に言い捨て、座っている体に正面から向き合うと、またキスを始めた。先ほどリビングのソファーの上でそうしていたのよりもより近く、大胆に、腿の上に乗り上げ、抱きつき、体を密着させる。 「…………」 アルフィオは口を固く閉じ、何も言わない。喋るなという命令に従っているのか、これから犯そうとしている行為に怯えているのか。 「なあ? アルフィオ」 「…………」 相手を見下ろし、名前を呼ぶ。しかしアルフィオはなんと言われようと、ただ黙ってディエゴのキスを受ける。 ビジネスであるということ、そして捨てられたくないという意識からそうしているだけだと示すかのように、口は絶対に開かない。舌を挿し入れられる事を拒んでいるようだ。 ディエゴはだんだん苛ついてくるのを自覚していた。 動かない唇以外にも、顎や首、鎖骨へのキスを続けながら、アルフィオの着ている服を脱がせていく。左半身にわずかに付いた返り血は、薄暗い中では見えない。 ベッドへ押し倒す。今朝とは逆に、大きな体に乗り上げる形になる。今朝はまさかここでこんな事になろうとは、ふたりとも思ってもいなかった。 五ヶ月もの間、外出していない。不自由な生活は長期にわたる入院と同じだ。しかし患者はやるべき事に飢え、家事をこなし、リハビリに励み、さらに持て余す時間と体力をワークアウトにあてていた。 かつて彫刻のようだと称された筋肉は、まだその形を保っている。美術館に飾られる大理石のように、日に当たらない肌はより一層白く、柔らかな光を吸い込んでいた。 ずっと近くにありながら、手を出さなかったこの体に興味が無かったと言えば嘘になる。介抱の時に拭いてやった事もあれば、リビングの梁に上半身裸でぶら下がって涼しい顔で懸垂をしていたのも確かに見ていた。そんな惚れ惚れするような体つきの上に、女性よりも美しい顔がある。 「……綺麗だ、アルフィオ」 苛立ちと興奮がないまぜになるのを感じながら、ディエゴは賞賛した。 この男を、これから自分の思うままにできると思うと、達成感や優越感に似た感覚にくすぐられる。失恋のみじめさなどすっかり忘れてしまった。友人や家族である意識も、対等だったはずの立場も、もはや却って不自然に思える。 決まったばかりの契約に、ガレージに放置された死体など、気にするべき事は多くある。だがウサギ野郎は今、それどころではない。 慣れた手付きでベルトを抜き取り、ズボンのホックをはずしてジッパーを下げる。下着と一緒にずり下ろす時、アルフィオは少しだけ腰を浮かせていた。 初めて廃棄物山積所で見つけた時、下半身に何も着けていなかった理由は分からない。が、今となってはどうでもいい。 当時は痛々しい傷と変色した片脚に目がいくばかりで気にならなかったが、体質によるものなのか、首から下は一本の毛も生えておらず、肌のきめも男性とは思えないほど細かいのが見て取れた。この距離では『置き去りにされた美』と呼んだ絵画よりも立体感が伝わり、石膏か大理石で出来た精巧な像と言える。 それでいて股間には、同じ男でも思わず目を見張るような、あるいは目を逸らしたくなるような存在がある。 当然ながらディエゴはベッドサイドに膝立ちになり、それをまじまじと見つめる。 「おお……やっぱりデカいな」 詠嘆とともに、感想を口に出していた。よだれも出そうになる。これが今から自分の中に入り、押し進み、激しく突いてくるなどと想像するだけで下腹の何も無い部分が甘く疼く。 彫像でさえ柔らかそうな毛がその付け根を覆っているというのに、周りはおろか裏側や臀の方にもやはり一本の毛もない。 それでいて、彫像や絵画に描かれた陰茎は芸術的観点から小さめにデザインされている、という説が信憑性を帯びた。美術品とは、見る者に過剰な恐怖や嫌悪感を与えたり、自信を喪失させたりしてはならないのだ。 だが、ふと気付いたディエゴは首を傾げた。それだけではない違和感がある。 なぜか既に、勃ち上がっているのだ。ベッドから膝下を下ろし、仰向けになった白い体の上で、はっきりとした硬度と反り返るような角度、張り出した血管と透けるような色、独特のてかりを持って膨張している。ゴミ捨て場で初めて目にした時よりも、その形や大きさ、肉感が分かる。本来であればその気がない相手との交渉には、刺激を与えて起こしてやる必要があるというのに。 「まあ、いいや」 その理由を、ディエゴは考えない事にした。追及してもだんまりを決め込んだアルフィオは答えないだろう。手間が省けるならそれに越したことはない。 存在感に顔を近付けてじっくりと観察する。両手でスキンをかぶせながら、これまで同じようにそうしてきた何人もの男たちと比べている事に気が付く。 「お前、一人の時とか大変そうだな」 アルフィオが首を起こす。なんの事か分からない、という風で見てくる態度に、ディエゴは吹き出してしまった。 「しらばっくれなくてもいいって。男なら普通するだろ、カトリックとか関係なくさ」 「…………」 黙って見つめてくるその目は、決してとぼけているわけではない。 「……まさか一切しないなんて、言わねぇよな?」 ディエゴは徐々に不気味さを覚える。ひょっとすると本当に自慰行為も、避妊もせず、中絶も、快楽のための交わりも認めていないのではないか。そんな実践性を重んじ、禁欲的生活を送る敬虔主義的な人間が現代にもいるとは考えにくい。あくまでも十七世紀に存在しただけなのだ。 「なあ、ちょっとはするだろ?」 「…………」 何度か確認されたアルフィオがようやく小さくうなずき、ディエゴは安心して息を吐いた。 気を取り直し、スキン越しに一度、先端に口付けた。アルフィオが驚いて体を起こしかける。 「待て。待てだよ、アルフィド」 すぐ立ち上がり、その肩を押して制するディエゴ。 男性性の象徴でもある生殖器に、排泄器官としての機能も与えたのは、生物を創造する際に起こってしまった、致命的なミスなのかもしれない。大小両方の排泄器官に挟まれた女性器もまた同様に。 そんな部分にキスを落とした、信じられないものを見るような目で見上げてくるが、 「こんな事でいちいち驚くな。今からもっと刺激的な事をするんだから」 犬の躾をするように言い聞かせた。 それからアルフィオをダブルベッドの中央へ移動させ、自分も追いかけるようにベッドに乗り上げるなり、その腰にまたがる。 手を添えて、後ろの窪みへ先端を導いた。周囲についた水溶性のローションがてらてらと鈍く光っている。 ふと顔を上げると、アルフィオは不安そうにその部分を見ていた。おそらくディエゴよりも、自分の身に起こる未知を案じているのだろう。 「…………」 それでも何も言ってはこないし、止めさせようという意思も感じられない。 処女を失う寸前の生娘のような表情を見ている内、ディエゴの中にふつふつと加虐心が湧く。 どう考えても力では敵わない大男が、美しく鍛え上げられた肉体をさらしながら、今まさに自分の真下で、まるで鎖で縛られたように大人しくしているのだ。いじめたくなってしまう。 「目を逸らすなよ?」 見せつけるようにわざとゆっくり、時間をかけて、腰を落とし始める。 先端の膨らみ、くびれ、太く長い刀身と続く。普段はすぼんでいる襞の合わせ目を割り、突き刺さるようにして沈み込んでいく。薄暗い中でシルエットになっても形ははっきりと分かり、結合していく様が確かに見えていた。 「コレ、たまんねぇ……」 ディエゴはうっとりと声を漏らした。上を向いた顔に嬉しそうな笑いを浮かべる。期待していた通りかそれ以上の感触だ。背中を、ぞくぞくとした感覚が這い上る。 「…………」 強い感覚でディエゴを押し上げる一方、アルフィオは泣き出しそうになっていた。それでも言われた通り視線は外さず、大きな目で注視している。 抵抗はほとんどなく、柔らかくほぐれた内へ、のみ込んでみせる。 本来性器として使われるべき場所でなくとも、慣れ次第で近しい使い方ができてしまうものだ。体温を持った粘膜が指で触れられる部分まで露出しているという点では、口腔内や女性器と変わりない。そこから快感を得るのも、ディエゴにとっては難しい事ではなかった。 片手を相手の指に絡め、もう片方の手で姿勢を安定させる。一、二度、自分で上下し、心地好い箇所に当てさせる。 「いいか? アルフィオ、ここだ。この、オレの好い所を、狙って……」 芸を仕込むように、言い聞かせる。柔らかな唇と硬い結合部の間で、アルフィオの視線は目まぐるしく動いていた。 騎乗位(カウガール)と呼ばれるこの体位は、男女間でも女性が快感を得やすいとして人気だ。同様に男性同士であっても、受け身側が角度や位置などを調節しやすい。特にアルフィオのように「デカい」ものでは受け入れる側も一苦労なのである。 長いストロークが、入念にほぐされた内側の、濡れた壁をねっとりと滑っていた。生殖器でない直腸から体液が分泌されるはずもなく、後を引く粘り気は人工的に作られたものだ。 「ほら、動いてみろ、情夫。お前も男だろ?」 そう命じる口調はまだ冷静だったが、ディエゴは十二分に興奮していた。勃起する事で、目的の箇所は分かりやすくなる。クルミほどの大きさの〈聖なる場所〉だ。 ここまでしてもまだ動こうとしないアルフィオの両手をつかむと、ディエゴは経験を誇るかのように自身の体に押し付け始めた。胸や腹、腰、腿など自慢のパーツを触らせる。 「…………」 アルフィオの視線はディエゴに引き付けられたままだ。何を言ってくる様子はない。ただわずかに唇は開き、はっはっと犬のような短い呼吸が聞こえていた。 その視線を絡め取りながら、ディエゴはつかんだ両手を自分の顔まで引きつけ、指先に音を立てて口付けて見せる。指の間に舌を入れ、舐め上げる。 目は口ほどに物を言うというが、唇や舌もまた柔らかく、相手を魅了する。口唇は、第二の生殖器だ。 「オレは他の奴と寝たら、また別の誰かを傷付けるぞ。多数のために少数が犠牲になるって言ったのはお前だろ」 その口から発する言葉は高圧的だが、自分の体を余す所なく触れさせ、腰をくねらせる動きは実に蠱惑的である。 「お前にとって神の教えとオレの命令と、どっちが重要なんだ?」 「…………」 脅すように言われた後、開放された白く大きな手が、いよいよ浅黒い肌の上を撫で始めた。 ためらいがちに腿の上をすべり、腰、背中から腕などタトゥーの跡を追うように触れる。乾いた肌の擦れる音がしている。そうしながらも、アルフィオはまだ眉根を寄せ、ディエゴを見上げていた。 と、いきなりその両手がディエゴの腰をつかみ、前後や上下に揺すり始めた。 「あっ!」 不意に下から当てられ、驚きの混じった嬌声が上がる。華奢な裸がふわりと浮いたようになる。 後ろ手に相手の膝で支えた体が跳ねた。 「アルフィオ! ああ、アルフィオ!」 急な刺激に、文字通り開いた口が塞がらなくなる。下の“口”も広げられ、直腸の形が変わってしまうのではないかというほど奥まで押し込まれ、首を振らされる。硬くなった同士が当たる度、めまいがするほどの衝撃と性的な快感が走る。 ディエゴは途切れがちに声を出す。 「そう、そうだよ! そこ、ああ、クソッ、たまんね……もっと、もっと!」 相手は犬だ。芸を覚えれば褒めてやる。アルフィオは言われた通りにぶつけてくる。開き直りというより、腹をくくった風だった。 「ああっ! いい子だ……そのまま、そのまま続けろ!」 よく通る声で命じる。二人とも下腹部に力がこもり、繋がった割れ目が熱くなってゆく。 盛り上がった上腕二頭筋がますます男性性を強調し、見せつける。華奢とはいえまぎれもない男性の腰を持ち上げ、下から突いているのだ。白い肌の中に青い血管が浮き上がる。 「アルフィオ……オレのッ、アルフィオ!」 先ほどの勝気な態度から一転、いつの間にやらディエゴは相手の名前を叫び、よく通る声で鳴く事しかできなくなっていた。 前後に揺られ、はね上げられ、犬を躾けながら、馬に乗っているような気分になる。キスをしようにも、筋の浮いた腕にしがみついているのがやっとだ。 アルフィオに比べれば平均的でも、国際的観点から見れば少し長さのあるディエゴ自身も、まっすぐに立ち上がっていた。が、握り込んでこする余裕もない。よだれのような先走りを垂らし、腰の動きに合わせて、根元から上下に振れるだけだ。目を開けてもいられない快楽の波がディエゴを襲っていた。 下方からは、フッ、フッ、と荒い息遣いだけが聞こえる。何とか薄目を開けると、ただ眉間に皺を刻み、下唇を噛みしめて、懸命に突き上げてくるのが見えた。 「…………」 どれだけ名前を呼ぼうと、命令しようと、褒めようと、返事はなかった。 忠実な犬であり金で買われた情夫は返事こそしないものの、それ以外はすべてディエゴの指示に従い、最後はスタンダードな正常位に落ち着いていた。 起き上がったアルフィオはもう相手の腰をつかもうとせず、ベッドに両手をおいて自分の体を支え、突き続けている。今朝とほぼ同じ体勢になっていたが、今はまるで上から糸で吊るされて操られているような動きだ。顔に垂れた黒髪から、一定のリズムで片目が覗く。その視線からはいつもの銃口のような鋭さも、光も、見当たらない。 相も変わらず何も言わず、無表情で見下ろしてくる。ディエゴはその整った顔に手を伸ばし、輪郭をなぞるように指を滑らせた。 「本当に人形か……死体としてるみてぇに思えてきた」 命じられるままに動く、近未来的なセックス・ドール。あるいは血の通わない真っ白な死体。どちらも物を言わず、愛情を持たない。アルフィオは、まさしくそんな風だ。 「もうちょっと、気持ちよさそうに、できねぇのかよ……」 不服そうにつぶやいても、あやつり人形の態度はやはり変わらなかった。 これまでこの人形と寝た人数などディエゴは知り得もしないが、およそ深い愛情から結ばれた者がいたとは思えない。 もしも愛し合っているならば、情熱的に体を繋げながら、常にキスを続け、心も繋がるべく相手の耳元で愛をささやくはずだからだ。下半身に自信を持つ者ほど、愛を伝えたり、技術を磨いたりといった努力を怠る傾向にある。セックスは最大の愛情表現の方法だというのに。 ディエゴは身をもって、アルフィオの話し下手さや売春婦とのセックスにおいてもあまりいい思い出を持たない事を理解した。 と同時に、余計な愛情表現をして来ない彼は、愛を求めない自分にとって、これ以上ないほどぴったりな、“たくましい相棒”である事も。 熱くなった体は既に限界まで張り詰めており、ディエゴはその後すぐに声を上げて、背をのけぞらせた。 これはディエゴが満足した後に判明した事だが、アルフィオもいつの間にかスキンの内側で弾けていた。そんな素振りなど見せない、表情の変わらない色白い顔だった。 吐き出され、中に溜まった量を見、ディエゴはにやりと笑う。そのかすかに湿った肌が弱い照明を跳ね返していた。 「悪くなかっただろ? ゲイになれば、もっと楽しめるぞ」 自信満々に問いかけるディエゴ。性的なだけでなく、親しい友人とスポーツを楽しんだ後のような快感があった。同性同士が友愛の先に肉体関係を結ぶのが自然だった時代もあるというのもうなずける。身を繋げる事でより深く繋がり、相手を信頼する事もできるのだ。 言葉が交わされないというのは少し斬新だったが、それ以外はむしろ満足感のある行為だった。クラブなどで知り合ったのではなく、“あの”アルフィオを相手にしたという事実は重要なはずだが、いざ終えてみると大した事ではなくなっている。 ベッドに倒れたアルフィオがようやく返事をする。 「……分からない」 随分長く黙っていたというのに、声は掠れていた。まばたきもせず、あらぬ方を見つめている。横顔に表情もなく、首の中腹でわずかに浮いた喉仏だけが動いた。 「()くない事を、したとは思う」 自慰もほとんどせず、女を抱くより、ボスに命じられるまま人を殺す方が性に合っていると答えた男だ。そんな歪でありつつ、ある意味では慎ましい人生を送ってきた彼が、今夜は法に背いて初めて仕事以外で人を殺し、教えに背いて初めて同性と性的な関係を持ったのだ。 「オレがイイって言ったら、イイんだよ」 「そ、そうか?」 少しどもりながら返してくる。照れよりも動揺があるようだった。 「ああ。初めてにしちゃあ、上出来な仕事ぶりだ」 ディエゴはあっさりと応じ、その黒髪を片手で梳いて、顔を引き寄せる。薄暗い中で、暗い色の瞳に小さく光が戻っていた。 「気が向いたら、また雇ってやるからな」 顎に手を添え、動くようになった唇に食むようなキスをされても、アルフィオはきょとんとした表情で見返すだけだった。 二人してバスルームで残滓と汗を濯ぎ、裸のままキッチンで水を飲む間、会話らしい会話はなかった。 しかし、いつものように物置部屋に入ろうとしたアルフィオを、ディエゴはベッドに連れ戻した。肩を並べて横になる。 「今日からここで寝ろ。オレに相手が居ない時はな」 既に日が昇り始め、カーテンの隙間から光が漏れている。昨日は何かと忙しかったが、今日もまた忙しくなるはずだ。 「少し寝て、起きたら一緒に朝メシを食いに行こう。週末だし、朝市(メルカート)もある」 ディエゴが提案した。ペットの世話は、飼い主の義務だ。 「……分かった」 いつも通り短く返事をするだけの、飼い犬アルフィオ。 疑似恋愛的な行為の余韻はなく、金銭的な均衡の上に成り立つ関係性も、双方の射精によって区切りが付けられた。また、たった一度交わしただけの肉体関係によって別の感情が芽生えるわけでもない。 ディエゴがつまらなさそうに唇を尖らせる。 「もっと喜べよ。都市部に連れて行ってやるぞ」 初めてのセックスを終えたふたりはすっかり今まで通りの、ルームメイトや友人としての関係性を取り戻していた。 「今日からお前は、外に出ていいんだから」

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