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第九章 児童擁護

北部へと続く道を、一台のレッカー車が引き返していた。中には気難しそうな女が一人。後ろには状態の良いスポーツカーが乗せられ、その中には硬直した死体が一体。 ディエゴの「仕事仲間」には、こうした厄介事の処理を引き受ける者もいる。昨夜、トマゾの兄弟と名乗り、ディエゴを殺そうとして返り討ちにあった男の車と死体を引き取っていったのだ。 家主ディエゴはようやくガレージのシャッターを開けて、自家用車を出せるようになった。 昨夜アルフィオが飛び跳ねた事によってへこんでいたボンネットは裏側から押せば戻り、助手席の窓ガラスやサイドミラーに飛んだ血しぶきは綺麗に拭き取った。 「あの野郎、良い車に乗ってたな」 都市部に向かうおよそ三十分の道中、ハンドルを握るディエゴが思い出したように言った。助手席の窓から外を眺めていたアルフィオが振り向き、不思議そうに聞き返す。 「レッカー車が欲しいのか? 確かに珍しいが……」 「そっちじゃねぇよ、おバカさん(シェーモ)」 「ディエゴは趣味が悪いと、ネヴィオが言っていた」 サングラスをかけたまま、じろりと横目に睨むディエゴ。 「あの年寄りの文句にいちいち付き合ってるのか? 道理でムカつくことを言うようになったはずだ」 窓の枠に片肘を預け、反対の手でハンドルを転がす。 カーラジオから聞こえた情報によれば、今日の最高気温は三十度を超えるという。開け放った窓からはからりとした風が吹き込んで、夏の間にますます明るくなった茶髪と、半袖のシャツをなびかせる。口下手でありながら時々口うるさくなる同居人の前でタトゥーを隠す必要もなくなり、最も暑い季節を乗り越えてから、ディエゴはようやく軽装になっていた。 「だいたいお前ら、いつの間にあんなに打ち解けたんだ」 ディエゴが帰宅すると、〈プライベート・ドクター〉のネヴィオが診察と銘打ち、患者のアルフィオとハーブティーを片手に何やら談笑しているところに出くわす事は度々あった。室内犬にとって、気まぐれでよく怒る短気な主人と違い、鳴き声にきちんと耳を傾け、時々おどけてみせる相手は愉快な客人であり、かなりなついているようだ。 「俺のこの訛りが懐かしいんだろう。乳がんで亡くした妻がカターニア出身だったそうだから」 「そんなことまで話してるのかよ! あの偏屈な年寄りが?」 驚いて一度顔を向けるが、アルフィオにとっては何の不思議もないらしい。 「確かにディエゴの趣味は変わっていると、俺も思う」 と車内を見回した。大きなフロントガラスとサンルーフから陽光が射し込み、落ち着いた色合いで並ぶ建物の上によく晴れた空が広がっているのが分かる。家を出発してから、この奇抜なデザインとパワフルなエンジンが自慢のフランス車と同じ車は、一台として見当たらなかった。 「お前にだけは変わり者呼ばわりされたくねぇ」 やや苛立った口調で返すディエゴ。 「でもそんなお前でも、あのフォルムの良さは分かるだろ?」 昨夜の男が乗りつけてきたスポーツカーは、誰もが憧れる高級車だ。 他人の命を懸けるビジネスを起こした実業家と、飲酒運転の罰金で月収の半分を取られてしまうような、いわゆる表の社会での平均的な生活とは比べものにならない。怪我をした大型犬を保護し、情夫にしてしまう経済力はある。それでも所詮は三流マフィアの若い衆に過ぎず、容易には手が出ない代物だった。 「処理は明日にして、一日くらい借りちまえばよかったんだ。クソッ」 そんな惜しがる言葉を聞いても、 「美しい物が美しいんじゃない。好きな物だから美しいと思うだけだ」 アルフィオはやはり理解できないと言いたげに応じた。 ディエゴは運転しながら、その貌を一瞥する。ふたたび明るい陽の中で見る日が訪れようとは考えもしなかった。それも今は、赤黒い血も、青黒い痣もなく、両目はしっかりと開き、口は閉じられている。折られていたとは思えないほどまっすぐに通った鼻筋から、短い人中を経た先、昨夜何度か重ねた唇はそれを誇りにさえ思わせた。 「オレは間違ってねぇ、お前が美しいのも事実だろ、アルフィオ。景色じゃなくミラーを見てみろ」 昨夜よりも強い調子で伝えた。アルフィオは言われた通りに一度、背筋を伸ばしてルームミラーを覗き込むが、 「だから趣味が悪いと言われるんだ」 頑として首を縦には振らなかった。そしてシートに座り直し、また窓の外を眺める。表情にはさほど出ていないが、大きな体はどこか落ち着きなさそうにしている。馴染みのない街並みが、室内犬の眼を楽しませているらしかった。 「目の上にプロシュートでも貼りつけてるんじゃねぇのか?」 「たった今、ミラーを見たが何もついていない。ディエゴにはそう見えるのか?」 ディエゴが前を向いたまま揶揄するが、アルフィオは大真面目に否定した。 「……ったく、本当に話の通じねぇ奴」 遅めの朝食を食べるためにと家を出たが、最初に向かったのは、スペイン広場近くに建ち並ぶ開店前のブティックだった。外に出るようになったアルフィオの服と靴を買うためだ。 コーヒーの香りに満ちた街中で車を降り、縦列に並んだ他の車の間を抜けて歩き出す。いくつもの車体が日光を反射していた。 「陽の光を浴びるのは久々だろ、アルフィオ?」 ディエゴは長身のアルフィオの横顔を見上げた。黒髪が陽光を弾き、その下でまぶしさに目を細めている。深い眼窩に影が落ちていた。 「そうだな。何年ぶりだろう」 「何年? 大袈裟なやつ、五ヶ月くらいしか経ってないぞ」 彼を拾ったのは、復活祭(パスクア)の翌日だった。朝日の昇るゴミ山の中で、美しい絵画のようだと思ったあやつり人形は、今、ディエゴと並んで歩いている。まだ秋の気配は少なく、上がり始めた気温の中で、春物の長袖と長ズボンは暑そうだ。 アルフィオは少しうつむき、ぽつりと打ち明ける。 「……仕事をするのは大抵、夜だった」 人が動いていない夜の方が、彼の「仕事」は捗る。ターゲットがどこにいるか把握しやすく、人目も少ないからだ。 月の光も届かず、真っ暗な森の中を一人で駆け抜けた。黒い髪をなびかせ、黒い皮の衣服をまとい、銃口と同じ鋭さと色をした瞳を持って。 「朝に帰って、昼間は寝ていて。食事は家族(ファミリー)と一緒だったが……仕事のない夜もよく一人で居た。話すのも、歌も踊りも、苦手だから」 ディエゴの家に引き取られ、その生活は随分と変わったことだろう。太陽とともに起き、夜になれば眠る。語り合い、話を聞く相手がいる。古代から続いてきた動物としての生活サイクルと、仲間との交流は、人間にとっても非常に重要である。 「わかった! だからそんなに色が白いんだな」 ディエゴがパチンと指を鳴らし、納得した。昨夜から今朝にかけて、薄暗い中でぼんやりと光る白い肌と彫刻のような筋肉のついた体の美しさは、彼を虜にして離さなかった。 友人でもある店員は太客でもあるディエゴの来訪を喜び、営業時間よりもすこし早めに店を開けてくれた。以前、クローゼットにあった中から大きめのサイズを選んで取り寄せた服を着ている人物のことは、友人として紹介した。 「今年のバカンスはどこに?」 「行ってない。毎年のことだよ」 両手の平を上に向け、肩をすくめるディエゴ。 続いて店員がアルフィオに視線を向ける。 「あなたは?」 何と答えたものか、アルフィオはディエゴに視線を送った。 「ああ、コイツは長いこと入院してたんだ。日焼けしてないだろ?」 ディエゴが説明しながら広い肩を抱き寄せ、顎を片手でつかんでよく見せた。その手はアルフィオの白い肌とは対照的に、浅黒く日焼けしていた。 バカンスに行き、健康的な小麦色の肌を手に入れる事は富の象徴。暮らしに余裕がある証拠で、人々の憧れとも言える。バカンスに行かずとも、もともと肌の色が濃く、日焼けもしやすい体質のディエゴの容姿が他人から好印象を抱かれやすいのも、それが一因だ。 店員と相談しながらアルフィオに着せる新しい服を選んだのも、試着室から引っ張り出したのも、大きな鏡の前でさまざまなポーズを取らせたのも、ディエゴだった。 見つけた時は塗装のはげたマネキンかと思ったものだが、背が高く、体格もよく、顔立ちの整った男性が服を取り替えていく様子は非常に絵になった。 髪や瞳と同じ暗い色は白い肌によく映えるが、秋の始めにレザーのジャケットはまだ暑い。風通しの良い柔らかなシャツの着丈をしっかりと調整し、長い脚を魅せるパンツを穿かせた。たくましい筋肉は腕だけでなく脚にもついていたが、わざわざ見せびらかす必要はなく、なるべくスリムに見せるのが狙いだった。そして最後に、ベルトと靴の素材と色を合わせた。 「すぐそこの美術館から彫刻を盗んだ怪盗紳士の気分になるな」 「ええ、あるいは魔法がかかって動き出した絵画かもしれない」 やがてまとまった服装を見、ディエゴと店員が口々に称賛したが、 「……俺は生きた人間だ」 アルフィオはまたしても真剣に言い返すだけだった。 自身も新しい服と帽子を選び、着替えたディエゴがレジの店員と話し込んでいる間、先ほどの店員がアルフィオに歩み寄り、快気祝いだと言ってペンダントをかけてくれた。 ゴールドの細い鎖で、トップには十字架がついており、アルフィオは思わず見返してしまう。値段もさる事ながら、こんな物を着けていては、神嫌いのディエゴに何と言われるか。昨日の一件で彼の体に刻まれた秘密を知ったものの、今となっては信仰の対象ではなく、裏切りの象徴なのだ。 しかし店員はウィンクをし、襟の中に入れておくよう身振りで示すだけだった。 そんな事も知らないディエゴはショッパーを持たせたアルフィオを従え、軽い足取りで店を出る。と、一度立ち止まって、ショーウィンドウに映るふたりの姿に見入った。 ハットをかぶってサングラスをかけ、半袖シャツにハーフパンツといった装いで腕のタトゥーを見せるディエゴと、真新しいシャツの袖をきっちりと折り上げ、そこから磁器のような白い肌をのぞかせるアルフィオは、容姿も性格もまさしく正反対だ。 「ペットに服を着せて喜ぶ飼い主の気持ちが今なら分かる」 「……そうか」 たいそう満足げに言った主人に、飼い犬は早くも少し疲れた様子で応じた。 近くのバールで朝食のクロワッサンを食べ、カプチーノを飲んで、今度は南側で開かれる朝市(メルカート)に向かった。 青く晴れた空の下、メルカートは多くの人で賑わっていた。 肉や魚介、野菜、果物などの食料品から、衣料品、洗剤などの生活用品まで何でも揃う。近郊の農家から直接届いており、値段もスーパーマーケットや常設されている商店より安いものが多い。 他にもパスタ、チーズ、オリーブオイル、香辛料やドライフルーツのほか、生花やリキュール、ワインなども所狭しと並ぶ。さまざまな香りと鮮やかな色、どこからともなく流れる音楽と、活気ある人の声に溢れていた。 ディエゴは慣れた足取りで、ワインのテントに近寄る。軽く挨拶をし、歯を見せると、立っていたソムリエもにっこりと笑みを返してきた。 「十一月の解禁日が待ちきれないね」 「ああ、今年は十九日だったか?」 「そうだね、成熟時期が早かったから、今年は少しフレッシュな出来になるかも知れない」 毎年十一月の第三木曜日に世界同時解禁となるワインは、フランス・ブルゴーニュ地方のボジョレー地区で作られる新酒(ヌーヴォー)だ。ワイン好きにとっても、そうでなくとも、その年の出来栄えが報じられるのは恒例行事となっている。 「実を言うともっと重くて、強いのが好きなんだ。そこにあるような」 正直者のディエゴには、ふたつの小さなカップに入った赤ワインの試飲が勧められた。ひとつは、まるで初めてローマを訪れた観光客のように、周りを見回しながらついてくる同行者のためだ。 受け取ったディエゴから鼻先に片方を突き出されたが、アルフィオは苦い顔をして断った。これまでも夕食や夜の時間に付き合うよう勧められたが、受け取った事がない。 「酒も愛せねぇ人生なんて」 小さくつぶやき、一人で満喫してしまうディエゴ。 ソムリエが手にしていたのは高い遮光性を持つ色のボトルだった。ラベルには『 GIGONDAS(ジゴンダス) 』という文字と特徴的な絵があり、それを見たアルフィオが少しだけ表情を和らげる。 「夕食の時に見た覚えがある……赤身肉の煮込みを出した日か?」 今やキッチンならば冷蔵庫から戸棚の隅々にいたるまで把握しているが、その隣にある電気制御のワインセラーは運転音が気になる程度の存在に過ぎない。 「よく覚えてるな!」 ディエゴが感心したように言い、サングラスに隠れていた眉を持ち上げる。瞬間的に変わる表情は、メルカートに並ぶ商品と同じく様々で、家の中で見せるより一層生き生きとしていた。 そのあどけない顔や態度を見ながら、あっさりと応じるアルフィオ。 「ディエゴの好みは分かりやすい。ワインだけじゃなく、車もフランス製だった」 「見た目もイカしててパワーのあるのが好きなんだよ。エンジンでも、何でもな」 そう言って、ディエゴはもう一度カップを勧めようとする。 「ああ、分かったから」 アルフィオは嬉しそうに語る顔から目を離さず、その手を押し返した。 メルカート内の花屋は花市場ほど大仰ではないものの、色とりどりの生花や鉢をずらりと陳列したテントだった。何とはなしに見ていたディエゴの目に、ひとつの鉢が留まる。 「おい、見てみろよ! おもしろい」 そう声をかけたが、返事がない。振り向いてようやく、アルフィオがついて来ていない事に気が付いた。 「アルフィド!」 大きな声で呼び、その姿を探すと、かなり後方に頭ひとつ抜けた白と黒のコントラストが見えた。 歩き慣れていないのだろう。観光客も多く、スリが横行するのも当然の人混みの中で、もみくちゃにされている。 彼の生まれたカターニア県のサンタルフィオは、このローマからおよそ五百キロメートル離れている。人口はおよそ千六百人。小さな基礎自治体(コムーネ)で生まれ育ち、いつしか表の社会を歩く事はなくなった。月明かりさえおぼろげな闇の中を何年もひた走り、昨日までは半年近くも窓のない物置部屋に暮らしたのだ。 荷物を抱えたまま、遠くでおろおろする姿に、ディエゴは安心すると同時に笑ってしまう。明るい陽を浴びながら、表を出歩く勘を取り戻すのも一苦労といった様子だった。 アルフィオには硬貨の一枚も持たせていない。買ったばかりの服のポケットは空のまま、鍛えられた体のラインにはり付いているだけだ。 追いついてくるのを待つ間に、ディエゴはすぐそばの店員に声をかけた。 「ちょっといいか? これは?」 気になったのは、珍しい黄色みを帯びた多肉植物だった。まるまると太った中年の女店員が応対する。 「多肉植物がお好き? 最近話題になってるわよね」 「いいや、実はまったく。普段は花の世話なんて一切しない」 いつだったか、留守の間に訪ねてきた客が置いていったというヒマワリの世話はキッチンに立つアルフィオがしていた。こまめに水を取り替え、最終的には種を取り出して炒り、二人でつまんだものだ。 「ガレージはあるけど、庭もねぇし……」 「家の中でも育てられるわよ」 「そうだろうな。大人しそうだし」 「そうそう。噛みつきやしないし、棘もない」 店員は快活に笑い、ひとつを手に取って顔の高さに上げて見せた。 「これは〈月の王子(プリンチペ・デッラ・ルーナ)〉っていうの」 「月の王子?」 思わず聞き返すディエゴ。目を引かれたプレートに書かれた名前と違っている。 「手がかかるのか? 王子様みたいに?」 「いいえ、むしろ植物に馴染みのない人でも育てやすいくらい丈夫よ。夏は葉が焼けても枯れないし、冬の寒さにも強いし」 目の高さに来た鉢植えの植物と、見つめ合うような形になる。開いた葉の先端がすこし尖った、他にはない特徴的な形をしている。 「水をやりすぎると根腐れしてしまうから月に一、二度で結構。あとはよく陽の光に当ててほしいの」 女店員が声を更に高くした事で、まるで鉢植えが話しかけてきているかのように見えた。サングラスをはずし、改めて鉢に注目する。黄味を帯びた葉の表面がつややかで、中央は淡いグリーンに所々朱が浮いている。植物に向かって話しかけるように聞き返す。 「“月の”王子なのにか?」 「月の王子だからこそよ。太陽がないと輝けないでしょう」 茶目っ気を含んで返され、ディエゴは自然と笑みを見せる。 「それ、気に入った! 連れて帰ろうかな」 茶色の瞳を店員の顔に向けた。人懐っこい若者が、これまで世話などした事もない植物のそばを偶然通りかかり、興味を持った。その素敵な出会いが更に幸せな未来へ繋がるには、商品として貰われていく事が必要だ。 女店員は突然、眉をハの字にして笑った。 「王子なのに値切られちゃうなんてね!」 「いいのか?」 そのつもりのなかったディエゴだったが、どうやらねだっているように受け取られたようだ。女店員は気前よく値引きし、鉢植えを透明なビニール袋で包む。 「あなたも王子様なのよ。この子にとっての、青い王子(プリンチペ・アッズーロ)」 青色の持つ高貴なイメージから、童話の中で姫を迎えに来る王子、ひいては理想の男性のことを〈青い王子〉と呼ぶ事がある。この多肉植物〈月の王子〉にとっては、まさしくディエゴがそうだと言うのだ。 商品を受け取ったディエゴはサングラスをかけ直し、また笑顔で挨拶をする。 「おもしろい! それじゃ、良い午後を!」 「ええ、王子様たちもガレージ付きのお城で良い週末を!」 ようやく追いついてきたアルフィオに、買ったばかりの小さな鉢植えを持たせ、また颯爽と人混みの中へ入ってゆく。土に刺さったプレートには『 Sedum adolphii (セダム・アドルフィ) 』と書かれていたが、置いてけぼりをくらった〈アルフィド〉にそれを読んでいる暇はない。 次にふたりが訪れたのは、川沿いあるマーケットだった。週に一、二度開かれる青空市場や教会の前で開かれる蚤の市とは違って、こちらには屋台型のブースが常設されている。 地域住民よりも観光客や収集家向けで、絵葉書や切手の専門店、アンティーク雑貨が目立つ。旅行土産や観光の記念品、プレゼント選びには持ってこいだった。 既にアルフィオの両手は召使いのように荷物で塞がっているが、青い王子ディエゴは気にも留めない。いちいち車まで荷物を置きに行くのが面倒なのだ。 陳列された商品を見ていたディエゴが、不意に足を止める。その背中にぶつかりそうになったアルフィオも脚に急ブレーキをかけた。 次に目をつけたのは長い耳にリボンをつけたウサギを型取る、可愛らしいフィギュアだった。手のひらに乗るような大きさで、毛色はみな薄茶色に塗られ、聞き耳を立てたり、両の前足で花を持ったり、目を閉じて眠ったり、さまざまなポーズをとっている。 何かを思案する真剣な横顔に、アルフィオが口を開く。 「やっぱり変わった趣味だ」 家のあらゆる物を把握し、物置部屋では何年も放置されていたピストルを見つけ出すほど過ごしていたが、見当たらなかった。 「子供向けのコレクションを並べる隠し部屋でもあるのか?」 同居人からの疑問に、ディエゴが顔を上げる。 「そんなんじゃねぇよ。もうすぐファミリーで一番小さいお姫様(プリンチペッサ)の誕生日なんだ」 十二月二十五日の降誕祭(ナターレ)で、ツリーの一番上の星を飾る役目を担う彼女は、イ・ピオニエーリのドンにとって曾孫にあたる。ディエゴにとって親戚同然の娘であり、いわば小さな姪のような存在だ。 「だから、これは彼女のために」 そう言っていくつか選んで買い求め、店員に丁寧なラッピングを頼んだ。 何人もの子供や孫たちに囲まれる老夫婦は、家族とのパーティーや食事会を楽しみにしている。無教徒と言いながら、パーティーにはローマからはるばる手土産やプレゼントを持って駆けつけ、子供の相手を喜んでする若い衆にも、良き父親になる未来を期待しながら。 もちろんナターレも毎年、ツリーを飾り付け、ご馳走を用意し、ファミリーを集めて盛大に祝う。彼らが暮らすナポリは、その時期に街を彩る伝統的なプレゼーピオ人形の産地としても有名だ。 アルフィオが普段より一層小さな声でつぶやく。 「……子供が好きなんだな、ディエゴは」 「そうか? 普通だろ。オレは作れないし、産めないけどな」 言われたディエゴは相手のほうも見ず、ごく自然に言い返した。 ウサギのメスは交尾によって排卵を起こすため、生後間もなくオスとメスを分けて飼育しなければ近親交配を起こす事もある。 しかし、いくら〈ウサギ野郎〉と呼ばれようと、どれだけの人数の男性を相手取り、受け入れようと、男性であるディエゴが排卵し妊娠する事は、現代の科学や医療をもってしても不可能だ。 もちろんアルフィオの精液を受け止め、受精する事もできなかった。これまでもそうしてきたように、明け方にスキンの中に吐き出されたそれは、口をしばってゴミ箱に捨てられたのだ。 ゲイの男性カップルが子供を持つには、養子を迎えるか、第三者となる女性から卵子の提供を受け、子宮も借りなくてはならない。そうした妊娠と出産を引き受ける女性を代理母と呼ぶ。 胎児を育てる養分は臍の緒を介し、血液を通して行き渡されるため、産まれてくる子供には卵子を提供した女性や代理母となった女性の遺伝子が混ざる。また精細胞は親になる男性のどちらか一方のものに限られてしまう。そうして作られた子供は、果たして“彼ら”二人の子供と呼べるのだろうか…… 二○○四年に成立したイタリアの生殖補助医療法は、代理懐胎を全面的に禁じている。産まれてくる子供やその家族の権利を守るためとし、生命の尊厳や親子の絆といった道徳的観念からも是認されない。キリスト教が根ざす地域では、宗教的思想を土台にする形で、法律が制定されていた。 シエスタの時間帯になると、個人商店は一度シャッターを下ろしてしまう。ひと通りの買い物を終えたふたりはローマの玄関口・テルミニ駅の地下にあるフードコートでコーヒーとパニーノを買い、ひと休みした。 そこはディエゴがよく顔を出す休憩場所の一つで、週末である今日も馴染みの顔ぶれが居た。 「ディエゴ、調子はどうだい?」 明るく声をかけ、一度はいつもの場所を勧めようとする。が、後ろに立っている連れ合いを紹介され、その両手の荷物を見ると、広いテーブル席へとうながした。 カウンターや軒先での立ち飲みが主なバールに比べ、落ち着いて座れるフードコートには老人や親子連れの姿も見受けられる。 しばらくすると、モデルのような美女が近くを通りかかった。背が高く、目鼻立ちがはっきりしており、すらりと伸びた脚にタイトなジーンズ姿が様になっている。 血が混ざれば混ざるほど優秀な遺伝子が絡み合い、美男美女が生まれるという。欧州の中でも植民地時代の長かったイタリアや移民の多いフランスのような人種のるつぼでは、街行く人々を見ているだけでもしばらく退屈しないほどだ。着たい服を着、自分の人生を謳歌する姿が、景観に溶け込んでいる。 また華やかな街並みに反して質素で堅実と言われるフランス人と違い、十代の頃から自身に似合うファッションを意識し、自分の魅力を引き出す事に長けたイタリアの人々は、海外から見ても特に派手好きで洒落ているイメージを持たれていることだろう。 「よお、かわい子ちゃん!」 思わず声をかけ、手を振るディエゴ。 その視線の先には、彼女の腕に抱かれた幼児が居た。生まれて間もないというのに、やはり目鼻立ちがはっきりしている。 街行く女性を口説くためにそんな風に声をかける事は間違ってもないが、街角で出会った小さな子供や犬の愛らしさを賞賛するのはディエゴのみならず人々にとって自然な事だ。 一方で、それを見ているアルフィオはにこりともしない。むしろ険しいと言える表情を浮かべている。 「アルフィオ、お前も可愛いぞ」 気付いたディエゴがわざとらしく皮肉を込めてたしなめる。それでも色白い顔の表情は変わらず、その様子から目を逸らすだけだ。 「……子供は好きじゃない」 少しうつむいて打ち明けるアルフィオ。マーケットでの振る舞いを見、また新たな自分との違いに気付いていた。 「そうなのか? やっぱりアルフィオは変わってる」 子供好きのディエゴはパニーノを頬張りながら言い返す。 「婆さん(ノンナ)も、孫のこと宝物って呼ぶだろ。子供は人生で一番の宝物だって」 マンマやノンナは週末に息子や娘夫婦が訪ねてきた際、小さな子供たちに向かって、私の喜び、私の宝物、などと言って迎え入れるものだ。 と、火のついたような泣き声が聞こえた。 先ほどの幼児らしい。やや離れた席に視線を飛ばすディエゴ。周りの客はさして不快感を示す事もなく、むしろあやすように声をかけたり、微笑ましく見守ったりしている。 「この泣き声が苦手なんだ」 カップに口をつけたアルフィオだけが、眉間に皺を刻み、目を閉じる。 「アルフィオ……」 「仕事先で、もう動かなくなった親にとりすがって泣く子供がいた。その声が、今も耳から離れないんだ」 呼びかけにも答えず、苦悶の表情で話し続ける。嫌悪感が端々ににじみ出ている。 「イル・ブリガンテが抗争に巻き込んだ市民には、子供も居た。それは、そうなる運命だったと……」 目を閉じたまま続ける話をさえぎるように、ディエゴはテーブルの脚を蹴りつけた。天板が揺れ、振動が伝わる。驚いたアルフィオはようやく目を見開き、睨まれている事に気付いたようだった。 ディエゴが静かな声で訊ねる。 「オレが何で怒ってるか分かるか? バカ犬」 「…………」 つぐんだ口からの返事はなく、歯ぎしりも見受けられない。 食べかけのパニーノを置き、冷静な口調で続ける。 「いいか? 自分よりずっと弱い存在を傷付けておいて、今さら文句を垂れるな」 昨夜、ディエゴは自身の立場を利用してアルフィオと寝たが、それとはわけが違うのだ。 物理的な力強さや戦闘の腕において、華奢な三流マフィアのディエゴは、殺しを生業とした頑強なヒットマンであるアルフィオに敵わない。 それでも逆らいきれず、教えに背く行為であるとしながらも命令に従ったのは、アルフィオ自身の判断であり、意思なのだ。自分で意思決定ができ、行動に責任を持つべき年齢なのだから。 しかし大人と子供では、体格や力、立場はおろか精神面や判断力にも絶対的な差がある。小児性愛(ペドフィリア)という異状性癖およびそれを実際に行動に移してしまう性犯罪者もまた、この認知が不足していたり、激しい思い込みによって歪められたりする事により生まれるとされる。そして再犯率は高く、矯正が極めて難しい。 まだ年端も行かぬ少女が中年男性に嫁がされ、子宮裂傷によって死亡するというおぞましい事件が起きている国もある。いくら文化が違えど、子供というのは社会で守り、育ててゆくべき未来の希望だと言うのに。 そんな当然のことを理解できないはずもないのに、その存在を傷付けても平然とし、あまつさえ否定する態度が気に障ったのだった。 「分かったかよ(トゥット・キアーロ)?」 陽が傾き、人出がさらに増えはじめた街を車へと戻りながら、ディエゴは仕事仲間らと連絡を取っていた。北部に着いた彼女を含めて数件のやりとりをした後、時間を確認する。 「まだ夜まで時間があるな。どこか行きたい所は?」 振り向いて訊ねると、後ろをついて来ていたアルフィオがはたと視線を上げた。 「……分からない」 「分からない?」 ディエゴは聞き返し、低い声がよく聞こえるように距離を詰めた。淡い色の唇に注目する。 「こんな風に過ごすのは、本当に久しぶりなんだ。賑やかな街を歩いて、市場を冷やかして、それも誰かと一緒に……」 そこで一度言葉を切り、両腕の荷物を抱え直す。 「もちろんまったく出かけなかったわけじゃない。だが今日は……今までとはあまりも違いすぎる」 教会にでも行きたがるかと思ったものだが、今日一日忠犬らしく従い、どこまでもついて来た。それはやはり、そうするしかなかったから、という事なのだろう。 「なら、食いたい物は?」 先ほどパニーニを食べたばかりだが、ただでさえオオカミのような食べっぷりの彼がそれだけで満腹になるはずがない。アペリティーボまでにも、まだ時間があった。 何か考えるように間をあけたアルフィオだったが、やはり目は口ほどに物を言う。すれ違った二人連れの手元に灰色の眼が吸い寄せられていた。 ディエゴはその姿を追って見るまでもなく、 「ジェラートだろ、分かったよ」 と半ば呆れたように応じた。しかし当のアルフィオは驚いてしまう。 「どうして──」 「いちいち聞くな。答えるのもバカみてぇだ」 昨日は食えなかったしな、と踵を返し、また歩き出す。花屋と同様、街なかにはそこかしこにバールやジェラテリア、ジェラートの屋台がある。ジェラートを提供するチョコラテリアもあり、特にこだわりがなければ、どの店にしようかと迷ってしまうほどだ。 「待ってくれ、ディエゴ」 背中を追いかけ、体を割り込ませるように横並びになるアルフィオ。 「できればどこか有名なジェラテリアで、出来たて(アルティジャナーレ)を食べたい」 スーパーマーケットの冷凍庫に並ぶ物や、観光客向けに見栄えを重視した物ではなく、職人がこだわって手作りしたそれは、買って帰る事はできずその場でしか味わえない。 サングラス越しに見上げると、大きな瞳が輝いていた。 「そんなにこだわりがあったなんてな」 「実はテレビで観て、気になっていた。俺がしている間には、ここローマでフェスティバルもあったと」 イタリアだけでなくヨーロッパ中の職人がこぞって腕を競うジェラートの祭典は、二○一三年に始まった。毎年四~六月にかけて、ローマやトリノのほか、ロンドンやベルリン、ワシントン、ヨコハマなど各地を回り、ジェラート発祥の地・フィレンツェでフィナーレを迎えるのだ。 「快気祝いだ。好きな店を選ばせてやるから、一番大きいサイズにしろ」 お前なら食えるだろ、オオカミ野郎、などと言いながら、ふたたび歩き出すディエゴ。しかしアルフィオは突然、 「や、やっぱり今日じゃなくていい……」 と怖気づいたように断ってしまった。 「なんだよ」 ハットの下で眉を釣り上げると、アルフィオは視線だけで真新しい靴と服、一人では抱えきれないほどの荷物と、自分の姿を下から上へとなぞらせる。 「きょう一日だけで与えられすぎだ。後が怖い」 ディエゴにとっては連れ合いがいるだけの日常で、特に変わった事などなかったが、昨日までとは一変した環境を楽しむどころか、戸惑っているらしい。 「何もかもビビりすぎだ、アルフィオ」 「俺は元から臆病者だ」 たしなめられても、アルフィオは短く答え、次の言葉を待つだけだ。 「……分かった。水をやり過ぎるなって言われたしな」 ディエゴは納得したように言い、次に現れた屋台で一番小さなコーンにバニラ味のジェラートを一つだけ買い求めた。 ハッチバックに荷物を積み込んでいると、何やら周囲が騒然となった。話し声や車の走行音、犬の鳴き声など街の喧騒は絶えず聞こえているが、それだけではない。 思わず手を止め、辺りを見回す。通りの一角に人だかりができているのが見えた。 「何があった?」 ジェラートを舐めながら訊ねるディエゴに、 「……あまり良い予感はしないな」 アルフィオはようやっと開放された両腕を揉みほぐしながら答えた。 車をロックしたディエゴはリードを引っ張るようにその手を引き、現場に近付いていく。爪先立ちになって、人垣の隙間から中心を覗き込んだ。 そこには一人の初老男性が倒れており、石畳には血が流れていた。吐血のような症状でない。行き交う人混みにまぎれて何者かに刃物で刺されたらしい。 さらに、すぐそばの交差点では交通事故が起きていた。現場に尻を向けた警察車両が、乗用車に突っ込む形になっている。車体のフレームは曲がり、粉々に割れたガラスがアスファルトに飛び散っていた。逃走する犯人を追いかけようとしたところ、横から走ってきた別の車に衝突してしまったようだ。 「お前の車も用意しねぇとな」 それを見たディエゴが思い出したように言った。目の前の惨状から、ショックではなくインスピレーションを受け取ったようだ。 「そう、だな」 唐突な思いつきを受け、アルフィオは一瞬言葉に詰まってから返事をする。またヒットマンとして働く事は、昨夜決定したばかりだ。その足となる移動手段が必要だった。 「今朝の、オルサに頼んでもいいんだが……」 ディエゴは離した手の親指をポケットに入れ、思案する。 二人が家を出る前に訪ねてきた仕事仲間はディエゴよりも大柄で、筋肉質な浅黒い肌をしており、髪を坊主頭に刈り上げ、声を聞いてみて初めて女性と分かるような容姿だった。オルサはその名の通りクマのように勇ましく、気難しく、また北部の出身らしく仕事熱心だ。慣れた動きで「デカい」男の死体をトランクに積み込み、一人でレッカー車とスポーツカーを操作する表情も険しかった。 長身で笑顔も口数も少ないアルフィオとオルサの間で、ディエゴだけがいつも通り明るく話し続けていた。 パチンと指を鳴らし、くるりと踵を返す。何が起こったのか把握できれば、もう現場に用などない。後ろに立っていた長身を引き寄せるようにした。 「オレが運転手をやればいいんだ。ガレージも一台分しかないし、家の前に車があるとオレが出られない」 ビジネス・パートナーを、仕事の現場まで送り迎えする事を閃いたのだ。もちろん今日もここまで乗ってきた、自慢の愛車で。 「今日も運転してきたのはオレだし、派遣業務だって仕事だ」 自身のアイデアに納得し、一人で話を進めるのもいつもの事だった。半分ほどになったジェラートを、その助手席に座る事になる相手の口元に差し出す。 「……送るにしても、近くまででいい」 コーンを受け取ったアルフィオが応じた。 「そうなのか?」 「ああ。これまでも、ずっと一人だった」 一度だけ首をひねって事故現場を見る。 「実際にやるのは……俺の仕事だから」 向き直って念を押し、溶けかかったジェラートを口先で食むようにかじった。 倒れている人物を刺した犯人と、警察車両の前に飛び出した車の運転手は仲間である可能性が高い。殺し屋を逃がすための妨害工作を任された、別の人間がいるのだ。 狩りは本来、群れで行なうものだ。オオカミのパックにおいて、狩りで最も効率的で確実な成果を上げるのは、群れの中心となる雌雄のペアなのだから。 コロッセオ近くのトラットリアで夕食を終え、最後に向かったのはゲイ・ストリートにあるクラブ『キアーロ・ディ・ルーナ』だった。 中に入った途端、圧倒されて言葉を失なったアルフィオの腕を引き、ディエゴはカウンターについた。声をかけると、カウンターの中にいた店長のパオラが歩み寄ってくる。 「まさに〈白いハエ(モスカ・ビアンカ)〉ってやつかしら?」 興味津々に訊ねてきた。彼女は今夜も派手なシャツを着、ぶ厚い胸板と胸毛を見せつけている。 訝しげに店内を見回している様子だけでも、この界隈に馴染みがないのは伝わったようだ。ディエゴはそんなアルフィオの背中を押し、前を向かせる。 「確かに色は白いけど、ハエじゃねぇ。オオカミってところだな」 「オオカミ?」 パオラはマネキンのような彼を上から下まで品定めするかのように見たあと、眉をはね上げた。 「なるほど。〈ウサギ野郎〉に〈オオカミ野郎〉ってわけね」 そして、一昨日からディエゴの首にあるキスマークを目ざとく見つける。 「オオカミの歯型ってそんな形なの? 初めて知った」 「ああ、これは別の奴に。コイツは多分付け方も知らない」 あっけらかんとした答えを受け、アルフィオに戻された視線は同情に近いものになっていた。 「パオラよ。オオカミ野郎……でいいのかしら?」 「俺は人間だ。名前はアルフィオ」 訂正するように名乗ると、パオラはカウンターに手を突いて、軽く身を乗り出す。スピーカーから流れる大音量の音楽の中で、アルフィオの低くつぶやくような話し方は聞き取りづらい。 「このストリートにはホットな出会いが沢山ある。青い王子様──未来のパートナーを見失なわないでね!」 パオラは新客に顔を寄せ、わざとらしく大きな声で忠告してみせた。 「……俺はディエゴのパートナーだが?」 「ビジネスのな!」 意味を理解できず、不思議そうに返したアルフィオの言葉に、ディエゴが割り込むように付け足した。 まだ完治してはいない脚と慣れない街歩きに疲れたアルフィオのため、ディエゴは自身のビールの他に、ノンアルコールのカクテルと席を用意してもらった。 カウンターチェアに座らせ、ナッツをつまみながら、至近距離で言葉を交わす。時おり他の客や、パオラが戻ってきて話に加わった。 と、流れる音楽に混じって、爆発するような銃声が聞こえた。 反射的に背後を振り向き、立ち上がるアルフィオ。顔を引き攣らせ、ダンスフロアを見回す。 が、熱気が静まる事はなく、男たちは踊り続けている。 奥にあるDJブースでは、キャップをかぶったDJが片手を銃の形にして上げていた。曲中の効果音に合わせた演出だったようだ。ベスト型の衣装からは日焼けしたたくましい腕が覗き、首から提げた大きな金色のネックレスが映えている。 「お座りだ、アルフィド」 ディエゴは犬の躾をするように言い、その服の裾を引く。 バーカウンターで立ちすくみ、じっと見ている視線に気付いたらしい。DJが視線を返してきた。 もう一度、銃声が鳴る。 するとDJはそれに合わせ、アルフィオたちに向かってピストルを模した手で撃つような仕草をして見せた。突き出した人差し指と中指の先を吹いてから、ウィンクをする。 「アルフィド」 ディエゴがやや鋭く命じる。歯を食いしばったアルフィオが何を思っているのか、何を言わんとしているのかは理解できた。 聞き分けのいい忠犬アルフィドが座り直すと同時に、ディエゴはカウンターを離れた。ダンスフロアへ向かい、人混みをすり抜けてまっすぐにDJブースを目指す。 「あら、行っちゃったわよ」 その背中を見たパオラが茶化すように言った。アルフィオも視線を辿る。 ディエゴはDJブースの脇へ行き、何やら話しかけた。手振りも欠かさず、ピストルを模した手を動かす仕草をする。怒っている様子はなく、横顔は親しげな笑みをたたえ、DJも嬉しそうに大きくうなずいている。 一度ターンテーブルを操作すると、聴き覚えのある曲に切り替わった。 「これは……」 アルフィオが小さく反応する。ディエゴが気に入ってよく聴いているアーティストの曲だ。踊れはしないが、馴染みがあった。 ディエゴはポケットから紙幣を取り出し、小さく折りたたんだ。プレイ中のDJに、客がチップを渡す事は珍しくない。リクエストを快く受け入れた礼も兼ねているのだろう。 「ねえ、好きにさせていいの、オオカミ野郎? パートナーなんでしょ」 パオラが言うが、アルフィオはまだ何のことか分からず見返すだけだ。 その視線が離れた瞬間を見計らったように、ディエゴは折りたたんだ紙幣を唇に挟んでブースへ身を乗り出し、DJの顔へ近付けた。それを口で受け取る帽子の鍔に隠れ、ふたりの顔が見えなくなる。 フロアから煽るような歓声が上がるのを、アルフィオは呆気にとられて見ていた。 顔を離したDJは紙幣を口に咥えたまま、歯を見せて笑い、ディエゴも満足げに笑みを返す。まだカウンターに戻ってくる様子はない。 また一度ターンテーブルを操作した時、次のタイムを任される別のDJがブースに上がってきた。 帽子をかぶったDJはブースを明け渡すと、ディエゴから受け取ったチップを口から離し、そばで待っていたその肩を抱くようにして何か話しかける。 そのまま二人は、ブースの裏に繋がるカーテンをくぐって行った。 「あんなウサギを飼うのは大変でしょ。ケージに閉じ込めてやればいいのよ」 一部始終を見ていたパオラが哀れむように言うが、アルフィオはグラスを持ったまましばらく沈黙し、やがて言葉を絞り出した。 「……俺が物置部屋で寝ればいい話だ」

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