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第十章 養護福祉

シチリア島の北西部・モンレアーレからパレルモへと続くコースを、一台の競技用自転車が駆け抜ける。ジャージを着た選手は姿勢を低くし、観客の視線を一身に浴びながら、鮮やかにコーナリングしてゆく。平均時速は五十キロを超え、勾配のある直線では百キロを記録する。ともすればカメラも追いつかないスピードだ。 「グランツール」とは、フランス語で「大きな周遊」を意味し、フランス、イタリア、スペインで開催される自転車のプロロードレースを指す。世界三大ツールとも呼ばれ、中ではフランス大会が最も有名だが、山岳ステージの過酷さではイタリア大会が上回るとも言われる。 競技内容はそんな山岳ステージのほか、上下の激しい丘陵ステージ、距離のある平坦ステージや市街地でのタイムトライアルなど多岐に渡り、選手たちは一日一ステージをこなす形で、チームおよび個人の合計タイムを競う。その名の通り国全土を周遊(ツール)するようにコースが設けられ、休息日を含めた日程が組まれている。 フランス語で「 Tour de(ツール・ド) 」ならば、イタリア語では「 Giro d' (ジロ・ディ) 」だ。その愛称で知られるイタリア大会は、通年であれば五月に開催される。ただし今年は予定よりも大幅に延期されたため、十月三日からおよそ三週間の予定だ。また、スタート地点もハンガリーの首都ブダペストからイタリア南部のシチリア島へと変更されている。 二週間前にフランス大会があったばかりで、スペイン大会とは同時期に開催という事もあり、例年より出場選手が少ない。それでもやはり難度の高い山岳ステージは見もので、文字通り“世界最高”の自転車レースである事は間違いなかった。国技であるサッカーに次ぐ、人気のスポーツだ。 ディエゴとアルフィオはソファーに並んで腰を下ろし、一番近くのピッツェリアで買い付けたピザをそれぞれ一枚ずつ膝にかかえ、その初日の様子を映したテレビ画面に見入っていた。 ローテーブルにはテレビのリモコン、水とワイン、ピザと一緒に買ってきたトマトのブルスケッタ、花ズッキーニのチーズ詰めフリット、そしてディエゴのスマートフォンと、アルフィオの使ったピストルが置きっぱなしになっている。 「ディエゴは、フランス人選手を応援するものと思っていた」 六番目の選手がスタートしたタイミングで言い、またひとつ、ブルスケッタを口に運び入れるアルフィオ。 「今日はチームの出場もないはずなのに、急いでいたからどうしたのかと」 ビジネス・パートナーとなったふたりは、以前にも増して行動を共にするようになっていた。 殺しの斡旋と仲介だけでなく送迎をこなすディエゴと、実際に行なう殺し屋(ヒットマン)となったアルフィオは昨夜、日付が変わってから「仕事」へと出勤した。帰宅したのは明け方だった。ディエゴは依頼人(クライアント)への連絡を済ませてから寝ると言い、アルフィオはシャワーを浴びて先にベッドに潜り込んだ。 目を覚ましたのは昼で、以前から楽しみにしていたジロのスタート時刻が迫っていた。初日のスタートリストと、近隣のピッツェリアのチラシを見比べるディエゴに、個人経営の店にはデリバリーサービスを利用するより、直接買い付けに行った方が効率的だろうと提案したのもアルフィオだ。文字通り寝食を共にしていた。 「せっかくこんな時間に予定もなく家に居られるのに、見逃したくねぇだろ」 ディエゴはアッラ・ディアボラを頬張り、画面に注目したまま答える。舌に広がる唐辛子の辛味に、まろやかな赤ワインが合っていた。 たしかに好んで買い付けるワインにはフランス産が多く、シャッター付きのガレージに停めた愛車もフランス製だが、それは偶然に過ぎない。 「そもそもオレは、デカくてパワフルなのが好きなだけだって」 「好みの選手がいるのか?」 何気ない質問を受けた途端、ディエゴはやや不機嫌になる。 「……お前、ゲイがどんな男にも“乗りたがる”ってのはクソみたいな勘違いだぞ」 その返答に、アルフィオも眉間に皺を寄せた。 「そんなこと、言ってないだろう。応援しているかどうかを聞いただけだ」 「そうかよ」 すぐにけろりと表情を戻すディエゴ。 「やっぱりローマの男(ロマーノ)だと思い入れが強くなるくらいだな」 イタリアでの開催とあって、初代優勝者をはじめ、ジロにおける歴代の優勝者にはイタリア人選手が目立つ。中でも同郷とあれば、やはり気になるものだ。 せいぜい二百年前ほど前に統一されたばかりのこの国では、「イタリア人」と自称する者は少なく、ミラノ人(ミラネーゼ)ジェノヴァ人(ジェノヴェーゼ)フレンツェの男(フィオレンティーノ)などと名乗り、呼び合う。人々は自身とその故郷に愛と誇りを持っているため、それに伴う形で生まれや地域性を侮辱する差別用語となる言い回しも当然のように存在し、度々問題となる。愛国主義ではなくとも、郷土愛は強いものだ。自転車競技に限らず、スポーツチームはかなり地域密着型であり、試合があれば地元の人々は喜んで足を運ぶように。 「やはり俺はディエゴのことを、知っているようで知らないな……」 アルフィオは一度視線を落とし、ピザを切り取る。伝統を重んじる南イタリア・ナポリの製法とは正反対の、薄焼きで香ばしいローマ風生地はナイフでスムーズに切れ、力加減を誤ると簡単に砕けてしまう。 午後になって店が開き、火を入れたばかりの薪窯で焼き上げたシンプルなマルゲリータは、まだ熱を保っている。水牛のミルクから作られたモッツァレラチーズとほとんど同じ色の肌の彼がそれを選んだ際、ディエゴは後ろで小さく笑っていた。 店内ならばナイフとフォークを使って食べているところだが、今は手づかみで食べる事が許されている。二人きりの家で、食事マナーに目くじらを立てたり、眉をひそめたりする者はいない。 「贔屓(ひいき)のスポーツチームすら」 そう続けてから一切れ持ち上げ、具材がこぼれないように口に入れた。 当のディエゴはつぶやくような声の方は見ずに応じる。 「オレには好きな物が多いからな。ナポリではファミリーと一緒にカルチョの観戦に行った事もある」 ピザ発祥の地ナポリのサッカークラブチームは南イタリアで最も成功したチームのひとつと呼ばれ、絶大な支持を得る。選手に憧れる少年たちがボールを転がしたり、大人であっても選手のプレーを真似ているのも、街中でよく目にする光景だ。 「カルチョでは、ローマのチームを応援しないのか?」 アルフィオの問いに、ディエゴはふと気付かされた気分になる。 「いや、どっちを応援するかって言われたら、迷うな……」 南部の人間性は、伝統を重んじる文化だと言われる。脈々と受け継いできた考え方を元に、仲間と認めた者同士で強い結び付きを感じて暮らしている。 一方で北部はどちらかと言えば現代的な考え方を持つ傾向にあった。半島の付け根部分は諸外国との国境であるため、外部からの流入者にも分け隔てなく接するとされる。 中部出身のディエゴは、そのどちらでもなかった。ローマで生まれ育ち、居場所を失なってナポリに行き着いたものの、そこでもまた居心地の悪さを感じてこのローマの郊外に戻ってきていた。 「最近は試合観戦にも行ってねぇし……今みたいに家か、パブで観戦するくらいだ」 ラグビーやモータースポーツのほか、ヨットや水球も人気だ。中継放送のある夜に街を歩けば、スポーツ観戦できる場所を数軒見つける事は難しくない。そしてそこには、同じくスポーツ好きという共通点を持った「仲間」がいるものだ。 「アルフィオこそ、何か試合を観戦しに行った経験は? シチリア・ダービー(デルビー・ディ・シチリア)を楽しみにしたりしなかったのか?」 一枚のピザを食べ終えたディエゴが聞き返した。 彼の故郷は、シチリア島の南東部にある。正反対に位置する、州都パレルモ対第二の都市カターニアのクラブチームの試合は「シチリア・ダービー」と呼ばれる。 「子供だったけど、あの暴動はテレビで観てた」 続けるディエゴに、アルフィオは少し何かを考えるように間をあけた。 「俺は……その頃にはもう島を出ていた」 二○○七年二月二日、そんなシチリア・ダービーの最中に暴動が起きた。スタジアム内で過激なサポーター同士や警察が衝突したのだ。爆竹や発煙筒が飛び交い、催涙スプレーは選手にも影響を与え、試合は四十分以上も中断。混乱の中、十人以上が逮捕され、百人を超える負傷者と一人の死者を出したという。 「観に行った事はないんだな? 巻き込まれてもいねぇし」 「…………」 ディエゴが確認するが、アルフィオは口の動きも止め、画面に見入っていた。まばたきすらも忘れてしまったようだ。 「アルフィオ」 画面を注視している横顔に呼びかける。爪先で足を軽く突くと、 「ああ、何だ?」 ようやく返事があった。空想にふけっていたら突然現実に引き戻されたかのようだ。 「どうしたんだよ? 今まで話してただろ」 「……カルチョや、昔の話をしながらジロを観ていて、知っている景色が映って、頭が混乱した」 アルフィオは打ち明け、肩をすくめた。いつの間にかピザを食べる手も止まり、食べかけのまま膝の上に置かれている。 ツールでは選手たちの活躍する姿だけでなく、その後ろを流れてゆく景色も見所だ。火山の頂上付近や、丘陵に作られた葡萄畑、歴史ある空軍基地、地中海沿岸の海岸線をひたすら北上する様子も中継される事だろう。 「やっぱり、景色が懐かしいか?」 画面には、ゴール地点の市街地が映っていた。 「ああ、いや……」 アルフィオは曖昧に答え、ローテーブルに置いた水のグラスへ腕を伸ばした。 「今のパレルモの街じゃなく、前に映ったところだ。イオニア海側からの景色を」 島には八つの県があり、基礎自治体(コムーネ)となると四百近い数となる。地中海と言ってもティレニア海やイオニア海と言った海域があるように、一口にシチリア島出まれ(シシリアン)と言っても、様々だった。 「明後日はエトナ山のコースらしいし、その次はカターニアだ。もっと馴染みがあるかもな」 空になったグラスにワインを注ぎながら、明るい調子で伝えるディエゴ。 「観客をよく見れば、知り合いが居るかもしれねぇぞ」 人口が少なく、人と人との関わりが活発な街では、何気なくインターネットやテレビを見ていたら知人が映っていた、などというのもままある話だ。 「どうだろう。家には一度も帰っていないし……」 自信なさげに視線を落とす。 カターニアから橋を一本渡れば、本土にあるカラブリア州に着く。そのカラブリアを拠点とするマフィアファミリー「イル・ブリガンテ」に属し、ヒットマンとして過ごしていた〈忠犬アルフィド〉を、ディエゴは正確には知らない。捨て犬を拾い、ふたたび住む場所と仕事を与えただけだ。 「そう言えば、ディエゴこそ、他の誰か……友人と観なくて良かったのか?」 心なし心細そうにしている忠犬アルフィドが、初めて気付いたように訊ね返した。ディエゴはグラスに口をつけたまま、視線だけを向けて聞き返す。 「うん?」 「その……俺はあまり、スポーツを観ていても、一緒に盛り上がる方ではないから」 言葉を選ぶようにしながら続ける。 「さっきも言っていたように、外で観てくるものだとばかり」 「カルチョならそうしてたかも知れねぇ」 ワインを一気に飲み干したディエゴは端的に答え、その手元に視線をやった。 「口数が増えたのはいいが手を止めるな。ピザが冷めるぞ」 レースが終わっても、サマータイムが導入された外はまだ明るい。日の入りとほぼ同時刻に月の出が訪れるほどだ。 アルフィオがピッツェリアへの買い出しの次に提案したのは、何と映画鑑賞だった。しかも映画館に足を運ぶのではなく、傷んだDVDを何枚も出してきたのだ。 「わざわざ買ってきたのか?」 ローテーブルに積み上がった山から一枚を取り上げ、パッケージを眺めるディエゴ。レコードショップでも投げ売りされているような代物で、ところどころ変色してひびが入り、最後まで再生できるかも怪しい状態だ。 「物置部屋にあった。お前が今着ている秋物の衣類の下敷きに」 キッチンからアルフィオの声が答える。彼に外出の許可を与えると同時に二人で過ごす時間が増え、一人で外出する様子はあまり見ていなかった。 「……道理で見覚えがあるはずだ」 ぽつりとつぶやき、パッケージを山に戻す。 「ピストルもしまい込んだきりだった。あの部屋はまるで宝物庫だな」 蜂蜜をかけたマスカルポーネチーズとグリッシーニを持って戻ってきたアルフィオは、何かを拾ったり掘り起こしたりしては飼い主に見せにくる犬に似ていた。 「何でまた、こんな古い映画なんか……」 「こういった作品は一度も観た事がない。今夜は何も予定が無いんだろう?」 トレイを手に立ったまま、大きな双眸からねだるような視線を向けてくる。 「五ヶ月も家の中で一人だったんだぞ? いくらでも時間はあったはず」 「一人だったから観られなかったんだ。恐ろしい内容で、眠れなくなったらどうする」 思わずその顔を見上げるディエゴ。 「……そんな臆病者のクセにこれを観るってのか?」 「だからディエゴと一緒に。気になるんだ」 矛盾だらけのヒットマンはいつも通り真剣な態度で、冗談を言っている風ではなかった。ディエゴはそれ以上追及しない事にする。 「……分かった。きょうは“ジロ”と“ジャッロ”の日だな」 「グランギニョール」とは、フランス語で「偉大な人形劇」を意味し、フランス・パリに十九世紀から二十世紀にかけて存在した劇場の名前、転じてそこで演じられた芝居を指す。(ピノ)の木から作られたあやつり人形の物語のように荒唐無稽な大衆娯楽で、フランス文化として有名だが、人形劇の原型はイタリアから伝わったとも言われる。 フランス語で「 grand-guignolesque(グランギニョール的な) 」要素を持つのがイタリア語の「 giallo(黄色) 」だ。その通称で知られる犯罪小説が黄色い表紙で発行されていた事から、文学作品以外のジャンルの呼び方としても定着した。また黄色(ジャッロ)は臆病者や、裏切り者を想起させる。 チネチッタを有する映画大国で一九六○年代から製作されるそんなジャッロ映画には、視覚と聴覚に訴えてくるホラー要素が強く、残虐なスプラッター表現、過激な暴力や濃厚なセックスシーンが欠かせない。作品内容は人間の精神面に着目した狂気や妄執、孤独などを描き、多くは精神疾患や犯罪行為を取り扱う。俳優と女優たちは惜しげもなく肌を露出し、不気味でありながらも魅力を持った役をこなす形で競演する。 表の世界に暮らす人々が仕事帰りや休日に、非日常を覗き見た気分にひたるために好まれるのが映画だ。ジャッロ映画はやがて特徴的なカメラワークと色彩、音楽をもって観客が飽きるまで作り込まれるようになり、現代もマニアに人気を誇る。 が、そこに描かれる以上の体験と、作り物をはるかにしのぐ惨状を誇張なしに作り出してすらいるはずのヒットマンが、得体の知れない内容に怯えている事こそが荒唐無稽と言えるだろう。 臆病者でないディエゴが新たなワインを開けている間に、臆病者アルフィオは窓辺に置いていたセダムの鉢をわざわざ移動させ、カーテンを閉めた。リビングを暗い映画館のようにしたのだ。 ふたたびソファーに腰を下ろし、テレビのリモコンを取り上げる。ローテーブルの上には新たに準備した水とワイン、ピザと一緒に買ってきたズッパイングレーゼ、グリッシーニ、そしてスマートフォンと作り物ではないピストルだ。 「子供にはまだ早いと、ついに成人するまで観せてもらえなかった」 DVDを再生させるアルフィオは酒も飲んでいないのに饒舌になり、しっぽを振る犬のように落ち着きがなかった。そんな態度を見ながら、ディエゴはワインボトルを傾ける。 「厳しい親だったんだな。よく教会にも連れて行かれたって」 「今になって思えばそうかも知れない。だが当時は、それが普通だったから」 それからアルフィオは少し沈黙し、ちらと視線を投げかける。 「……ディエゴの両親ほどでは、ないと思うが」 息子が同性愛者であると知った彼らは、今よりも若く、幼なかったディエゴを家から追い出した。神の教えに反するような子供は、自分たちの家には要らないと。 しかし当のディエゴはさして気にする素振りもない。ソファーに横たわって肘掛けに頭を乗せ、味をつけたグリッシーニをしがむ。 「いいんだよ。オレは今が楽しけりゃそれで」 その足はいつの間にか靴を脱ぎ、アルフィオの膝の上に乗せていた。隣に座った体ごとソファーのように扱う体勢と態度は、相手を信頼しているだけでなく、リラックスしている証拠だ。 アルフィオも特に気に留めず、画面に向き直る。映画の冒頭は港町の景色から始まり、その一角にある旧い建物に注目する。中には組織の構成員と思しき男たちがずらりと並んでいた。白黒フィルムでも、迫力が伝わってくる。 「俺の弟たちも観た事がないかも知れない。もう子供じゃないが」 アルフィオがまた口を開いた。 「弟がいるのか。兄弟の一番上だとは聞いてたけど」 「ああ、それも二人だ」 映画館では、内容と無関係な話はするべきではない。だがここにはやはり目くじらを立てたり、眉をひそめたりする者はいなかった。 「兄弟で、何でも分け合うようにと教えられたが……」 アルフィオは一度言葉を切り、わずかにうつむいた。 「……何だか、悪い事をしている気分になる」 「悪い事?」 「最近よく感じるんだ。ディエゴと出かけるようになって、ますます……」 「また殺し屋になったからじゃねぇか?」 そう聞き返した仲介業者ディエゴが、新たに契約を結んだヒットマンに初めての「仕事」を与えたのは、九月中旬だった。 目立たないよう黒い服に身を包み、目元に手入れの行き届いた銃口と同じ鋭さを据えたアルフィオは、現場に行くまで黙り込んだままだった。ターゲットの滞在先はさびれたホテルの一室で、辺りにはひとけのない時間を選んだ。それでも、目的地のかなり手前で車を止めるよう、肩に触れてきた。 仕事を終え、わずかに返り血を浴びた彼が車に戻ってきた様子を、ディエゴは三週間近く経った今でも忘れていない。 闇の中に浮かび上がる白い顔は見る者に底冷えするような恐怖を抱かせるが、そんなアルフィオ自身はがっしりとした体躯とは裏腹、ひどく心細そうにしていたのだ。とても仕事を終えた直後のヒットマンとは思えなかったが、ある意味では見慣れた様子でもあった。 その時とはまるで別人のようなアルフィオが小さく首を振る。 「そうじゃない。むしろ仕事以外の時なんだ。今も、こうしてディエゴと居ると……そんな気分だ」 「何だよ、それ」 相手の顔を見返しながら言い返すディエゴ。テレビの光を受けて肌はより白くなり、深い凹凸は黒い影を落としている。 「おそらく……子供の頃の俺には、できなかった事をしているんだ。母さん(マンマ)に叱られると思って」 「いい子だったんだな、アルフィオは」 するとアルフィオが珍しく、口角を上げた笑みを見せた。 「ベファーナの靴下にはいつも菓子が詰まっていた。ヌガーにキャンディ、チョコレート……」 イタリアの子供たちは公現祭(エピファニア)の夜、枕元に一番大きな靴下を置いて眠る。すると、夜中に魔女のベファーナが現れて、その中に菓子をいっぱいに詰めていく。 ベファーナは箒に乗った老婆であり、一見すると恐ろしい印象を抱くがその目元は大変優しいとされている。しかもいたずら好きな性格で、良い子には菓子を与えるが、悪い子の元には炭を置いていく事がある。もちろん本物の炭ではなく、炭を模したチョコレートだが、子供たちは毎年、期待と緊張を胸に翌朝を迎えるものだ。 エピファニアがベファーナとも呼ばれるのは、キリスト教の伝承に由来する。 神の子の誕生を祝いに来た三人の賢者が、とある家政婦ベファーナに道を尋ね、同行するように誘った。彼女は多忙を理由に、一度断ってしまう。しかし考えを改め、あとを追ったが三賢者の姿はすでに見えなくなっていた。そこでベファーナは菓子を持って、子供のいる家を一軒一軒回っているのだという…… 「オレは毎年(カルボーネ)だった」 思い出して応じるディエゴ。キリスト教徒だった頃に入れたタトゥーはまだ、秋物のシャツの下に残っている。 「確かにディエゴが良い子にしているところは、想像できない」 アルフィオは画面を見たまま納得した。それでもディエゴは機嫌を損ねるどころか声を立てて笑い、脚を組み替えた。 「言うようになりやがって、クソ野郎」 冗談を言っても笑わないのは相変わらずだったが、出会ったばかりの頃からは想像もつかないほどよく話すようになった事に気付いていた。 「今だってお前はズッパイングレーゼなのに、オレはマスだからな」 腕を伸ばしてまた一本のグリッシーニを取り、蜂蜜のかかったマスカルポーネチーズにつける。 「食べるかと確認したじゃないか。そうしたら、いらないと」 容器を手にしたアルフィオがスプーンを片手に言い返す。リキュールにひたしたケーキとカスタード、チョコレートクリームは容器の中でスープのように溶けあい、食べるにはスプーンが必要だ。 「お前みたいに底なし胃袋じゃねぇんだよ、オオカミ野郎め」 先ほどのブルスケッタとフリットもほとんどアルフィオが一人で平らげたようなものだった。そこにピザを入れ、さらに食後のドルチェまで平然と満喫する胃の腑など、アルフィオより華奢なディエゴは持っていなかった。 寝返りをうつように上半身をひねり、またテレビに向ける。舞台は港町から、美しい村のはずれにある小さな館へと移っていた。 「万引きをしたり、友達とムースを付けあったり、しなかったのか?」 「食べ物を前に騒いだり、遊んではいけないと」 「そのムースじゃねぇ。フォームだよ」 ドルチェに気を取られすぎだ、とディエゴがたしなめるように訂正すると、 「いたずらは滅多にしなかった。弟たちの手本で、両親の誇りであろうとしていたんだろうな」 アルフィオはどこか他人事のように答えた。 「いたずらっ子(イル・ブリガンテ)の一員だったクセに?」 「それとこれとは関係ないだろう。島を離れてからの話だ」 「シチリアを離れてからマフィアファミリーに入ったなんて冗談みてぇだ」 「前身はシシリアン・マフィアだったはずだが」 言葉尻をとらえてからかうように聞き返されても、シシリアンは端的に答えるだけだ。 「なら、島を出たのはいくつの時なんだ?」 「成人する頃だ。コムーネには高校が無かったから、別の街まで通っていたんだが──」 アルフィオの言葉が一度途切れる。 「──ディエゴ、画面が見えない」 起き上がったディエゴが、背を向ける形でその膝の上に座っていた。 「そりゃそうだろ」 後頭部が鼻先に来ると、アルフィオは条件付けされたようにそこへ鼻を埋めてしまう。俺がどれだけこれを観たかったか、とこもった声が訴えた。 何とか画面を見ようと揺れる体の上で、ディエゴは愉快そうに笑う。 「……お前こそ本当のいたずらっ子(イル・ビリキーノ)だな。菓子が貰えないはずだ」 憎らしげな声とともに、後ろから腕が回ってきた。子供が綿の詰まったぬいぐるみにそうするように、抱きすくめられる体勢になる。重さなどまるで気にならない様子で、秋物のシャツでタトゥーを隠した華奢な肩に顎を乗せてくる。 画面の中では、館を訪ねてきた一人の男が寝室のベッドで眠っていた女を起こし、沈み込むように体を絡めている。 男女の様子に、ディエゴは興味を持てなかった。DVDをしまい込んだ事自体は忘れていたが映画の内容は覚えており、知っている展開を観るのはよほど感銘を受けた作品でない限り退屈だ。 背もたれ代わりに後ろの大柄な体に寄りかかり、伝わってくる心拍を感じる。耳元で聞こえる息遣いがわずかに乱れているようだった。 映画鑑賞には休憩を挟むものだ。 一度目のベッドシーンが終わるとディエゴはアルフィオの手を離させてその膝から下り、バスルームへ向かった。再生を止めさせる事はしない。一人残される形になってもアルフィオが映画に見入っていたからだ。 昼日中の美しい風景も、川に反射する陽光も、女優が身に付けている衣装も、彼女の金髪と小麦色と思しき肌も、すべてが白っぽく、時にハレーションを起こしている。撮影技術も予算も低い中で製作されたらしかった。 しばらくして戻ったディエゴはその後ろを通り抜け、キッチンに向かった。照明を点けなければほとんど暗闇に近い。テレビ画面の光がわずかに届き、手元が分かる程度だ。 「アルフィオ」 キッチンの中から呼ぶと、 「マスカルポーネなら冷蔵庫だ。あまり残っていないが」 声だけが返ってきた。言われた通りに冷蔵庫を開け、容器を探すディエゴ。家にある物は家主よりも室内犬の方が知り尽くしていた。 「蜂蜜はどこにある?」 「すぐそこにあるだろう。カウンターの上だ」 確かにカウンターの上にはいくつかの調味料が並んでいる。頭上には作り付けのキャビネットがあり、蜂蜜などの冷暗所で保存するべき食材が収納されていた。戸を開けて中をすべて見るには、ディエゴは少し背を伸ばさなければならない。アルフィオなら難なく届くはずだ。 「こっちに来い。アルフィオ」 もう一度呼んだが、画面から目を離す様子はない。 「お前こそ早く戻ってこい。ストーリーが分からなくなるぞ」 「オレは観た事があるからいいんだよ! 呼んだらすぐに来い、忠犬アルフィド!」 ディエゴはとうとう大声を出した。 「どうして明かりも点けないんだ。蜂蜜ならすぐそこに……」 ようやく重い腰を上げ、ぼやきながら入ってきたアルフィオが硬直する。女優の艶めいた笑い声がその後方で響いた。 ディエゴの手には目当てのマスカルポーネチーズの容器が握られ、カウンターには蜂蜜の瓶も置いてあったが、それだけではない。明るさに慣れていた瞳孔は開かれ、暗闇の中でも対象をはっきりととらえていた。 カウンターに腰掛け、足をぶらつかせているディエゴの裸だ。 「……今日の仕事は終わったはずだが」 アルフィオが不服そうに言いながら、歩み寄ってくる。それだけで、ディエゴは満足そうに笑みを浮かべた。 「予定が無いって言っただけだ。だからオレには、情夫を買う時間がある」 相棒を初めて買い、“乗った”のも、九月中旬だった。以来ディエゴは気が向けばビジネス・パートナーを、ビジネスの上に成立するセックスのパートナーとしても扱っており、今やこのように誘えば意図を察するほどにまでなっていた。 「雇い主が持ってきた仕事を断ったりしねぇよな? それもあんな映画を見るために」 挑発するように言うと、向き合う形で立ったアルフィオは咎めるような視線を向ける。が、暗いキッチンでその顔は逆光になっている。 「女の裸には、興味を持たないと思っていた」 「誰が女に興奮したなんて言ったんだよ」 ディエゴは言い返しながら拳を軽く突き出し、もう片方の手で肘に触れた。傘のようにも見えるその動きは、中指よりも巨大な陰茎や性行為を表し、侮辱の意味で使われる。 「お前と一緒にするんじゃねぇ」 二○一四年のジロにおいて第十七ステージのゴールシーンが放送事故だと騒がれたのは、優勝した選手が中継カメラにそれを見せたからだ。解説者たちはコメントを失った。 「……なら夫のほうに興奮したのか? それとも次に訪ねてきた?」 アルフィオの声の調子も呆れたようになる。 映画の主演女優は何人もの男を手玉に取る奔放な美女を演じており、その夫は組織のリーダー格として整った顔立ちを常に鋭く尖らせていたが、館に住む妻の前だけは柔和になった。一方で、次に訪ねてきた相手はまだ少年と呼べる年齢で、愛らしく純真であるがゆえに狂気を感じさせる役柄だ。 どちらも危うさがあり魅力的だったが、体つきは大きくなく、〈ウサギ野郎〉の発情する条件を満たしていなかった。 「どんな男にも乗りたがるのは勘違いだって言っただろ」 カウンターに脚を上げ、 膝を立てながら、曲げていた腕を伸ばした。ちょうど良い高さにある相手のベルトをつかみ、強く引き寄せる。アルフィオがよろめいて距離を詰めてくる。 そうしてから、脇に置いていたマスカルポーネチーズの容器を取り上げる。クリーム状になった白い半固形を、直接指ですくい上げ、ひと舐めした。 見ていたアルフィオが眉根を寄せる。 「ディエゴ、そんなに腹が減ってるならセックスなんて……」 「お前と一緒にするなって。同じことを何度も言わせるな」 叱咤し、もう一度クリームを指で取ると、今度はわざとらしく唇の端につけた。それから顎、首、胸と続けざまにつけていく。色の濃い肌に、白く浮いているのが薄暗い中でも見える。 「じゃあ、何をしているんだ?」 不思議そうに訊ねるアルフィオ。 「食べ物で遊んでるんだよ。オレは悪い子だからな」 ある程度察するようになったが、まだまだ口に出さなければ理解はできないらしい。 「いい子のお前なら、どうするんだ? 手本を見せてみろ」 からかうように視線を向けると、途端にアルフィオが表情を引き攣らせた。 リビングから漏れてくる映画の音声を聞きながら、アルフィドは本物の犬のように、マスカルポーネチーズと蜂蜜まみれになった主人の肌を舐めていた。残り少ないのに、などと不平不満を言いながら。 顔を引き寄せられ、キスをすると、唇を引き結ぶ。 「口を開けろ、アルフィオ」 命令すれば従うというのは、こうして何度か体を合わせるうちに見つけた事だ。赤ワインと、様々なドルチェの絡み合う味がする。 そう、“仕事中”のアルフィオは、口は開けられるのに、声を出そうとしないのだ。先程まで話していたにもかかわらず、ぱったりと、一言も発しなくなる。 だがディエゴを無視しているわけでないのは伝わっていた。言葉をかけると歯を食いしばり、口輪筋を引き攣らせ、何かを訴えようとしていた。うながされるがまま、蜂蜜と体温に溶けた内側に挿入し、深く突き込む動きも、乱暴で独りよがりなものではなく、むしろその逆で奉仕的な精神すらうかがえた。 乱暴になるのはディエゴの方で、アルフィオが映画の中の銃声に驚いて動きを止めた時、髪をわしづかみにした。 「オレはセックスを中断されるのが大嫌いなんだよ、何度言えば分かる!」 その後も銃撃戦のシーンは度々訪れ、アルフィオは毎度動きを止めてしまったが、 「今度は何だ!」 銃声よりも大きな怒鳴り声で訊ねられても、やはり返事はなかった。 たとえ勢いあまってキャビネットの角に頭をぶつけようと、何故こんな場所にキャビネットがあるんだと怒る事もなく、ただ歯を食いしばって痛みに耐えていた。 話し好きで口数の多いディエゴにとっては最中にあれこれと言葉を交わすのはごく自然な行為だった。愛など求めていないが、情熱的に体を求め合えば、必然的に言葉が出てくるものだ。 しかしそれは、パートナーには理解されないらしい。この三週間で関係を持った回数は、片手の指では数え切れない。ダブルベッドやソファー、今のような場所に限らず、時には仕事帰りの車内で繋がった日もあった。が、やはりアルフィオは二人が肉体的な絶頂を迎えるまで、頑なにものを言わなかったのだ。 彼の気を散らさないよう、ディエゴはアルフィオの耳を両手で塞いでいた。 「お前は本当に……ゴミ捨て場で拾ったセックス・ドールだ」 その状態で先に達し、肩で息をしながら、まっすぐに目を見て伝えた。彼を拾った時、ネヴィオが言っていた言葉だ。当時は、そんなんじゃねぇと言い返したものだったが、今となってはあの口の悪い老人の言う通りだった。 するとアルフィオはディエゴの手を振り払うように、暗い天井をあおぐ。白黒フィルムの中から抜け出してきたかのような黒い髪と白い肌を震わせる様子は、逆光の中で見ると、オオカミの遠吠えに似ていた。 「……ディエゴ、話がある」 アルフィオがようやく口を開いた。満足してカウンターから下り、キッチンから出ていきかけたディエゴに声をかけたのだ。 「さっきまで一言も話さなかったドールが、一丁前にピロートークかよ」 ディエゴは振り向かず、体を洗い流しに向かう。あとを追うアルフィオ。 「俺にも原因が分からないんだ」 リビングでの上映は終わっており、エンドロールが流れていた。 「ゲイじゃねぇからだろ。そりゃ伝える言葉も、囁く愛もねぇよな」 ふたりはもう擬似的な恋人同士でも、ましてや夫婦でもなく、何でも気軽に言い合える友人同士だった。 「いくら良い子でも、セックスとワインなしで生きていけるわけがねぇだろ。敬虔な奴は大変だな」 「違うんだ。その話じゃなく──」 「おカタいのはアレだけにしろ」 言い捨て、薄暗い廊下からバスルームに入ろうとした。 と、アルフィオが突然、その肩をつかんで振り向かせた。真剣な眼差しがすがるように見てくる。 「聞いてほしい。ちゃんと話せるか分からないが、お前にしか、話せないんだ」 めずらしく力任せな動きに少し驚いたディエゴだったが、 「……何言ってんだ?」 すぐに不可解な内容に気付いて眉を歪めた。 アルフィオは一度大きく息を吐き、ふたたび吸って、ゆっくりと説明を始める。 「俺だって本当は……話したいと、思っているんだ」 本人は話そうと思っているのに話せない、と言うのだ。 ある場面に遭遇すると、急に喉に何かを詰められたようになり、声が出せなくなる。無理に口を開こうとしても筋肉が引き攣るだけで、自分の意思に従わせる事ができない。言葉が出てこず、歯ぎしりをしてしまう。 大抵は仕事前や最中、緊張や感情が高まった時にそうなり、仕事を終えた途端に、また言葉を発せるようになる。 「気付いた時にはこうなっていた。島を出る前……いや、子供の頃からかも知れない」 次はいつ言葉が出て来なくなるかと思うと不安で、話す事自体も得意ではなくなってしまった。 ただディエゴとこのような関係を持ち始めてようやく、決まった状況によって引き出される、自身の精神状態に伴うものだと実感したらしい。 扉にもたれて聞いていたディエゴが、おもむろに手を伸ばした。大きな瞳が追ってくる。 そのままアルフィオの鼻に触れる。鼻梁が高く浮き出し、眼窩が深い。鉗子で骨を動かされ、ガーゼを詰められていたとは思えないほどまっすぐに通った鼻筋だ。 「手術からまだ半年も経ってないが……もっと鼻を伸ばすか?」 アルフィオは首を振り、その手を握った。 「事実なんだ、ディエゴ。この俺が嘘や冗談を言った事があるか?」 その言葉に、ディエゴはようやく気付く。アルフィオは決してユーモアのセンスがある人間ではない事に。 「確かに、冗談のひとつも言えねぇなんてどうかしてる。愉快な医者にかかるべきだな」 *** 後日、アルフィオは往診に来たネヴィオに新たな問題を相談していた。 懐かしい方言と自分の言葉を使って懸命に話す患者を、〈愉快な医者〉ネヴィオは茶化す事もしなかった。そうして、また何やらふたりで楽しげに話す間、家主ディエゴは留守にしていた。 帰ってきたディエゴは、やや焦り、部屋着にも着替えずに確認した。 「ネヴィオから、お前の話をきちんと聞いてやれって……何かあったのか?」 帰りの道中で連絡を受けていたのだ。 しかし飼い犬は重々しい診察結果を伝えるよりも、何か違うことを言いたげにしている。歯ぎしりではなく、全身がそわそわと落ち着きない。唇も引き攣っておらず、むしろ頬がこころもち緩んでいる。 「なんだよ」 切り出しやすいようにお膳立てしてやると、アルフィオは嬉しそうに一度大きく息を吸った。 「……お、俺が松ぼっくり(ピノッキオ)なら、お前は茴香(フィノッキオ)だ!」 茴香(ういきょう)は、フェンネルとも呼ばれ、野菜もしくはハーブの一種である。古代ローマ帝国の時代から栽培されており、地中海沿岸では馴染みのある食材だ。 隠語として、同性愛者を指す。 冗談を言わないアルフィオがようやく身に付けたらしい洒落は、ディエゴにかなり堪えた。 「驚いた……いつの間にそんなことが言えるようになったんだ」 感心したような表情でそっと手を伸ばす。長身のアルフィオは軽く姿勢を下げてきた。日焼けした手は一度髪に触れ、色白い顔の輪郭をたどる。 そのまま流れるように、顎をがっしりとつかんだ。 「一体いつから、そんな口が、きける立場になったんだって聞いてるんだよ!」 ディエゴは歯をむき出し、怒鳴っていた。相手に分かりやすいよう、ゆっくり、はっきりと言い換えてやるのはいつもの事だ。 「誰に向かって言ってるか分かってねぇみたいだが……そんなことを言うためにこのオレを心配させたんじゃねぇだろうな?」 親指とそれ以外の指で、両側の頬をはさんで押しつぶすようにする。予想していたのとは違う反応に、アルフィオは弱々しい声を漏らした。 「ううっ」 仕込まれた芸を披露したところで、使いどころを誤れば、褒められるとは限らない。 その体勢のまま、ディエゴが片膝を上げる。ズボンの前に押しつけ、こすり付けた。 「ムカつくことを言うようになったと思ってたが、それをからかってくるとは良い度胸だ」 ディエゴがゲイである事は紛れもない事実だ。アルフィオは、それを知っているばかりか、その事で傷付いたディエゴの過去を知り、友人として慰めようとすらしたはずだ。そんな彼が侮辱など考えつくはずがない。 恐らくネヴィオの入れ知恵なのだろう。良い子のアルフィオは悪い子から嘘つき呼ばわりされてしまったと、教師に告げ口をするようにしたのだ。口の悪い老人は、次に会ったらこう言ってやれなどと吹き込んだに違いない。 ビジネス・パートナーとして対等に過ごしていたが、侮辱されるのは許せなかった。それもユーモアのセンスのない相手から、くだらない洒落で、だ。 生意気な態度を取るようになった飼い犬には、誰が主人であるのか今一度しつけ直す必要がありそうだった。 アルフィオが腰を引きかけるが、ディエゴは力づくでその顔を引き寄せ、何か言おうとしている口を塞いでしまう。 「正直者なら鼻じゃなくコッチが伸びるんだな。ゲイでもねぇクセに、野菜相手に興奮するなんて……」 言い返せなくなるのを理解した上で、昂らせ、意地悪く続けた。わざと音を立てるキスを繰り返し、自在に動く唇や舌で誘う。 腕が体に回ってくるが、顔から離した手で押さえつけ、制した。なすすべのないアルフィオは少し背をかがめた体勢のまま、両手をさまよわせる。 ディエゴはジャケットを脱いでソファーに放り、ネクタイを緩める。結び目は解かず、首から抜き取った輪を、キスをしている相手の首に掛けた。 「…………」 何をするのかと見てくる視線を感じながら、ようやく顔を離し、一片を引っ張って白い肌にぴったりと着くよう締めてしまう。首輪をはめ、リードを付けられた犬のような状態にしたのだ。 首に紐状の物が巻きついた事に、アルフィオの顔が歪む。 「ぐっ……」 何かを言おうと喉仏が上下する。声というよりも、呼吸をしくじった音だ。 離させようと白い手が伸びてくる。 が、ディエゴはそれも許さず、片手に握っていた剣を引っ張り、離れていた顔を引き寄せた。 「犬が自分で首輪をはずせると思ってるんじゃねぇだろうな?」 誰が主人なのかを叩き込むように言った。 「しゃがめ」 命じられたアルフィオは飼い主の顔を見上げたままゆっくり姿勢を下げ、床に膝を突いた。鼻先に、ベルトのバックルがある。 ディエゴは片足を上げ、アルフィオの肩に乗せた。リードは高く握ったままだ。自分より体の大きな男を飼い慣らすように、見下ろす。 「…………」 すっかり言葉が出なくなってしまったアルフィオの瞳は、やはり従順な犬を思わせる。許しを乞うばかりか、次の命令を待っているかのようだった。 本来聞くべきことより先に、くだらない洒落で侮辱されてしまった事に腹が立ち、膝で転がし、ネクタイのリードを付けてかしずかせていた。だが経緯はどうあれ、こうなってしまった以上、ディエゴだけでなく肝心のアルフィオが満足しなければ彼の沈黙は終わらない。 ディエゴはクリームも蜂蜜も塗っていない中心を舐めさせ、口に含ませながら、アルフィオに自慰を命じた。 言われるまま、片手を離し、自身も前を開いてしごき始める。同性同士の性的関係や、アナルセックス、自慰など、許されざる行為を重ねてでも与えられた居場所にすがり付こうとするその姿勢には執着すら感じさせた。 鼻から息を継ぎ、大きな肩を揺らす様子に、ディエゴは思わず背中が痺れるほどの劣情を覚えた。 「やっぱり、一人で、してんじゃねぇか」 途切れがちに言い、ネクタイを引っ張って、その顔に下腹を押し付ける。鼻先が毛に埋もれ、アルフィオがようやく口の動きが止まっている事に気づき、動きを再開させる。 「…………」 ディエゴのからかいにも返事が無いのは、口が塞がっているからではなさそうだ。いつもなら眉間に皺を刻んで苦しそうに唇を噛み、結合部を睨みながら腰を振っているところだが、今の姿は死体や人形などではなかった。 愚直に命令に従おうとしながら、快楽にも抗えない。敬虔であったはずの彼がここまでの痴態を見せつけようとは夢にも思わなかった。ディエゴはあっという間に、アルフィオの口に放っていた。 床にしたたってしまった白濁を拭き取り、部屋着に着替え、水を飲んで、ようやく一息ついた。 「もう話せるな?」 ソファーに座ったディエゴが確認する。 「……ああ」 隣に座るアルフィオは返事をしたものの、まだ喉に違和感があるらしい。喉仏に触れ、咳払いをする。 「閉じた口にはハエも入らねぇってのに(イン・ボッカ・キウーザ・ノン・エントラノ・モスケ)」 普段は口数の多いディエゴがアルフィオに言う事が、充分な仕返しになっていた。 「……俺が口を閉ざしてしまうのは、精神疾患かも知れない」 アルフィオの思わぬ告白にディエゴは驚いて聞き返す。 「疾患?」 「ああ、緘黙(かんもく)という状態に似ていると」 緘黙症とは、無言症とも呼ばれ、発語機能に問題がないにもかかわらず押し黙ってしまう精神疾患だ。報告数はまだ少なく、認知度が低い。 内向的な性格を持つ者はストレスに弱く、先天的に脳の扁桃体が過剰に刺激される。それによって不安や緊張を覚えやすく、社会生活に影響を及ぼす情緒障害を引き起こしてしまうのだ。 「仕事前や最中に話せなくなるのも、それが原因だと思う。歯ぎしりは俺の特有の癖だが……」 学校などの特定の相手や場所、状況下で話せなくなる場面緘黙症は、子供にも見受けられるという。 「道理で何も言わなくなるはずだ」 ディエゴは納得し、アルフィオの脚に手を置いた。 「脚が完治したと思ったら、今度は精神疾患だなんてな」 「俺もまさかこんな事になるとは思わなかった。ディエゴが愉快な医者にかかれと言うから……」 いつもながら生真面目な表情のアルフィオに、ディエゴは笑ってしまった。 あの夜言ったことを皮肉として理解できず、アドバイスとして真に受けていたのだ。 「その話が通じねぇのは、いつになったら治るんだろうな?」

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