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第十一章 騒音対策
古い教会の裏手に、一台の乗用車が停まっている。「揺らさない」事を重要視して作られた車体がかすかに上下しているが、エンジンはかかっておらず、走り出す様子はない。中には抱き合う男が二人きり。閉じられた窓ガラスは曇っていた。夜の外気は肌寒く乾燥している一方で、車内は二人分の体温と湿り気で蒸し暑くなっている事だろう。
心地好いリアシートに座った長身の上に、もう一方が乗る体勢で、相手の首に腕を回し、腰を上下させる。浅黒い肌に包まれたしなやかで華奢な体は、何も身に付けていない。要所のタトゥーを見せつけるように、服や靴は座席の足元に乱雑に脱ぎ捨てられていた。
時おり唇で唇を覆うようなキスをしたり、頬を撫でたりしながら、話しかける。甘い目尻とまぶたの少し下がった蕩けた表情から継がれる声は、外には聞こえない。
撫でられた白い肌には点々と血しぶきが飛んでいた。仕事を終えたところなのだ。
ビジネス・パートナーがふたたび殺し屋 となり、仲介業者ディエゴはその送迎を含む仲介を担っていた。自分の運転以外が必要な仕事は与えなかった。車で行き来できる距離以上に足を伸ばす必要があれば、より適した人材がいる。
今夜はラツィオ州ローマを発ち、半島南部、カンパニア州まで足を伸ばしていた。沿岸部にある州都ナポリからも五十キロメートルほど離れた小さな集落だ。県都は今でこそローマ・カトリック教会の大司教座が置かれるほどの教区だが、実はキリスト教徒に改宗したのは遅く、基礎自治体 独自の長い歴史を持つ。中世から伝わる魔女ジャナラの伝説もそのひとつだ。
かつて大金持ちが暮らした屋敷や人里離れた森小屋の地下、山奥の鍾乳洞、納骨堂など調べていけば、不気味な噂は後を絶たない。酸で溶かされた遺体の跡や、コウモリの糞から生じる病原菌、水銀漬けのミイラに囲まれ、安らかに眠る事を妨げられた魂がさまよう。
そんな場所は、追われる身にとって絶好の隠れ場所となるものだ。今回の標的 もそうして潜伏しているというのが、信用できる筋からの情報だった。
愛車を建物の陰になるよう停めたディエゴはボンネットの上に座り、派遣したヒットマンが戻ってくるのを待っていた。手にしたスマートフォンを操作し、ターゲットの写真を一枚残らず削除しながら。
頭上には大きなクルミの木があり、空になった助手席側はすぐわきにある広葉樹林へ向けられている。満月の光はさえぎられ、クリやオークの木立の中にはいっそうの闇があるばかりだ。
近くに流れる川からは時おり冷たい風が吹いて、木々を揺らした。
木の実を踏み潰すブーツの足音に、ディエゴは顔を上げる。闇の中から、アルフィオの姿が浮かび上がってきた。黒いレザーの服は周囲に溶け込んでいるが、青白い顔と手元だけがぼんやりと光っているように見える。
「よく戻った」
人懐っこい笑みを見せて声をかけた。
歩み寄ってくると、くだんのヒットマンは白い肌に返り血を浴びているのが分かった。たくましい体躯を持ちながら、ひどく心細そうな様子は、初めて仕事を与えた時と変わらない。
今夜のアルフィオは助手席へ向かわず、向き合ってのし掛かるように体を預けてきた。
「……上出来とは言えない」
低く、呻くような声に、震える吐息が混じる。
「どうした?」
ひとまず腕を広げ、受け入れるディエゴ。心細そうにしている者がいれば、寄り添い、気にかけるのは自然な事だ。
「誰かに顔を……見られたかも知れない」
顔を埋めたまま、こもった声が振動とともに伝わってくる。心細そうにしているだけならば、いつもの事だと車に乗せるだろう。だが今日は、明らかに様子が違っている。何かに怯えているようだった。
「小屋の外に、人の気配があった。ターゲットを始末した後、すぐ周囲を探したんだが……見つけられなかった」
ヒットマンの仕事は依頼を受けてターゲットを殺害する事であり、その現場に目撃者が居れば、口封じをするものだ。それが出来なかったらしい。
ディエゴは信じられないという風に聞き返す。
「お前が、追いつけなかったのか?」
確実な仕事ぶりは、かつてオオカミの狩りのようだとも揶揄された。ターゲットをどこまでも追いかけて仕留める、ある種の執着とすら言えるその足から逃れられる者など、居るとは考えにくい。
アルフィオが小さく首を振る。
「足音や、そこに居た形跡が無かったんだ……」
ターゲットの男は、広葉樹林を抜けた先の小屋に潜伏していた。目撃者を探したのは、始末したほんの直後に違いない。その際に足音が聞こえたり、足跡が残っていたり、あるいは現場から遠ざかる後ろ姿の一部でも見えていたならば、取り逃した事になるだろう。
しかし、それらは無かった。何者かがその場にいたと証明する要素が見つからなかったと言うのだ。
ディエゴはふと思いつき、茶化すように言う。
「幽霊かも知れねぇぞ。きょうはハロウィーンらしいからな」
一時間と経たないうちに、十月が終わろうとしていた。キリスト教のすべての聖人と殉教者を祝う、聖人たちの日 の前日で、近年アメリカからイベントとして世界中に広がりを見せるハロウィーンの夜だ。
過去に異教として迫害されたケルト民族、あるいは古代ローマ人によれば、死後の世界と現世の境目がなくなり、死者の魂が戻ってくる日とされる。
ただし現世の人々が恋しく思う死者──先祖の霊だけでなく、恐ろしい悪魔や魔物も来てしまうため、人々は自分たちもわざと怖ろしい格好をして人間である事を隠し、その目をごまかす必要があった。さもなければ拐 われてしまうと信じられていたのだ。
また、当時の暦ではちょうど一年の最後の日にあたり、秋の実りに感謝する収穫祭にふさわしい時期でもある。多くの意味を持つこの日は、さぞ盛大に祝われていた事だろう。
現代社会において、伝統文化の形や在り方を変え、商業イベントとして定着させる事は難しくない。
近年ではこの国でも二月のカーニバルのように仮装した子供たちがドルチェをねだり、怖ろしい悪魔や魔物が登場する話やゲームをし、夜ふかしをして盛り上がるようになった。着飾った若者たちもクラブでのハロウィン・パーティーに参加するべく、カボチャやカブをくり抜いたランタンで彩られた街へと出向く。知人に会えば「収穫祭おめでとう !」や「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ !」と声をかける。
彼らに夜ふかしが許されるのは、十一月一日のトゥッティ・イ・サンティが祝日だからだ。今年はそれが月曜日のため、連休となる。
しかも翌二日は、元来死者の霊が戻ってくるとされる、死者たちの日 だ。こちらは祝日ではないものの、世間ではまとめて休暇を取り、墓参りに行く者も多い。
ターゲットがカレンダー通りの生活を送っている事が、ヒットマンやクライアントだけでなく、仲介業者にとっても都合が良いのは言うまでもない。ディエゴはこの日を狙って、アルフィオに仕事を与えたのだった。
腕を回したまま、わざとらしく続ける。
「この震えはお前が変身する前兆かもな? オオカミ野郎」
ハロウィーンに子供たちがメイクアップアーティストに頼み、扮したがるのは、魔女や幽霊のほか、ミイラ、吸血鬼とコウモリ、そしてオオカミ男だ。
魔女裁判が当然のように行なわれた中世。当時絶対的な権威を持ったキリスト教において、教えに逆らい有罪とされた者は「狼」と呼ばれた。彼らは月夜に獣の耳を着けられ、皮をかぶって、声を上げながら森を走り回らされる罰を受けたという。
こちらの〈オオカミ野郎〉も教えに背き、今夜も丈夫なレザーの衣服をまとって暗い木立を抜けてきた。
「俺は人間だ……」
オオカミ野郎アルフィオは短く訂正し、
「仕事をしくじった。俺もいずれ、“ああ”なるんだろう……」
許しを乞うように続ける。思わぬ問いかけに、体を離し、顔を覗き込むディエゴ。
「待てよ! 確証もなしに、しくじったって? オレがそんなあやふやな判断をするとでも?」
人のいた形跡が無かったにも関わらず、目撃者がいたと思い込み、罰せられる事に怯えていたようだ。
ディエゴはまだ悲しげに見つめてくる頬に触れる。返り血が乾き始めていた。
「殺しを確実にしたなら上出来だ。特に今回みたいな依頼は、本当に信頼できる奴じゃなきゃ任せられなかった」
安心するよう言い聞かせると、青灰色の瞳にわずかに光が宿る。満月がフロントガラスに反射していた。
今回のクライアントは、他の誰でもないディエゴ本人だった。
ターゲットは仲介契約を結んだヒットマンの一人でありながら、その契約に反する行動を取った男だ。「仕事をしくじる」事は、事業の信用を落としかねない失態だった。そんな裏切り者の粛清を、別のヒットマンに依頼という形で命じたのだ。
「こんな場所で起こったヒットマン同士の殺し合いに首をつっこむ人間なんて居ねぇよ。〈忠犬アルフィド〉の顔を知ってる奴が一人や二人、増えたところで今さら何になる」
話を着けたディエゴは勢いよくボンネットから下り、復路の運転という仕事に戻るべく運転席へ向かう。
車を停めているのは、集落にある古い教会の裏手だ。煉瓦造りの小ぢんまりとした建物で、現在は改修工事を待つ施設となっているため、明日になってもここでミサが開かれる事はない。立入禁止と知りながらそこで雨風をしのぐ者が居たとしても、息を潜めているだろう。ここにも、人の気配はなかった。
イベントに浮かれる夜の街で、普段見かけないBセグメントは目立ってしまうと予想したのは、仕事に向かう前のアルフィオだった。だからこそ人けのない場所で待っていた。
と、後ろから引き寄せられる感覚がある。ディエゴはふたたび、アルフィオの腕の中におさまっていた。
「アルフィオ?」
「もう少し、時間が欲しい……」
オオカミ野郎の震えは、まだ治まらないようだ。
「……ったく。やっぱり月の光に当てられたか?」
ディエゴは身をよじるように向き直り、また腕を回した。布越しに彫刻のような筋肉が触れる。
愛しさのあまり飼い犬を抱きしめる事は、愛犬家の間では推奨されていない。犬は自由に動く事を求める生態を持っており、その動きを封じるとストレスになってしまうからだ。一方でこちらの〈忠犬〉は、みずから進んで飼い主に寄り添い、不安が取り除かれる事を望んでいた。
「こんなナリして、ビビりすぎだ。いつもお前自身が幽霊みたいな顔して戻ってくるクセに」
ディエゴはからかい続けるような軽い調子だが、アルフィオは腕の力を強める。悪夢を見た子供がお気に入りのぬいぐるみにそうするように。
「本当に……憑 かれているのかも知れない。仕事を受けてからは相手を殺す事しか考えられない。だが仕事を終えた途端、我に還ったように、恐怖や不安が襲ってくる……」
アルフィオの告白に、ディエゴは首をかしげた。
「考えと感情が別の所で動くのが男ってモンだろ?」
「そんな馬鹿な、ディエゴは感情のまま行動するじゃないか」
「なら、オレは男じゃねぇって?」
「そうは言っていない。その限りでもないかも知れないが……」
返答は曖昧だったが、何を指しているのかは想像にかたくない。
「ムカつく。買われてる奴が言える立場かよ」
ディエゴは小さく笑い、厚い胸板を押しやろうとした。しかしアルフィオは力を緩めず、また首を振る。
「男かどうかじゃなく、感情のまま行動するのは自然なんだ。それを押し殺すうちに俺は、少しおかしくなってしまったらしい……自分の体なのに、言うことを聞かない」
ヒットマンとしての有能な仕事ぶりと、正反対とも言える様子で戻って来る理由がようやく判明した。別人格に憑かれたように黙々と眼前の仕事をこなし、我に還っては押し寄せる感情に苛まれていたのだ。
大きな図体をしている犬ほど、普段は臆病で大人しくしているものだ。だが従順でいる分、追い詰められると何をしでかすか分からない力と凶暴性を秘めている。
「お前がおかしいのは少しじゃねぇし、いつもの事だ。オレはもう慣れてる」
飼い主が平然とそう言うと、飼い犬の震えは徐々におさまった。抱き合っていた体を解放する。
「落ち着いたら帰ろう。口が動くなら今のうちに報告を」
車体の前方へ戻り、ボンネットに座り直したディエゴの隣に、アルフィオも腰を下ろす。話せるようになったのは、仕事を終えた証拠だ。
「目撃の可能性以外は、指示通りだ。向こうの銃も見当たらなかったし、死体も中に置いてきた」
口調はやや遅めではあるが、先程の重々しさや往路での沈黙に比べれば流暢だった。
「金は残ってなかったか?」
「小屋の中にそれらしいものはなかった。地下を掘ってでも探すべきだったろうか?」
「いや、お前の仕事じゃない。もう使い込んでるかも知れねぇし」
夜間の気温は十度ほどになり、少し肌寒い。すっかり秋めいた風を受け、二人は自然に寄り添う体勢になっていった。
上出来だ、と繰り返した後、ディエゴは不意に、隣に座る手を取った。上まぶたのアーチを伏せ、眺める。ピストルの扱いに慣れた手についた血は薄い膜のようになり、固まりはじめていた。
「……もう少し詳しく、アイツの最期を聞かせろ」
ディエゴの要求に、アルフィオは少し驚いて聞き返す。
「後悔しているのか、ディエゴ? 俺に、昔の恋人を殺させた事を」
寝食を共にする家のダイニングで依頼内容を聞いた際のアルフィオは、痴情のもつれかと呆れ、ディエゴはいつも通り、そんなんじゃねぇよと返したものだ。
「一時的にそうなっただけだ。誰にも紹介してねぇし、恋人なんて呼ぶほどでもない」
たとえかつて恋人だったとしても、容赦する事はない。無抵抗な手を両手で弄びながら、顔を見ずに答えた。
「普段なら興味も持たないはず……」
まだ腑に落ちないらしいアルフィオに、ディエゴは苛立って語気を強める。
「しつこいぞ。前金を持ち逃げする奴なんてそう居ないから、理由を知っておくだけだ」
少し考えるような間が空き、ようやく報告が続く。
「泣いて、命乞いをしていた。ディエゴに遣 わされたのかと訊ねて、俺が答えないでいると勝手に震え上がって、失禁しながら……」
わざと答えなかったのでは勿論ない。仕事の前と最中は本人の意思とは無関係に口がきけなくなるのだ。だがそんな事を相手が知っているはずも、説明できるはずもなかった。
「死に際には誰かの名前を呼んだか?」
「口にマズルを突き込んだ後は、何を言っているのか聞き取れなかった」
正直に答え、アルフィオは自身の手に目線を落とした。
「目先の金のために無様に死にやがって。きちんと仕事をすればもっと多く稼がせてやったのに」
ディエゴが独り言のように言う。軽蔑の中に、諦めと呆れ、ほんのわずかな寂寥を混じえて。
「生活に窮していたらしい。俺と同じくらい背丈はあるのに痩せ細っていたし、力も弱かった」
先ほど目にしたままを伝えるアルフィオ。カレンダー通りであろうとなかろうと、今回のターゲットの生活には、休暇を楽しむほどの余裕も無かったようだ。
「最後に彼に依頼したのは?」
「少なくとも一年以上前だ。当時は他にも稼ぎがあったはず」
手を放したディエゴは答えながら後ろへ寝転がり、仰向けになった。
ひんやりと冷たいフロントガラスに上体を預け、思い出したように続ける。
「久々に連絡があって……仕事をくれって頼んで来たから、殺しで食っていく事にしたと思ったのに」
見上げると、落葉を始めた常緑の葉の隙間に夜空があった。下方にはヴォールト屋根の上の十字架が、満月の前に立っている。
振り向いた灰色の瞳が追い、問い詰める。
「不穏な様子に気付けたはずだろう。なのにどうして」
ディエゴは上を向いたまま目を閉じ、中指を立てて見せた。
「一度信頼した相手なんだよ。仕事ぶりだけじゃなくベッドでも、悪くなかった」
奔放な〈ウサギ野郎〉の耳に、もううんざりだとため息が届く。
「……ディエゴは、いつもそうだな。一度でも寝た相手を殺さないと決めているなら、いずれイタリア中の男を殺せなくなる」
アルフィオの言葉に、ディエゴは声を立てて笑った。冗談を言う性分でないのは分かっている。実現しかねないと思っているからこその忠告なのだろう。
「バカ野郎。せいぜいコムーネひとつってところだよ」
冗談を返すが、これもまた事実と取られかねない身の振りは自覚している。ましてや相手はユーモアなどとは無縁の男だ。やはり、口調が厳しくなる。
「前にも言ったが、もっと警戒心を持って、情は捨てるべきだ。人間は簡単に、平気で、裏切るから」
ビジネスには、信頼だけでなく合理性も必要だ。時に非情にならざるを得ない場面もある。その判断力が欠けているとでも言いたげだ。
再三にわたる忠告にも、楽観的なディエゴは取り合わない。
「犬が言うと説得力があるな」
「お……俺は真剣に話しているんだ!」
どもりがちに、アルフィオが声を張った。乾いた空気を震わせ、レンガ造りの壁に反響する。同時に、冷たい風が強く吹き抜け雑木林を揺らし、落ち葉を巻き上げざわめいた。
これにはディエゴも目を開き、首を起こして顔を向ける。隣に座ったアルフィオが体をひねり、少しためらうような動きをした後、その腿に手を添えた。
「もし、ディエゴが誰かに裏切られて死んだら……俺はどうすればいい」
視線と温度を落とした態度は、すがるような切なささえ感じさせた。主人を亡くした忠犬がどのように最期を迎えるのかは、あまりにも有名だ。
ディエゴは持ち上げた首を下ろし、ふたたび仰向けになった。
「……いっぱしのマフィアなら自分の居場所は自分で守るんだよ。オレはそうしてる」
何かを犠牲にしてでもな、と続け、腹の上で指を組む。一方でアルフィオは思い起こすように、先ほど抜けて来た暗い木立へ視線を向けた。
「俺はもう、どこかのファミリーの構成員じゃない。だからお前が居なくなったら、俺は、また……」
「ご主人様を守れって言ってるんだ、忠犬アルフィド」
目を閉じたまま、端的に命じた。
「変わらずオレの番犬で居ればいい。アイツみたいに裏切らないなら、家族で居させてやる」
忠犬アルフィドは以前、主人を守るために、仕事ではなくみずからの意思で殺人を犯した。その発端こそ痴情のもつれだったと言えよう。それが、今こうしているようにヒットマンとしての仕事の再開に繋がっている。
ひと呼吸の後、ディエゴは視界が暗くなったのを感じた。重いものがボンネットに乗り上げる音が、体の下のエンジンルームに響く。
目を開くと、大きな影に乗られていた。背後から照らす月光に形取られた輪郭は猛々しく、表情は見えない。
眼が慣れるのを待たず、低い声が言う。
「それなら……もっと、俺に仕事をさせてほしい。何なら報酬を減らしても構わない」
他のヒットマンとは明らかに違う申し出だった。さすがのディエゴも戸惑ってしまう。
「いつから仕事中毒の北部出身者 になっちまったんだ? 血に飢えたオオカミめ」
「人を殺したくて言ってるわけじゃない。ただ、何かしていないと、役に立っていないと……」
急き立てられるように訴えるアルフィオに、ディエゴも不可解だと眉を跳ね上げる。
「今回の依頼だって交渉しようとすらして来なかっただろ。オレと──クライアントと直接話せる機会だってのに」
「ディエゴが俺たちの上前を跳ねているわけじゃないのは知っている。そこに不満はない」
「その無欲さも異常だ。信心深さの次にな」
「過ぎた欲を出せば痛い目に遭うのを見てきた。身の丈に合わない物は、望むべきじゃない」
その言葉は何者かに向けられた嫌味のようでいて、自分自身にも言い聞かせるようだった。
ディエゴはフロントガラスに肘を突いて上体を起こすと、顔がよく見えるように近付け、まっすぐに見つめた。薄暗がりで瞳孔の大きくなった瞳は、より魅惑的になる。
「なら、今すぐ抱いてみろ」
その上に乗ったままのアルフィオが身を引き、聞き返す。
「ど、どうしてそうなるんだ」
「お前は人殺しじゃなく、仕事がしたいんだろ? オレは大した金も積まずにデカい男とヤれる。どっちも損してない」
怪我の治療にかかった医療費がいくら高額であれ、本人の“熱心な”働きぶりから逆算すればあっさりと回収できてしまうのは確実だ。ビジネス・パートナーが報酬を必要としないのであれば、その費用が浮く事になる。誰にとっても、手放す額は少なければ少ないほど良いものだ。
「だが、こんな場所で……」
「まだ誰かが見てるってのか? 幽霊か、神か、ホームレスか?」
口ごもる相手を追い詰めるように、早口でまくし立てるディエゴ。それでもアルフィオは懸命に言葉を探す。
「たとえ誰かに見られていなくとも、正しくない行ないは……するべきじゃない」
「いつも以上に言ってることがめちゃくちゃなんだよ、バカ犬。お前の説法でオレが納得した試しがあったか」
後ずさり、ボンネットから降りようとする相手の前足をつかむと、膨らんだズボンの前へ導いた。
「ほら、これが証拠だ。オレもお前も、間違いなく男なんだよ」
アルフィオは目のやり場に困ったように顔を伏せる。
「どうしてディエゴは、いつも俺の言うことを──」
「オレの言った仕事をしくじった奴がどうなったか、ついさっきの事も忘れたか?」
脅すように言われると、途端に鳴き声が止み、ぱたりと口をつぐむ。顔を上げ、次の指示を待つように大きな瞳で見つめた。
「…………」
その沈黙は、彼の中で意識が切り替わった合図だ。たとえ報酬が無くとも、やるべき事があればそれは仕事であり、ある意味では飼い主への服従とも呼べる。
「いい子だ」
ディエゴの顔に満足げな笑みが戻った。
発語機能に問題は見受けられないのに押し黙ってしまうのが緘黙症であり、特定の状況下で起こる状態は場面性と分類される。
「仕事」の前と最中において一言も話せなくなってしまうアルフィオが抱える特徴は、この場面性緘黙症という精神疾患にも通じていた。
少年期から物事を上手く伝えられない経験が重なり、話す事への苦手意識が生まれ、焦っても体は思うように動かない。口数は減る一方だっただろう。ことに陽気で楽観的でお喋り、意思をはっきりと伝える国民性においては変わり者扱いを受けるのも無理はない。
殺人という、法からも人道からも逸脱した行為と、気を抜けば自身の命を失ないかねない極度の緊張。もしくは子孫繁栄を目的としない、ましてや同性間という、神の教えに背く性行為と、従わなければ居場所を失なってしまうという恐れ。
それらの意識と状況が複雑に起因し、精神状態から沈黙が起こっているというのが〈プライベート・ドクター〉の見解だ。
疾患であれば治療するのは自然な事だが、共通する症状があると言ったまでで、ネヴィオはアルフィオを患者と断定してはいなかった。
そもそも緘黙症は認知度が低い上、症状に個人差も大きく、発表される症例は少ない。緘動や発達障害を併発するケースなど解明はされつつあるが、老医師の〈モグラ塚〉をもってしても、確実な治療方法も立証されていないのが現状だ。そのため前回の診察以来、認知療法や投薬には及んでいない。
ただアルフィオが思うように話せない事を好都合とする者も、無いわけでない。
たとえば沈黙を守る事を是とする組織は、無口な彼をヒットマンとして雇い、有能な仕事ぶりを評価していた。だからこそ忠犬アルフィドと呼ばれるまでに、ただ与えられた仕事をこなしたのだ。
また、組織を追われた彼を拾い、ビジネス・パートナーとしたディエゴもその一人で、彼の仕事ぶりを気に入っていた。最中に余計な愛を囁かれる事のない気軽なセックスこそが、奔放なウサギ野郎にとって理想的だったからだ。
シートをフルフラットにはできずとも、外で裸になるよりは良かった。曇ったサンルーフ越しに、外にあるクルミの木も満月も十字架もぼやけている。
アルフィオの膝に乗り上げたディエゴは運転席のヘッドレストをつかみ、突き出した腰を前後に揺らしていた。
「ああ、やっぱり神は嫌いだ……クソッ!」
そうしながら、思い出したように悪態をつく。タトゥーの浮いた腰を両手で支えるアルフィオが前髪を払い、その顔を見上げる。悔しげな歯ぎしりの奥には、ここまでしてもなお捨てきれない信仰心があるのだろう。
「いい男を苦しめて、拐って、楽しむ悪趣味なんだよ、神なんか──」
ディエゴは喘ぎ、途切れがちに誹 り続ける。
くだんの男は、結果的にはディエゴの遣わせたヒットマンによって命を落としたが、もしも仕事を与えていなければ、もっと早くに飢え死にしていたかも知れない。
例の言葉を言いかけたディエゴの首筋に、何かが食い込むような鈍い痛みが走った。覚えず喘ぎではない声が漏れ、肩が跳ねるほどの強さだ。
近付いた黒髪の毛先が目に刺さる。いったい何をされているのか、理解するまでに時間がかかった。
「バカ犬ッ! 何しやがる!」
ディエゴは怒鳴り、ヘッドレストから離した手で、アルフィオを押しのけようとした。尖った犬歯はなくとも、喉仏の脇から肩へかけて、首の筋肉をちぎられそうな感覚に陥る。
それでも構わないとばかりにするとようやく、加えられていた力が離れた。
首に腕を回して体を支えながら、二人して肩で息をし、睨み合う。互いの肌は汗に、下腹の毛は先走りに、痛んだ箇所は唾液に濡れている。触れると歯型がついていた。
予期せぬ行動に出る変わり者には慣れたつもりでいたディエゴだったが、呆然としてしまう。
「喋れねぇからって……」
敬虔な情夫は手を離す事も、話す事もできない中、その言葉を言わせまいとするあまり、あろう事か雇い主に咬みついたのだ。
食いしばった上下の歯の間から荒い呼吸が続き、シャツをはだけた青白い首元では喉仏が動いている。その度にゴールドの細い鎖が揺れ、眼窩には銃口のような瞳がぎら付いていた。
ディエゴはそれを見下ろし、もう一度噛まれる恐れもなく、空いた手で頬に触れた。固まっていた返り血が汗と唾液に溶け、色のあるぬめりとなって広がる。
「……頭の足りねぇ奴。せめてキスにしろよ、食われるかと思った」
口を封じる手段はいくらでもある。よりによって主人を咬んでしまうなど、あってはならない。それでも、いつものような怒りは湧いてこなかった。むしろ受動的なパートナーが、初めて能動的に激しい動きを見せたようにすら感じられていた。
「…………」
すぐに見上げる眼の鋭さが薄れ、反省の色がにじむ。よく躾られた犬はやはり従順らしい。ディエゴはその顔に添えた手で引き寄せ、手本を示した。
そうしていると、今度は着信音が鳴る。脱ぎ捨てられたズボンのポケットからで、明らかに異質な音だ。アルフィオは驚いて固まってしまい、危うく絡めていた舌を噛みそうになった。
「せっかくイイ所だったのに止めるんじゃねぇよ、クソ野郎!」
体をひねり、スマートフォンを拾い上げるディエゴ。その言葉は電話をかけて来た無神経な相手と、目の前の臆病者のどちらに向けられたものか分からない。
パートナーが動きを再開させる中、ディエゴは片腕でしがみ付き、もう片方の手で端末を握りしめ、電源を落としてしまった。
「…………」
不安げに顔を見てくるアルフィオに、湿った頬で笑みを作ってみせる。
「気にしなくていい 」
午前一時を回った頃、運転手となったディエゴは相棒「猫足」を復路に転がしていた。相棒アルフィオはその助手席で目を閉じている。
またしても着信音が鳴る。服を着てから電源を入れ直したスマートフォンの画面には『 Mamma 』と表示されていた。取り出してすぐハンズフリーにし、通話を繋ぐディエゴ。
「お菓子か、それともいたずらか !」
無邪気な子供のようにおどけてみるが、
『ディエゴ! いま何時だと思っているの!』
返ってきたのはイ・ピオニエーリのドンの妻シニョーラの厳しい声だった。
彼女は構成員にとっての「お母ちゃん 」であり、組織を裏で統治すると言っても過言ではない。曾孫を持つほどの年齢で、もはやマンマより「お婆ちゃん 」に近かろうと、息子たちにかける言葉は変わらなかった。
「ドルチェを──」
寝ぼけ声で返事をした口を、ディエゴは慌ててハンドルから離した右手で押さえ、塞ぐ。
「そっちがかけて来たんだろ、マンマ!」
アルフィオが目を開き、視線を向けるが、ディエゴはその存在をかき消すように張った声で返し、話を逸らす。
「ハロウィーンのパーティーはもう終わったのか?」
『子供たちはとっくに寝たわ。明日は教会でのミサに連れて行くのだから』
「マンマだっていつもは寝てる時間のはずだろ?」
『電話をかけ直して来るのを待っていたのよ。今は何をしているの?』
「運転中だよ。こんな時間に電話なんて……」
『昼間は忙しいのでしょう。あなただけ、全然連絡を寄越さないもの』
「夜だって忙しい。明日だとまずい用事なのか?」
人々はジェラートやゴシップ以上に、マンマが大好きだ。身だしなみや料理などの生活術だけでなく、誰かから愛される喜びまで何もかもをマンマに教わって育つのだから。
成人し、時には結婚して親元を離れてからも休暇をとって会いに行き、用事があろうとなかろうと、まめに連絡をする。互いを思い、家族や仲間 を大切にするものだ。
そこには息子であろうと娘であろうと、血の繋がりのないマフィアのファミリーであろうと、違いなどないはずだ。
だが彼女の指摘通り、ディエゴは食事会にこそ顔を出すものの、みずから進んで連絡する事はなかった。
『どうしても伝えるように言われたことがあるのよ』
「オレに? 誰からだ?」
言伝 の主は、シニョーラの曾孫だった。
〈ファミリーで一番小さいお姫様〉と呼ばれる彼女は先日の誕生日に届いたウサギのフィギュアを気に入り、今回のパーティーで礼を言いたがっていた。だが肝心のディエゴが来ない事を知って残念そうにしていたという。
「あんなの何でもない」
あっさりと答えた口元に、こぼれるような笑みが浮かぶ。
「オレの代わりに大きなキスを」
『起きたら伝えておくわ』
「マンマも早く寝るんだぜ。ファミリーに何かあったわけでもねぇのに、こんな時間に何度も連絡してきて……」
彼らが遵守すべき沈黙の掟には、
『如何なる時もファミリーのために働けるよう備えていなければならない』
というものがある。ファミリーに何かあれば、いつでも駆けつけなければならないという意味だ。たとえ自身の妻の出産中であっても、その頭の後ろで長い髪を持ち、支えるのをやめて。
『いいえ、それは違うわ。ディエゴ』
シニョーラは冷静に言及する。
『何かあったわけでもないのに、電話に出ないだけじゃなく、かけ直しても来ない方が重大よ。何があったの?』
叱られたディエゴは片手で頭を掻き、続いて鼻の頭、首筋を掻いた。
「実は……デートの帰りで」
しかしシニョーラにその姿は当然見えていない。見ているのは助手席の灰色の瞳だけだ。
『まあ、そうだったの! 今回の休暇に来られないのもそのためなのね!』
途端に電話越しの声がはずむように明るくなる。眠っている家族を起こしかねないほどだ。
「ああ、だから今夜はもう──」
『もしもし? はじめまして、助手席のかわい子ちゃん。あなたの顔が見えないのが残念だわ』
シニョーラは話をやめるどころか、まるでその場に居るかのように呼びかけ始めてしまった。そこに乗っているのが男性である事も、ふたりの付き合いが復活祭 の翌日からで、すでに半年以上になる事も知らずに。
またしても開きそうになった口を押さえ、ディエゴが答える。
「ブルネットのシシリアンだ。眼の色はグレーで……今は眠ってる。寝顔も綺麗だよ」
押し付けられた手の上、しっかりと開いた目の中で灰色の虹彩が動く。ディエゴは人差し指を立て、声を出さないよう命じた。
『もう日付が変わっているのに、若いお嬢さん をこんな時間まで……』
シニョーラは依然として母親らしく「息子」をたしなめる。先ほどより嬉しそうな声色で。
「高校生のプロムじゃあるまいし」
『次は降誕祭 にパーティーを開くわ。招待するから、連れてきて皆に紹介を──』
「分かったからマンマ、きょうはもう寝てくれ! 明日かけ直すから」
ついにディエゴは話をさえぎり、通話を切ってしまった。
ハンドルに両手が添えられたのを見計らい、アルフィオが口を開く。
「いつの間に……俺たちはデートを?」
「自惚れるな。マンマを早く寝かせてやりたかっただけだ」
苛立ちまぎれに答えるディエゴ。口を塞ぐ事はなかった。
「グレーの眼で、今は眠っていると……」
「お前は目を開けて眠るのか? いま話してるのも寝言か?」
ようやく理解したアルフィオの表情と口調が、険しいものに変わる。
「家族に嘘をついたんだな」
「ちょっとしたいたずらだよ。オレはドルチェを貰いそこねた」
「ハロウィーンは終わった。参加しなかったのはお前の意思だろう。この仕事を入れたのもパーティーを避けるためか?」
「一匹じゃ留守番もできねぇだろ。喜べよ。ナターレにも予定を入れてやるから」
ディエゴは前を見据えたまま、悪びれる素振りも見せず答えた。
「ディエゴ」
呆れたような呼び方は、お得意の説法が始まる合図だった。納得させた試しなどなくとも諦める事はないらしい。
前を向いたままのディエゴが返す。
「なんだよ。お前を紹介するはずねぇだろ」
「それは分かっている。紹介しろと言うつもりもない」
離れて暮らすファミリーとの直接的なやりとりを聞かせたのは初めてだった。会話の中で話題に上がる事はあっても、深く話す事はして来なかった。
「どうして憎むんだ? 家族なのに」
「別に憎んじゃいねぇよ。オレの居場所のひとつだし、愛してる。ただちょっと……合わねぇだけだ」
ディエゴは珍しく言葉を選び、答えた。
それを聞いたアルフィオは少し何かを考えてから、おもむろに打ち明ける。
「……俺は十八で、家出をした。島を離れたんだ」
聞かれてもいないことを話し出すのは、一見脈絡がないようにも取れるが、それを通して伝えようとしている事があるかららしい。
「小さな町で……居心地が悪かった。両親の期待に応えようと思っているのに。クラスメイトや教師と話せず、何度か落第しても、転校しても、馴染めなかった」
小・中学校での落第は、珍しい事ではない。だが学習環境との相性が悪いと、転校を余儀なくされてしまう。少年アルフィオは緘黙という認識など自他ともになく、ただ静かすぎる子供として、自身の意見を言えない、意思疎通のできない問題児として扱われていたのだ。
「そうかよ」
初めて耳にする話にも、ディエゴは不機嫌そうに相槌を打つ。
二人とも前を向いたままで、互いの顔を見ようとしなかった。猫足は静かに走り続ける。
「いつものように高校に行くふりをして出てきた。カラブリアへ渡って……前のファミリーに入ることに」
抑揚の少ない口調は、報告する際のそれに似ていた。
「口が固いほうが仕事になると。ようやく居場所を見つけたと思った。俺には殺ししか能が無いのは、知っているだろう」
ディエゴは同情するでもなく、むしろうんざりしていた。
「結局、そのファミリーにも、馴染めてなかったんだろ」
「ああ、その通りだ。だが……」
「居心地が悪いのはオレも同じだよ。だからファミリーとは離れて暮らしてる。オレには、ナポリは小さすぎる」
すかさずアルフィオが言い返す。
「だがさっきの、ご婦人 やお嬢さん は、ディエゴに会いたがっている。本当の家族のように……どうして向き合わない?」
「ああ、うるせえ! そんなこと、お前に言われなくたってオレが一番分かってる!」
ついにディエゴは歯をむき出し、怒りを露わにしてしまった。声の調子が強くなり、運転中にもかかわらず手振りが増える。
「だから何だ、今から会いに行けって言うのか? 一緒にミサに参加して、明後日は顔も知らねぇ先祖を偲 べって? 奴らの先祖なんてクソだ !」
早口でまくし立て、ローマ訛りの罵声を飛ばした。
「オレにはオレのやりづらさがあるんだよ! 毎晩一人でも平気な一匹狼には分からねぇような……」
アルフィオが真剣な眼差しを向ける。
「確かにディエゴは俺と違って、人と馴染める。だからこその苦労もあるだろう」
いつものように、そうじゃねぇよと言いかけるディエゴ。一度唇を噛んで、改まった。
「古い人間なんだよ。マンマ──シニョーラの嬉しそうな声で分かっただろ? 会う度に女とくっつけようとしてくる。オレが根っからの男好きだなんて考えもせず……」
これまで話して来なかったことを打ち明けた。自身がファミリーの中で居心地の悪さを感じる、大きな要因だ。
興味無さそうに相槌を打つだけだった運転手と違い、アルフィオは驚いて目を見開いた。
「まさか……話していないのか? ゲイだと」
「話せるはずねぇだろ! 実の家族にすら追い出されたんだぞ!」
ハンドルを叩き、またしても声を荒げると、首についた歯型ではなくその肩にあるシンボルが疼いた。
「居場所を失 くす怖さは、お前が一番よく分かってるんじゃねぇのか。捨て犬アルフィオ」
それでも、アルフィオは引き下がらない。
「ああ、帰る場所のない俺だから言える。家族が居るなら、彼らを愛しているなら、向き合うべきだ」
「偉そうに指図するな」
ディエゴは横目に助手席を睨み、
「今のオレには、お前がいれば充分だ」
正面に視線を戻して続けざまに言った。思いもよらぬ矛先を向けられたアルフィオは返事に詰まってしまう。
「それとこれとは、関係ないだろう……」
と言ったきり、また何かを考えるように沈黙した。
「……もし俺が本当にシニョリーナだったら、ディエゴを守れたのか?」
しばらく窓の外を見ていたアルフィオが問いかけた。現実的で強い警戒心を持ちながら、考える事はやはりどこか飛躍している。
ミラー越しにその姿を一瞥し、聞き返す。
「何言ってんだ?」
「そうすれば嘘もつかず紹介できるはずだ。許されない性交も、情“婦”なんて呼び方もせず……」
「もし若い女なら、拾ってすぐファミリーの売春斡旋先に売ったさ」
ディエゴは平然と言い放った。
「今ごろ動物用のホルモン剤でも打たれて、情熱的とは程遠い──オレ以外の男どもの情婦だ」
振り向いたアルフィオが何を言うより先に、続ける。
「誰にでもできる、誰もやらなかった仕事をやるのが開拓者 なんだ。今は女じゃなく、ゴミを集めてるらしいけどな」
お姫様には秘密だぜ、とまた人差し指を立てた。
「ブロンドヘアにブルーの瞳のかわい子ちゃん」に限らず、バンビーナからノンナに至るまで、女性とは美しく、気高く、大切に扱うべき存在だ。そんな認識はこの国で男性として生きる上で、マンマに教わるまでもなく知っている。
『ファミリーの妻に手を出してはならない』
『妻を尊重しなければならない』
といった掟が表す通り、彼女らを傷付ける事はマフィアの根幹にある〈聡明な男 〉の精神に反する。それ以前に、イタリア男として恥ずかしいと考える者もいるだろう。
そんな彼らが最も避けるべき事業に、イ・ピオニエーリは手を染めたのだ。
「お前は生まれるべくして、女より美しい男に生まれたんだよ。オレのためにな」
自信を持って言うディエゴに、アルフィオは軽蔑したような視線を向ける。
「男好きなのはよく分かった。だがゲイだからと言って、女性を嫌う必要はない」
「嫌ってねぇよ。ゲイなのも関係ない。妻が居たって売春に手を出す男も、仕事仲間や友人になれる女も居る。魔女だってベファーナとジャナラだけじゃねぇだろ?」
ディエゴは早口で言い返し、それから一度、指を鳴らす。
「ファミリーよりもっと身近な、〈ローマの魔女とマンマ〉になら、お前を紹介してやってもいい。オレの番犬としてな」
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