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第十二章 弱者救済

夕方の旧市街の道沿いに、何台もの自家用車が縦列に並んでいる。カラフルで小回りのきく車体が好まれる中には、特徴的な赤と白のツートンカラーも一台。派手好きな持ち主の趣味は、マフィアのドン御用達の装甲車などとは明らかに違っている。 車を降りたディエゴはいつものようにアルフィオを引き連れ、慣れた足取りで歩く。好きな服に身を包み、表の世界で人混みにまぎれ、溶け込んでしまえば、マフィアファミリーの構成員と、彼に雇われた殺し屋(ヒットマン)である事など分からなくなる。 裏の社会、暴力の世界として現在は国内だけでなくアメリカにまで裾野を広げるマフィアだが、その始まりはシチリア島の自警組織だったと言われる。 温暖な気候と豊かな自然に恵まれたその島は、長い歴史の中で起こる争いの度に諸外国の植民地とされてきた。様々な文化に支配され、翻弄されてきた。首領も頻繁に変わり、その度に変わる法などあてになるはずもない。こと農村部には公的な目や、形のない正義など届かなかった。 理不尽な圧政と山賊やならず者からの被害に苦しむ人々は次第に「仲間(ファミリー)」としての意識を深めていく。 そしてスペインの植民地であった十八世紀、不遇な農民たちはついに、自身と家族や友人、その居場所を守るべく立ち上がった。馬に乗り、銃で武装した自警団を作って対抗したのだ。 やがて統一運動によってシチリア島がイタリアの一部となるまで、彼らは外部からの圧力と闘い続けた。 勇猛果敢で血の気の多い自警団は生活を守る見返りにと、島民から富と権力を手に入れた。手段であったはずのそれはいつしか活動の目的にもなり、やがてマフィアという最大の犯罪組織となったのだ。 数百年という時を経て形は変われど、善良な市民を苦しめる、法では裁かれない存在への報復をマフィアが引き受ける事がある。後にも先にも彼らにとって最も重要なのは、法でも、ましてや神の教えでもなく、ファミリーだからだ。 時には暴力的な事件や抗争を引き起こす組織に対し、恐れを抱く反面、彼らに自身の生活が守られていると人々は知っている。だからこそ無関心、あるいは知らぬふりを貫く。 血の繋がりと同じく強い結び付きと圧倒的な力を持つ組織が唯一恐れ、避けるべきもの──それは裏切りと内部崩壊だ。 『敵から守る事はできても、友人からの裏切りは神に守ってもらうしかない』 そんな(ことわざ)に表されるのは、どの世界も変わらない。ゆえにマフィアファミリーは、所属する際に独自の洗礼とも呼べる儀式を要し、みずから厳しい掟を設け、それを破った者には残酷なまでの罰を科すのだ。 本人のみならず肉親を生贄にする事も厭わない姿勢は度々ニュースとして、人の心を深く抉り、マフィアという存在は恐ろしく残忍で、関われば凄惨な末路が待っているという意識をより強く根付かせる。 彼らはそうして沈黙を守り、昨今の情報化社会においてなお秘密結社的であろうとしていた。 ローマの都市部・モンティ地区にあるパネッテリアの店員が、初めて店を訪れた二人連れの客に声をかけた。ディエゴが挨拶を返し、後ろを一度振り返る。 「酒も弱いし、話もできねぇ。犬の鼻に期待するんじゃなかった」 アルフィオは少し不満げに言い返しながらついて来る。 「パンを買うなんて聞いていない。どうしていつもの店にしなかったんだ」 「ロゼッタは最近売ってねぇんだよ」 「第一にプレゼントだと言ったじゃないか。だから、花屋は向こうだと──」 「いくら情熱的でも、このオレが薔薇の花(ローザ)なんか買うはずねぇだろ、おバカさん(シェーモ)!」 早口でまくし立て、カウンター型のガラスケースに陳列された商品を見回す。 すぐに目当ての商品を見つけ、指差した。 「見ろ。これがロゼッタだ」 「それは分かっている。突然、ロゼッタを探せと言われたから、どんな魔女かと聞き返しただけだ」 言い訳を続けるのを気にせず、二人では食べ切れないほどの注文をするディエゴ。白い調理服姿の店員は次々にパンを切り出し、重さを測り始める。 ロゼッタとは少々古めかしい女性の名前であると同時に、近年ローマで見かけづらくなったパンの名前だ。ミラノではミケッタとも呼ばれる。その名の通り薔薇の花に似たパンの中身は空洞になっており、加工した肉や野菜をはさむのが一般的だった。 支払いを済ませ、袋詰めを待っている間、ディエゴは少し残念そうにする。 「買うのは久しぶりだな。オレが子供の頃は当たり前にあったのに……」 「ここに来るまでにずいぶん探した?」 訊ねたのは店主らしき初老の女性だ。白髪を白い帽子に収めた彼女は青い目を細め、つい愚痴っぽく続ける。 「実は手間がかかる割に稼げないから、みんな作るのをやめてしまったの。冷めるとすぐに味が落ちるし」 「ここは老舗だし売れているが、今はブリオッシュの方が有名なんじゃないか?」 すぐそばに居た客が話に割り込んだ。吊りズボンを穿いた壮年の男性で、赤らんだ鼻の下に髭を生やし、陽気な笑みを浮かべている。 「それを言うならマリトッツォよ! ブリオッシュにはジェラートをはさまなきゃ」 女店主が訂正した。客はこの店の常連らしく、会話には慣れ親しんだ雰囲気がある。 マリトッツォはローマの伝統的なドルチェで、ブリオッシュに似たオレンジ風味のパンにフルーツや生クリームをはさんだものだ。起源は古代ローマ時代まで遡ると言われ、たびたび愛の告白に用いられてきた。 「(マリート)か……シングルマザーには渡せないな。オレがプロポーズするわけでもねぇし」 他人事のようなディエゴに、客が訊ねる。 「よくデートをする娘の一人や二人、居るだろう。結婚の予定はないのか?」 陳列された他のパンを見ていたアルフィオが顔を上げる。犬が遠くの音に聞き耳を立てる仕草に似ていた。ディエゴは話に夢中で気付かない。 「金髪で青い目のかわい子ちゃんに渡す小さな薔薇(ロゼッタ)を買いに来たんだよ」 と冗談めかすと、客や店主も朗らかに笑う。 「愛の告白に薔薇は欠かせないからな! あとはワインと歌だ!」 「確かに素敵な話だけど、そんなの昔話さ。だよね?」 たしなめたのは先ほどカウンターの中にいた店員だった。袋を差し出し、ウィンクをして見せる。 「どうしても必要だったんだ、見つけられて良かった!」 受け取ったディエゴも目尻を下げ、人懐っこい笑みを返した。 買ったばかりのロゼッタを片手に、ディエゴとアルフィオはブティックが立ち並ぶ通りを抜ける。 街はいつも変わらず賑やかで、秋の装いに身を包んだ人々には笑顔がある。だが少し注意を払って見れば、ブランド店のショッパーを提げている者はほとんど見られない事に気付くだろう。 幸せであるために、無いものではなくあるものに焦点を当てて過ごす生き方は、時に、都合の悪い現実から目を逸らす形にもなる。 石を投げれば当たるほどの観光地を有し、シーズンを問わず観光客が押し寄せる欧州第三の経済大国と呼ばれながらも、国内総生産の成長率の低迷、景気の停滞が指摘されている。若者の失業率は高く、経済は破綻寸前だった。国のリーダーも、秩序であるはずの法律も朝令暮改で、国際的な債務を抱える。諸外国からの信用がなければ内部の経済が成り立たない。悪循環に陥っていた。 それが表の世界の、もうひとつの裏面だ。 平均的とされる生活ですらそうであるのだから、支援や擁護を必要とする社会的弱者は尚のこと苦しい生活を強いられているはずだった。 その一人である小柄な女性は、今日もスーパーマーケットの前に敷いたダンボールに座り込み、脇に松葉杖を立て掛けていた。特有の黒い肌と顔立ちは、初対面でもそのルーツを想起させるのに充分だ。 「クラウディーナと呼んで」 名乗る彼女の肌には煤のような汚れと、若さを象徴するかのような張りがある。 「アルフィオだ。サンタルフィオの、アルフィオ」 膝を突き、視線の高さを合わせたアルフィオがゆっくりと繰り返した。 「という事はシチリア島生まれ(シシリアン)? やっぱり同じファミリーじゃ、なさそうね」 その隣にいるディエゴに視線を向ける。 「家族(ファミリー)みたいなもんだ」 と答え、ふと気付いて聞き返すディエゴ。 「連れてくるのが分かってたみたいだな? 話してなかったのに」 「ディエゴが最近よくデカい男と歩いてるって聞いてたわ。そんなのいつもの事だし、気にしてなかったのだけど……」 言葉を切り、絡まった黒髪を耳にかけ、瞳を目めざといキツネのように光らせる。 「わざわざ顔を見せに来たって事は、ビジネスの関係なのね?」 アルフィオの視線が一度、ディエゴに向けられる。若い女の話というのは説得力に欠ける。それでいて、何かを知っている風だ。 「私もビジネスをしているの。この脚じゃ満足に働けなくて……でも、この子のために」 そう訴える腕に抱かれているのは、薄い毛布に包まれた乳児だった。肌の色が白く、血の気が透けた頬は薔薇色をしている。生え始めた眉や睫毛は金色で、その下の淡い青色の瞳はまだ何も知らない。 「……ああ、俺も足を悪くしたから、気持ちは分かる」 向き直ったアルフィオが真摯な言葉をかけると、ディエゴが顔を背け、肩を震わせた。笑いを噛み殺しているのだ。 それを光る目で一度睨んでからすぐに視線を下げ、 「それで、今日は?」 乳児を抱え直すクラウディーナ。 問われたディエゴは自然な表情で向き直り、先ほど買ったばかりのロゼッタを袋ごと手渡した。 「今日はチビのためのプレゼントと、コイツの紹介だけだ。欲しい物ができたら、一人でも来られるように」 またアルフィオの注目がディエゴに向けられる。だがやはり何を言うでもなく、クラウディーナへと戻った。 「まだミルクしか飲めないわ。カリカリしたパンなんて、食べられる頃には冷めちゃうわよ」 受け取った袋を脇に置くと、 「そんなの分かってる。でも、今日は会えると思ったからわざわざ探したんだぜ。お前も食べて、残りはこの辺りの仲間で分けろよ」 ディエゴも負けじと早口に応じた。 口を開きもせずやりとりを見ていたアルフィオが、不意にクラウディーナの手元へ視線を落とす。芸術品のような顔立ちの中でも一際の存在感を放つ青みがかった灰色の瞳は、どこを見ているのかすぐに分かってしまう。毛布の中で小さな手や顔が動くたび、注意が引き寄せられるのだ。 存在は気になるらしいが、多くの子供好きがそうするように、愛らしさを称賛したり、笑顔で手を振ったりといった反応は、話し始めてからまったくと言っていいほど示されなかった。 クラウディーナは毛布を押さえ、子供の顔をよく見せるようにした。 「とっても可愛いでしょ? 私の宝物よ(テゾーロ・ミオ)小さなローザ(ロゼッタ)と呼んで」 途端に、長い睫毛が動いて視線が逸らされる。 「俺は、その……」 「子供が嫌いなんだ、コイツは」 口ごもる様子を見かねたディエゴが肩に手を置き、割って入った。 「嫌いだなんて……少し苦手なだけだ」 「好きじゃないって言ってただろ」 やや気まずそうにする相手を押しのけ、ためらいなくロゼッタへ手を近付ける。先ほど渡したパンではなく、乳児の方へ。浅黒い指の一本を、小さな白い手が握り返した。 「久しぶりだな、天使みたいなかわい子ちゃん。お前のことを見るために、もう男が列を作ってるぜ」 歌うように話しかける姿を、アルフィオがじっと見つめている。 「下品なローマ男(ロマーノ)の〈チーチーズベイオ〉ってわけね」 クラウディーナが何かを察して言うと、呼ばれた男の表情が変わった。 「チーチーズベイオ?」 眉根を寄せて聞き返されるが、顔色ひとつ変えずに繰り返し、付け足す。 「下品なロマーノと、嫉妬深いシシリアンの男同士なんて気の毒だわ」 「俺のことか? いったいどこを見て嫉妬深いと……」 ますます戸惑い、追及しようとするが、その隣でディエゴが立ち上がる。 「売春婦の言うことなんか気にするな。次に行くぞ」 後ろから首輪をつかむように上着を引っ張り、制した。襟からのぞいた白い肌をゴールドの鎖が転がる。 飼い犬は腑に落ちない風で振り向きながらも、主人に引かれてついて行く。クラウディーナはロゼッタを抱き、遠ざかるふたりを見ていた。 自由猫が闊歩する通りに居た老婆は、アルフィオの顔に手を触れさせ、パートナーだと紹介したディエゴに、以前話していた相手かと問いかけた。その喜ばしげな反応は、「息子」がデートの帰りだと知った際のシニョーラとよく似ていた。だがディエゴは会話を切ったりせず、手を握ったままだ。 チェチーリアはそんな二人に、メディアにも報じられていない噂話を聞かせた。 最近彼女らの広いネットワークにおいて、何と幽霊が現れるようになったという報告が、各地から相次いでいるのだ。 大抵は真夜中、ひとけのない場所で、闇の中からぼんやりと浮かび上がるように現れては、また静かに消えていく。何かを探し求めているようだという。幽霊と思しき存在が現れる前後に、不気味な音や陰鬱な話し声、奇声が聞こえたと言い張る者もいた。 また付近では死体が発見される事があるが、一概にそれが哀れな魂とは言い切れない。この世の者が彼らに触れ合うのは容易でない。にも関わらず、不自然なほど短期間に、似たような目撃談が上がっているからだ。 ネットワークの広さゆえに正確な数や場所は把握しきれず、写真などの確定的な証拠もない事が、却って不気味さを増し、面白半分に広まっているのかも知れない。だからこそあくまでも噂話止まりだが、信心深く忠告するかのように、チェチーリアは伝えていた。 死因も状況も様々、一見して共通項が少なければ関連性は薄いと考えるのが妥当だ。警察も、独立した事件か事故としている。仮にマフィアの抗争によるものと判明すれば、そこで捜査は打ち切られるだろう。 民間であれ公共であれ、一定の条件下で運営される放送局や新聞社に、曖昧で不確定な情報を流す事は許されない。 だが彼女らは公共性を持たない情報屋だ。信頼するかどうかは、商品を買った者の判断に委ねられる。そうして玉石混交の情報を取り扱う商売で日々をしのぐ事ができている。 いつもながら具体的な情報だが、その内容自体に信憑性が薄い事は珍しい。 「幽霊なんて。子供じゃあるまいし」 ディエゴは笑い飛ばしてしまう。 「でも、面白い話が聞けて良かった。またコイツが来た時のために、覚えておいてくれ」 話を終わらせたディエゴが腰を上げようとする一方で、アルフィオは何かを考え込むように視線を下げていた。両手でそれぞれの手を握るチェチーリアが、穏やかに声をかける。 「大きい仔犬ちゃん(クッチョローネ)は怖がりなのかしら?」 老婆は若い二人を、まるで二匹の仔犬のように可愛がることにしたのだった。 当の本人は呼ばれた事などまるで頭に入っていない様子で、真剣な表情を崩さない。 「そんな噂が流れるなんて、誰かがまずい事を隠そうとしているのか? あるいは本当に……」 あくまでも警戒する姿勢なのだ。 奇妙な噂話さえも真に受けてしまう大きな仔犬に、小さな仔犬はうんざりしてしまう。 「ハロウィーンの夜の事をまだ気にしてるのか? お前の気のせいだって言っただろ。ビビり過ぎなんだよ」 アルフィオも咎めるように言い返す。 「お前こそ、何度も言っているが警戒心がなさ過ぎる。何が命取りになるかも分からないのに、不用心だ」 「噂話までいちいち気にしてたらキリがねぇよ!」 「情報の範囲が広すぎる。現れる時間帯以外の特徴は? 性別や年齢……いや、容姿に共通点はあるか?」 アルフィオはチェチーリアの右手を握る手に力を込め、まるで幽霊を探し出そうとしているかのように聞き取りを始めた。 古代ローマ時代、弁護士であり風刺詩人でもあったデキムス・ユニウス・ユウェナリスは、民衆の陥った政治的盲目を〈パンとサーカス〉と表現した。 当時政策として皇帝から無償で施された穀物などの食糧(パン)と、闘技場での決闘や戦車競走、演劇といった娯楽(サーカス)に満足した人々は、労働の必要性を感じなくなってしまった。目先にぶら下げられたそれらを享受する事は皇帝の権威を認めたも同然だ。結果として、直面した悪政という問題から目を背ける形となった。 そんな国民の堕落や政治への無関心も、マラリアと並んでローマ帝国崩壊の一因だと言われている。 チェチーリアは噛み合わない二人のやりとりをしばらく聞いていた。それから、正直に打ち明ける。 「分からないの。私は見た事がないから」 「答えなくていいぜ、“マンマ”。コイツ、見た目以外は全部おかしいんだ」 ディエゴが親しみを込めつつ止めさせようとするが、知っている限りの特徴を話す。 「近くにカラスが飛んでいる事もあるそうよ。鳴き声が聞こえる時も」 「珍しくはない。死骸を食べるためか、身に付けていた貴金属を狙っているかだろう」 そう答えた首元を、ディエゴが横目に見る。 「その悪趣味なペンダントも持って行かれちまえ」 アルフィオは一度視線を落とし、空いている手で服の上から隠すように押さえる。十字架を模したトップがついているのだ。ネクタイやスカーフといった小物もなく、ただ季節ごとに与えられるシャツと上着を重ねたシンプルな服装だが、アクセサリーをこれ見よがしにはしなかった。 「お前の友人がくれたと話しただろう。俺の心の拠り所だ。ディエゴこそ、そのブレスレットが狙われる」 「これだって貰ったんだよ。一番のお気に入りだ」 腕を軽くひねると、手首に嵌めたシルバーのブレスレットが輝いた。 間に挟まれたチェチーリアがまた穏やかな微笑を浮かべる。 「あなたたち、ロムルスとレムスみたいにそっくり。ここに来る“息子”はたくさん居るけど、多ければ多いほど嬉しいわ」 ロムルスとレムスとは、ローマ神話に登場する双子の兄弟だ。帝都を建設した彼らによって、古代ローマ時代は幕を開けた。 アルフィオとディエゴは同時に顔を見合わせる。互いの瞳に映った容姿は似ても似つかず、むしろ正反対とさえ言える。だがいつも深い皺の中で目を閉じている彼女を責める事は、何者にもできない。 足元では、目に傷のある黒猫が卵を抱くようにして座っていた。以前は人が近付くと走り去っていったものだが、今はまるでチェチーリアの代わりに街を見ているかのようにじっとしている。 十日後に迫った十一月十七日は、魔女の使いであるとして忌み嫌わがちな彼ら彼女らの地位向上を目指して定められた黒猫の日だ。チェチーリア自身はその毛の色すら把握できていないのかも知れない。が、目に見えなくとも、耳に聞こえる音や肌に触れる感覚から知る存在も大いにあるだろう。 「……いずれ俺は、ディエゴを殺してしまうかも知れない」 自由猫のいる通りを離れ、川沿いを南下する内、アルフィオがぽつりと言った。スマートフォンを操作していたディエゴが振り返る。 「何か言ったか? 私生児(バスタルド)」 顔をしかめているのは、夕日のせいではなさそうだ。 「俺とディエゴは、ロムルスとレムスのようだと」 神話によればまだ乳飲み子だった双子はこのテベレ川に捨てられたが、精霊がそれを掬い上げ、川のそばにいたオオカミに預けた。二人はオオカミの乳を飲んで育ち、やがてローマ帝国を建設するに至ったのだ。 しかし帝都を建設する場所を巡っていがみ合うようになり、弟レムスが兄ロムルスを挑発した事が原因で決闘になってしまう。ここローマという地名を見れば、どちらが勝利したのかは一目瞭然だ。 「兄弟で殺し合うなんて、したくない。俺は、今この瞬間も、ディエゴに生かされているのに……」 真剣に伝える大きな兄アルフィオに対し、小さな弟ディエゴは頭を指す。 「あの優しいチェチーリアがそんな風に言ったかよ? 耳も悪いのか」 この町のサッカーチームのシンボルマークにオオカミと双子が描かれているのも、くだんの神話に由来する。人々にとって重要なのは、骨肉の争いでも、悲しい別れでもない。神々が作り上げた故郷に対する誇りと愛なのだ。 「オレたちは対等だし、お前は双子に乳でもやってればいいんだ」 「男に生まれるべきだったと言ったじゃないか。俺は母親(マンマ)になんてなれない」 「本当に話の通じねぇ奴! 狂犬病の予防接種を受けさせりゃ良かった……もしもし?」 苛立ちまぎれに言ったかと思えば、スマートフォンを耳に当て、上機嫌に誰かと話し始めてしまう。また歩き出すその背中をアルフィオが追いかける。 「……彼女たちはどちらが魔女で、どちらがマンマだったんだ」 唸るような疑問は、街の雑踏にかき消されてしまった。 かつて数々の決闘が繰り広げられたコロッセオ。その東側にあるゲイ・ストリートも夜は賑わい、話し声が絶えず聞こえていた。裏を返せば、助けが必要な事態に陥ったとしても、すぐには気付かれ難いという事だ。 一人の青年は、建物の陰になる暗がりに押しやられてもまだ曖昧な笑顔を浮かべていた。痩せ型で背も低く、黄色みを帯びた肌に黒い髪と目を乗せた輪郭は(まる)い。凹凸の少ない平坦な顔立ちは未成年にも見えてしまう。 彼は赤い顔をした岩のような大男に行く手を阻まれていた。酒の瓶を片手に、巨大な鷲鼻を垂れ下がらせ、回らない呂律で言い寄って来ているのだ。 どちらも振る舞いからして、イタリア人ではなかった。 青年は次第に泣き出しそうな表情になり、荷物を守るように両腕で抱きかかえ、叫んだ。 「向こうへ行って(ヴィア・ヴィア)!」 ネイティブでない発音で懸命に訴える声までも高く、か弱い。 慣れない街歩きには用心が必要だ。力の弱い女性だけでなく男性であっても、悪質な勧誘から身を守らなければならない。 陽気で人懐っこい、典型的な人物を演じて言葉巧みに仲間の経営するバーへと誘い、酒を飲ませて法外な値段を請求する。当の本人は酔いつぶれたふりで白を切り、後から利益を得る。そんな組織的な犯罪を行なう詐欺集団の手口が、ガイドブックに掲載されてしまう程度の治安であるからだ。 そこへ、革靴の足音が近付いて来た。 「クソ野郎! どこかに消えちまえよ、ここはオレたちの縄張りだ!」 よく通る声が命じる。岩のような大男が振り向いた先にはディエゴが居た。歯をむき出し、狂犬のように吠え立てる。 「一人でヤッてろ、便器は向こうだぜ」 さらに挑発された男は瓶を投げ捨てて何やら喚き、つかみかかった。ワシの鉤爪が獲物に食い込むように、太く、毛深い指がブレスレットを着けた腕を捕らえる。それでも〈ウサギ野郎〉ディエゴは顔色ひとつ変えない。 「アルフィド」 短く呼ぶと、やや華奢な体格の背後から、ふた周りほど大きな影が現れる。後ろをついて来たアルフィオだ。 「…………」 番犬さながらに、今にも咬み付かんばかりの気迫で二人の間に割り込み、不躾な鉤爪を離させる。 よく吠える狂犬のように罵声を浴びせる事はしない。顎を引き、ただ威圧的な態度で対峙する形になった。 その視線は鋭く、顔の造形の美しさに気付くより先に、手入れの行き届いた銃口を向けられたのと同じ感覚を与えるものだ。例え猛禽類であっても、猟銃には敵わない。 「スカしたイタリア男ども、くたばっちまえ……」 男は舌打ちをしながらも後ずさり、暗闇へと逃げ去った。 「す……すみません(ミ・スクージ)すみません(ミ・スクージ)! 助けてくださってありがとうございました(グラッツェ・ペール・アヴェルミ・サルバート)!」 残された青年は高い声で早口に言い、何度も腰を折る。ディエゴはからかうようにその動きを真似てから、 「何でもない(ディ・ニエンテ)。良いローマの旅を!」 と笑みを見せ、颯爽とメインストリートへ引き返した。 一歩後ろから覗き込むようにアルフィオが訊ねる。 「どうしてディエゴに謝っていたんだ?」 「謝るのが好きなんだろ」 「不用意に揉め事を起こすべきじゃない。俺が居なかったらどうなっていたか」 たしなめるが、主人は振り向きもしない。 「使える物を使っただけだ。観光客に故郷を嫌ってほしくねぇだろ、(サン)()ルフィオ」 「急に脇道に入っていくからどうしたのかと思った」 「子供の声が聞こえただろ? やっぱり耳も悪いのか、それとも運命だから見捨ててもいいって?」 嫌味っぽく言い、さらに手振りをつけて続ける。 「アジア系なら誰でもいいって奴がいるんだ。相手が子供でも。趣味を疑う」 「デカい男なら誰でもいいディエゴと何が違うんだ?」 「うるせえ。最後に物置部屋で寝たのはいつだったか考えてみろ。さっきみたいにデカくても便器みてぇな顔のブサイクとはヤらねぇよ」 軽口を言い合いながら、二人は行きつけのクラブへと向かった。 それとは入れ違いに、青年の元には一人の男性が駆け寄っていた。すらりと背が高く、整った顔立ちの額に乱れた前髪がはり付いている。 「こんな所にいた! なぜホテルで待っていなかったんだ! 迎えに行くと言ったのに」 青年の顔に安堵の笑みが浮かぶ。 「時間になっても来なかったから、探しに来たんだよ」 男性も息を吐き、その肩を胸に抱き寄せた。 「ああ、僕のかわい子ちゃんは時間にも誠実だ。四月のサローネ以来、毎日でも会いたかったよ」 袖が下がり、手元が覗く。嵌めているのは腕時計ではなくシルバーのブレスレットだ。 「でも、怖い思いをしなかったかい?」 「平気。ううん、危なかったけど、カップルが助けてくれた。カッコよくて、お洒落なイタリア人の」 顔を見上げて答え、周囲にひとけが無いのを改めて確認し、耳打ちする。 「ねえ、シチリアだけじゃなくローマにも……居るの? この辺りのクラブも、“彼ら”の縄張り?」 突然の質問に、問われた方は面食らってしまう。 「どうしてそんなことを?」 青年は一瞬の間をあけ、また曖昧な笑みを作った。 「映画の観すぎかも。勉強のために、たくさん観たから……」 「私と話すためだね、光栄だ! 私もフィルム・ヤクザを観なきゃ」 呑気な返答に、今度は照れ笑いを浮かべてうつむいてしまう。 「留学のためだよ。この歳でまた大学生だ」 「遅くても、しないより良いさ(メッリョ・タルディ・ケ・マイ)! 私も昔、ある友人のお陰でキャリアのために踏み出せた経験がある」 「ポジティブな諺だね、それに比べて……」 荷物を抱え、背を丸めた姿勢だけでも青年が何処から来たのかは一目瞭然だ。 「ワーキング・ホリデーが三十歳までなんて。セカンドキャリアを目指すのには不運だった」 「不運なのは、私に幸運を分けてくれたからかな? 今の君に出会えたという幸運を」 男性が上機嫌に肩を抱いて歩き出すと、青年はまた照れくさそうに頬を染めた。 今や馴染みとなったゲイ・クラブ『キアーロ・ディ・ルーナ』で待っていたのは、ひと味違う様相だった。薄暗い店内に派手な照明、熱狂する客はいつも通りだが、半数以上がビキニ姿なのだ。 大音量で鳴る音楽にもラテン系のプレイリストが用意され、季節が逆戻りした錯覚に陥る。 「きょうはビキニの夜(ビキニ・デラ・ノッテ)よ!」 少し高いステージを組んだDJブースのそばではビキニ姿のパオラがマイクで話し、いつも以上に得意げに、大胸筋を見せつけていた。スパンコールのついたビキニとTフロントのパンツは、金色のミラーボールをあしらったようだ。 予想外の出来事にディエゴも一歩たじろぎ、アルフィオは棒立ちになってしまう。 「いらっしゃい、ディエゴ! ビキニを着て〈女性の敵〉に立ち向かう企画だよ」 一人の従業員がショットグラスとカットライムを載せたトレイを差し出した。スノー・スタイルのグラスには、メキシコ産の蒸留酒テキーラが注がれている。 〈女性の敵〉とは、一九九六年にイタリア北西部のリビエラ海岸で施行された条例を揶揄する。 『太っていて醜い女性は、市内のビーチでビキニを着てはならない』 それが、ディアノ・マリーナ市での掟だった。やぶった者には口頭注意や始末書、罰金などの罰が科せられる。 だがたとえ社会的弱者であろうと、権利を侵害されても仕方がないわけではない。時には強行的な手段で、声を上げて意見を主張する必要がある。 そこで、不合理な条例から権利を守るべく人々は立ち上がった。不遇な女性たちは武装するのではなくトップレスになり、「これでビキニではなくなった」と対抗したのだ。そこへ今夜の彼らのようにビキニをまとったゲイ男性らも力を貸し、「女性ではないから問題ないはずだ」と皮肉った。 ビキニ・デラ・ノッテは、その抗議活動に着想を得たイベントだった。 思わず言い返してしまうディエゴ。 「もう冬だぞ? ここはリビエラ海岸でも、ビキニ湾でもない。こんな場所で活動したって……」 「権利を主張するのに季節や場所なんて関係ない! そうだよな!」 そばに居た客が煽ると、周囲からは同意の歓声が上がる。 ディエゴは苦笑し、顔の前で手を振った。 「すぐそこで剣闘士の格好をする方がマシだ」 そうは言ったものの、今を生きる事に全力を注ぐ彼が現状を受け入れるのに、さほど時間は要さなかった。ビキニ姿になる事はせず、グラスとライムを受け取り、店の奥へ進んでゆく。 従業員は楽しげな笑顔で、後ろに立つ長身の目の前にもグラスを突き出した。 「ほら、どうぞ!」 アルフィオは反射的に受け取ってしまう。グラスに視線をやった途端、一人の客が横あいからぶつかって来た。 「他の男を見ていただろう!」 後方に向かって怒鳴っている。どうやら同行者と口論中らしく、ぶつかった事にも気付かない。追ってきた客が言い訳をする。 「一緒にクラブに来たのに、恋人とお酒を楽しまないなんてありえないよ!」 「最低だ! クソ野郎!」 「待ってよ、僕のかわい子ちゃん!」 ぶつかった客はビキニの上にシャツを羽織った姿でクラブを飛び出してしまい、もう一人がそれを追いかけて行った。 呆然とするアルフィオの腕を誰かがつかむ。食い込む爪はなく、だがしっかりとした強さがある。 「こっちに」 主人が呼んでいた。立ち尽くしているのは店の入口付近で、人の流れを妨げていたようだ。熱狂の渦に吸い込まれるように、引き寄せられる。 ひとまず壁際に寄り、向き合ったディエゴは違和感に気付いた。 「何でグラスを持ってるんだ?」 「目の前に出されて、咄嗟に退けられなかった」 「ワインも飲めねぇくせに」 と、手を伸ばす。蒸留酒はその製造方法により、醸造酒よりもアルコール度数が高い。 「…………」 しかしアルフィオは渡そうとせず、何かを考えるように小さなグラスに視線を落としている。 そこからはあっという間の出来事だった。 「グラスを寄越せよ。オレの下戸さん(アステミオ・ミオ)、アルフィオ?」 そう呼ばれた次の瞬間、下戸のアルフィオはテキーラを一気にあおってしまったのだ。 「おい! 何、バカな事してるんだよ!」 驚いた声が止めようとするのも間に合わず、喉仏を上下させ、飲み下す。続けざまに、平らになった犬歯でライムにかじり付いた。 喉が焼け付いたかと思いきや、アルコールと柑橘系の香りが鼻へと抜ける。駆け上がってくる強烈な刺激にむせ返り、咳き込んだ。 「……俺はシシリアンだ」 アルフィオは目を閉じ、歯を食いしばって、湧いてきた涙を抑え込む。相手よりも自身に思い知らせるように。 一部始終を目にしたディエゴは困惑を隠せない。 「ますますおかしくなったな……肘を上げすぎるなよ」 バーカウンターについたところでディエゴもようやくライムをかじり、ショットグラスを空ける事ができた。 強い味と刺激に詠嘆を漏らしていると、後ろから重いものがずっしりと寄りかかって来る。 「目が回る……」 振り返ると、至近距離に迫った白い顔がさらに青白くなっていた。 「シシリアンが聞いて呆れるぜ」 下品なロマーノは呆れて言い、ダンスフロアの反対側にあるDJブースを指差す。 「トイレなら、ブースの向こうのカーテンを──」 「知っている」 アルフィオは短く返事をするのもやっとと言った風で離れて行った。重みから解放された体が軽くなる。 ちょうどカウンターの中に戻ってきたパオラがその背中を見送っていた。 「オオカミ野郎、ちょっと変わった? 冷たい感じ」 「クールで良い男になっただろ。情熱的な男に釣り合う」 平然と返され、閉口したパオラがその顔を見つめる。ディエゴはすぐに耐え切れなくなり、冗談だよ、と声を立てて笑った。 「アイツが変わってるのはいつもの事だろ」 「一人にして平気?」 初めて店に訪れた際は置き去りにされていたものだが、それ以降は常にと言っていいほど、〈ウサギ野郎〉の後ろにくっ付いていたのを知っている。しかしディエゴは気にも留めない。 「オレはマンマじゃねぇんだ。小便くらい、今はもう一人でできるさ」 「今はもう?」 「家族が怪我をした時は看病するもんだろ」 話していると、カウンターの右隣にいた二人連れが声をかけてきた。 「君の恋人、大丈夫? 気分が悪かったみたい」 「彼、大理石の彫刻みたいだね。実は君たちカップルを何度か見かけた事があって、話してみたかったんだ」 二人はいつかのトムとディックのように容姿がよく似ており、広い額と豊かな口髭、筋肉質な体にまとったビキニまで揃いの物のようだった。 「そうなのか? いつでも声をかけて来れば良かったのに」 ディエゴは天板に片腕を乗せ、体を向ける。 「いつも早めに帰るから、ほとんど入れ違いで。今夜は特別に夜ふかしするんだ」 「なら、ようやく友人になれるんだな。ディエゴだ。さっきのはアステミオのアルフィオ」 手を差し伸べ、握手を交わす。 「僕たちは、レオナルドと──」 「待て、当ててみる。レオナルドと、ミケランジェロ?」 名乗ろうとするのを制し、ディエゴは奥の一方を指した。美しい男を大理石の彫刻と表現した芸術的な感性や、口髭を蓄えた容姿は不機嫌そうな肖像画にも通じる。 二人は冗談をすぐに理解し、楽しげに笑った。 「僕の新しいペンネームにしようか」 ミケランジェロと呼ばれた客が聞くと、 「鼻の先まで美しい君と張り合わずに済むよう祈るよ」 レオナルドは彼に顔を近付け、鼻の頭をすり合わせた。 ディエゴはビールグラスを片手にそれを見、何の事はないと続ける。 「でも、見てたなら分かるだろ? オレたちはカップルじゃない」 「そうなの? 単なる友達?」 「たまに寝たりはする。ルームメイトだ」 あっけらかんと答えると、途端に二人は真剣な態度になった。 「本人がどう思ってるのか確認しておかなきゃ。デート相手の一人なのに、プロポーズされたらどうするの?」 「して来ねぇよ。そもそもゲイじゃない。生活の為にオレにベタ付いてるだけだ」 「なのにあなたと寝て、ここにも遊びに来るって? ありえない!」 驚き、否定されるが、 「他に行く所がないんだ。仕事と買い出し以外で出てるのを見た事がない。おまけにクリスチャンだし……」 ディエゴは淡々と返し、人差し指と中指を折り曲げた。 レオナルドとミケランジェロは鏡のような顔を見合わせ、向き直る。 「ゲイだって、神の前で愛を誓い合えるよ」 首をかしげるディエゴに、レオナルドが説明する。 「最近はそうした動きになってるんだ。同性間の愛も容認しようって」 セックスは別だけど、と付け加えられ、 「容認か。勝手に禁じておいて、ずいぶん偉そうだな」 ディエゴは鼻で笑った。 「でも、大きな前進だと思わなきゃ。みんなで闘ってきた成果だよ」 二人は同じように髭を撫で、互いにアイコンタクトを取る。 「実は僕たち、来週からフィレンツェに引っ越すんだ。教会で挙式もする」 レオナルドが告げた。二人は長年連れ添ったカップルで、引っ越しを機に結婚と同等の権利を得ると言う。挙式はもちろんビキニではなく、揃いのタキシードで、だ。 それを聞いたディエゴはけろりと明るい笑顔になり、グラスを持ち上げた。 「それはおめでとう! 二人と、ゲイの街フィレンツェに!」 三人で合わせると、小気味いい音が鳴る。 北部・トスカーナ州のフィレンツェは、十六世紀から人々を魅了し続ける芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナローティを輩出した州都だ。 花の都、屋根の無い美術館と呼ばれる一方、同性愛者の人口比率が高い街としても知られる。美しい芸術品と美しい男性が集まっていた。 「結婚を夢見る事はある?」 ビキニ姿のミケランジェロが訊ねた。 「さあな。オレは今が楽しけりゃそれでいい」 「何の為に家を買ったんだったかしら?」 別の客と話していたパオラが、聞き捨てならないという風で割り込んだ。ディエゴは面倒臭そうに頭を掻く。 「夢見たんじゃねぇ、計画が倒れたんだよ。あいにく、その家も来月には手放す予定だ」 「あら、そうなの。良い値が付きそうね」 「それが狙いだ。年季と、デザイナーが有名になるにつれて価値が上がるからな」 「もっと有名になるのを待ったら?」 パオラの提案に、ディエゴは首を振る。 「過ぎた欲を出せば痛い目に遭うんだよ。誰かが言ってた」 「ウサギ野郎の口からそんな言葉が出るなんて……」 感心しつつも、不可解なものを見るような目をやめられないパオラ。次々と好みの男を相手取っては刹那的に身を委ねていた頃とは別人のようだった。 「オオカミ野郎も連れていくのよね?」 問われたウサギ野郎はグラスから口を離し、白い歯を見せる。 「当然だろ、追い出す理由がねぇ。アイツの荷物、少ないしな」 ようやく、アルフィオが戻って来た。ディエゴの隣に収まったのを確認し、ミケランジェロが意気揚々とする。 「そっちの彼にも聞かなくちゃ」 「……俺のことか?」 天板に寄り掛かったまま聞き返すアルフィオ。パオラが気にかけた通り、人の間をすり抜ける事に慣れない身には、店内を往復するだけでも一苦労だったようだ。 「今夜は帰るか?」 ディエゴが気にかけるが、うなだれた首を左右に振る。ゴールドの鎖が見えていた。 カップルがフィレンツェに移住すると聞いたアルフィオはようやく顔を上げた。顔色は白い事に変わりないが、表情は少し緩んでいる。 「フィレンツェか……羨ましいな」 差し出されたグラスを揺らす様子は白黒映画のように絵になるが、入っているのはただの水だ。 「そうなのか?」 ディエゴが意外そうに確認すると、アルフィオは、ああ、とうなずく。 「本場のジェラートがいつでも食べられるじゃないか」 大真面目な態度と発言の差に、その場にいた全員がナッツと酒を吹き出し、笑ってしまった。手で目元を隠したディエゴが溜め息をつく。 「……言っただろ。コイツ、本当にその気はないんだ」 当のアルフィオは何の事か分からず、それを見るばかりだ。 パオラが指先で涙を拭い、楽しげな視線を向ける。 「オオカミ野郎の〈青い王子様(プリンチペ・アッズーロ)〉が知りたいわ。いつかパートナーと一緒になりたいと思わない?」 「もう既に、一緒に暮らしているが……」 今度は視線が一斉にディエゴに向けられる。カップルでないと聞いたがどういう事か、と問い詰めるように。 「ビジネス・パートナーなんだ」 ディエゴが当たり障りなく答える一方、何も知らないアルフィオが続ける。 「同じ家に住んで、食事も、眠る時も、常に一緒だ。仕事の送り迎えも」 包み隠さず話してしまうそれをさえぎるように、ディエゴはわざとカウンターに腕を乗せ、カップルに体を向ける。 「分かっただろ、今の暮らしじゃ結婚なんてできねぇよ。オレも、コイツもな」 その背中に注がれる視線には、またしても気付かなかった。 スピーカーからメレンゲが流れるのを見計らったように、ディエゴはグラスを空にした。同じく水を飲み干したパートナーを連れ、ダンスフロアへ向かう。 ペアを組み、中央付近で人の波に乗ると、従順な前足が腰に回ってくる。ここへ通う内に仕込んだ芸だった。 「ずっと、考えていたんだが」 アルフィオが切り出した。後ろ足で踏むステップはまだぎこちない。 「なんだよ?」 「ディエゴは、いつまで俺を同じベッドに寝かせておくつもりなんだ?」 問われたディエゴは目を瞬き、聞き返す。 「トイレでオレより魅力的な男に誘われでもしたか?」 慌てて首を振るアルフィオ。 「そうじゃない。むしろ逆だ。俺がいると、ディエゴに恋人ができない。プロポーズも、結婚も、遠のいてしまう……」 「オレがいつ結婚したいなんて言った?」 「したくないのか?」 「前にも言っただろ。今はお前が居るからいいんだ。オレは満足してる」 よく通る声で返しながら、よく動く足でリズムを刻み、踊る。パートナーが彫刻のようにほとんど動かない一方、パーティーの若者らしく音楽を全身で楽しんでいた。 アルフィオは繋いだ手を上げ、軽やかにターンするしなやかな体を見ながら続ける。 「他の男と寝なくなったのも、俺のせいだろう。今もこんなに男で溢れているのに俺以外に見向きもしない。以前ならそんな事は……」 ディエゴのステップが緩んだ。向き直る顔の笑みは消えていた。シャツの襟を少し開き、中のスカーフを押さえ、見えやすいように首をひねる。 「こんなの付けられて、他の男を誘えるかよ」 そこには、今朝方に付けられたばかりの歯型があった。 不思議そうに聞き返すアルフィオ。 「止めさせなかったじゃないか。気に入らない事があればすぐ怒鳴るだろう」 ハロウィーンの夜以来、オオカミ野郎は折に触れてウサギ野郎に咬みつくようになってしまったのだ。 「あの時は咄嗟にやってしまった。だがディエゴは怒らなかった。だから、気に入っているのかと……」 隠し立てしない返答に、思わず笑いをこぼすディエゴ。飼い犬であれば矯正するべき癖だが、確かに能動的な動きに感じたからこそ止めさせていないのだ。 「依頼人(クライアント)を満足させなければ、次はないんだ」 仕事熱心な様子に、またひとつ確認する。 「ならドギーバックをやらないのは? オレが背中を向けてもすぐひっくり返すだろ。テーブルの時はあれがイイのに」 アルフィオは何かを思い出すように視線を下げ、途切れがちに答える。 「それは……お前の肩のタトゥーを見たくないからだ。教えに逆らう俺より、十代の頃のディエゴが、哀れになる」 「ムカつく。過去なんか関係ない。みじめになるから同情するなって言っただろ」 ディエゴは思わず眉を吊り上げ、睨みつけていた。 「いつか目隠ししてやらせてやる。首輪だけじゃなく手錠も着けるか?」 乱暴な提案をすると、自由に動く白い手が浅黒い頬に触れた。 「……この顔は見ていたい。ディエゴの顔を見ていると、俺は安心するらしい」 唐突に、どこか他人事のように答えるアルフィオ。思わぬ告白を受け、ディエゴは調子を狂わされてしまう。 「……静かなのはヤッてる時だけだな」 「ディエゴが話しかけて来なければ、俺もこんな風にならなかった」 「ならオレはお前の疾患の治療に一役買ってる、医学の開拓者(ピオニエーレ)でもあるな。話が通じねぇのも治さねぇと」 ややスローテンポなバチャータに切り替わると、ペアを組んで踊っている客たちの距離はさらに近付く。体を密着させ、顔を見つめ合う。フロアが渦を巻くように、流れに乗って少しずつ移動する形になった。 ディエゴとアルフィオも例外ではない。 そうしながらディエゴは、先ほどのカップルとの会話を思い出し、訊き返す。 「お前こそどうなんだ? 外にも出られるようになったのに、こんな場所でオレにベタ付いてばかりじゃ二度目の恋──メス犬も口説けねぇだろ」 「ディエゴ、何度言ったら分かるんだ。俺は犬じゃない……」 そこで何かに気付き、訂正する。 「いや、確かに俺はディエゴの番犬だ。だから一緒に居る。お前は──」 巨大なスピーカーの真横に来ると、ただでさえ聞き取りづらい声は大きな音量にかき消されてしまった。ディエゴには見慣れた淡い色の唇が動いているのが見えているだけだ。 「聞こえねぇよ、アルフィド」 つま先立ちになり、顔を寄せた時だった。 視界が塞がり、唇が触れていた。 スピーカーの震動が足の裏を伝い、密着している体から喉仏まで響く。瞬間、すべての音が失なわれる。 それが“あの”アルフィオからのキスであると、ディエゴはしばらく理解できなかった。 「…………」 唇を解放されてからも、驚きのあまり言葉を発せずにいた。 キスなら数え切れないほど交わしてきた。だが今は仕事中ではない。命令される事なく、パートナーがそんな行動を取ったのは初めてなのだ。 動く事もできず、茶色の瞳はただ相手の顔を見上げるしかない。 一方で当のアルフィオは浮かれる素振りもなかった。真剣な表情のまま、まっすぐにパートナーを見つめている。 と、ふたたび姿勢を下げ、今度はその唇を相手の耳に寄せた。 「やっぱり、不用心だな」

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