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第十三章 環境保全
煉瓦造りの邸宅の前に、一台の警察車両が停まっている。黒に近い濃紺の地に赤のラインを引いたスタイリッシュなデザインで、上部のパトランプは点灯していない。周囲には制服姿の憲兵と近隣住民が数人。
憲兵は邸宅の主 と思われる身なりをした中年の夫婦が不安げに話す様子に、眠そうな表情で耳を傾けていた。
「ちょっといいかい?」
ガレージのシャッターを開け、車を出そうとしていたディエゴに、制服姿の一人が声をかけた。やや角張った顔立ちで背が高く、鍛えられた体躯に、ボタンが付いた暗い色の制服が様になっている。帽子の下の襟足と瞳はダークブラウンだ。
ディエゴは腕を下ろし、怪訝そうに応対する。
「こんな時間に、何の騒ぎだ?」
午前一時になろうとしている。大抵の人間は眠っている時間だ。
「実はこの近くで、泥棒被害があったんだ。どうか気を付けてほしい」
邸宅はディエゴの家から程近くにあり、空き巣に入られてしまったのだった。いかにも裕福そうな家だが、警備は手薄だったのか、防犯設備が古かったのかも知れない。
巧妙なスリや乱暴なひったくりと同じく、泥棒、空き巣もまた日常的に起こりうる犯罪だ。しかも一度被害に遭ってしまうと、家の内部を知られてしまうため、何度も被害に遭う可能性があるとさえ言われている。
「家の中に現金は置いていないよね?」
丁寧に確認され、うなずくディエゴ。
「ああ、もちろんだ」
「家電は守れているかな?」
「あいにく機械には疎くて。引っ越してきた時のまま、どれも古い物ばかりさ」
「高価な貴金属や、芸術品なんかは?」
「そんな余裕があるように見えるかよ」
ディエゴは両手を広げて見せた。他人に好感を与える服装が、必ずしも高級店のスーツであるとは限らない。自慢のブレスレットも、長袖の内側に隠れている。
相手は納得したように穏やかな笑みを浮かべ、視線を落とした。革靴も手入れこそされているが、馴染みのあるブランドだ。
「これから出かけるのかい?」
その問いかけに、ディエゴは一度ガレージに視線をやり、また向き直る。
「……と思ったけど、今夜は家で過ごす事にする。実はパートナーが病気がちで、いつも家に居るんだ」
「それはお気の毒に」
「それからオオカミみたいにデカい犬も。困ったことに躾が大変で、オレ以外にはすぐ噛み付くんだ」
笑顔を浮かべながらも、やれやれと言う風で肩をすくめて見せる。憲兵も帽子の下で眉根を寄せた。
「奥さんを大切にしてあげてね。それと、犬の面倒も」
「もちろん。そっちは姑息な泥棒野郎を一刻も早く捕まえろよ? 期待してる」
人懐っこい笑みを見せたディエゴはふたたびシャッターを閉め、ガレージの扉から家に戻った。
廊下では、険しい表情を浮かべたアルフィオが立っていた。いつもながらの黒いレザージャケットに黒いパンツ、足元は頑丈なブーツだ。腰の後ろにはピストルが差し込まれ、外出の準備は万全に整っている。
国家憲兵隊の制服と似た暗い色の上下に身を包んでいるが、こちらはさながらマネキン代わりに装飾の服を着せられた彫像と言ったところだ。
「予定変更だ。アルフィド」
リビングに向かいがてらそう伝えると、整った白い顔の表情が緩み、驚きに変わる。目を瞬くと、長い睫毛が羽ばたくようだった。
ゆっくりと感覚を取り戻すように、口が動く。
「で……出かけないのか?」
「出かけるさ。アイツらが消えてからな。コーヒーでも淹れよう」
上着を脱いでソファーの肘掛けに放り、キッチンに向かうディエゴ。アルフィオがその後に続く。
「どうして。予定が狂うと標的 が……」
「平気だよ、寝たきりなんだ。カップ一杯分、寿命が延びたところでどこかへ行くもんか」
あっさりと説き伏せ、エスプレッソを精製するマッキネッタではなく、ドリップ式の抽出器を準備する。ナポレターナと呼ばれる昔ながらの抽出器は、ナポリを離れる際にファミリーから贈られた物だ。
「写真を見ただろ? 自力じゃトイレすら行けねぇよ」
その言葉を受けたアルフィオが自身のポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。画面にひびが入っており、型もやや古い。
外に出るようになって以来、主人から与えられた物だった。トマゾの兄弟と名乗り、ディエゴを殺しに来た男のポケットに入っていた「お下がり」である。ディエゴが一切のデータを消し、中のカードを別の物に入れ替えて渡したのだ。
「今夜で三人目だ。仕事を回しておいてなんだが、自分と同じ名前の人間を殺すのは、複雑な気分にならないか?」
ディエゴが上体をひねるようにして覗き込んだ。髪が触れるほどの距離になる。アルフィオは視線を送り、
「特に気にならない。よく居る名前だ」
と答え、また画面に戻した。
そこに居るのは鼻カニューレを着けた白髪の老人だった。顎の下の皮膚はたるみ、首や肩も痩せ、皺だらけの顔の中で力なく目を閉じている。見るからに余命いくばくもなく、死を待つばかりの弱々しい姿だ。
病室で撮られた写真らしく、奥には窓が写り込んでいる。外の木の具合からして、夏頃にはすでに入院していたらしい。
「田舎町の小さな公共病院で寝たきり。依頼するまでもなく近いうちだろうに……簡単な仕事だからラッキーだけどな」
「事情を聞いていないのか?」
訊ねたアルフィオに、ディエゴは当然のように訊ね返す。
「お前に伝えるとでも?」
カウンターに向き直り、肩越しに見上げる角度になった事で、睨み付けるような視線になっていた。
「殺し屋 の仕事は殺しだけだ。それが契約だからな」
拒まれたアルフィオはそれ以上食い下がろうとはせず、もう一方の手を顎にやる。
「どこかのファミリーの裏切り者だろうか……」
真剣な表情になり、声に出して推察を始めた。
仮にこの「アルフィオ」という名の年老いた男がどこかの組織を裏切ったのだとすれば、彼は改悛者 と呼ばれていることだろう。
過去に犯した自身の罪を認め、心を入れ替えた者がするべきは、その悪事を白日のもとに晒す事だ。この場合は組織を裏切り、内部告発として警察に密告する。
だがそんな裏切りを受けたファミリーとて、みすみす野放しにしておくはずはない。彼らは様々な手段を使って最後までみずからの居場所を守りながら、裏切り者への報復に出るのだ。
そうして起こった凄惨な事件に巻き込まれ、力なき第三者が犠牲になる例も珍しくない。
改悛者は報復を恐れ、こちらもまた自身を守るため、身を隠す必要がある。まさしくいたちごっこだ。実の家族にも会えない事を考慮すれば、隔離されるように田舎町の小さな病院にいるのも納得できる。
ともすれば「アルフィオ」という名も、身分を偽るためのものかも知れない。
著名なだけでもサッカーや自転車競技の選手、数学者、俳優、芸術家など、性別以外は何の共通点もないイタリア人男性に与えられてきた、ありふれた名前だ。
生まれた子供に与える名前には、聖人のようになってほしいと名付け親が祈りを込める一方、不自然でないものが好まれる。たとえ誰かと同じ名前であろうと、奇抜な名前など無くとも、持って生まれた魅力があるからだ。
「お前も気を付けろよ、“アルフィオ”」
同じくよく居る名を持つディエゴによって、アルフィオの思考がさえぎられた。
「どういう意味だ?」
スマートフォンをポケットにしまい、聞き返す。
ディエゴはバスケットに入れた豆を平らに整える手を止め、半身の体勢で説明する。
「これは仲介業者じゃなく、パートナーとして伝えておく。最近『アルフィオ』を殺してくれって依頼が増えてるんだ」
目の前のアルフィオが眉間に皺を刻むのを見、手振りを交えて続ける。
「オレはどんな依頼でも引き受けるワケじゃない。よく居る名前なのも分かってる。けど、飼い犬と同じ名前だと、やっぱり少し引っかかる」
飼い犬アルフィオは視線をはずし、またしばらく考え込む。
「あくまでも可能性の話だが……俺が生き延びた事が、イル・ブリガンテに伝わったのかも知れないな」
水を入れたボイラー部を火にかけ、首を傾げるディエゴ。
「お前を殺そうとした奴らが、オレに依頼を? ファミリーとは縁が切れたんだから、もう関係ねぇだろ?」
クライアントの情報をヒットマンに教える事はできないが、仲介業者が記憶している限り、イル・ブリガンテを名乗る者は居ない。メディアでしか見た事のないファミリーに過ぎないのだ。
しかし捨て犬アルフィオはうつむいて首を振る。
「一人のソルジャーだった俺を騙して、市民を殺させた。その事実が組織の上層やドン・カルロの耳に入れば、只では済まされない。口封じのために、今度こそ俺を殺そうと、しらみ潰しに同じ名前を狙っていると……」
「〈スマート・マフィア〉なんて自称してる奴らが、そんな効率の悪いやり方をするかよ?」
その考察を、ディエゴは鼻で笑った。
「イタリア中の『アルフィオ』を殺そうなんて、時間と金がいくらあっても足りねぇ。殺しは慈善事業じゃなくビジネスだ。ましてやオレを介せば余分な金がかかる」
紙幣を数えるように、顔の高さに上げた片手の親指と人差し指をすり合わせる。
「可能性の話だと言っただろう」
アルフィオが繰り返すが、ディエゴも意見を返す。
「お前以外にも、イル・ブリガンテに飼われてる殺し屋は居るだろ? まずはそっちを頼るはずだ」
「しばらくの付き合いだったが……彼らの性格を考えると、自分の計画が上手くいかなかった事を仲間に知られたがらないはずだ。どこから首領 の耳に入るか分からないし、頭が良いと自負していた」
淡々とした口調の裏に、苦々しい記憶がある。ファミリーを追われてから七ヶ月が経ったが、過去の出来事や他人から受けた仕打ちは、そう簡単に忘れるものではない。
「ますますワケが分からねぇ」
ディエゴは姿勢を下げて抽出器を確認する。アルミ製の側面にあいた小さな穴から湯気が立ち、水滴が垂れ始める。
「仲間 の失態を晴らすのがファミリーだろ? やっぱりイル・ブリガンテなんだな。信頼してるなら頼るはずだ」
以前集めた情報によれば、カラブリア州を拠点とするイル・ブリガンテは比較的新しい組織だ。伝統と血縁を重んじる南部の人間性と、橋を渡った先にあるシチリア島を源流とした仲間意識を持ちながら、その単数形の定冠詞を持った名前は、互いを利用し、個々の発展を目論んでいるようにも見える。
アルフィオは意外そうな表情で瞬きをし、また視線を落とす。
「……確かに他人の動向は、あまり把握していない。食事の席でも、仕事と女の話は好まれなかった」
「お前はそんな奴らを信頼して、居場所を見つけようとしてたのか」
何気ない風で鋭い指摘を続けながら二人分のカップを取り出す後ろ姿を見つめ、否定できず唇を噛む。
「今になって思えば、どうして追い出されたのか、分からなくもない……目障りだと言われたのを覚えている」
家族と言えど、言葉に表さなければ互いの胸の内は見えない。ことに同じ屋根の下に暮らしながら関わりを避け、干渉しようとしない姿勢が、彼らの目には孤高の一匹狼を気取っていると映っていたのだ。
「俺が居場所を守ろうとしている一方で、彼らは自分たちのプライドを守ろうとしたんだろう」
考えながら話すどこか他人事のような口ぶりに、ディエゴは少しばかり感心してしまう。
「体やアレだけじゃなく心もデカいなんてな! お前を追い出したファミリーなのに、恨んでないみたいだ」
「ディエゴは、実の家族を恨んでいるのか?」
アルフィオが照れる素振りもなく聞き返した。
「…………」
その問いに、ディエゴは振り向かなかった。何も言わず、火を止める。珍しく沈黙していた。
今ある物に注目し、満たされ、普段は見て見ぬふりをしている。そんな思い出したくもない話題に触れられた様子だ。
「ディエゴ?」
歩み寄り、顔を覗き込もうとする。
「……オレと血の繋がった家族も、お前ほどデカくはねぇよ」
顔を伏せたディエゴはようやく遠回しに答え、片手に持った抽出器のハンドルを上下にひっくり返した。よく蒸らされたコーヒー豆が熱湯に浸り、香りが広がる。
「そうか……信仰心も捨てたほどだものな」
その肩に一度触れてから、アルフィオは身の上話を続ける。
「俺は学も無いし、退屈な男だと、よくからかわれていた。話せずにいると、無視するなと怒鳴られた事もある。あのままファミリーに居ても、踏みにじられる生活が続いていただろう」
オオカミのパックにおいて、最下層に位置する個体オメガには、自身より上の個体にとって優位性を示すための存在となる事が求められる。彼らは群れに服従し、決して逆らう事はなく、時に責任のなすり付けや、解消困難な不満、憎悪の対象を肩代わりする役割を担う。オオカミでありながら、〈贖罪のヤギ 〉となるのだ。
そして復活祭 の夜、オメガだった個体は全治半年に及ぶ怪我とパンツと引き換えに、そうした役割から解放された。人の心を持った若者とその友人の〈獣医師〉の手によって見事に復活を遂げた一匹狼は、新しい飼い主の番犬となって日々を送っている。
「今は……幸運な事にディエゴに出会えた。だから、彼らを恨む必要はないんだ」
カウンターに片手を置き、確信を持って言った。
「ディエゴは無茶をするし、気まぐれだが、住む場所と仕事に留まらないものを与えてくれる。ファミリーに居た時よりずっと、人生を謳歌している気分だ」
銀色のナポレターナに、近付いたふたりの姿が湾曲して映り込む。
顔に垂れた黒髪の隙間から覗く瞳は、やはり従順な犬に似ていた。今となってはすっかりなついた大型犬がそうするように、横顔を見つめている。
ディエゴはその視線を感じつつ、サーバーからコーヒーを注ぐ。深い香りが立ちのぼった。
「ずいぶん情熱的になったもんだ。警戒心や、他人を疑ってばっかりのビビりなお前はどこに行った? 飼い主に似たのか?」
「確かにディエゴと一緒に過ごすうちに、能天気なのが伝染したのかも知れない」
それを聞いた能天気な主人はやっとアルフィオに視線を向け、白い歯を見せて笑った。
「それはいいな。優秀すぎる犬を飼うと苦労するみたいだ。ちょっとおバカさんなくらいがいい」
砂糖を入れたカップをひとつ差し出し、もう片方を自身の口元へ持っていくと、受け取ったアルフィオもそれにならう。火傷しそうなほど熱いコーヒーが唇に触れた。
そうしながら視線が絡むと、ディエゴは満足げに目尻を垂れさせる。あどけない顔立ちがますます甘くなる。
「オレの『アルフィオ』なら簡単に死んだりしない。少しだけ気を付けておけよ」
「ああ。心に留めておく」
アルフィオもコーヒーをひと口すすり、しっかりとうなずいた。
だが能天気だったのはほんのつかの間に過ぎず、またいつもの説教臭い調子になる。
「ディエゴも、警戒しておくに越した事はないはずだ」
ダイニングではなくリビングのソファーへと戻るのを追い、同じように注意を促す。
「もし偶然の一致でなく、俺を狙っているなら、一緒に居る人間にも目を付けるに決まっている。彼らの計画が失敗した原因は、お前が俺を生かした事だ」
「もともと沈黙をやぶったのはそっち──無法者 のクソ野郎どもが先だ。オレたちの縄張りに面倒事の種を撒いて行きやがった。ざまあみろ」
客観的な洞察に、ソファーに腰を下ろしたディエゴも負けじと言い返した。
「だいたい、まだ口封じなんて必要か? 社会の顰蹙を買ってるのは、今に始まった事じゃねぇのに」
座部に片足を上げ、コーヒーをすする。その隣には座らず、背凭れをはさんで後ろに立った「面倒事の種」が口を挟む。
「イ・ピオニエーリも、言えたものではないと思うが」
形式上は毒の誓約に従ってファミリーを離れ、ディエゴの元に身を寄せたとは言え、そちらのファミリーにも帰属している訳ではない。群れからあぶれた一匹狼は、縄張りの間を縫うように生きていた。
「ナポリの救急搬送を牛耳れたのは病院の職員を脅したからだと、ネヴィオが以前こぼしていた。社会的弱者から移動費を請求するビジネスだそうだな」
「誰もやらなかった仕事をやるのが開拓者 だって言っただろ。いつの間にマフィアは義賊になったんだ?」
以前ならば家族を侮辱されたも同然と怒鳴っていたはずだが、ディエゴはそうしなかった。カップを手に、比較的落ち着いた様子だ。
「汚ねぇ事でも、しなきゃ稼げない奴が居る。アイツらにも生活があるんだ。泥棒が全員怪盗紳士じゃねぇようにな」
と、外で緊急車両のサイレンの音が鳴った。邸宅の方向から二人の暮らす家の前を通り、都市部へと遠ざかる。
「お前が心配するほどターゲットの寿命を延ばさなくて済みそうだぞ、元〈無法者〉 」
運転手はまだ中身の残るカップをローテーブルに置き、肘掛けに置いていたジャケットを取り上げる。
「いや、待て。あれは救急車のサイレンだ」
アルフィオが断言し、出て行こうとするのを制した。袖に通しかけていた手を止め、振り向くディエゴ。
「区別がつくのか?」
「ずっと家の中で過ごしていたんだ。お前の車の走行音やエンジン音も区別できる」
確信を持った返答に、納得せざるを得ない。
「それもそうか。パトカーが帰り道にサイレンを鳴らすなんて変だしな」
ディエゴが素直にソファーへ戻ると、アルフィオはカップを持ったままその後ろで屈むようにし、背凭れに腕を乗せた。
「出発を遅らせる理由を聞いていなかった。さっき話していた憲兵から何を言われたんだ?」
座ったディエゴより頭の位置が低く、大きな目が上目遣いになる。四つ足の犬が高い台に前足を突き、その上を覗き込むのと似た様子だ。
「出ようとしたら話していたのが聞こえた。パートナーが居るとか……まさか、誘われでもしたのか?」
「……ったく。お前はそればっかりだな。世間話もしちゃいけねぇのか? オレは男を見つめただけで罰金刑か?」
ディエゴは嫌になったように手を振り、聞き返した。
するとアルフィオは素早く立ち上がり、回り込んでソファーに腰を据えた。ローテーブルにカップを置き、真剣な表情で訴える。
「ディエゴ、俺にだって何かを知る権利はあるはずだ。これは契約とは関係ないし、時間を遅らせる事で仕事に差し障っている」
理屈を捏ねるに留まらず、見つめられると、虹彩の中央にある黒い瞳孔に吸い込まれそうになる。
ディエゴは思わず視線から逃れるようにその顔を押しやった。
「学だけじゃなく色々と足りないお前に教えてやる」
白い相貌を隠すようにした手を離さないまま続ける。
「いいか? まず、このローマには、百万を軽く超える数の男が居る。その内のゲイは言ってみりゃ四匹の猫だ。オレを含めてもな」
同性愛者を含む性的少数者 の割合は、人口の三パーセントとも、十パーセント以上とも言われる。統計の取り方や地域、時代などによって変化し、正確なデータは存在しない。彼らを取り巻く環境と同じく人間の性的指向は流動的であり、性自認とは曖昧なものだからだ。ただマイノリティである事だけが確かなのだ。
「そんな中でたまたま声をかけた相手が同じくゲイで、しかも寝たいほど惹かれ合う確率なんて、サッカーくじ を当てるより低い。それこそイタリアじゅうの『アルフィオ』の中からお前を探し当てるようなモンだ」
一気に早口でまくし立て、付け足す。
「だからどこかに集まって、自分たちが過ごしやすいよう居場所を作ってるんだよ。ストリートやクラブ、大浴場 なんかにな。分かったか ?」
「……ディエゴは数字に強いんだな」
アルフィオは顔に手をはり付けたまま、圧倒されたように返事を押し出した。手の平にその唇の動きと吐息が触れる。
「オレにも、学はねぇけど」
手を離したディエゴは親しみを感じさせる笑顔を浮かべ、続ける。
「きっと空き巣の下見だ」
「空き巣?」
「警官がわざわざ近所に危険を知らせて回ったりするはずがねぇ。ちょっと考えれば分かる」
空き巣にあったと通報し、被害を届け出たところで、警察官が親身になって対処するとは限らない。よくある事件に過ぎず、働いている人間が仕事熱心とは程遠い性分であるのもまたよくある例だ。重要なのは、いかにして自分の身と大切な物を守るか、なのだ。
トスカーナ州モンテサンビーノでは、泥棒に入られた店の店主が犯人を射殺し、物議を醸した。
泥棒という犯罪も、犯人とっては職業であり、目撃者を殺害する強盗になる事も厭わない。過剰防衛であるかどうかは、判決に委ねられる。
解放された顔にまた難しい表情を浮かべ、考え始めてしまう。
「国家に潜り込もうなんて……」
「いや、あの警官自体がどこかの組織と癒着してるんだ。制服姿がイカしてた」
その言葉を受けた途端、深い灰色の瞳がディエゴを睨んだ。が、明るい茶色の瞳も同様に睨み返す。
「なんだよ、その目は。言いたいことがあるなら言えっていつも──」
「なら、伝えておきたい事がある」
珍しく、アルフィオの方がディエゴの言葉をさえぎっていた。はっきりとした発音と、強い意志を感じさせる口調だった。
「話せるならな」
片腕を背凭れに、片足を膝に乗せるディエゴ。相手の話を聞くよう体を開いていた。
アルフィオもソファーの上で座り直し、体ごと相手に向ける。
「あまり、思わせぶりな態度を取らないでほしい。俺にも、俺以外に対しても」
背凭れに頬杖を突き、その顔を見つめているディエゴを咎めるような口調だった。
「ディエゴや、他の男はそうした駆け引きが得意なのかも知れないが、俺はただ不安になるだけなんだ」
「……何言ってんだ?」
不可解そうに聞き返されるも、アルフィオは言葉を探しながら、低い声で話し続ける。
「一緒に居るのに、時々お前のことが分からなくなる。何をしているのか、何を考えているのか……もっとディエゴのことを知りたいし、俺のことを知ってほしいと思う」
相手のことを深く知り、同時に自分のことを知ってほしいと望む。それがいったい何を表しているのか。一度でもその感覚を覚えた経験があるのなら、彼が自身の言葉で懸命に伝えようとしている意思が理解できる。
「俺はクリスチャンだ。これまでは生きるために、教えに背いて……お前に命じられるままに応じてきた」
そこにあるペンダントトップを押さえるように、胸に手を当てて打ち明ける。
「だが、今は違う。俺自身も、お前を求めたい。これから先も、お前のベッドに、俺以外の誰かを招いてほしくない」
抑揚は少ないが、訥々と話す声に力がこもる。慣れない想いを伝える言葉を懸命に探し、紡ぐ。
「殺しの依頼はこれまで通り引き受けるが、ビジネスという形で体の関係を持つのは……もう終わりにしたいんだ。ディエゴが胸を張って紹介できるような、パートナーになりたい」
ディエゴの表情が固くなった。背凭れに寄り掛かっていた体勢を起こし、組んでいた脚を下ろす。
「オレをからかってるのか? 退屈しのぎにゲイの真似事なんて……」
「真似事なんかじゃない」
アルフィオはソファーを下り、ディエゴの前に両膝を突いた。どこかへ行ってしまうのを阻むかのように。
「俺を見てくれ、ディエゴ。この俺が冗談を言った事があるか」
折り目のついたスラックスを穿いた腿に腕を乗せ、祈りに似た体勢で見上げる。
「偶然出会って惹かれ合うなんて、確かに稀な事だろう。だが、この気持ちは本物……俺の、二度目の恋だ」
長らく待ちわびた知らせを機に、しばしの沈黙が訪れる。家の前の道路を、タイヤの音が走り抜けて行った。
「まさか……本当に、本気で言ってるのか? オレがメス犬だって?」
深く腰掛けていたディエゴも自然と背筋を伸ばし、珍しく真剣な表情になる。青灰色の瞳はそれを見つめ続けている。
「俺もお前も犬じゃない。男なのも理解している……それでも、お前が欲しい。必要なんだ」
張り詰めていた糸が切れたように、ソファーに背を預けるディエゴ。天井を見上げ、額に手をやる。
「驚いた。ゲイと寝た男はゲイになるって言うけど、まさか本当だったなんてな……」
独り言のようにこぼした後、冷やかすような視線を向ける。
「お前もゲイになれば楽しめるとは言ったけど、そんなに具合が良かったかよ?」
「寝たから惹かれたわけじゃない。ゲイは感染症じゃないとも言っていただろう」
アルフィオが訂正する。彼から初めて教会に行くよう言われた際、ディエゴは確かにそう伝えていた。
額に乗せていた手を離し、向き合っている襟に指を挿し入れると、細い鎖に触れた。絡め取るように、十字架を模した飾りを引き出す。
「愛する神の教えはどうした? この悪趣味なペンダントに逆らうのか? 首を絞められても知らねぇぞ」
忠告するように言われ、アルフィオは視線を落とした。
「……元より俺は、地獄に堕ちるはずだった。少し猶予が与えられただけだ。だから、この時間をくれたディエゴと過ごすべきだ」
「明日死ぬとも分からないのに、恋人や家庭を持つなんてって言ったのは誰だ?」
ディエゴがさらに意地悪く追求するが、
「守らなければならないものが増えると動きづらくなる。だが、この社会を知っている相手なら──ディエゴなら話が別だ。俺が居なくても、生きていける」
ふたたび顔を見上げ、その手を取る。肚を括った様子だ。
「だから俺には……ディエゴしかいない。お前が俺の生死を決める。やっぱりディエゴこそが、俺の天使なんだ」
熱烈な言葉に、ディエゴも心を動かされてしまう。否定できず、拒否する理由も見つからなかった。
リードのようなペンダントを引き寄せると、顔が近付く。吐息が触れるほど至近距離に迫った互いの瞳に、同じ熱が宿っていた。
「……分かった。当分はお前としか寝ない。デートもしない。それでいいな?」
その宣言が何を意味するのか、駆け引きに慣れた者であれば容易に理解できるのだろう。しかし相手は“あの”アルフィオだ。
「自分が何を言っているか分かっているのか、ディエゴ? 嘘をついてほしいわけじゃない」
案の定、返ってくるのは叱るような口調だった。前屈みになっていたディエゴは放るようにペンダントを手離し、肘掛けに腕を置いた。
「嘘にならないようにすれば良いんだろ。賭けてもいい。もしオレがこの先、お前以外の男と寝ようと思わなかったら、お前の勝ちだ」
しかしアルフィオは生真面目な表情を左右に振った
「賭博と占いはしない。トトすら買った事がない。不確かな約束は避けるべきだろう」
堪え切れなくなり、吹き出すディエゴ。
「……やっぱり話にならねぇ! お前の言うことなんて、真に受けたオレがバカだった」
膝に乗った両腕を払い除けて立ち上がる。突き飛ばされたように床に座り込んだアルフィオはまだ理解できない様子で、その顔を見上げるばかりだ。
「ほら、出番だぞ。早く立て」
ディエゴは急かし、自分のカップに残っていたコーヒーを飲み干すやいなや、颯爽と廊下に繋がるアーチへ向かってしまう。上着の襟を整える腕に、持ち上がってくる口角を隠すようにして。
「ま……待ってくれ、ディエゴ」
慌てて立ち上がったアルフィオが後ろ手に持ち物を確認しながら呼び止める。重いブーツの足音が華奢な体重を追いかけた。
ガレージに繋がる扉にかかった浅黒い手の上から、大きな白い手が重なる。
「昔のように物置部屋で、お前のあの声を聴かなくて済むんだな?」
するとディエゴは体をひねって振り向き、空いた手でアルフィオの顔を引き寄せた。
「帰ったら直接聴かせてやる。けど今はヒットマンとしてのお前が必要なんだ、アルフィド」
「…………」
号令をかけられた途端に、よく躾られた忠犬は固く口を閉じた。
***
「いま引き受けてる仕事が終わったら、バカンスにでも行くか?」
片手でハンドルを握ったディエゴが提案した。これからヒットマンを派遣しようとしているとは到底思えない、呑気な口ぶりだ。
「…………」
アルフィオは助手席に座り、前を睨んで黙り込んでいる。
運転をしながら盗み見た先には、銃口と同じ、鋭く黒光りする眼がある。通った鼻筋の下、唇から時々歯ぎしりが漏れる。ディエゴは、美しい顔の所々に歪みを見せるこの表情が嫌いではない。
ある条件下に置かれると決まってこの表情をするのだ。法に背いてこれからターゲットを殺すという覚悟の表れと、教えに背いて同性であるパートナーに欲情したサインらしかった。喉に何かを詰められたように、言葉が出てこなくなるのだと聞いていた。
なので、運転手は一人でとめどなく話し続けている。
「今年はプーリアが一番人気だったらしい。シーズンを過ぎた今なら値段も下がるし、人目も減って、気にならなくなる」
「…………」
「海には入れねぇけどな! もう十一月も半ばだ。凍えちまう」
「…………」
「もちろんその道中でこんな高速道路に愛する飼い犬を捨てたりしない。オレは情熱的な男なんだ」
助手席の体が振り向くのを、視界の端に捉えた。何かを伝えようとしているのは前方を見たままでも分かる。
「…………」
ディエゴの頬に、アルフィオが唇を押し付け始めた。挨拶として交わされるそれではなく、確かな意思と熱を持っている。
シートベルトをはずして身を乗り出し、二度、三度と続ける。愛おしくて仕方がない、とでも言いたげに。うまく言葉が出て来なければ、行動で示すしかないのだ。髪に鼻を埋めて匂いを嗅ぐようにし、前足で器用にその襟を開いて、首筋に執着する。
「危ないぞ。悪い子だ」
行儀の悪い飼い犬をたしなめるように言うディエゴ。
このままシートを倒させて、押し倒されてしまいたくなる。この仕事さえなければ、と思わずに居られない。だからこそ彼ら彼女らは、休暇をとってバカンスに行くのかも知れない。
「アルフィド、落ち着け。家に帰ってお前がシャワーを浴びてからだ」
ファミリーとも、その時々の恋人とも、もう何年と旅行らしい旅行には出かけていない。人生に満足したつもりでいた。こんな事を考えてしまうのは、事業を立ち上げて以来、初めてのことだ。
従順な飼い犬を連れてプーリアに行く道中を想像しながら、ディエゴは往路をひた走る。
車を降りたアルフィオが、開いた助手席の窓から覗き込む。
エンジンを止めたディエゴはシートベルトをはずし、助手席の座面に手を置いて身を乗り出した。安心させるように言い聞かせる。
「ここで待ってる。大丈夫だ」
ターゲットの“潜伏先”にはまだかなりの距離があるが、気取られる事のない場所で車を停め、そこからは歩いて行く。ヒットマン〈忠犬アルフィド〉のスタイルは変わらなかった。オオカミは足で狩りをするものだ。
消灯時間をとうに過ぎた病院に忍び込むのは容易い。警備が手薄である事や、施設内の間取り、ターゲットの病室といった情報も事前に把握済みだ。
目的地は建物の二階の角部屋で、敷地に植えられた大きな木は外の視線から窓を隠すような位置取りだ。
「必ずピストルで殺せよ。医療機器には触るな。いくら年寄りでも、仕事前に死なれたらせっかくの依頼が白紙になる」
ディエゴが念を押した。ベッドで寝たきりの老人を、金を払ってでも殺してほしいと依頼するクライアントが居るのだ。余程強い執念がうかがえる。
それを聞いたアルフィオは窓に手を掛けたまま腰をかがめ、車内に乗り出すように頭を突っ込んだ。
「……アルフィオ?」
そう呼ぶ唇に、やはり何も答えず、自身の唇を重ねた。アルフィオからのキスは、これで二度目だった。
「…………」
暗い車内で、白い肌と、大きな黒っぽい目が浮かび上がって見える。瞳が焦点を定めかねるように揺れていた。
アルフィオはゆっくりと窓から離れていく。きびすを返し、歩き出した。その唇が何か言いたげに引き攣っていたのを、ディエゴはしっかりと見ていた。
「|オオカミの口に飛び込んで来いよ !」
闇の中に消えていく背中に、思わず大声で言っていた。
オオカミの口に飛び込むが如く勇敢に、覚悟を決めて、たくさん獲物をとってくるようにと猟師を励まし送り出す。あるいは小さな子供を口に咥えて運ぶ習性を持つ国獣にあやかり、仕事や試験で良い結果が訪れるように願う。そんな言葉だ。
言われた方は、
「オオカミ万歳 !」
などと返すものだ。
しかしその言葉を投げかけた相手こそ〈オオカミ野郎〉アルフィオである。よく通る声が聞こえなかったとでも言うのか、振り向く事もしなかった。
ディエゴは運転席のシートを倒して目を閉じた。
何を言いたかったのかは、戻ってきて口がきけるようになってから、聞いてやればいい。
そんなディエゴを飛び起こさせたのは、スマートフォンへの着信だった。画面上部には「 Ciro barba 」の文字と、午前三時を指す時計が表示されている。
「もしもし?」
ハンズフリーにする必要はない。シートに寝転がったまま応答する。
『もしもし、ディエゴ? 起きていたか』
「ああ、やっと連絡して来たな! 食事に来る気になったか?」
笑みを浮かべ、楽しげに誘う。
「ヌーヴォーの解禁日はもう明後日だし、一人で飲むのもつまんねぇと思ってたんだ。昔みたいに飲んで騒いで話そうぜ」
チーロとは同じファミリーでありながらパスクアの翌朝にナポリ郊外の廃棄物山積所で会ったきり、顔を見ていなかった。
しかし電話相手はディエゴほど陽気な気分ではないようだ。
『あいにくそうじゃないんだ。収集車が故障して、少し時間ができてな……』
「そうかよ。ミラノ近くなら、整備士 を紹介できるぜ? オレの相棒 も見てる」
『お前の共犯者 ? これ以上男が増えるなんて御免だ』
「よく聞け、メカニカだよ。小麦色の肌の|ミラノ女 だ。仕事の話なら間違いなく喜んで引き受ける」
ディエゴが大袈裟に口を動かして訂正すると、
『そうか! もうルカたちが修理にあたってるんだが、止めさせよう』
途端にチーロの声がはずんだようになる。そしてすぐに、
『……なんてな。こんな時間に女性を呼び付けさせようなんて、お前は父親のクソだな』
ナポリ流の罵倒が混じった笑いに変わった。互いに向けられる下品な言葉は近しい関係性があってこそ生まれるものだとはディエゴも理解しており、腹を立てる事もない。
『機械より美女をいじりたいところだ。今は何をしているんだ?』
「オレか? パートナーの帰りを待ってる」
何の事はないと言う風で答えると、今度は驚きが伝わってくる。
『パートナー? お前みたいな男が結婚を?』
電話越しでも表現豊かに伝わってくる反応に笑い、足をハンドルに乗せるディエゴ。
「結婚なんてしてねぇよ。一緒には暮らしてるけど、ビジネス・パートナーのヒットマンだ」
『やれやれ、驚かせるな。いつからそんな事をするようになったんだ』
「運転係は前からやってたさ。オレのフランス生まれのコンパーニョを見ただろ」
『ああ、見たとも。 compagno と言うより compagnon だな。ヒットマンもフランス人なのか?』
「いいや、シシリアン・マフィアの落ちこぼれだよ。チーロも知ってる男だ」
言葉を切り、ヒットマンの消えていった方へ視線をやる。
「……アイツの腕は、どんな〈ワイズガイ〉にも劣らねぇよ。殺しも、料理も、それ以外もな」
自慢げに言い、仰向けの体勢に戻る。見上げるサンルーフの向こうはいっとうの闇だ。
「それで、オレの自慢の夕食にも来ないのに電話してきた用事が?」
訊ねると、チーロも思い出したように応じる。
『ああ、そうだった。噂に聞いたんだが……お前がドンとシニョーラ夫妻の養子になるっていうのは本当か?』
不可解な質問に驚き、眉を歪めるディエゴ。
「そんな噂、どこから聞いたんだ?」
『長男が言っていたのをカポの爺さんが聞いたらしい。ディエゴと兄弟になれたら嬉しいと』
「カポ? ああ、荷降ろしがまだだって怒鳴ってた爺さんのことか」
チーロらゴミの収集と処理業に従事する構成員にとってリーダーに当たる、しゃがれ声の持ち主だ。ディエゴはその姿を見ていないが、長い歴史を持つイ・ピオニエーリにおいて現在のメインビジネスの一角を任されているのだ。ファミリーの中心であるドンの息子や孫と直接の繋がりがあっても何ら不思議はない。
「肝心のオレが居ないところで進んだ話なんて、オレの知った事じゃねぇよ。クソくらえ」
ディエゴが平然と答えると、
『なんだ、そうなのか』
どこか安堵に似たものを含んだ相槌が返ってくる。
『なら、本当にそんな話が来ても受けないのか? 仮にも我らがドンの意向だぞ』
その質問には、すぐに回答できなかった。家を出る前にされたものと、にわかに重なる。
「……どうだろうな。家族ってものにあんまり良い思い出が無くて」
ためらい、返事を濁したディエゴの肩に触れる手は、今はない。
『俺たちには羨ましい限りだ。お前は孝行息子だし、ファミリーのお気に入りだからな』
「別に孝行なんかしてねぇよ。マンモーネとは程遠いし、シニョーラの望みも叶えてやれそうにない……」
わずかな沈黙により、水滴がサンルーフを叩く音がしているのに気付いた。雨が降り始めている。ディエゴは慌てて起き上がり、車内が濡れないよう助手席の窓を閉めた。
それから、冗談半分に提案する。
「お姫様たち の中にシングルが居るだろ? チーロは彼女と結婚すればいい。妻と牛は近場から探せって──」
『バカを言うな! あれじゃあ酒好きの女房じゃなく、なみなみ入った酒樽そのものだ!』
電話口から、本人の耳には入れられないような罵声が飛んだ。
『それにお前みたいに結婚とは無縁な……いや、やめておこう。とにかくドンは、娘や孫娘の夫には仕事を任せない。義理の息子はファミリーじゃないんだ』
さらに何やら言いかけた言葉を飲み込んだらしかったが、ディエゴは敢えて触れなかった。
「伝統や血の繋がりを大切にするのはお前らの得意だろ。なら、たぶん養子だって同じだ」
相手に見えていない片手の指を曲げて続ける。
「でももし義理の息子になれれば、仕事が無くても生活には困らねぇぜ。ドンがお前みたいな“顎髭”との結婚を許すかは別だけど」
チーロは言い返して来ず、ため息をついてしまった。指先で顎髭を触る仕草が浮かぶ。
『確かにそうかも知れない……俺たちみたいな下働きは日々の生活がやっとだ。最近はフォルチェッラ辺りも取り締まりが厳しくなった』
「しっかりしろよ、ナポリ野郎 ! いかなる時でもファミリーのために働くのが掟だろ」
自身の立場を棚に上げ、茶化すように言うと、ナポレターノからは少しやけになった口調が帰ってくる。
『ああ、だから今夜も北部に向かってるさ、ローマ野郎 ! ナポリに戻るのは木曜日だ』
「ちょうど解禁日だな。オレだって今は仕事のためにナポリのはずれに居る。曜日なんて関係ねぇ」
ディエゴも同調するが、チーロは分かりやすく消沈する。
『お互いに仕事に追われて、しかも老いぼれた爺さんやむさ苦しい男と一緒……イタリア男として嘆かわしいな』
「オレにはこの仕事は天職だよ。それに、かわい子ちゃんが助手席に居たら危ねぇだろ? 運転中にもべたべたして、情熱的に誘ってくるような」
『積極的な女性なら大歓迎だ。収集車でのドライブなんて格好がつかないが──ああ、動くようになったのか? すぐに戻る』
電話の向こうから複数の男性の声がする。仕事をこなすチームのものだろう。
『ディエゴはこれからもロマーノでいるのか?』
すぐに戻ると返事をしたが、まだ通話を切るつもりはないらしい。ディエゴとて同じだった。
「降誕祭 には引っ越すつもりだけど、少なくとも南部には戻らねぇな。治安が悪いみたいだ」
含まれた意味をすぐに理解したチーロが笑い、ディエゴもますます上機嫌になる。旧友との会話は時間を忘れるほど楽しく、美味い食事とワインが無いのが悔やまれた。
「落ち着いたら招待するから、今度こそ来るんだぜ?」
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