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第十四章 基金創設

月の沈んだ深夜の道を、一台の緊急車両がサイレンを鳴らして走っている。白の地に赤のラインを入れ、上部には青いランプを点灯させた救急車だ。中には苦しむ急患と、対応にあたる職員が乗っているのだろう。 進行方向に小さな公共病院があるが、運転する職員は脇目も振らずその前を通過してしまった。 救急車を所有する団体との取り決めにより、搬送できる病院が限られているのだ。団体は患者の搬送にかかった時間や距離によって、州や患者の家族に対し、代金を請求している。つまり搬送先の候補を減らすほど、稼ぎが増えるというのが、救急搬送ビジネスの仕組みだ。 ドップラー効果によって低くなった音が遠ざかっていくのを耳にしたアルフィオもまた、見向きもしなかった。 殺し屋(ヒットマン)に与えられた使命は、依頼人(クライアント)が示した標的(ターゲット)の殺害のみである。 ターゲットが死亡した事、目撃者が居ない事を確認し、必要であればその死体を持ち去ったり、現場の写真を撮影し、証拠として送ったり、指示されたメッセージを残したりする場合もある。そうする中で、他の物事に興味を示してはならない。確実に目的を遂行した後は、速やかにその場を立ち去るべきだ。 殺しは慈善事業ではなくビジネスだ、と仲介業者ディエゴは言った。隣人を思いやり、慈しむ事を善行とするならば、他人の命を奪ってしまう事はその対極に位置するだろう。 しかし命令とあらば殺しも厭わない姿勢は、ある場所においては残忍として扱われる一方、別の場所では忠誠心と呼ばれ、評価される事がある。そうして生み出されたのが、寡黙で冷酷なヒットマンの〈忠犬アルフィド〉だった。 かの有名な忠犬フィドから取ったらしいニックネームはもちろん本人の意図したものでなく、そこには皮肉も含まれている。犬という呼び方は、相手を侮辱する際にも使われるものだ。 ヒットマンは、殺す相手を自分の一存で決めているわけではもちろんない。結果的には自身が報酬を得るため、生活してゆくためではあれど、自分の感情や欲望のために殺人を犯す事はまずないと言える。 一時的あるいは長期的な負の感情に支配されて相手の命を奪ってしまう一概の殺人犯でも、個人的な愉悦や快感を求めて哀れな被害者を殺す快楽殺人鬼でもない。ビジネスとして、クライアントから引き受けた依頼をあくまでも代行しているだけなのだ。 そのため、ヒットマンはターゲットとは無関係な場合がほとんどだ。ましてや仲介業者を通して依頼を受けている以上、クライアントの事情に深入りする必要も、ターゲットの身の上に肩入れする理由も無い。相手が誰であろうとただ指示された通りに殺すのみで、無関係な物事に気を取られている暇はないのだ。 黙々と歩いて病院の敷地内に到着する頃、雨が降り始めた。冷たい雨は生き物の気配を隠し、闇に溶け込んだ姿を照らす光も弱くなる。好都合だった。体が濡れないよう急ぎ足で裏手の通用口へと回り込む。 ディエゴから受け取った情報通り、小規模の公共病院の裏口は、消灯時間を過ぎても施錠されていない。蝶番の軋むスイングドアを押し、大柄な影を素早く忍び込ませる。 古い建物の中には、鼻を刺すような消毒液と、シャワーも浴びられないほど弱った体が放つ特有の臭気が滞留していた。防犯設備はおろか、空調設備すら作動していないようにさえ感じられる。 ドアの上に小さな非常灯があるばかりで、廊下も待合室も、受付も暗い。診察室や職員の待機部屋と思しき木製のドアは閉められている。人の気配は無かった。 アルフィオはブーツの水気を振り落とし、足音を立てないよう、階段へ向かった。ターゲットの収容された部屋は、二階の角にあるはずだ。 他人の視線を避けられる事は殺し屋にとって好都合この上ないが、病院という人の死と対面する場所では、それが却って不気味さを増させる。黒髪からのぞいた外耳や、ジャケットをまとった背中がひり付くような緊迫感が漂っていた。 「…………」 強ばった表情で、歯を食いしばるアルフィオ。 これまで生きるために身を立てて来た仕事、特に今夜の依頼は反撃に遭う可能性も低いとは言え、緊張しないわけではまったくなかった。 上下の歯列が擦れて軋み、頬骨の下には窪みが浮く。上顎に痛みを覚えるほどになっても、幼少期からの癖をやめる事は難しい。 守護聖人アルフィウスの名を冠した小さな町で、敬虔な両親の元に長男として生まれ、物心ついた時にはすでに集団の中にいた。純朴な少年は、思うように他人と打ち解けられない事、他人にできる事が自分にはできない事を痛感してきた。 妖精も、神も、実に不平等なものだ。この世にまったく同じ人間が二人として存在しない事からも分かるように、生まれてきた命に与えられる試練は公平ではない。アルフィオは幼心に、多数のために少数が犠牲になるよう創られた世の中の仕組みに気付いた。 そこで、自分の置かれた環境から離れる事を決意したのだ。思うように動かないからと言って、自分の体を取り替える事はできない。また、他人を変える事もできない。適した学習環境に出会えなかった子供が落第や転校を経験するように、居心地が悪く、思い通りにならないならば、その場から離れるしかなかった。 他人にできる事ができない身ひとつで、それでも自分にできる事を探した。やがて殺ししか能がないのだと自負するようになると、今度はやるべき事に飢えた。ようやく見つけた居場所を、手放すわけにはいかなかったのだ。 ヒトは、脳の思考力などの観点から優れていると思われがちだが、個としては非常に弱い動物である。ひとつの個体だけで生命を維持するのは不可能であるため、群れを形成する必要がある。その結果として、社会性を持つ。そして、社会に属する為には、何らかの形で貢献しなければならない。働かない者は食わない者だ。 当時の飼い主ドン・カルロの元には、様々な事情を抱える「友人」たちが足繁く訪れていた。彼らに人を殺す力はなく、あるのは社会的な地位と莫大な財産のみだ。それらはいつの時代も不自由を生み出すもので、彼らは自身の居場所を守るために、力のある者を頼らなければならなかった。そこで、対価と引き換えに、居場所を脅かす相手の存在を消すよう依頼して来ていたのだ。 その繋がりがたとえ社会の闇と呼ばれ、犯罪行為による牽制や抑圧であろうと、人々は見て見ぬふりをする暗黙の了解は、この国より長い歴史の中で確立されていた。 それらの依頼は、ピラミッド型を模す組織図を上から下へと辿る形で人を介し、アルフィオを含めた忠実な殺し屋たちに仕事として与えられた。仮に誰かが仕事をしくじったとしても、足がつく事がないように。 依頼を引き受ければ、半島の先端に位置するカラブリア州の拠点から、車でなければ電車やバス、船や飛行機など、計算通りに運行される保証のない交通機関を乗り継ぎ、時には宿泊施設にも潜伏し、何日もかけて向かう事もあった。 アルフィオは、どんな場所にも一人で出向いた。組織の構成員ソルジャーの地位を与えられても、アソシエーテを従える事も、複数人で共闘する事もしなかった。 他人と気さくに話し、打ち解けるという行為への苦手意識から、たとえひとつ屋根の下で暮らす家族(ファミリー)であろうと、関わりを避けた。そうしていても、生きる事はできた。裏側であろうと、ようやく社会に帰属できたつもりでいたのだ。 仕事をこなした後も、寄り道をする宛など無かった。孤独な旅路は息抜きと称して誰かと談笑する事もできない。往路では口をきけず、復路もまた、賑やかな街なかに出てジェラートひとつ買い食いする手間さえ惜しんだ。 即物的な欲の少ない殺し屋アルフィオにとって、仕事とは莫大な額の金銭といった報酬よりも居場所を得る為の手段だった。そうしてひたむきに引き返してくる姿もまた、帰巣本能のある犬と呼ばれた由縁だった。 それが今や、フランス製の送迎車付きの〈番犬〉だ。 アルフィオが仕事にありつくには、クライアントから受けた依頼を斡旋する仲介役が欠かせない。そんな仲介だけでなく派遣業務も担う主人に拾われたのは偶然だった。 ディエゴという男は、今が楽しければそれで良い、自分の居場所は自分で守るものだと語って聞かせた。居心地の悪い場所であっても執着し、失なう事を恐れるのではなく、新たに作り出していたのだ。 誰もやっていない事をするのが開拓者であると、公私を問わず他人との関わりを好む彼はみずからの手で殺しを行なう代わりに、需要と供給を結び付ける事にビジネスの可能性を見出した。仕事熱心とは遠い土地柄に似合わず、それを天職とまで呼んだ。 マフィアという立場さえも利用し、別のファミリーであろうとホームレスであろうと、契約を取り付ける。信頼の上に成り立つ関係性を築く中で、それぞれの特性や事情を理解していた。無論、アルフィオが恐れを知らないのではなく、何かを恐れるがゆえに的確な仕事ぶりなのだということも。そして絶対に、自分の運転で届かない範囲の依頼を与えようとしなかった。 短気な性分をおさめる事ができず、血圧を上げて苛立ちながらも、一度引き取った捨て犬を手離さないのだ。 そんな運転手を離れた場所で待たせ、アルフィオは黙々と仕事に没頭する事ができた。先ほど家を出る前に、これまでとは違った関係性になる事が決まったばかりだが、その甘い記憶を反芻する余裕など今はない。 目的の病室もまた狭く、空気はやや冷えていた。やはり公共施設としても、快適な環境とは言えなさそうだ。 二つのベッドの間に酸素供給装置がある。部屋の収容人数は二名だが、手前のベッドは使われていない。同室の患者の居ない時期を狙い、夏からこの時期まで待っていたのだろう。今夜が絶好の機会なのだ。 外に降り出した雨と風が部屋の奥の窓を叩き、薄手のカーテン越しにそれが聞こえている。力ない街灯の光が揺れながら届いていた。 床を這うコードを踏まないようにゆっくりと窓辺に近付く。もう一床のベッドに横たわる人の姿が見えた。 暗闇に慣れた眼で、先程も確認した情報と人相を照らし合わせる。ターゲットに間違いなかった。 ナースコールが顔のすぐ脇にあるが、気付かれたとしても、老いた手がボタンを押すより早く仕留める事ができる。 「…………」 顔を見つめたまま、オートマチックのピストルを腰の後ろから抜き出す。サプレッサーを取り付けた銃身は重く、長くなっていた。その分、銃声の破裂音と壁への反響は抑制される。 今回の依頼において武装した相手と撃ち合いになる可能性は低く、機動性はさほど重要ではない。発砲してから、聞き付けるであろう何者かに部屋の位置を気取られるまでの時間を稼ぐのが目的だ。来た道を引き返せなくなっても、窓から外の木に飛び移る事もできる。 レバーを上げ、安全装置を解除した。その時だった。 「そこに誰かいるのか……」 しゃがれ声がした。アルフィオは驚き、目を見開いて硬直してしまう。 カニューレの下でたるんだ皮膚がゆっくりと動き、歯を失なった口がゆっくりと言葉を紡ぎ出そうとしていた。 「司祭様、どうか私の話を聞いてはもらえないか……」 患者の目は開いていない。この年齢では耳も遠いはずで、聞こえたとしても窓が鳴る音だ。 どうやら夢か幻覚を見ているのか、意識混濁を起こしているらしい。入院中である事すらも認識できなくなっていた。 「…………」 アルフィオは動揺を抑え込む。 かつて、司祭になると語った事もある。だがそれは、心から望んだ将来の姿ではない。 血の繋がった家族にすら言えなかった、祖父の跡を継いで養蜂家になるという夢を打ち明けたのも、ディエゴが初めてだった。胸の内を明かせば明かすほど、距離は近付くものだ。 気を取り直し、腕を伸ばしてピストルを構える。暗い中でフロントサイトを覗き込み、薄くなった白髪の生え際に照準を合わせた。発砲の際の反動で多少のぶれが生じようとも、この距離であれば致命傷は免れない。 マガジンには十五発もの銃弾が込められている。六条のライフリングが刻まれた先、鋭い視線とよく似た銃口が、ターゲットを捕らえる。 オオカミは狩りをする際、獲物となる草食動物の群れを追いかけ、体の弱い個体や病気のある個体が遅れて群れからはぐれたところを狙う。そうして弱い遺伝子は淘汰され、逃げた個体が繁殖すれば、草食動物は優れた遺伝子を残す形で発展してゆく。すなわちオオカミは、自然界の生態系の調整役も担っているのだ。 自然界において身動きの取れなくなった生物は死を待つばかりの存在であり、死とは彼らを創造した神がその魂を望んだ証拠に他ならない。ヒトも例外ではないだろう。役目を終えたら魂は天に、肉体は土に還る。つまり病気や怪我の治療による延命とは、ひいてはそれを行なう医学とは、人間が生み出してしまった神への反逆なのだ。 病院に忍び込み、〈死の執行人〉となろうとしているアルフィオは、ある意味では神の意思を伝える天使とも、それを信心深い人間に伝える司祭とも言えるのかも知れなかった。 心の臓が脈打つのが聞こえるようだった。一度大きく息を吸い、手元を安定させる。その姿を見ている者は居ない。 ターゲットは身の上話を続ける。 「私は一人の男として、養蜂家として……誇りを持って、幸せに生きた。二人の美しい娘と、宝物の孫が五人……」 マフィアという犯罪組織に加担した改悛者と呼ぶにはあまりにも平凡で、平穏な人生だ。 だが、ヒットマンはまたしても反応してしまった。しっかりと握り込んだピストルを構え、トリガーに指を掛けたまま、耳を澄ませる。力むあまり、手が固まってしまった。 「……ひとつだけ気がかりなのは、一番上の孫……彼は突然、居なくなってしまった。とても良い子だった」 告白を受け、アルフィオは思わず閉じた唇の内側で自身の舌を噛んだ。歯ぎしりを防ぐためだ。 「…………」 眉間に深い皺を刻む。灰色の虹彩を浮かべた白目が血走る。 患者の“アルフィオ”はそんな事など露知らず、途切れがちに話し続ける。 「恥ずかしがり屋だが、真面目で、敬虔で、この祖父(ノンノ)の……家族の誇りだった」 傍らに立っている方のアルフィオはピストルを構えた利き手にもう片方の手を添えた。意思とは関係なく、手が震え出したのだ。 「…………」 自分の体であるのに、言うことを聞かない。至近距離から合わせた照準がずれそうになる。強く舌を噛んだ。 「どれだけ探しても見つからない……可哀想に、暗闇に飲まれてしまったのか……」 降りしきる雨音にさえかき消されそうな声は弱々しく、今にも消え入りそうだ。 「ああ、神よ……みもとに行く前にどうか……」 力ない声を振り絞る。 「私の名前を付けた……可愛いアルフィオに、ひと目会わせてもらえないだろうか……」 次の瞬間、患者の呼吸が止まった。息を引き取る、という言葉通り、空気を吸い込んだまま、吐き出さなくなったのだ。 「…………」 アルフィオは咄嗟に身を乗り出し、ピストルから離した手でナースコールを押していた。 通話を終えたディエゴは、改めて時間を確認し、落ち着きを失ない始めていた。少し熱を持ったスマートフォンを両手で弄び、ハンドルに乗せた足首を回す。 降り始めた雨は強まる一方だった。エンジンを切った車内にはサンルーフやフロントガラスを打つ雨音が絶え間なく聞こえ、室温は徐々に下がっていた。 弄んでいた手を止め、マップアプリを開き、目的地を確認する。建物を現す位置には、丸のマークが表示されている。これはアルフィオの所在を表す。二○○四年に成立した動物保護法により、ペットにはマイクロチップの埋め込みが義務付けられていた。 しばらくその行方を眺めてみても、一箇所から動こうとしない。 「何やってるんだ、アイツ……」 思わず声に出した。 普段のアルフィオならば、とうに仕事を終えて、引き返して来ている。多くの人間と関わりを持つディエゴがビジネス・パートナーとして勧誘し、一層の信頼を寄せる有能なヒットマンだ。赤子の手をひねるような依頼をしくじるはずがない。今回のターゲットは、余命いくばくもない寝たきりの老人なのだ。 何度も見る画面に表示された時計は一向に進んでいないように思える。 いよいよ辛抱できなくなったディエゴは起き上がり、運転席のシートを起こした。キーをひねってエンジンを稼働させる。アクセルを踏み、ワイパーを動かしながら、愛車を発進させた。 胸騒ぎがする。何かあってからでは遅いのだ。 目的地の手前でヘッドライトを消し、徐行運転で車を近付ける。なるべく音を立てないように運転席のドアを開き、雨の中へ降りた。聞こえるのは降りしきる音だけだ。 病院の明かりは点いておらず、弱々しい街灯の光に浮かび上がった姿は、何とも不気味だ。ともすれば管理の行き届いた墓地の方がましに見える。幽霊の噂話を嘲笑った者ですら、良い気分では居られなかった。 念のため人目のない事を確認してから敷地に入り、裏手を目指す。建物の脇には大きな木があり、その下に人影が見えた気がした。 「アルフィオ」 ディエゴは小声で呼び、水たまりを跳ねさせないよう近寄った。木の幹に身を寄せ、隠れるようにしていたのはやはりパートナーだ。 「…………」 ピストルを握ったまま、アルフィオは怯えた表情で振り向いた。 「どうした? 何をしてる、もう仕事は終わったのか?」 訊ねても声による返事はなく、首を左右に振るだけだ。という事は、ターゲットはまだ生きている。 雨に打たれながら、辺りを見回した。人の気配もなく、飼い犬には怪我をしている様子もない。 見上げると、葉を落とした木の枝が触れそうな位置に窓があった。照明は点いていないが、この風雨だというのに開いてしまっているように見える。建物の構造を考えると、そこはターゲットの病室のはずだ。 あまりにも異常だ。 寝たきりの老人が窓を開けられるはずもなければ、同室の患者も、こんな時間に見舞いに来る相手もない。 予定ではアルフィオは裏口から回り込み、すぐにターゲットを射殺して、来た道を引き返しているはずなのだ。それが何故、ターゲットを殺す事はおろか病院にも入らず、雨に打たれて佇んでいるのか。 相変わらずアルフィオは動こうとしない。黙ってディエゴを見ている。唇が引き攣っていた。 「…………」 「おい、何をしてるんだよ、早くやっちまえ」 ターゲットではなく自分に向けられるまっすぐな視線に苛立ちを覚えるディエゴ。相手が何を考えているのか、把握できなかった。 わざわざタイミングを待っていたからこその今夜の依頼なのだ。早くしなければ、ここまでお膳立てした好機を逃してしまう。この程度の依頼を失敗したとあっては、クライアントに説明がつかない。 一度でも失なった信用を取り戻すのは至難の業であり、これまで築き上げてきた物さえ一瞬にして崩れてしまう。 「アルフィオ」 「…………」 もう一度名前を呼ぶが、やはり返事はおろか動く事もしない。 「……もういい、貸せ!」 しびれを切らしたディエゴは鋭く言い、硬直して唇を噛んでいるだけのヒットマンの手から、ピストルを奪い取った。上着をひるがえし、裏口へと向かう。逃亡したならまだしも、目の前で仕事をしくじらせるなど、許されなかった。 射撃には慣れていないが、初めてでもない。動けないターゲットを相手に、的を外せと言う方が難しい。 その視界を、黒い影が横切った。ディエゴが何事かと認識するより早く、腕が下方へと引っ張られる感覚がある。重い物をぶら下げられているようだった。 「…………」 見ると、目の前に回り込んで来たアルフィオが腕に取りすがり、濡れた髪を乱れさせて首を振っていた。 「何しやがる! アルフィオ、やめろ!」 ディエゴは怒鳴った。片腕を引いて身をよじり、揉み合う形になる。アルフィオはしつこく食い下がり、決して離れようとしない。 強く振り払おうとした拍子に、トリガーガードの内側に入れていた人差し指に力がこもる。ディエゴは勢い余ってトリガーを引いてしまった。 安全装置が解除されたままになっていたのだ。薬室に装填されていた銃弾が発射される。闇の中で、小さな光が炸裂したように見えた。 同時に、ピストルを持った手が反動で跳ね上がり、衝撃が腕から頭へと伝う。雨音すら聞こえなくなった。 「……ああ、クソッ!」 ディエゴはようやくグリップから手を離し、吐き捨てた。 銃弾は建物の土台となるコンクリートに飛んでいた。危うくアルフィオの脇腹をかすめて行ったのだ。 「…………」 死に損ないのアルフィオは前のめりの体勢になり、今にも泣き出しそうなほどに顔を歪め、見上げる。 その色白い頬を、ディエゴは渾身の力で張った。雨に濡れた、鈍い音がした。 「バカ野郎! なに考えてやがる! イカれちまったのか!」 怒号が飛ぶが、アルフィオは頬を押さえてじっと主人を見つめるだけだ。 ジャケットの胸倉を掴み、自分より大柄な体躯を揺するディエゴ。 「何で殴られたか分かるだろ! 言ってみろよ!」 「…………」 アルフィオは何も答えない。一心にディエゴを見続ける。 「なあ、お前のその目がムカつくんだよ!」 「…………」 濡れた前髪が顔に掛かり、片目を隠していた。長い睫毛を上げた眼窩から、青みががった灰色の瞳をまっすぐに向けられると、どんな罪も許してしまいそうになる。相手が悪くても、こちらが悪い気分にさせられるのだ。 泣きたいのはこちらの方だとでも言いたげに、ディエゴは訴えかける。 「どうしちまったんだ、アルフィオ! お前は殺ししか能のない奴だろ! それすらできなくなるなんて……」 雨音の中で、上方がやや騒がしくなった。人の話し声や、呼び掛ける声が聞こえる。 ディエゴは驚いて見上げた。先ほどの窓に明かりが点いている。仕事熱心とは程遠く、人材も不足しがちな病院の中で異変に気付いた者が居たらしい。 「……余計な事をしてくれたな」 恨みを込めてアルフィオを睨み付ける。 これ以上この場所に留まっているのは聡明ではない。集まる医師や看護師をかき分けて乗り込んでいく事もできない。殺人の目撃者は始末されるものだが、本来ならば人目のあるところで行なう事自体を避けるべきなのだ。 諦め、引き上げる他なかった。 これは有能なヒットマンの犯した、初めての失敗だ。ターゲットを殺しそこねた。仕事は終わっていないと分かっているのだろう、だから言葉を発する事ができずにいる。 土砂降りの雨が、髪から顔の凹凸を流れるように伝う。アルフィオは何も言わず、胸倉をつかんでいる手に自分の手を重ねた。 力を込めずにそっと引きはがすと、包み込むようにした手を裏返し、その甲に口付ける。唇の端に血が滲み出していた。ずぶ濡れの中で、芯まで冷え切った手と唇があった。 「…………」 いくら罵られようとも、彼の眼と態度が変わる事はない。 ディエゴは腕を振りほどき、イライラと自分の茶髪をかき上げ、もう一度吐き捨てた。 「……何なんだよ、クソッ!」 *** 言葉が戻ってくるのは、精神状態と環境次第だ。帰ってくるまでの車内では一言として発せられる事がなかった。 「ターゲットは……俺の祖父だった」 家に入り、口がきけるようになるや否や、アルフィオは伝えた。やや呂律が回っていない。 ずぶ濡れになった体は車に乗っている間にすっかり冷えてしまい、唇も色を失なっている。癖の弱い黒髪や服はまだ乾ききっておらず、まさしく雨に濡れた捨て犬のような有り様だ。 「……そうかよ」 ディエゴはわずかに間を空け、短く応じた。水を含んで重くなった上着を脱ぎ、ソファーに放り投げる。 そして顔を上げ、聞き返した。 「でも、それがどうした?」 その態度と言葉に、アルフィオは両目を大きく見開く。 「ま……まさか、知っていたのか? それでわざと、俺に事情を知らせず……」 「そんなはずねぇだろ。お前自身も言ってたじゃねぇか、よくある名前だって」 両腕を組み、顎を上げて相手を見据える。珍しくアルフィオの方が声を荒らげてしまう。 「ならどうして! よりによって、俺に、こんな仕事を……」 「仕事だからだよ。居場所を守るためだ。ターゲットに近い場所に居て、ピストルの扱いが得意なお前が適任だった」 一方で淡々と言い返すディエゴは、感情的に怒鳴っていたのとはまるで別人だ。 「なのに、何でジェペットを殺さなかった?」 リビングで立ったまま睨み合う二人。お互いに一歩も退こうとしない態度がぶつかり合う。初めて言葉を交わした日と違い、明らかな居心地の悪さと、嫌悪感があった。 仁王立ちになったディエゴが問い詰める。 「だいたい、写真を見ても気付かなかったクセに、何でお前の爺さんだって分かるんだ?」 「一度は病室に行った。もう意識が明瞭でなくて……譫言(うわごと)で聞いたんだ。十年以上会わずに、すっかり頼りなく、弱り切った姿を見ても……」 「死ぬのを待ってるだけなのは分かってただろ。そんな年寄りを背負って、シチリアに帰ろうってのか?」 アルフィオは視線を落とし、静かに答える。 「島には戻れない。……俺の目の前で、息を引き取った。死体を損壊する必要はない」 それを聞いたディエゴは眉を吊り上げた。 「本当か? なら、もう少し早く行ってりゃ仕留めてたんだな?」 「…………」 「答えろ、アルフィオ。でなきゃ話が変わってくる。一秒でも早く着いてたら、たとえ家族と分かってもその手で殺したんだろうな?」 アルフィオは肯定の返事ができなくなってしまう。話せるようになった事によって引き起こした失言だ。 「……家族と分かった以上……殺さなかったかも知れない」 次の瞬間、ディエゴは傍らのローテーブルを蹴り付けた。磁器のカップが跳ね上がり、ガラスの天板に落ちて耳障りな高い音を立てる。 「いい加減にしろよ! タマ無しの能無しが、ふざけんじゃねぇ!」 歯をむき出し、よく通る声が吠えた。 「動けない年寄り一人殺せないヒットマンがどこに居るんだよ! 自分の意思で故郷を捨てておいて、今さら家族だから殺せない? お前の血縁なんて知った事じゃねぇ!」 周囲の空気を震わせ、腹の底に響くような怒号が続く。 「セックスはやめても殺しの仕事は引き受けるって言ったんじゃねぇのかよ、大嘘つきの|松ぼっくり《ピノッキオ》め! やっぱりお前の言うことなんか真に受けるんじゃなかった!」 だがアルフィオも、今までのようにすくみ上がりはしなかった。頭ごなしの主張を受け入れる事ができないのだ。 「そ、そんな言い方をされるいわれはない! いくら仕事でも、実の祖父を殺せるはずないだろう! 身勝手なディエゴとは違うんだ! 家族を逆恨みするような奴に何が分かる、陰茎のことしか頭にないくせに(テスタ・ディ・ミーンキアッ)!」 飛び出したシチリア訛りに、ディエゴの表情が変わる。形の良いアーチを描く目を見開いた。 アルフィオがそんな言葉遣いをしたのは初めてだったのだ。 「家族や神を恨むなんて、はっきり言って異常だ。元はと言えばお前自身が彼らを裏切って、不用意に男と寝たからじゃないか! 自分ばかりが傷付けられたと思うな!」 普段はこもったように聞き取りづらい声の波長が伸び、責めるように続ける。 「体の相性が良かったというだけで、赤の他人を見逃した事もあるだろう! 裏切られて、傷付いて……睾丸で物を考えているからそうなるんだ! 十代から尻に突っ込まれて、まだ穴が満たされないのか、くそったれ!」 溜まりに溜まった不満のバケツをひっくり返し、文字通り浴びせるような罵声だった。 言葉で訴えているが、両手は今にも殴りかかりそうなのを堪えるように握り込んでいる。深い皺の寄った眉間の下で、次第に目が赤らみ、苦しげに潤み始める。 「欲のままに振る舞ってばかりで、居場所を見つけて愛されても、また遠ざけて……そんな選り好みする贅沢者に……都合の悪い事から目を背けてばかりのお前に、“家族”を責める権利があるのか?」 大声も罵倒も長くは続かず、途切れがちになり、最後は萎んでいくようだった。 不慣れながらも激しく主張するのを、ディエゴはじっと見ていた。 意外だったが、圧倒されたのではない。答えを探していたのだ。 「……理解できねぇよ、オレには」 静かな声で応じた。それから片手で目元を押さえ、顔を伏せて続ける。 「所詮お前もと同じってことだ。どれだけ愛し合って、いつか結婚したとしても……オレは誰とも、赤の他人だ。血の繋がりには敵わねぇ」 憎々しげな口調は、アルフィオ以外の相手をも含んだ対象に向けられたようだった。 はたと気が付くアルフィオ。感情的になったが緘黙はせず、代わりに息を乱れさせてしまっていた。 「だからこそ、俺たちは家族に、パートナーに、なったじゃないか……」 吐息のような声で反論した。 「俺を生かして、居場所を与えただろう……俺にとって、ディエゴが天使である事に変わりはない。血の繋がった家族でなくても、一緒に居たいと思う相手だ」 真剣な態度で続けられ、ディエゴは目元から手を離し、その顔を見上げる。あまり見せない悲しげな表情を浮かべていた。 「やっぱりイカれちまったな? オレの与えた仕事を蹴って、家族を庇ったじゃねぇか……それが何よりの証拠だ。脚の間に脳をぶら提げたホモ野郎より、大切だから」 「それは違う! 彼を庇ったんじゃない。お前を想って、やったんだ」 反論を続けるアルフィオの調子にまた力がこもる。 「他は何をしたっていい……売春だろうと賭博だろうと、クスリの密売をしたって、俺には関係がない。町を作れるほどの人数の男と寝た過去だって……俺の知るところじゃない」 目線をはずし、唇を噛む。先ほど咎めるようにしてしまったのは、つい口をついただけだと言う風だ。片手を腰に宛て、もう一方の手で前髪をつかむようにかき上げると、眉根が寄せられているのが分かった。 「ただ、人を殺した事は……一度も無いだろう」 静かに指摘され、ディエゴは不服そうに眉を歪めた。 「さっきは、お前が邪魔したから──」 「命を懸ければ稼ぎはよくなる。人脈も交渉術もあるなら、自分で殺しを請け負えばいい」 アルフィオは視線を戻し、前髪をつかんでいた手を離した。下りた黒髪が片目を隠す。 「だがディエゴは、銃をしまい込んだ事さえ忘れて……それでも生きる事ができるんだ。他に能力の無い人間とは違う」 ヒットマンとして生きる道を選んだ、否、選ばざるを得なかった身として断言する。その灰色の眼がディエゴを捕らえていた。 「今回は殺せなかった……だが他に必要な事は、すべて俺がやる! ディエゴが生きている間の罪は俺がかぶる! お前を愛していると気付いた時に、そう決めたんだ! だから……」 低く落ち着いた声まで、潤んで震えていた。その健気さは、見ている者に胸を掻きむしりたくなる衝動を与えるほどだ。 「ディエゴには、死を告げる天使になんて、なってほしくないんだ……」 さらにアルフィオはペンダントトップより下、心臓の辺りをつかむようにして続ける。 「お前を想うと苦しくなる。こんなにも強く、愛おしいという感情を知ったのは……お前に出会ったからだ。ディエゴは他人を生かす事を、生きる喜びを与える事を、知っているんだろう」 そして歩み寄り、主人に忠誠を誓うようにディエゴの目の前に膝を突いた。 「血縁と天秤に掛けるなんてできない。それほど愛してるんだ、ディエゴ……」 アルフィオが繰り返す。どもりはなく、ずっと言いたかった言葉をようやく口にできたとでも言いたげに。 ディエゴは堪らなくなったように両手で顔を覆い、そのまま湿った茶髪へ指を上げる。 「……分かった。それ以上言われるとおかしくなりそうだ……オレへの情熱的な気持ちは、本物なんだな」 すがり付くような体から半歩、後ずさる。シャツのボタンをはずしながら、リビングを出て廊下へつながるアーチへ向かった。 いつものようについて行こうとしたアルフィオを、振り向いて制する。 「そのままでいい。少し待ってろ、服も脱ぐな。ここから動くなよ」 そう命じ、ディエゴは廊下へと消えていった。 しばらくして戻ってきた彼の手にあったのは、一枚のカードと、すり切れるほど使い古したバッグだった。 「……ディエゴ?」 立ち上がって待っていたアルフィオが呼びかける。 と、ディエゴはそれらを投げるように叩き付けた。殴られたような重い痛みが鳩尾から腹に響く。反射的に受け止めてしまったバッグは重く、黴臭い。 歯を食いしばって顔をしかめ、暗い色のバッグを見下ろすアルフィオ。 中身は大金だった。この家のどこに隠してあったのか、形が変わるほど押し込まれた紙幣が、閉じきれないジッパーから顔をのぞかせている。 「カードはお前に作っておいた口座だ。いずれ渡そうと思ってた。それだけあればしばらくは困らねぇだろ」 はっきりと通る声が言った。業務的な調子だが、感情を押し殺しているのが伝わる。 アルフィオが戸惑うのを睨みながら、ディエゴは指を差して話し続ける。 「それからそっちの金はな、オレが若い頃に汚ねぇ事をして貯めた小遣いだ。盗み、脅し、クスリに女……稼ぐ為に何でもした」 バッグそのものにも、そこからはみ出した紙幣にも、汚れが付着している。 「知っている。だが過去は関係ないと……」 何とか話そうとするアルフィオの言葉をかき消すように、ついにディエゴが大声で喚く。 「オレが何を言ってるか分かるか? どうせ分からねぇんだろうなあ!」 ディエゴはこれまでに何度もこの言葉を、アルフィオに理解させるために訊ねてきた。自分が何を言っているのか、なぜ怒っているのか、なぜ殴ったのかと。 しかしアルフィオから返答が得られた試しは一度もなかったのだ。 「こんなオレが、天使であるわけがねぇって言ってんだよ! 何度言ったら覚えるんだ、クソ野郎!」 アルフィオという男がいかに正直者で、冗談を言う性格でないかは、ずっと一緒にいるディエゴが誰よりも理解している。向けられた言葉は本心で、真剣だった。 だからこそ腹が立つ。胸どころか体じゅうを血が出るまで掻きむしりたくなるような、虫唾が走る。 「仕事をしくじっておいて、愛するオレにも殺すなって? 愛なんか求めてねぇとも言ったはずだ、話の通じねぇ狂犬病の犬め!」 アルフィオの口走ったそれは、ディエゴにとっては脳の異常すら疑いたくなるような理由だったのだ。 これは意見の相違では収まらない問題だ。 自分は天使でも、福者でもない。愛もいらない。これまで何度となく伝えたことを理解しないばかりか、仕事の腕すらも失ない、事業の看板に泥を塗ったなど、許せるはずがなかった。 半狂乱になったディエゴは、バッグを抱えて呆然と立ち尽くすアルフィオを、玄関の方へと突き飛ばした。 「タマを潰しやがって(ロンペ・リ・コリョーニ)、身勝手だなんてどの口が言えたんだよ! 黙ってオレの言うことだけ聞いてりゃ良かったのに、あやつり人形より使えねぇ野郎だ!」 怒りに任せ、手当たり次第にリビングにある物をつかんで投げつける。 ソファーに置かれたブランケット、濡れたジャケットが飛ぶ。テレビのリモコンやカップ、暖炉の上に置かれたセダム・アドルフィの小さな鉢も。 リモコンのカバーがはずれ、カップと鉢は音を立てて割れる。 「ディエゴ、やめてくれ……」 アルフィオは片腕でバッグを抱え、もう片方の腕で頭を庇い、後ずさりする事しかできない。 その足元で多肉植物の葉は折れ、湿った土が叩きつけられ、残っていたコーヒーとともに床にぶちまけられた。 それでもディエゴは止まらず、駆け寄ると、その体につかみかかり、手術痕の残る脚を力任せに蹴った。 「うるせえ! 何が愛だ、キスだけで話せなくなる単純な情夫のくせに浮かれやがって! お前がゲイにならなきゃ、こんな事にもならずに済んだんじゃねぇか!」 筋肉に硬い革靴の底が刺さるようにくい込む。何度も跡が残るほど軋ませ、肉を押し潰そうとする。 腕力や体格の差を見ればアルフィオが圧倒的だが、反撃できるはずがない。そのままリビングの隅まで追い詰められ、動けなくなってしまった。 玄関扉の前で、ようやくディエゴの動きが止まる。 前を開いたシャツのはりつく腕を伸ばし、扉を大きく開けた。戻ってきたローマ郊外に、雨は降っていない。顎をくって命じる。 「出ていけ(ヴァッテネ)」 今までの激しさが嘘のように、冷えきった声だった。 「もう番犬でもペットでもねぇ……邪魔になるだけだ。そのムカつく(つら)も見たくない。どこへでも行っちまえ」 「…………」 逆らう事はおろか、名前を呼ぶ事さえ拒絶される空気を感じ取るアルフィオ。唇を引き結び、バッグを抱え直した。 ドン! と大きな音がする。 開いた扉が振動する。ディエゴが蹴りつけたのだ。 「耳が悪いから聞こえなかったか? オレが三つ数える前にここから出ていけ」 容赦なくカウントを始められ、アルフィオは従うしかなかった。この家では彼がルールなのだ。意思に反する体を何とか動かし、濡れた床にブーツの底を擦らせるように進む。 外には乾いた空気と夜の闇が広がっている。ディエゴはまっすぐにアルフィオを見ていた。初めて見せる、感情の読み取れない目をして。 ようやく家から出たアルフィオが振り返ると、その鼻先で扉が閉められた。寸前、ディエゴが言い放つ。 「お前もオレを裏切ったんだ……くたばれ、オオカミ(クレピ・イル・ルーポ)

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