16 / 21

第十五章 傾聴活動

ローマの中心部の街道を、一台のバイクが近付いてくる。シートにはヘルメットで顔を隠した若者が二人。コンパクトな車体は街乗りに適しているものの、二人乗りには向かない。それでも、彼らには二人で乗る理由があった。 運転手がそれとなく合図を送り、巧みなハンドル操作で歩道に近付く。その後ろで、同乗者は握っていたリアキャリアから片手を離し、わずかに体を傾けた。足を乗せるタンデムステップがなくとも、バランスを崩す事はない。実に自然で、慣れた動きだ。 前方には、歩道に一人で立ち尽くすアルフィオが居た。二人組は後ろから、その手にぶら提がったハンドバッグを目がけ、掠めそうな距離を通過する。次の瞬間、後ろに乗った若者はバッグのハンドルに手を掛けていた。 スリや詐欺集団と並び、人の集まる場所には付き物の犯罪、ひったくりだ。 閉め出されてからしばらくは、家の前に座り込んでいた。 いったい何が起こったのか、何故こんな状況になってしまったのか、アルフィオは理解ができなかったのだ。投げ付けられたハンドバッグを抱え、張られた頬を押さえて、呆然としていた。 煉瓦と木造を組み合わせて建てられた家は外観にも趣があり、古く、頑丈だ。近隣はすっかり寝静まり、言い争う声や陶器の鉢が割れる音を聞いて苦情を訴えてくる者は居なかった。 暗い町には今日に限って話し声はおろか、犬の鳴き声ひとつせず、孤独感を増させていた。 かつて称えられた忠犬フィドは、十四年もの間、毎日欠かさずバス停に通ってカルロ氏の帰りを待ち続けた。 その姿に胸を打たれ、哀れんだ人々が声をかける事もあっただろう。だが言葉を理解できない犬は、恐らく自身の命が尽きる間際まで、主人の死を知らなかったに違いない。 ディエゴがすぐに命令を撤回し、迎えに出て来るような性分でないのは、アルフィオにも分かっていた。 喜怒哀楽が激しく、変わりやすい気分の持ち主だったが、自身の人生へのこだわりも強く持っていたのだ。暮らし方や付き合う相手、身の回りに置くもの、信じる道など、人生を謳歌するために自分の意思で選び取ってきた。他人がどれだけ口をはさもうと、説得を試みようと、頑なに意見を曲げようとしなかった。 一方で、その人生を脅かし、裏切りとさえ呼んだ相手に対しては、十年以上の時が経っても忌み嫌い、恨み続けているのだ。たった一、二時間で心変わりをして、許すはずがない。自分が間違っていたなどと認める事すらしないだろう。 それでもアルフィオは、閉じられた扉を見つめる事しかできずにいた。 やがて、遠くの空が白み始めた。気付かぬうちに辺りは薄明るくなり、町並みも目で見て分かるようになっていた。日が昇ろうとしているのだ。 夜明け前は一日の中でも最も気温が低くなる時間帯だ。気候は秋を深め、今年はさらに、例年の平均気温を下回っていた。 雨に濡れた衣服が乾き、徐々に体温を奪い始めていた。尻臀の下にある硬く、冷え切った石畳も体を蝕むようにして熱を奪う。 アルフィオは無意識のうちに空いた手を何度も握り込み、指先を動かしていた。 過去から語り継がれる忠犬たちは、主人の帰りを待つうちに歳を取り、死んでしまった。そうなっては元も子もない。ディエゴが生かした命を、むざむざ凍死させてしまっては、それこそ〈忠犬〉の名がすたるというものだ。 自分の体を抱くようにしていたアルフィオの耳に、車のエンジンとタイヤの音が近付いてきた。近所の住民のものでも、町の廃品回収車のものでもないと分かる。 ひとまず立ち上がり、家の脇へ回り込んだ。建物の陰に身を隠し、玄関の方を覗き込んで様子をうかがう。 夜明けと共に石畳の道を走って来るのは、一台の乗用車だった。これと言った特徴のない国産のコンパクトカーで、カラーリングも含め、街中ではよく見かけるデザインだ。運転席に乗っている人物までは、アルフィオからは見えない。 車は、ディエゴの家の前で停まった。 クラクションが軽い音で鳴らされる。まるで中にいる家主に、親しげに呼び掛けるように。 しかし、すぐに彼が出てくる様子はなかった。 アルフィオは一度引っ込み、なるべく足音を立てないよう煉瓦造りの壁沿いに歩いた。壁に作られた窓からリビングが覗けると踏んだのだ。 が、窓はおろかその奥のカーテンも夜から閉め切られたままで、中の様子を知る事はできそうにない。 「……くそっ」 覚えず、小さくこぼすアルフィオ。主人がよく口にしていたフレーズだった。 今度はクラクションが二度鳴らされる。 ひょっとすると、ディエゴは眠っているのかも知れない。 使いものにならなくなったパートナーを追い出し、荒らしてしまったリビングの掃除と、必要な連絡を取り終えてからは、広くなったダブルベッドにもぐり込んでいても不思議はない。 そう考えてベッドルームのある辺りへ向かったが、やはりその窓からも中を見る事は不可能だった。 今回のようなケースで、ディエゴがどのような行動に出るべきなのか、アルフィオは知らなかった。 仲介業者として依頼人(クライアント)へ仕事の結果をありのまま伝えるのか、はたまたディエゴ自身が標的(ターゲット)の死を確認していない以上、他の殺し屋(ヒットマン)に連絡をする必要があるのか。ビジネス・パートナーであっても、ただ契約を結んだに過ぎない身では知り得なかった。 これまでは、与えられるものさえ享受していれば良かったのだ。いかなる仕事であろうと、終えれば眠っていたものだ。 玄関の方で、車のドアが閉められる大きな音がした。 「おはよう、ディエゴ!」 続いて、快活な声が呼びかけた。壮年の男性らしい。 「もう家の前に居るよ、お寝坊さん(ドルミリョーネ)? ほら、早く扉を開けてみて!」 さらに一方的な話し声が続く。どうやら家の中に向けて電話をかけているようだった。 それを聞きつけ、アルフィオは思わず眉間に皺を刻んだ。不可解な出来事に、不快感と不信感を覚えたのだ。 翌日の早朝から用事を控えているなどと、昨日の時点でディエゴが言っていた記憶はない。ルームメイトでもあるアルフィオに告げていなかったのは、突如決定したからではないか。 ディエゴの言葉を思い出そうと、記憶を反芻するアルフィオ。 『帰ったら直接聴かせてやる』 そして、頭の中に不吉な考えが広がった。 パートナーを追い出した後になって、予定していた機会を失なった事に、ディエゴは気付いたのだろう。 訪ねて来たのは、そんな彼に呼び付けられた相手かも知れない。夜明けと同時に家を訪ねるなど、どちらにとってもよほど深い仲でなければ付かない都合ではないか。 となると、今から起こる事は考えるまでもない。 アルフィオは居ても立ってもいられず、背中を向けて走り出した。 もちろん、行く宛などあるはずもない。だが一刻も早く、その場を離れたくなったのだ。ディエゴが次にどのような行動に出るのか、想像しそうになるのを振り切ろうとしていた。 訪ねて来たその顔をひと目見てやろうなどという気概など、臆病な犬には起こらなかった。 「だから賭博はしないと言ったんだ……」 悔しげにつぶやく事しかできなかった。 通りを南下すると、鉄道の線路に差し掛かった。線路沿いに設置された鉄柵に行く手を遮られる形になっており、進むなら東西のどちらかしかない。 遮断機のない踏切を渡ったところで、向こう側には公園、駐車場、そして軍用飛行場と、平面的な土地が広がるばかりだ。 アルフィオは一度足を止め、来た道を振り返った。 近郊型の集落に高い建物は少なく、遮られる事のない朝日を受け、辺りは黄色味を帯びたオレンジ色に染まっている。 アパートと一軒家が建ち並び、飲食をはじめとしたサービスを提供する店舗があり、広場や教会がある。学校や駅にはまだ人の姿のない時間帯にも、人々の暮らす気配が感じられた。 作家であり映画監督でもあったピエル・パオロ・パゾリーニによって第二次世界大戦後のスラムとして描かれた町も、一九六一年にはひとつの地区となった。今や戦争の爪痕など見当たらない。 助手席の窓からいつも見ていたはずの景色は、まったく知らない土地のようだった。 外に出られるようになっても、大抵は車での移動であり、自分の足で近所を歩く機会がなかった事に、アルフィオはようやく気付く。 「…………」 大きく息を吸った。 ふたたび、捨て犬に戻ってしまったのだ。 何処へ行くのも、何をするのも一緒だった主人はもう居ない。 さながら高速道路に置き去りにされた犬のように、これから先どうすれば良いのか、見当もつかなかった。 すぐ脇の車道を、車が通過する。黒と白の大型犬は歩道に立ってそれを見ていた。足元は何度も足を取られそうになった石畳から、アスファルトで舗装されたものに変わっていた。 左手に線路を見る形で道なりに行けば、やがてマッジョーレ門が現れ、その先のテルミニ駅に着くだろう。古代ローマ時代の城壁に囲まれた都市部の玄関口だ。 アルフィオは太陽に背を向ける形で、その道を歩く事にした。ディエゴの元に戻ったとしても、受け入れられる事はないだろう。この町もまた、居場所ではなくなってしまったのだ。 大金の入ったバッグを抱えたまま、一人、歩き始めた。 すべての道はローマに続く、と言われている。 その言葉通り、西へ向かって二時間と経たず、都市部にたどり着いていた。 これまでは助手席に座り、カーラジオを聴きながら窓の外を眺めていれば済んだものだが、それでなくともオオカミにとっては造作もない距離だ。 そんな一匹狼の旅路を実現したのは、一度ぐちゃぐちゃに折られ、ネジやプレートを組み込まれようとも復活してみせた自慢の脚であった。 午前九時を過ぎれば、すでに街は活気よく動き始めていた。 自転車や自動二輪車、タクシー、バスが公道を行き交い、自家用車は縦列に並び、業務用のバンがその脇をすり抜ける。 長い歴史を持つ遺跡で作られた街には、焼きたてのパンやコーヒーの香りが立ち込め、色とりどりの花やジェラートが陳列されている。ブティックのショーウィンドウに飾られたマネキンは冬の装いに身を包み、十二月を待ちわびているようだった。 行きつけのバールに立ち寄り、朝食をとり、あるいはエスプレッソをすするカップル。連れ立って駅へ向かうスーツ姿の男たち。ベンチに腰を下ろし、タバッキで購入した新聞を読む中年の男。犬の散歩をしている白髪の老婦人と、開店準備をしながら立ち話をする若い店員。市場で購入したらしい花束を大切そうに抱えて歩くシスター。永遠の都を余すところなく満喫しようと意気込む華やかな身なりの観光客。路上に座り込んで施しを受けるホームレス…… いつも通りの景色があった。 そんな中でアルフィオだけが、やはりどう振る舞うべきなのか分からずにいた。 歩いているうちに平静を取り戻せるほど単純な状況ではなく、考えようにも、大きなショックを与えられたように頭が働かない。経験した事のない出来事の連続で理解が追い付かず、肉体と精神の両方が疲弊してしまっていた。 冷静になるどころか、気がかりな事はむしろ増えていた。昨夜のターゲットについてだ。 あの後、看護師や医師が駆け付けて蘇生措置が取られたのか、その甲斐なく息を引き取ったのかも、アルフィオには知る術がない。 もしも蘇生しているならば、ディエゴの言った通り、老いた体を背負って故郷に帰る事も、確かに不可能ではないのかも知れない。残りわずかな余生をシチリア島で過ごす事を、本人が望むなら。 「爺さん(ノンノ)……」 アルフィオは小さくつぶやいてみた。 島を離れてから、十五年が経とうとしている。その間一度も呼ばなかったその言葉を口にするには、遅すぎるように思えた。 パリオネ地区にあるナヴォーナ広場まで歩き、噴水の近くの給水所で水を飲んだ。 かつて戦車の闘技場だった特徴的な形の広場には、巨大な彫像を飾った三つの噴水がある。中でも取り分け大きな四大河の噴水は、スペイン広場にある舟の噴水と同じく、巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが手掛けた物だ。 アルフィオはそこで初めて、仕事に行く前に飲んだコーヒーを最後に、何も口にしていない事に気が付いた。ゆうに九時間が経過している。 空腹は一度自覚すると、落ち着きを失なわせる。飢えは生き物にとって危機そのものであり、だからこそ野生動物に狩りは欠かせない。獲物を求めている最中に気が立つのは、当然の反応なのだ。 もちろん人間も例外ではなく、食事というのは生を謳歌するために特に重きを置くべきものだ。愛や歌と並んで楽しみの一つと見つけ出した国民にとって、疎かにする事は文字通りの死活問題となる。 歌や踊りが得意でないアルフィオにとっても、それは同じだった。 広場の中にもバールやカフェ、リストランテが軒を連ね、飲食に不自由する事はない。巨匠の名を冠するリストランテもあり、テラス席では景色と食事を楽しむ人々が居た。他にもパフォーマンスを披露する大道芸人や、手作りの商品を広げた露天商が日銭を稼いでいる。 著名な観光地はどこも人で賑わい、警備員と車両が配置されている。だがその間を縫うようにして働き、稼ぎを得るのが、犯罪者たちだ。 景観に夢中になった隙を狙ったスリや開放的な座席での置き引きなど、大勢の目を盗むその手口は鮮やかとさえ表現される。 アルフィオは一度広場を出、また通りを歩きながら、今度は食事をどうするのかも含めて考えなければならなかった。 ディエゴの居ない夜、一人で食事をする機会はままあったが、外食では常に一緒だったと言っても過言ではない。最後に一人きりで食事に出たのは、ファミリーを離れる前という事になる。 たった七ヶ月、されど七ヶ月だ。手に入れたと思った途端に失なってしまったディエゴの存在が如何に大きなものだったかを痛感せずにいられない。 空腹の野良犬は何に意識を向けるべきか、判断できなくなっていた。そこで、ひったくりに狙われてしまったのだ。 バッグをつかまれた事に気付いたアルフィオは反射的に、進行方向へ体をねじっていた。相手の動きには逆らわず、切れてしまいそうな革のハンドルを握っている片手だけに力を込める。 ひったくりの手口は実に唐突で強引であり、間が悪ければ強盗にもなり得た。ショルダーバッグを奪われそうになった被害者の体にストラップが絡まって転倒し、そのままバイクに引きずられて大怪我をする事故も起きている。 だが、離すわけにはいかなかった。 まだ十代だった哀れな少年が、血の滲む死線をくぐり抜けて貯めた金が入っているのだ。もちろんアルフィオは当時の様子を知り得もしないが、押し込まれた紙幣が物語っている。 離れていくバイクの速度と遠心力を利用し、踏ん張った片脚を軸に体をひるがえす。その拍子に親指側へ強く引き付けると、相手の手は簡単に離れた。 「…………」 アルフィオは歯を食いしばり、そのまま通りに背を向け、バッグを抱きかかえる体勢になった。大きな体で覆い隠すように、その場にうずくまる。 バイクに乗った二人組は、獲物を逃しても特に悔しがる素振りも見せず、何事も無かったかのように走り去って行った。 たとえか弱い淑女であろうと、屈強な大男であろうと、外国人観光客であろうと、地元住民であろうと関係はない。警戒心の薄い者が、ターゲットとなり得るのだ。 「泥棒だ! つかまえろ!」などと叫ぶ声もまた、日常的な光景のひとつだとでも言いたげに、街中に響く。 アルフィオは地面に片手を突いて起き上がると、バッグをかき抱いたまま、その場から駆け出した。 そのような目に遭ってようやく、茫然自失の状態から我に還ったようだった。どこか現実離れしていたところから、バッグと共に引き戻されていた。 人目を避けるように細い路地に逃げ込み、真っ先にした事は、手荷物の確認だった。 ディエゴから投げ付けられた薄汚ないハンドバッグと一枚のカード、ディエゴから奪い返したままにしていた一丁のピストル、ディエゴとの連絡用に持たされたひび割れたスマートフォン。 野良犬の荷物は、それだけだった。 追い出された着の身着のままのそれも、ディエゴに買い与えられた服と靴だ。ゴールドのペンダントさえ、ディエゴと初めてこの都市部に来た際に、彼の友人からプレゼントされた物なのだ。 アルフィオは何度も背後を確認し、警戒しながら押し込まれていた紙幣を整頓する。 小遣いと呼ぶには多すぎる額と分かっていたが、機関に預けるのははばかられた。 堅実とは言い難い彼がなぜ使わずに置いていたのかは不明だ。だが、空き巣さえ珍しくないと言うのに、家の中を知り尽くした飼い犬ですら見つけられない場所に、現金という形のまま隠されていたのだ。持ち主にとっては、金額以上に特別な意味を持つ財産に違いない。 アルフィオの認識を改めさせるために持たせたのだとしても、耳を揃えてディエゴに返す必要性を感じた。 ピストルは当面の間、使う機会がなさそうだった。未遂に終わったひったくり犯にかまけている余裕など今のアルフィオにはなく、ましてや射殺するまでもない。 銃弾の残ったマガジンを抜き取り、整頓した紙幣と一緒に、バッグにしまい込んだ。発射する物を失ない、ただの金属の塊となったピストルはシャツの下に忍ばせる。 丁寧に扱えば、バッグのジッパーは指一本分の隙間もなく閉じる事ができた。ハンドルの長さを調整して腕を通し、脇に挟むようにする。 そして、カードの裏には五桁の数字を書いた小さなメモが貼られていた。 『29780』 声には出さず、一文字ずつ目の動きだけで確認するアルフィオ。 それが口座から預金を引き出すための番号である事は分かる。だが並んだ数字が特別な意味を持つのか、容易に推測されないようでたらめに決められたものなのかは分からなかった。 そのカードが繋がる口座には、口に出して桁を数えるまでもなく、ヴィンテージスポーツカーを落札できるほどの額があった。ひと乗りして辺りを回れば、町中の羨望の眼差しを集める事ができるだろう。 しかし多くの人間と違って見た目や乗り物に頓着しない者にとっては、当面の食事代さえあれば充分だった。引き出した紙幣を折り畳み、ジャケットの内ポケットに押し込んだ。 広い通りに出ると、街の景観の中に突如として遺跡が現れる。トッレ・アルジェンティーナ広場だ。 アルフィオは、そこで見覚えのある小柄な人影を目にした。 「チェチーリア?」 広場を囲う柵に背を預けるようにして、ディエゴが母親(マンマ)と呼び慕う老婆が座っていたのだ。 「聞き覚えがある声ね……誰だったかしら?」 首を振り、周囲を探すチェチーリアに歩み寄る。 「アルフィオだ。十日ほど前に会った……」 「まあ、大きい仔犬ちゃん? こんな所で会うなんて」 目を閉じたまま顔を上げたが、どこか不安げな様子で、手をさまよわせている。 アルフィオが何も言わずその手を握ると、途端に表情が和らいだ。黒い肌には幾筋もの皺が刻まれ、細い骨が浮き上がっていた。 「ここに来たってことは──」 「いいや、買い物に来たんじゃない。たまたま通りかかって……」 アルフィオは首を振った。 往々にして、息子たちが彼女の元を訪れるのは情報を得るためだ。しかし今はその限りではない。 「猫が好きだったのね? ええ、そうに違いない!」 構わず、嬉しそうに確認するチェチーリア。 「きょうは真っ黒なかわい子ちゃんたちの日だから、彼女たちを助けに来たの?」 「どういう事だ?」 聞き返すと、彼女はにこやかに自身の傍らを指した。アルフィオから見てちょうど陰になるように、街に暮らす猫が数匹、休んでいる。 「そこではボランティア活動もしているそうよ。署名や寄付を募ってる」 チェチーリアが広場を指して続けた。手を握ったまま姿勢を起こし、柵から半地下になっている広場を見渡すアルフィオ。 遺跡には四つの神殿跡と、五賢帝時代の英雄カエサルが刺殺されたポンペイウス劇場の一部が含まれている。歴史的建造物を保存するための改装中で、立ち入る事はできない。 だが石や煉瓦で造られた遺跡の複雑に入り組んだ形は、猫にとって格好の遊び場らしい。人間の手の届かない場所で思い思いに過ごす自由猫のコロニーが確認できた。 ここには、保護された猫のシェルターがあるのだ。広場の隅の階段を下りた地下施設では二百匹を超える猫が飼育され、新たな飼い主との出会いを待っている。まさしく猫の聖地だとチェチーリアは話した。 「……今の俺には、仔猫一匹助けられる気がしない」 知った顔に出会った事で、つい本音がこぼれてしまう。捨て犬同然の身の上では、捨てられた猫に共感する事はできても、それ以上の行ないはできそうになかった。 するとチェチーリアは隣を示し、座るようにうながした。 「自分にできる事をすれば良いの。あとは神が何とかしてくれる」 「俺にできる事は……何もない。ただでさえ能がないのに、これまでできていた事すらできなくなってしまったんだ」 腰を下ろしたアルフィオはそう打ち明け、うなだれた。 「生きてさえいれば良いのよ。命がある限り、希望はあるのだから(フィンケ・チェ・ヴィタ・チェ・スペランツァ)」 老婆は優しく言い、細腕を伸ばして大きな仔犬を撫でた。 「つらい事があっても笑うようにしなきゃ。笑顔が良い血を作るの」 爪の黒くなった指先が触れ、強ばった白い頬を押し上げる。引き攣ったような唇から歯が覗く、歪な表情になる。まるで魔術で操られているように。 「…………」 されるがまま、アルフィオはチェチーリアに目を向けていた。黒猫を可愛がりこそすれ魔女とは呼びがたいその穏やかな笑みを見ると、逆の頬に痣がある事を話す気になれなかった。 不意に、視界の端に小さなパネッテリアが映る。 「ここで待っていてくれるか? すぐ戻る」 いつかのディエゴがそうしていたようにアルフィオは、二人分以上の数のサンドイッチを買い込み、チェチーリアに手渡した。 「一人で食事をすると、一人で死んでしまうらしい。……俺は、そうはなりたくない」 真剣な声を聞くなり、彼女は声を立てて笑った。 「やっぱり大きい仔犬ちゃんは怖がりね! それは昔の人の言葉。迷信でもないし、平気よ」 傍らで寝ている猫たちは耳を動かすだけで、起き上がろうとはしない。 日が傾くまで、アルフィオはチェチーリアと共に過ごした。 一人前以上のサンドイッチを平らげると、張り詰めていた糸が切れたように、動けなくなってしまったのだ。 バッグを抱えて街中で目を閉じるなど、置き引き犯にみずから差し出しているようなものだ。だが着の身着のままの二人はさしずめホームレスの親子といったところで、白昼の大通りに居るだけでは、何者にも襲われる事はなかった。 時おり人懐っこい街の猫がやって来ては、チェチーリアのそばでアルフィオと同じように休んだ。 他にも、慣れた様子で彼女に声をかけ、見慣れぬ大型犬を一瞥してから、少額の紙幣を渡して去っていく若者や、余ったサンドイッチを求めてくるホームレスも数人居た。 猫を追いかけてきた小さな子供は親に連れ戻され、素早くその場から離れて行った。 そんな事など知らず、アルフィオは眠り続けた。日中の気温は二十度前後と、非常に過ごしやすい日だった。 彼らが目を覚ましてからも、チェチーリアは動こうとしなかった。目を閉じ、町を感じ取っている。穏やかな笑みを浮かべた様子は、観察すると言うよりも、見守っているように見えた。 「…………」 その隣で、アルフィオもただ座っていた。どのみち行く所も、やるべき事もないのだ。 生きてさえいればいい。自分にできる事をしておけば、あとは神なる存在が何とかしてくれる。 そうチェチーリアは言った。 得体が知れないがゆえに、人は死を怖れる。 自身の理解を超えた存在に対する恐怖や苦痛、不安を取り除くために何か絶対的な対象を据え、それを信じるのが信仰だ。 その信仰対象を一般的に神と呼び、共通の信仰対象を崇め、いつからか定められた教えとそれに則って活動する事を宗教と呼ぶ。宗教は時に心の支えとなり、時に生き方の指針となる。 今のアルフィオには、ローマのありとあらゆる場所に建てられたどの教会へも、行く気になれなかった。 心の拠り所とまで呼んだ十字架のペンダントは今も首に掛かり、服の中に忍ばされている。しかし、聖書を毎日読み、日曜日になれば教会へ足を運び、復活祭(パスクア)の前には断食までしていた生活からは、あまりにもかけ離れてしまっていた。 ただぼんやりと道端に座り、通りを行き交う人々を眺め、情報屋との売買ではなく、人生の先を行く老女との抽象的な会話を交わした。 そうしながら、アルフィオはこれまでに経験した事のない時間の流れを感じていた。 腰の曲がった痩せぎすの体を支え、以前彼女と出会った通りに送り届ける頃には、街灯が点り始めていた。 薄暗い一角に、汚れた毛布や僅かな衣類、アルミ製の食器が袋や段ボール箱に入れられ、積まれている。目に傷を持つ黒猫が、すぐ脇の壊れかかったプラスチックケースの上で彼女の帰りを待っていた。 「……師事したいくらいだ」 黒猫を抱き上げ、入れ替わるように箱に腰を下ろす動作に、アルフィオが言った。 それを聞いたチェチーリアが顔を上げる。 「大きい仔犬ちゃんは、まだ持っている物が多すぎるみたい」 「持っている物? 俺にはバッグひとつしかないが……」 アルフィオは素直に持ち物を確認する。市場を回り、両手いっぱいに買い物袋を提げていた日とは比べ物にならない量だった。 「すべてを失なってから、初めて“見える”物もあるの」 諭すように言うチェチーリア。 「生徒になろうなんて、気が早い。あなたたちはまだ若いし、多くの時間を持っているのでしょう」 出会った時こそアルフィオのことを含めて息子のように呼んだが、今日一日の彼に対する口調は、その端々に少しだけ距離を感じさせるものだった。 「年老いて誰かの助けを待っているのじゃなく、できる事をしなきゃ」 「それは、分かっているんだが……」 アルフィオはバッグを肩にかけ直し、小さな声で返事をした。やるべき事を失なった現実に向き合わなければならない時が、ふたたび迫っていた。 猫を愛するチェチーリアは助言をするかのように、コロッセオの周辺にも、自由猫と彼ら彼女らの世話をするボランティアチームがあると教えた。 それを聞いたアルフィオが思い出したのは、コロッセオの裏手、ゲイ・ストリートだった。 月の出る時間、すなわち夜にならなければ、くだんのクラブは開かない。 また一人になったアルフィオは、テベレ川に架かる橋の上から水面に映る街を眺めていた。バッグをしっかりと肩に掛け、奪われる事の無いようにしながら。 アペリチェーナの時間になると、仕事を終えた人々が街へ出てきては、朝と同じようにそれぞれの馴染みのバールへと入っていった。それは食前酒(アペリティーボ)夕食(チェーナ)を合わせたもので、ビュッフェ形式の軽食をつまみながら酒を交し、会話を楽しむ、近年流行している新しい習慣だ。 いずれにしても長らくマフィアグループのヒットマンとして孤高に過ごし、その後も物置部屋暮らしの室内犬だったアルフィオには馴染みがない。 そうして時間を持て余し、動くようになった頭の中に思いだけを巡らせている内、美しくも奇妙な別世界に迷い込んでしまったような感覚に陥っていた。 都市部には幾度となく訪れていると言うのに、やはりここも、記憶の中とはあまりにも違い過ぎている。 「ああ……」 欄干に腕を乗せ、詠嘆の声を漏らした。違和感の正体を思い出したのだ。 これまで目にした景色の中には、常にディエゴの存在があった。 楽しそうに笑い、突然怒り出し、真剣に品物を選ぶ横顔を憶えている。一緒に買い物に来た時でさえ、商品ではなく彼の姿ばかり目で追いかけていたのだ。馴染みの顔ぶれに声をかけ、子供に手を振り、アルフィオのほうを向いて何か話していた姿が浮かんでは消えてゆく。 芸術と食に彩られた歴史の町。仔猫さえも幸せそうな中で、孤高を気取る一匹狼と呼ばれたアルフィオは、孤独を感じずには居られなかった。 独りで思い詰めたように水面を見つめている彼に気付いて声をかける者ももちろん居たが、短く返事をする事しかできなかった。 ゲイ・ストリートは、コロッセオとラテラノ大聖堂を結ぶ通りの一部だ。ローマ教皇座の置かれる大聖堂は、正式にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノと言い、ラテラノ宮殿が隣接する。 平日の夜は、そんな(サン)ジョバンニ・イン・ラテラノ通りも、やや閑散としていた。 『キアーロ』の看板を見つけ出し、中に入ったアルフィオは、その場に立ち尽くしてしまう。 店内の客の入りもまばらかと思いきや、いつもと同じように賑わい、男性性を強調する熱気と匂いと音楽に満ちていた。 これまでは遊び慣れたディエゴが一緒に居た。独りでは人と人との間をすり抜ける事も、人の波に乗って踊る事もできない。店内に入ってすぐに向かっていたカウンターも今は見えないほど遠く、暗く、人の顔もほとんど分からなかった。 ダンスフロアに踏み込んだ途端、尻に人の手の感触が当たる。偶然ではなく、確かな意思が滲んでいた。 驚くと同時に、アルフィオはその腕をつかんでいた。肉付きがよく、カールした腕毛に包まれた太い手首だ。 振り向くと、見知らぬ男が頬を上気させていた。やや小太りで、刈った黒髪から、同じ色の髭が輪郭に沿って繋がっている。 「驚いた。すごい反応だね」 相手に悪意は無いようだったが、暗い中でも細い目がぎら付く。 「ああ、いや……その……」 しどろもどろに答えながらアルフィオはつかんでいた手を離し、身を躱そうとする。だが男は肉付きの良い短躯を自慢げに寄せてきた。 「誰かと待ち合わせ? それまで一緒に踊ってよ」 「踊りは得意じゃないんだ」 アルフィオははっきりと告げ、きびすを返した。 出入り口まで戻り、人の流れを塞がないよう脇の壁に背中をくっつけ、マネキンのふりをする。 音楽に合わせて人が飛び跳ね、その揺れが傷の残る膝や首の後ろを伝い、頭へと響いてくる。むせ返るような熱気と、充満するアルコールの匂いは強烈で、それだけで軽く眩暈がするほどだった。 「白いオオカミ野郎じゃない。週末でもないのに珍しい!」 聞き覚えのある声と呼び方をして来たのは、店長のパオラだった。 「壁から背中が取れなくなっちゃったの?」 今夜も胸元の開いたシャツを着、自慢の胸毛を見せている。 追い出される際に見たディエゴもシャツの前を開いていたが、湿った肌には薄らと筋肉が浮き上がっているばかりで、毛は一本も生えていなかった。 無意識に比べてしまいながらも、アルフィオはいつの間にか険しくなっていた眉間から力が抜けるのを自覚する。 「いいや、そんな事はない。会えて良かった、パオラ」 すんなりと自身の口から出てきた言葉に、内心驚いていた。挨拶すらもまともにできないとは、いつ、誰に言われたのだったか。 「ウサギ野郎はどこ? トイレ?」 知った顔を見つけた安堵感はチェチーリアのそれと似ていたが、彼女と違い、パオラはアルフィオという客をディエゴの連れ合いとして認識しているらしい。 「ディエゴなら……今夜は居ない」 「へえ、一人で来たって言うの! ますます珍しい事ね!」 パオラは聞き返しながら、平然と人の間をすり抜ける。やっとアルフィオは壁から体を離し、その後に続く事ができた。クロークに手荷物を預けようともせず、何度か人の足を踏み、つまずきながら。 カウンターの中へ戻るパオラの背中を見送り、上にあるドリンクメニューを見た。酒が飲めないアルフィオのために、ディエゴはいつも適当なノンアルコールドリンクを注文していた。それさえも、自力でしなければならないのだ。 「あいつのことだから、今ごろ新しい男、連れ込んでるんじゃない?」 冗談めかして言ってくるパオラだったが、 「新しい男を連れてくるのは日常だった。俺が居ても、居なくても……」 アルフィオが冷静に返すと、不思議そうにする。 「そうなの? 家に連れ込むのは日常かも知れないけど……あんな風に店に連れてきたのは、あんたが初めてだったのに」 くだんの〈ウサギ男〉にとって、このストリートのみならず、どこかで出会った相手と一夜を共にしたり、しばらく関係を持ち続けたりする事は、確かに日常だった。 そんな彼が、わざわざ自身の馴染みであるキアーロをはじめ、狩場とも言えるストリートに特定の相手として連れてきたのはアルフィオが初めてだったと言うのだ。 自慢の芸術品を見せびらかすように紹介していたその様子が、古馴染みの目には意外に映ったという。 それを受けて、アルフィオは初めて他人に状況を打ち明ける。 「実は今朝……追い出されてしまったんだ。ムカつく顔も見たくないと」 「そうなの? それで新しい〈青い王子〉を探しに来たってわけ」 「違う。ただ、どこに行けばいいのか分からなくて……他に行く所が無いんだ。ディエゴに捨てられたら、俺は……」 「あら……」 パオラは神妙な面持ちを浮かべたが、次の瞬間には笑いだした。 驚くアルフィオをよそに、カウンターに着いていた別の客に声をかける。 「ねえ! この人もウサギ野郎に遊ばれたんですって!」 彼女が楽しそうに声をかけたのは、アルフィオと同い年くらいの客だった。グラスを持って距離を詰めてくると、暗い色の髪に、ブルーの瞳をしているのが分かる。 「やあ、ドナテロだ。お互いに災難だったね」 ドナテロと名乗った男は片手を上げて軽く挨拶をし、グラスを近付けてくる。が、アルフィオの手元にはまだ何も無い。 パオラはその注文を待つ様子でカウンターに手を突いた。 「何であんなウサギ野郎に入れ込めるのか……」 「見た目もゲイらしくないし、新鮮なんだ。それに挑発的なところがセクシーだよ。少なくとも僕にはそう思えちゃった」 答えるドナテロに、冷やかすように目を細め、片眉を跳ね上げるパオラ。 「情熱的って口癖みたいに言ってるものね。確かにホットだけど、寝るのは一回が限界じゃない?」 「|その通りだね《キアーロ》、あとは友達でいい」 同調し、顔の高さで手の人差し指と中指を折り曲げるドナテロ。 「恋人になるなんて身がもたないや」 それを聞き、顔を上げたアルフィオの表情を見たパオラがまた笑った。 「何て顔してるの、オオカミ野郎! 捨てられた犬みたいじゃない」 アルフィオは片手で自身の顔を触る。どのような有様になっているのか、鏡でも無ければ分からない。ただ張られた頬に痛みがぶり返した。 「心配しなくても、このパオラはウサギ野郎と寝たりしない。客はそもそも範疇外よ」 胸を張り、自身を示すパオラ。 「……それは良かった」 何と答えものか分からず、短く応じるアルフィオ。まだドリンクを決められずにいた。 「客は、ね」 パオラは含みを持たせるように繰り返し、カウンターの奥で働く一人の従業員へ視線を向けた。若い青年で、三人の視線に気付くと笑顔を返してくる。 パオラが自身の口元に触れ、彼の方へ飛ばす。すると従業員は当然のようにそのキスを受け止める仕草を見せたが、その拍子に持っていた小皿を取り落としそうになる。何ともそそっかしい性質らしい。 「あの人、初めの頃はナッツの場所も覚えられなかったよね。すごいや!」 感心する客に、パオラはにやりと笑みを見せる。 「指導するのは得意なのよ」 ドナテロも笑い、犬と言えば、と話題をさかのぼる。 「彼と初めて会った時、ケガをした犬を放っておけなくて拾ったって言ってたけど。あれも嘘だったみたい」 「犬を拾った? ディエゴが?」 話に割り込むように聞き返すアルフィオ。 「黒と白のデカい犬だって。犬種も言わなかったからミックスかと思ったのに……」 ドナテロは顔も見ずに、愚痴っぽく続ける。 「どうせバカンスにも、知らない男を連れて行ったのさ」 まったくひどいやつだよね、と吐き出した後、ふと気付いたように姿勢を正した。 「初対面なのに愚痴って失礼。ところで、キミは何でオオカミ野郎って呼ばれてるの?」 *** 「今日だけでいったい何マイル走ったんだ? 忠犬アルフィド」 闇の中から声がした。周囲に人影はない。 「誰だ」 警戒心を顕に聞き返すアルフィオ。そうしながら腰の後ろへ手を回し、ピストルの存在を確認していた。 店を飛び出したアルフィオは、大聖堂に背を向ける形でコロッセオの前を走り抜け、さらに北上していた。またしても居心地が悪くなり、『キアーロ』では一滴も飲まずに逃げ出してしまったのだ。 ハンドバッグを片手に、周囲に人影がなくなったところで、やっと足を止めた。街灯の少ない、細い通りへ入り込んでいた。 左側には営業時間を過ぎたタトゥーショップとピッツェリア、右側には廃業した店舗にグラフィティの描かれたシャッターが並ぶ。 〈忠犬アルフィド〉と呼ばれた過去を知っている人間が、どれだけ居るというのか。イル・ブリガンテを離れて以降、その名はディエゴしか呼ばなかったはずだ。だが主人の声を聞き漏らすはずがない。 となると、相手は裏の社会に首を突っ込んでいる可能性が高い。 「ここに居る。てっきりゲイ連中と楽しんでると思ったが、まさか今夜の内に会えるとはな」 声の出処を探して上方を見上げると、ピッツェリアの淡い色のアーケードの上に、人の姿があった。 声質と体の大きさを見るに男である事は間違いないが、黒のジェットキャップをかぶった顔立ちははっきりとしない。遠くにある街灯の光を受けたそのシルエットは、大きなカラスに似ていた。 アルフィオは視線をはずさず、持っていたハンドバッグのジッパーをゆっくりと開き、片手を差し入れる。 「どうして俺のことを知っている」 低く、抑揚のない声で聞き返す。歩み寄る事はしない。声をかけて来た相手がどう出るのか分かったものではないからだ。警戒しながら手で隠すようにしてマガジンを抜き取り、腰の後ろへ両手を回す。 「あんたは有名人だぜ。特にホームレスの間ではな」 男はそう言って、ひらりと地面に飛び降りた。ドレッドロックスがうなじの辺りで結われているのが見えた。 「復活祭の日に制裁を受けた忠犬アルフィドが“復活”してローマに居るなんて、確かに奇跡だ」 歩み寄って来た背丈はアルフィオと同じほどあり、どちらかと言えば痩せ型で筋肉質な体を、わざとらしく大きなサイズの黒っぽい上着で隠していた。 キャップの(つば)が持ち上がる。黒褐色の肌と、やはり見覚えのない顔が現れる。 下がり気味のまぶたに小さな黒い瞳、大きく平たい鼻、やや厚い唇の周りには短い髭を生やしている。年齢はアルフィオと同じか、少し上といった印象だ。 「ベルトランドだ」 「…………」 手を差し伸べられても、アルフィオはやはり黙って睨み返す事しかできずにいた。 ベルトランドと名乗った男は軽く笑い、翼のような手を引っ込めた。 「その顔はご主人にやられたのか? だとしたら虐待だ」 動物虐待、という言葉に古い記憶が蘇る。顔を蹴りつけ、嘲笑っていた男だ。自分を裏切り、ファミリーから追い出した存在など、その後に待っていた出会いと比べれば問題ではない。 「知ってるか? 猟犬を手放すのも罪になるんだぜ」 質問には応じず、顔を背けるアルフィオ。相手から見えないよう、腫れた頬を隠した。 「そう恐い顔をするなよ。愛想悪くても、あんた、いい顔してるぜ」 ベルトランドが体を寄せてくる。 「実はあのヂエゴって奴が邪魔でな。あんたが一人になるのを待ってたのさ」 スペイン語に近い発音だったが、ディエゴという名に、ぴくりと眉が動いてしまう。アルフィオはすぐに首を振り、きっぱりと言い返す。 「俺はディエゴのパートナーだ。仕事でもないのに、他の男からの誘いに事はない」 「仕事なら乗るんだな?」 「…………」 言葉尻をとらえられ、アルフィオは唇を噛んだ。話せるようになった事の弊害のひとつ、失言だ。 ベルトランドはからかうように眉を上げる。 「……別にソッチの趣味はねぇ。イタリア人(イタリアーノ)に生まれた時からオレは女が大好きさ。ただ、あんたに頼みたい仕事があるんだ」 カラスが羽を広げるように腕を上げ、胸の前で両手をすり合わせた。 「腕の立つヒットマンを探してる」 その言葉に、アルフィオはつい顔を向けてしまった。 図ったように笑うベルトランドの、前歯を覆う金のグリルが闇の中に光った。 まずは話を聞いてほしいという申し出を前に、アルフィオは逃げ出さなかった。ピストルは後ろ手に隠している。 「ヂエゴって奴は仲介業だか何だか知らねぇが、要は上前を跳ねてるってことだろう?」 「取り分は契約通りのはずだ」 即座に応じると、ベルトランドは大袈裟にため息をついて見せた。呆れてしまったとでも言いたけだ。 「その契約を飲む事自体、〈聡明な男(ワイズガイ)〉とは呼べねぇし、まんまと利用されてるって話さ」 「利用されてる? 俺たちが、ディエゴにか?」 「そうとも。依頼する奴らも、あんたのように殺しで食ってる奴らもな」 「だがそれが……それが、ビジネスだと……」 言い返すアルフィオの調子が悪くなる。 「あの仲介手数料ってのがなければ、もっと合理的だと思わねぇか? 誰だって手放す金は少ねぇ方がいいし、稼ぐ分には多く稼ぎてぇだろう」 聞き覚えのある言葉だった。 イル・ブリガンテを居場所とした頃から、アルフィオは与えられた依頼を、ただこなしていた。ディエゴと出会って契約を交わしてからも、彼の言うことに従うばかりだった。この社会に足を踏み入れた時から今まで、そうする以外の道を考えた事もなかったのだ。 さながら高い場所から街を見下ろし、偵察するカラスのように、新たな視点から物事を見、気付かせるのがベルトランドの狙いらしい。 「何を言われてるか分からねぇみたいだな。オレたちと同盟を組まないかって誘ってるんだ」 アルフィオは返事を探して間をあける。 「……マフィアファミリーに戻るつもりはない」 「提案してるのは同盟だ。確かに仲間(ファミリー)ではあるが、マフィアなんかと一緒にするな」 繰り返して訂正し、さらに続けるベルトランド。 「あのイル・ブリガンテのヒットマンと聞いたから“オレたち”も欲しくなったわけだが、な?」 カラスに似た男が持つのは、尻尾を形作るようにまとめられた髪と、よく喋る金色の(くちばし)だった。 「けど、実際に見てみればどうだ。主人にべったりの、ただの犬(カーネ)じゃねぇか。ソッチの意味でも飼い慣らされてるとは思わなかった」 犬という語が人間に向けられれば蔑称になるとは理解していたが、一つ一つに目くじらを立てる事はして来なかった。アルフィオは会話のペースに飲まれていくのを感じる。 反論できず、ただ押し出すように確認する。 「……いつ、見たんだ?」 「使われてねぇ教会には、ホームレスが身を寄せてるってのが常識だ」 当然のように答えたベルトランドに、大きな目を見開いてしまう。 思い当たるのは、あのハロウィーンの夜だ。ベネヴェントの集落を訪れた際、確かに人の気配を感じていた。 「小屋の周辺は確かに探したはず」 「雨漏りするような屋根の上だ。噂通りの仕事ぶりはこの目で見たぜ。このオレを幽霊だなんて、失礼な言いがかりだ」 「…………」 口をつぐみ、視線を落とすアルフィオ。確かに小屋の周りは探したが、屋根の上は盲点だ。 「彼は不運だったな。ホームレスとして生きれば、まだ望みもあったかも知れねぇのに。猟犬の獲物になっちまって」 タトゥーの刻まれた褐色の手が形式ばって十字を切る。 「あれも自分の欲を出した報いってわけだ。オレの話を聞いてあのホモ野郎(フィノッキオ)の元を離れたがったから、歓迎する準備はしてあった──」 次の瞬間、アルフィオが弾かれたように動いていた。 左手を突き出し、羽のような上着の袖をつかんでねじり上げる。 「お前が彼を(そそのか)したんだな。俺のディエゴは昔の恋人を失なって、嘆いていた……いったい何の恨みがあるんだ!」 絞り出すような声で迫った。腋の下にはさんだバッグを隠すように半身になり、右手には弾丸を装填したピストルを握っている。 「おっと、待てよ」 それでもベルトランドはすんなりと両手を上げ、余裕の表情だ。 「きちんと躾られてるなら咬み付かねぇはずだ。」 アルフィオは言い得ぬ不気味さと、抵抗する事への無力感を感じた。 突然現れた素性の知れない相手に、自身の行動が手に取るように知られている。事もあろうに情事の内容までだ。 「…………」 揶揄された忠犬は唇を震わせ、従順な前足を離した。 「恨みはねぇし、他人を口説き落とす才能はむしろ認める。だが手を広げすぎた。ヒットマンの独占は控えてほしいところだ」 一方で解放された腕を払う仕草は、悠然と羽繕いをしているようにさえ見えた。 そんなベルトランドは、アルフィオが戦意を失なった事までも見抜いたようだ。 「なぜ一匹なのかは知らねぇが、あんたが一人になるなんてこんな好機は逃せない」 行き場を失った野良犬にも、まだできる事があるのではないかと希望すら抱かせる口ぶりで続ける。 「こっちはヒットマンを探してて、あんたは仕事を探してる。これは需要と供給──ヂエゴに言わせれば契約成立じゃねぇのか?」 「…………」 唇を引き結ぶアルフィオに、ベルトランドが畳み掛けた。 「興味があるなら、オレたちの拠点に招待するぜ。見張りのない野宿よりマシなはずだ」

ともだちにシェアしよう!