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第十六章 雇用保険

朝方のローマ郊外の道を、古びたベビーカーが通り過ぎる。中にはまだ首の据わらない赤ん坊が横たわり、後方にはハンドルに手を添えて歩く小柄な女が一人。 ローマの都市部を中心に走る路面電車トラムもまだ動いておらず、道沿いに建てられた塀の向こうには秋の静かな公園が広がる。 と、ベビーカーの車輪がトラムの線路を拾い、車体がわずかに揺れた。一瞬の後、大人しく朝の空を見上げていた小さな顔が歪み始めてしまう。 窓の外から聞こえた赤ん坊の泣き声に、アルフィオは飛び起きた。横たわっていたのはアパートの一室に置かれたフロアソファーの上だ。 突然起こされて状況が理解できず、周囲を見回す。日が昇り、馴染みのない部屋の景色がよく見えるようになっていた。 天井にはフレスコ画の一部が覗いている。 「よく眠れたか?」 背後から声がする。振り向くと、昨夜知り合ったばかりの男ベルトランドがいた。十一月半ばだと言うのに下着一枚しか身につけておらず、黒褐色の筋肉質な体を晒していた。 アルフィオはベルトランドに誘われ、城壁の外にある小さな地区を訪れていた。マッジョーレ門を出たすぐ先で、“彼ら”の拠点はそこにあると言うのだ。 深夜の街に人通りは少なかったが、出入り口を開放したナイトクラブの前を通る度、低く響く音楽と若者客の喧騒が聴こえる。 街角の閉じられたシャッターや壁には、所狭しと主張的な意味を持つグラフィティが描かれている。手頃な価格帯のバールやピッツェリアが軒を連ね、昼間には地元住民のローマ訛りが飛び交う様子が容易に想像できる様相だ。 町の北部にはプレネスティーノの塔、北東の端には木々が生い茂り、レーヨン工場の廃墟と湖を内包する公園がある。公園を囲う塀にも、いくつもの派手なグラフィティがあった。 拠点は、その公園からほど近いアパートの一室だった。 暗く、何処からか集めて来たような傷んだ家具を置いた、貧相な空間だった。狭い部屋を仕切るためか、天井近くに金具が張り巡らされ、目隠しのための襤褸(ぼろ)切れが掛かっていた。さながら資材を集めて組み立てられた、カラスの(ねぐら)といったところだ。 腐りかけた床の木目には埃が積もり、シミが浮いていた。水周りに繋がる扉の蝶番と照明は壊れているらしかった。 針金と布の合間から天井を見上げると、そこにはフレスコ画が描かれていた。 漆喰で保護された塗膜に傷みは見受けられず、劣化や損傷はあるものの、このアパートが歴史的な価値を持つ建物である事は間違いない。持ち主の意向によって、修繕や手入れがされていないのだろう。 部屋の奥にある掃き出し窓の外には、白いペンキの剥げた手すりに囲まれた狭小なバルコニーがあった。 「共通言語(リングァフランカ)?」 角がやぶれ、資材のむき出しになったフロアソファーに腰を下ろし、アルフィオは聞き返した。ソファーの座面はその名の通り床とほぼ変わらぬ低い位置にあり、長い脚は膝を曲げてもまだ余るほどだ。深く腰掛け、ハンドバッグは下腹に乗せる。 「そうとも」 窓辺に立ったベルトランドがうなずく。いつの間にか、クラフトビールの瓶を手にしていた。窓の外からかすかに届く光の透けたガラスと、その上の王冠が輝く。 「人種や母語が違っても、共通の言語があれば打ち解けられる。リングァフランカはそんな共通の理解や価値観を持った者同士で結ぶ同盟さ」 イタリアが別の国同士を統一して作られた史実は、地方ごとに異なる文化や方言に溢れ、様々な人種が混ざり合う現代にも影響を与え続けている。 北部には陸続きの国境を持ち、南部は海に面するため、ゴムボートの輸出を制限する必要に駆られている。土地柄と政治的立場の両方から、移民や放浪民族にも門戸を開いている形だ。 「見る限り、共通点があるとは思えないが……」 アルフィオは掠れ気味の声で反論した。 茫然自失に過ごした昼日中と違い、警戒心を強めた捨て犬は、声をかけて来た相手の特徴を(つぶさ)に洞察していた。 目の前に現れた男の身体的特徴や口調は、本人の自称した「イタリアーノ」らしからぬものだと感じたのだ。加えて、わざわざイタリアーノと自称する者はそう居ない。 途端に、金のグリルを覗かせる親しげな笑みが消えた。 「……オレも好きで黒人を差別する白人至上主義者を誘ってるわけじゃねぇ。腕のあるあんただから誘うんだ」 ため息混じりの返答を、色白のアルフィオはすぐに否定した。 「俺の肌の色は関係ない。白人至上主義を名乗った事もない」 コーカソイドの特徴を嫌味なほど揃えた容姿は時に幽霊のようだと揶揄され、彫刻のようだと称賛された。気にする事なく過ごしていたのは当人だけだ。 窓辺で小さく光る漆黒の瞳が、それらを観察するように見つめる。 「本当にそうか? 無意識の差別は白人野郎の得意だと思っていたが」 やや強い声色で繰り返し、今度はどこからかナイフを取り出した。柄の部分にブレードを格納できるフォールディングナイフだ。 アルフィオは咄嗟にソファーから背を離し、前屈みに身構えた。闇に溶け込んだ髪や体と裏腹に、白い肌が浮いたように見えているのは自覚している。 「……見た目で決めつけるのなら、お前こそ差別主義者だ」 鋭い視線で見上げ、低い声で告げた。 その応えに、ベルトランドは納得したらしい。笑みを取り戻すと、取り出したブレードを使って、瓶の王冠を少し持ち上げた。 「例え話さ。オレたちの共通言語は、殺しだ。金になると理解してる奴は多いが、実際に行動に移してるからこそ分かり合える事もあるだろう?」 話しながら、王冠を金色の嘴で剥ぎ取る。頑丈なグリルと金属のかち合う小さな音がした。 それを吹き飛ばしてバルコニーへ捨てると、ナイフをくるりと回して利き手側のポケットへ収めた。 「確かに必要なら殺しはするが、金のためじゃない。俺は、居場所を守るために──そうするしかないだけだ」 アルフィオは眉根を寄せるが、ベルトランドは軽快にその反論を躱す。 「目的は何だっていい。要はそんな、表の社会じゃ生きて行けねぇ厄介者同士で手を組もうって話さ」 「……お前も殺し屋(ヒットマン)という事か」 「ああ。銃にも何にも縛られない、フリーランスのイカした事業主さ」 他者から依頼を受けて目的の人物を殺害し、金銭などの報酬を受け取る事で生計を立てるのが殺し屋だ。そこにはかつてアルフィオそうしていたように組織に所属し上からの命令に従う者と、いわゆるフリーランスとして仕事を請け負う者の二種類がいる。 ベルトランドは後者であり、そんな殺し屋たちで形成される組合にアルフィオを加えようとしているのだ。 「人間だって動物なんだ、群れなきゃ生きていけねぇのさ。犬だのオオカミだのと呼ばれたあんたなら分かるだろう?」 カラス男は厚い唇の片端を持ち上げ、探るように見返した。 だがアルフィオはますます慎重になる。 「……もう一度聞くが、どうして俺のことをそこまで知っている?」 「カラスってのは、よく町を偵察してるのさ。金目の物や、腹の足しになる物を探してな。仲間との情報を共有するのだって欠かさない。そのための共通言語だ」 「…………」 話が理解できないまま、固い表情で相手を見つめるアルフィオ。視線だけが瓶に吸い寄せられた。 そんな態度に、ベルトランドは小さく首を振る。 「意外と頭が(にぶ)いんだな。あんたはホームレスの間で有名だと言っただろう。きょうの昼間だって一緒に居たくせに」 「チェチーリアが? ……俺の情報をお前に売ったのか?」 アルフィオは考えを巡らせるが、可能性をすぐに打ち消す。 「……いいや、そんな馬鹿な。知り合ったのはたった数日前だ」 骨張った片手に瓶を持ったまま腕を組むベルトランド。 「何もあの猫の婆さん(ガッターラ)に限った話じゃない。オレたちの目と耳は町中に──いや、イタリアじゅうにあるんだ。特に南部くんだりで知らない事はない」 掃き出し窓に肩を預け、寄り掛かる体勢になる。 「そこらにいるホームレスが情報屋をやるようになったのはオレたちの友人の提案さ。信頼できる彼女たちは日々の糧が稼げて、オレたちはその情報網を利用して仕事ができてる」 各地に暮らすホームレスたちは裏社会の目となり耳となり、表社会からは見えない形で、広大な情報網を形成している。さながら地中に暮らすモグラの塚のように。たとえひとつの噂話であれ、彼ら彼女らに聞けば、分からない事などないのだ。 「最近は薄汚ないネズミも増えてるが……別に構わないさ。道具は使うもんだ。連中も客を選んで商品として売ってる」 独り言のように続けるベルトランド。モグラが地中に開拓した塚には、時としてネズミや小型のウサギといった他の動物も棲む。同じく裏社会に生き、ホームレスの情報網を利用する他の人間を揶揄しているのだ。 「リングァフランカなんて組織は聞いた事がない。大きな情報網を持っていながら、どうして」 記憶を探り、慎重に応じるアルフィオ。 「オレたちは家族(ファミリー)のような組織じゃなく、必要な時に協力するだけだ。だから実体が無いのさ。まるで幽霊みたいにな」 部屋の中は暗く、外からの街灯のわずかな光も逆光となり、相手の姿は大きなシルエットだ。中でも金色のグリルが、口の位置と表情を示す。得意げに笑っているように見えた。 ベルトランドの発言に気付き、確認する。 「……お前たちが、最近目撃されているという幽霊の正体という事か」 先日チェチーリアから聞いた、捜査の目も届かない場所で変死体が発見されたり、人が忽然と消えたりしているという不気味な噂だ。 不確定な情報こそ人間の興味と恐怖をかき立てるものだ。だがその謎を解明しようなどと躍起になるのは冷静ではないという評価を下させる。 幽霊の仕業として仕立て上げ、噂好きのホームレスたちに面白半分に広めさせる事で、社会的関心を煽りながら、その関心を隠れ蓑に正体不明の存在でいるのだ。 「それに、あんたもな」 ベルトランドが骨張った指でアルフィオを指した。 「俺が?」 「北の方は殺しよりも詐欺みたいに巧妙な奴が多い。となれば、オレたちの標的(ターゲット)のいる範囲が重なるのは不思議な事じゃない」 この国で発生する殺人事件の半数以上は、首都ローマ以南にある四つの州に集中している。そしてそれは、数日前にチェチーリアから聞いた、くだんの不気味な目撃談が相次ぐ地域と重なっている。 「最近は人数が増えたが、友人たちの協力のお陰で社会からは見えない事になってる。情報の共有はするが、皆好き勝手に動いてるんだ。だから何の関連性も見出されない」 金色の嘴は、ひとつ聞けばよく話した。 「あの派手なフランス車に乗って、この数ヶ月で殺したのは何人になる?」 理解をうながすベルトランド。 ふたたびヒットマンとなった忠犬アルフィドの行動範囲は、主人の転がす「猫足」が届く場所のみだった。すなわち不気味な幽霊の正体は、リングァフランカのメンバーと、アルフィオ本人だったと言うのだ。 「わざわざ数えていない。それと、運転していたのはディエゴだ」 正直に答えるアルフィオ。 「ああ、そうだったな。あの仲介業者は仲介と派遣以外に何をしてるんだ?」 ベルトランドが少し呆れたように聞き返した。 「彼は自分で殺しはしない。する必要がないんだ。他に能のない人間とは違う」 「そんな奴がヒットマンをまとめ上げてるなんて、おかしいと思わないか? 共通言語を持たない奴に、何が分かるって言うんだ」 「必ずしも彼につき従うわけじゃない。ただ互いのビジネスのためだけで……」 擁護しようとする様子から視線を逸らさず、ベルトランドはキャップの鍔の下で眉をはね上げて見せた。 探るような表情に、アルフィオは少し口ごもる。 「……俺には、ああしているしかなかっただけだ。確かに他のヒットマンとは違う関係もあった」 主人につき従う飼い犬のように振る舞っていた事実はある。置かれた状況を受け入れ、自身の居場所を守るために、特別な関係を持たざるを得なかった。 しかしそれが不快だったのかと聞かれれば否定するだけの感情も、今は同時に持ち合わせている。 「あんたはそんな奴に言われるままに従って、金も精液も、何もかも巻き上げられた」 搾り取られたレモンみたいに、と片手を握り込むジェスチャーを見せるベルトランド。 「巻き上げられたんじゃない。俺は最初から何ひとつ持っていなかった。ただ彼と結んだ契約通りにしているだけだ」 言い返し、改めて見上げるように、灰色の眼を向けた。 「お前の思っているような契約じゃない。彼が人を殺さなくて済むようにしていたのは俺だ」 「どんな契約を結んだかは別に重要じゃねぇが、今は破棄したって事でいいんだよな?」 わざとらしく確認するベルトランド。その黒い瞳が、一度、手元のバッグに向けられる。 「…………」 アルフィオは何も答えず、バッグのハンドルを握り締めた。変わってしまった状況から、雇用主との関係を説明できそうになかった。 キャップの鍔が上がり、ベルトランドの眼はまたアルフィオに注目する。 「あんたのことも、彼女たちに聞いてた。オレは早い内から目を付けていたから、こうして一人になった時に、他の奴らを牽制できたのさ」 「他の? どういう事だ?」 バッグを握ったまま、聞き返すアルフィオ。 「ああ……もっと自分の価値を把握したらどうなんだ、ドン・カルロスの忠犬アルフィド?」 スペイン訛りの平坦な声が、今度は呆れたようにたしなめてくる。 「俺はもうファミリーじゃない。復活祭の日に制裁を受けたと伝わっているんだろう」 すぐに否定した。つい先ほどこのベルトランドという男が言っていたことだ。 当の本人は勿体ぶるように話す。 「イル・ブリガンテへの報復を目論(もくろ)む人間なんていくらでも居る。見せしめとして愛するペットを殺すのは、マフィアの常套手段のはずだぜ?」 意外な言葉に、アルフィオはやや焦りを覚えた。 「待て。〈忠犬〉なんて……ただのニックネームだ。俺を殺したところで、ドン・カルロは痛くも痒くもない」 組織を追われてから半年以上になる。誰も行方を追って、匿われている場所を訪ねて来るなどしなかったのだ。 所在を突き止めて執念深く追われたのはむしろ家主ディエゴの方であり、彼のビジネス・パートナーとして外出するようになってからも、アルフィオ個人の身柄を狙う者は現れなかった。 「オレのように情報通な男ばかりとは限らねぇってことだな」 ベルトランドはキャップの鍔を持ち上げた。 「ファミリーの内部事情なんて改悛者でも出て来なきゃ分からねぇ。あんたが殺されかけた経緯だって──おおかた仕事をしくじったからだろうが──まだ生きてると分かった以上、狙われるのは当然だ」 アルフィオは視点を落とし、反芻する。 「そんな理由で、俺を……狙っている人間が?」 思い出されるのは、昨夜、ディエゴと交わした会話だ。『アルフィオ』という名の人物をターゲットにした依頼が増えているというものだった。 こちらのアルフィオ自身はイル・ブリガンテの構成員たちが死に損ないの自分を狙っていると踏んだ。偶然でないと仮定した場合、それが考えられる説として最も濃厚だったからだ。 その読みも、他のファミリーの内部事情を理解できないイ・ピオニエーリの狂犬によって一蹴された。いつもより気を付けておくだけで良いと、あくまでも楽観的な見通しを与えられたに過ぎない。 しかし、どうやら気にかけるべきは、それだけでは済まされなくなっているらしい。 ベルトランドの言う通り、復讐の炎に燃える者たちは、アルフィオがファミリーでスケープゴート的な扱いを受けていた事など知る由もない。忠犬というニックネームだけが一人歩き、いまだにドン・カルロのお気に入りと思い込んでいる者がいると言うのだ。 さらに、広い人脈を持つディエゴと連れ立って、人と情報の行き交うローマの昼日中を歩いていた。ホームレスの情報網には、ファミリーを離れた事が知れ渡っていてもおかしくない。そのディエゴと離れた事も、近いうちに知れるところとなるだろう。 狩りにおいて狙いやすいのは、追いかけられる内に群れから遅れを取り、はぐれてしまった個体だ。ファミリーもパートナーも失ない、独りになった今こそ、アルフィオを狙う人間にとっては絶好の機会なのだ。 金色の嘴は畳み掛けるように、行き場を失なった捨て犬を引き込もうとする。 「だからこそあんたは群れる必要がある。リングァフランカは自警団みたいなものさ。オレたちと組めば一匹狼で居るより安全で、仕事も紹介してやれる」 アルフィオが唯一の能力と自負する殺しの腕を使って、これまで通りか、それ以上に自由のある暮らしが送る事ができると言うのだ。 「報酬はすべてあんたのものだ。交渉するも自由だし、納得いかなきゃ蹴っても構わない。お互いの獲物に干渉しない限り好きに過ごしていいんだ。ここには平等がある」 上層部に逆らう事の許されない、ピラミッド型の組織図とは明らかに違う。それが〈リングァフランカ〉という同盟らしかった。 それでも、容易に首を縦に振れるはずはない。アルフィオは深い眼窩の下から相手を見上げる。 「……目的は何だ? 厄介者だと知りながら俺に目を付けて、わざわざ引き入れようなんて……いったい何を企んでる」 身の上を案じて忠告し、安全を提案して来たからと言って、その相手もまた信用に足る保障などなかった。 ベルトランドも、警戒されるのは承知の上らしい。正しい質問だな、とうなずく。 「この眼から見たあんたは、輝くような(ブリランテ)アクセサリーなんだよ、イル・ブリガンテの忠犬アルフィド。厄介者を抱え込むリスク以上の価値がある」 自身の漆黒の瞳を強調する。輝く獲物を狙って死体に群がるカラスを連想させた。 「元はドン・カルロスの飼い犬、だからこそ得られる物があるだろう。あんたが居ればリングァフランカにも、より多くの信頼が寄せられる。仲間も地位も金も、無いよりある方がいい」 当人には自覚がなくとも、リングァフランカをはじめ、組織によってはアルフィオの過去はいわゆるネームバリューだと言うのだ。 「邪魔者は排除したいが、自分の手は汚したくない。かと言ってマフィアなんかと友人になって、イメージダウンするのも避けたいって贅沢な依頼人(クライアント)は喜んで報酬を弾むさ」 アルフィオはきっぱりと固辞する。 「俺には合わない。今さらドン・カルロの名を借りる気も、報酬や権力のある友人を求めた事もない」 「あくまでもオレの目的を話したまでさ。さあ、次はあんたの欲しい物を聞こう」 平然と言うベルトランドに、思わず聞き返す。 「俺の?」 カラス男は笑みを浮かべたまま話し続ける。 「お互いの利益になるから手を組むんだ。今のあんたに必要な物は? メンバーを通じて、武器や車を用立てる事も訳ねぇぜ?」 「手を組むと言った憶えもない。話を聞くだけだと」 アルフィオはソファーから立ち上がった。バッグをしっかりと肩に掛け、出入り口に向かおうとする。 カラス男の鳴き声が呼び止めてくる。 「他に行く宛てがあるのか? 猟犬の顔をぶん殴って捨てるような男が迎えに来るとは思わねぇが」 アルフィオは思わず足を止め、ふり向いてしまう。 「……ホームレスに聞いたか?」 「聞くまでもないさ。飼い主とペットの犬みたいにべったりだった片割れが、そんな顔で町をふらふらしてたんだからな」 ベルトランドはあっさりと答えると、突然、寄りかかっていたガラス戸を開けた。埃っぽくよどんだ空気を押し流すように、秋の夜の乾燥した冷たさが吹き込んでくる。 「オオカミ男アルフィオ、あんたなら夜でもこの景色が見えるか?」 言葉巧みに言い、飛び立つようにバルコニーへ出て行った。 アルフィオは仕方なく窓辺に近付く。汚れたバルコニーには出ず、もう一方の手で窓の桟をつかんで立ち止まった。突き落とされるのを警戒しての事だ。 外では闇に溶け込んだ長身の輪郭が、下の道路から届く街灯の光に浮かび上がっていた。 バルコニーの向こうには、道路を挟んだ先にある暗い公園を臨む事ができた。地域が認める豊かな自然区画と言ったところだ。 公園は塀に囲まれた小さな森のようで、人の気配の消えた場所では様々な生き物が夜の闇に守られている。 「あの公園には湖がある。ラーゴ・だ。|元〈無法者〉(エクス・ブリガンテ)がここにたどり着いた──これが偶然だと思うか?」 汚れた手すりに腕を乗せたベルトランドがバルコニーへ出てくるよう誘う。キャップの後ろで、尻尾のようにまとめた髪が揺れた。 「ここに来たのは、主人に放り出されたからだろう。セックスを断ったりしたのか?」 「……逆らうつもりはなかった」 アルフィオは室内に留まったまま、短く答えた。事の発端になった祖父について、先ほど会ったばかりの相手に話すのは憚られる。 すると、ベルトランドは意外そうな顔を見せた。眉が上がり、目元がわずかに丸みを帯びる。 「なんだ、本当にそうなのか。こいつは少し驚きだな」 そうして一瞬の後、また余裕を持った表情に戻る。 「腕のあるヒットマンを口説き落として、使えなくなったら犬みたいに捨てる。死んでもお構いなしだ。そんな男の元から解放されたってわけだ」 腑に落ちた風で言い、翼のない背中を向けた。手すりに腕を乗せ、公園の方を見る。 「彼の、何を知っている。ディエゴは……情熱的な男だ」 アルフィオはその背中を睨み、唸るように反論する。 「ベネヴェントで、俺たちを見ていたんだろう。これまでにも、彼の言う良い男が死んだ時、ディエゴは悲しんでいた。神をも恨んで……」 「オレが見たのはあんたの小屋での仕事ぶりさ。その後のことは知らない。……いや、聞いてはいるが見なくて良かったと、珍しく神に感謝したな」 大きな後ろ姿はおざなりに十字を切る。人種や母語の他、信仰する対象も違えているような態度だった。 アルフィオは奥歯を食いしばり、服の上からペンダントトップに触れる。 「……使われてないとは言え、神聖な場所だとは理解していた。俺も止めようとしたんだ」 「仕事だから乗ったって言うんだろう」 平坦な声が言い返してくる。 「あの時はアナルセックスはしていない。ただ上に座らせて──」 「おい! やめろ、やめろ! 具体的な内容なんて聞きたいわけじゃない!」 途端に、ベルトランドがふり向き、大声を上げた。カラスの鳴き声のように忙しなく騒ぐ。 その剣幕に驚いたアルフィオも思わず口を閉じた。 ベルトランドは咳払いをし、クラフトビールを飲んだ。 「……喋ったと思えばこれだ。陰茎野郎(カッツォ)にあてられたな」 「誤解しているようだったから、解こうとしただけだ」 「男と寝た時点で変わりない。下品なロマーノのチーチーズベイオめ」 聞き覚えのあるフレーズに、アルフィオは反射的に視線を上げる。 「……誰に聞いた?」 「かわい子ちゃんだよ」 ベルトランドはあっさりと答え、視線を跳ね返す。 「オレたちの“友人”の言った通り、この国にはレイプが無くならないほど美女が溢れてる。未成年の娘を買う方が男に夢中になるよりマシだって主張するトップがいたってのに」 揶揄しているのは、女性蔑視発言や少女買春疑惑などのスキャンダルで支持率を落としたかつての首相だ。裸の女性が乗り込んで来て、彼の目の前で抗議活動を行なうなど、過激な話題となった。 「好きこのんでゲイに生まれたわけじゃないと……ディエゴが言っていた」 アルフィオは擁護するように言った。少数派であると言うだけで差別され、心にも体にも癒えない傷を抱えていたのを知っている。 ベルトランドが諭す。 「連れ合いを見ればどんな人生を歩むか分かる。一人になったのはむしろ好機だろう。自分の人生を歩めって導きだ」 「今さら彼なしの人生なんて、俺には……」 力なく答えるアルフィオの視界に影がさす。キャップの鍔が当たりそうな距離で、ベルトランドが顔を覗き込んでいた。 「そこまで惚れてるなら、何でヂエゴに逆らったんだ?」 「…………」 訊ねられ、アルフィオは視線を落としたまま、一歩たじろいだ。ベルトランドが詰め寄る。 「そもそも、同じ人間なのに上下や優劣があるなんておかしいと思わなかったのか?」 「……ディエゴは確かに俺のことを、対等なパートナーだと」 床を見つめ、言葉を探すアルフィオ。 しかしよく喋る嘴は言葉巧みにその思考を(つつ)く。 「口ではそう言うさ。だが振る舞いを見れば本心も分かるはずだ。あんたの腕を正当に評価したか?」 「待遇にも不満はない」 「話を聞いて、意見を尊重したか?」 ベルトランドが掃き出し窓から部屋へ戻り、更に距離を詰めた。アルフィオは後退りながら考え、間を空けて返す。 「……話を聞かないのは、いつもの事だ。俺はあまり、話すのが得意じゃない」 踵が先ほど座っていたフロアソファーに当たる。言葉を返す事に気を取られ、動けなくなっていた。 「オレもあんたを見て、そう思う。何て情けねぇ、犬みたいに飼い慣らされちまったオオカミだ」 アルフィオは露骨に眉根を寄せ、顔をそむけた。闇の中に浮いた色白い顔に、痣が目立っているのも自覚している。 「……俺は、頭が足りないから脚を使うようになった。ここまで話せるようになったのは、ディエゴに会ってからだ」 「あんたが惚れてるのはよく分かった。それで、ヂエゴからも同じくらい愛されてたんだろうな?」 それは、アルフィオの意表を突く質問だった。 思わず鋭い視線を向け、聞き返す。 「……何が言いたい?」 「そのままの意味さ。情熱的だと言う割に、あんたの話からはヂエゴの愛が伝わって来ない。せいぜい飼い主と犬だ。パートナーなんて聞こえの良い名前を付けただけのな」 外を飛ぶカラスからの指摘を、室内犬は胸を張って否定する事ができなかった。 殴られ、追い出されたからといって、思慕の情まで簡単に手放す事はできない。現状を受け入れられないまま、ただ逃げてくる事しかできなかった。 そんな盲信にも似た感情と、足元が揺らぐような感覚をアルフィオは身の内に覚える。 「ディエゴは確かに、俺以外の男と寝ない、デートも、しないと……」 直立したまま、証拠をかき集めるように答えた。ディエゴに愛されていたと、証明できる要素だ。 ベルトランドは挑発するように言葉を続ける。 「なるほど、それが契約か。なら何で今、ここにいる?」 「それは──」 懸命に話し出そうとするのを、平坦な鳴き声が思い出したようにさえぎる。 「おっと、オレが呼んだからって答えはナシだぜ? イタリアオオカミなら少し頭を使えるはずだ」 口をつぐんでしまうアルフィオ。聞かれたことに答えられていないと、何度となく主人を苛立たせた事が思い出される。 一方で、恋人らしいと表現できる記憶はまだ見つからない。ひとつ屋根の下で生活を、時にはベッドをも共にしたが、ディエゴからかけられた中にそれらしい言葉を思い出せないのだ。 「本当はあんた自身も理解してるんだろう?」 突き付けるように追い討ちをかけてくる。 「ホモ野郎(フィノッキオ)とパートナーになるなんて、海や山と約束するようなものだって事に」 「…………」 アルフィオは言葉を失ない、その場にへたり込むように、ソファーに腰を落としてしまった。 愛されている証拠を探し、彼との交流の様子を振り返ろうとすればするほど、裏付ける記憶を持っていない事に気付いたのだ。 高い位置から客観的に見渡すカラス男の指摘通り、ディエゴから受けた愛情表現は、およそ飼い主がペットにするそれと同等だったと思わざるを得ない。 便宜上はパートナーと呼びこそすれ、彼がアルフィオを男性として、個人として称賛したのは主にセックスの後だった。 連れ立って行ったゲイ・クラブで他人から関係を聞かれた際には、ビジネスだと強調していた。恋人として扱われる事を拒んでいたのだ。 パオラが言っていたように、アルフィオを自慢げに紹介していたのも恋人としてなどではなく、美術品のコレクターが手に入れた品物を見せびらかすような行為だったのだろう。 すなわちディエゴが興味を示したのはアルフィオ個人ではなく、アルフィオが偶然持っていた自分好みの容姿だ。たまたま身近に置いておくべき状況と、優秀な殺しの腕が付随していたに過ぎない。それ以外は、こき下ろすばかりで、見た目以外は全ておかしいとまで伝えていたのだから。 ベルトランドはカラスが翼を畳むような体勢で、アルフィオの前に屈み込んだ。 「でなきゃこんな所までついて来るはずがねぇと思ったんだ。聞きたくない、認めたくないと何マイルも逃げるのも疲れただろう」 労うように言い、友好を示すように飲みかけの瓶を差し出してくる。 「何ひとつ持っていないなら、失なう物もない。なぜそこまでオレたちの誘いを拒むんだ?」 「…………」 灰色の眼はそれを一瞥しただけで、また視点を相手の顔へ戻した。 「ああ、そりゃあ得体の知れない魔術師みたいに見えるだろうが、こっちはちゃんと手の内を明かしてる。一緒に酒を飲まないなら泥棒かスパイだ」 「……酒を飲むと目が回る」 口を小さく動かし、短く答えるアルフィオ。今朝と同じ、茫然とした感覚に陥っていた。 ベルトランドが金のグリルを見せて笑う。 「今のあんたの中心はヂエゴも知れないが、この話の中心はヂエゴじゃなくあんただ。これからどうしたいかを聞こうじゃないか」 寝る前には閉められていたはずの掃き出し窓が開いている。初めて明るい中でベルトランドの姿をはっきりと認識したアルフィオは驚いた。 ベルトランドが座るバルコニーの手すりに、本物のカラスが二羽も留まっていたのだ。漆黒より濃紺に近い色合いで、胴体の羽は灰色のスカーフを巻いているようにも見える。 ここローマでは、カラスは聖なる鳥として扱われる。が、アルフィオの抱く印象は違う。仕事中に目にした、死肉を(ついば)み、身に付けていた貴金属を漁る姿の記憶が拭えなかった。 そうして集められた物は、窼に隠されている。人間と同様に社会的な性質を持つ動物であるカラスから気に入られれば、それらを貢ぎ物として渡されるという事もあるという。 もう一つ目を引くのは、ベルトランドの姿だった。 彼の両腕には肩から手の甲にかけて、ぎっしりとタトゥーが刻まれていた。傍らに留まっているカラスたちのように、黒く艶のある羽を模した柄だ。黒褐色の肌によく馴染んでいた。 そんなベルトランドはペットにそうするように、二羽のカラスに手を伸ばし、手にしたナッツを餌付けしながら、何やら話しかけていた。まるでカラスたちを使いとして情報を集めているように。 高い場所から町を観察するカラス男という印象はその名に違っていない。 街なかのカラスは大人しく、人間が近寄っても避けるように逃げてしまうが、カラス男ベルトランドには懐いているようですらある。 状況を理解したアルフィオは、真っ先に手荷物を確認した。 両腕でかき抱くようにして眠っていたハンドバッグは、きっちりと閉じられている。中を見るためにジッパーを開ける事はしなかった。 情報収集を終えたのか、バルコニーから部屋の中へと戻ってくるカラス男の声がまた質問攻めにする。 「気分は?」 「……最悪の目覚めだ。子供は好きじゃない」 アルフィオは不快感を顕に答えた。 飛び起こさせた泣き声の主はどこへ行ったのか定かでないが、それを引き金にした動悸がする。眉間に皺を寄せ、寝癖で乱れた黒髪を手櫛で梳いた。 「コーヒーはインスタントしかない。|アメリカ人(アメリカーノ)みたいだと言われようとな」 ベルトランドが小さく笑って見せるが、 「……何でも構わない」 興味無さげに返事をするだけのアルフィオ。片手でハンドバッグを抱き、もう片方の手で目をこする。 昨夜はリングァフランカでの振る舞い方を話し合う中で、半ば押し切られる形でクラフトビールを飲まされてしまった。眠るのに使ったフロアソファーは堅く、二日酔いによる頭痛もある。 そんなアルフィオとは対照的に、ベルトランドはいつから起きているのか、快活な様子だ。 「朝食はどうする?」 「決めていない。最初に目についたバールか……」 「行きつけの店はないのか?」 「ない」 「こだわりのクロワッサンやベーグルは?」 「ない」 端的な返答を続けていると、ベルトランドが訝しむような表情を浮かべた。 「……あんた、本当にイタリアーノか?」 「俺はシシリアンだ」 アルフィオはやはり、興味を示さない風で応じる事しかできなかった。 ルームウェアに着替える習慣を持たないらしいカラス男は、脱ぎ捨てていた服を身に付けながら、 「シチリアにだってバールはあるだろう。それにエノテカ、オステリア、クラブも」 と揚げ足を取ってまくし立てる。 「買い物は得意じゃなかった」 それでも正直に、事実を答えるより他なかった。 「ヂエゴのペットってのは本当だったんだな」 ベルトランドが茶化すように言った。 「…………」 途端に、険しい表情になり、赤らんだ眼を向けるアルフィオ。これ以上なく分かりやすい反応を取ってしまう。 「どこへ行くのも何をするにも、連れて行かれるまま、命令されるまま、ただ従うだけだ。自慰行為を命じられた事は? アッチまで管理されてたんだろう」 「自分の居場所を守るために、命令に従って何が悪い」 バッグを抱いたまま、低い声でつぶやいた。 ベルトランドは魔術でもかけるかのように、タトゥーの刻まれた手を軽やかに動かす。 「オレはその洗脳を解いてやろうとしてるだけだ」 カラスの鳴き声は、周辺に暮らす仲間に警告を促すものでもある。ベルトランドの言葉も同様に、昨夜、ショッキングな現実に気付かせたのだ。 かつて飼い犬だった忠犬はこもった声で言い返す。 「俺自身が選んだ生き方だ」 それでも、相手の態度は変わらない。 「いいや、あんたは洗脳されてる。もっと高い場所から、広い視野を持ってみろ。母親(マンマ)ならまだしも、あんな野郎の言いなりなんて──」 「それ以上ディエゴの話を続けるなら、俺はここを出る」 アルフィオは立ち上がり、珍しく強い口調で言い返した。 しかしベルトランドは悪びれる様子もないばかりか、わざとらしく驚いて見せる。 「まさかそんな格好で表を歩く気か?」 指摘され、初めて自身の姿を見下ろすアルフィオ。着ている黒い服は埃っぽく汚れ、癖の弱い黒髪も固まって絡み合っていた。着の身着のままで家を追い出されて以来、シャワーも浴びていない。 「やっぱり、派手好きなイタリアーノが心酔してたとは考えにくいな」 ベルトランドが嫌味っぽく言うが、アルフィオは態度を変えなかった。 元より自身の容姿や服装に疎い性質なのだ。それよりも居心地の悪いコミュニケーションを避けたかった。 宣言通り、部屋の玄関に向かおうとする。その肩を、翼のような手がつかんで引き止めた。 「おいおい、話を聞いてなかったのか!」 「お前こそ、彼の話はするなと言ったのが聞こえなかったのか!」 アルフィオも吠えるように声を荒げ、その手を振り払った。 それでもベルトランドはやはり悪びれる素振りもなく、顔の高さに手を上げる。 「分かった、分かった。つらい現実を受け入れるにはまだ時間がいるだろう。温泉(テルメ)にでも行ってゆっくり話そう」 「テルメ?」 突拍子もない提案に、アルフィオは思わず肩に込めていた力が抜けてしまう。バッグのハンドルをしっかりと握り直した。 「ああ」 ひとつ頷いたベルトランドの手には、昨夜同様いつの間にか小さく光る物があった。 「きょうは月に一度のテルメの日なんだ。車を取って来よう」 そう言った鉤爪の先でくるりと回ったのは、車のキーだ。 一方的に話を進められ、アルフィオはまたしても相手のぺースに巻き込まれていくのを感じた。カラス男はあっけらかんとしているが、どうにも金色の嘴と鉤爪に捕えられたままらしい。 と、その時を見計らったかのように、外廊下に面した玄関扉が開く音がした。ベルトランドがそちらへ顔を向け、声をかける。 「おっと、朝の散歩は終わったのかい?」 部屋に入ってきた人物を見るなり、アルフィオは硬直してしまった。 それは、赤ん坊を抱いた小柄な女だった。絡まった黒髪と、若く張った黒い肌には見覚えがある。 輝く黒い瞳と目が合った。 「ここで何してるの?」 先んじて訊ねられ、アルフィオは目玉がこぼれ落ちそうなほどに見開いた。 「そんな馬鹿な……どういう事だ……」 言葉を押し出すのがやっとだった。 部屋を訪ねてきたのは、何とあの“足の悪い”クラウディーナだったのだ。 彼女は杖の一本も使わず、しっかりと両足で立って歩き、目の前へ現れていた。その腕には小さなローザ(ロゼッタ)が抱かれている。 「どうして……足が不自由だと……」 それを聞くなり、若々しい頬が狡猾っぽく持ち上がり、白い歯がのぞいた。 「信じてたの? あなた、よく騙されるでしょう」 言葉を失なったアルフィオの体を勢いよく引き寄せ、肩を組むベルトランド。 「紹介するぜ。リングァフランカに新たに加わる事になった、忠犬アルフィドもとい〈オオカミ男〉アルフィオだ」 「あの話、本気だったの?」 クラウディーナは二人の顔を交互に見上げる。立ち上がった彼女の身長は、アルフィオの胸辺りまでしかない。 「当然だ。オレたちの理想を実現するためには優秀な人材がいる」 ベルトランドは得意げに口角を持ち上げるが、クラウディーナは何とも腑に落ちない表情だ。 「黒人差別撤廃のためにこんな男を引き入れるなんて馬鹿げてるわ」 「さ、差別撤廃? そんな話は聞いていない」 驚きと衝撃に打たれた頭を何とか動かすアルフィオ。頭の後ろをくぐらせてカラス男の腕から抜け出し、話に割り込んだ。 「この件はリングァフランカとしてじゃない。あくまでもオレたちの問題だからな」 ベルトランドは平然と返し、クラウディーナと目配せをする。 「皆、いくつもの顔を持つんだ。オレはリングァフランカの偵察隊で、情報屋でもある。それに、あるレジスタンスのリーダーなのさ」 改まった紹介をするように言い、今度はクラウディーナの背中に腕を回した。大きなカラスの片翼に、小柄な彼女はすっぽりと隠れてしまうようだ。 「このかわい子ちゃんは足の悪いホームレスであり、憐れなシングルマザーだ。……が、それらが全部、表の世界で生きるための仮の姿って事もある」 「全部?」 聞き返したアルフィオに、クラウディーナはまた白い歯を見せる。 「そうよ。足も悪くないし、この子は私が産んだ子じゃない。情報はただ聞いた話を売ってるだけ。町のはずれに家もあるのよ、小さいけど」 「そんな……」 「ひと目見て分からないはずないわ。私たち、まったく似てないもの。でもここの人は優しいから、騙されたふりをしてくれる」 淡々と打ち明ける彼女に、アルフィオは思わず口をついてしまう。 「じゃあ、誘拐事件も──」 途端にクラウディーナの顔付きが変わり、きつく叱責した。 「失礼な人! この子は私の子よ!」 社会的観点から、“彼女ら”に誘拐の嫌疑がかけられているのは事実だ。しかも親を名乗るクラウディーナと、ロゼッタの容姿が似ても似つかないのは明らかで、自分が産んだ子ではないと今しがた本人の口から明かされた。 だが誘拐などという行為と同義にされるのは心外だと言うのだ。否定され、アルフィオは言い返せなくなってしまう。 思わずベルトランドを見るが、察した彼は苦笑いを浮かべ、顔の前で手を振った。 「おいおい、まさかオレが父親なはずないだろう」 「白人の夫婦から貰ったの」 クラウディーナは端的に答え、腕の中のロゼッタへ愛おしそうに口付けた。それから困惑するアルフィオの顔を見上げ、歯に衣着せぬ口調で聞かせる。 「子供嫌いなゲイには分からないでしょうけど、産んでも育てられない母親が居るのよ。でも神はいまだに中絶を禁じてる。それなら、誰かが育てるしかない」 「ま、待ってくれ、確かに俺は子供が苦手だが、ゲイだとは──」 慌てて口を挟もうとするアルフィオだが、クラウディーナの調子は崩れなかった。 「女はね、ゲイかどうかなんて眼を見れば分かるの。嫉妬深いシシリアンには、ビジネスだけの関係なんて耐えられないって事もね」 「…………」 一方的にやり込められてしまう。やはりアルフィオに対する女性は気が強く、自信に溢れていた。 二人のやりとりを見ていたベルトランドが痛快とでも言いたげに笑った。 「相変わらずキツネみたいな女だ! 鋭くて賢い、しかもキュートだ」 そして背を屈め、小柄な彼女の頬にキスをする。顔をつかまれたクラウディーナは迷惑そうに片目を閉じ、ロゼッタをしっかりと抱えなおした。 アルフィオは当惑するばかりだ。 「クラウディーナ……」 「本当ににぶい男ね、ディエゴが捨てるのも分かるくらいよ」 クラウディーナはぴしゃりと言い、鉤爪のような手を離させる。 「いい? あなたの知ってる私のすべてが嘘なの。私は〈足の悪い女(クラウディーナ)〉じゃない。あなたと“同じ仕事”をしてる。ここでは〈キツネ女〉よ」 言葉を失なったアルフィオに、ベルトランドが楽しげに続ける。 「そしてあんたは、満月の夜に吠えるオオカミ男。有能で残忍なヒットマンであり、マフィアの情婦だ」 「……俺は女役じゃない」 そう返すのがやっとだった。突然押し寄せた多すぎる情報量に、まだ頭が混乱していた。 「これからサトゥルニアまで行こうと話してたんだ。途中で朝食を」 「この人、革のパンツでテルメに入るの?」 「さあ、この時期なら客も少ないだろうが」 アルフィオを置き去りに、二人は話を進めていく。 「北部では冬眠の準備中だものね」 クラウディーナの含みを持った言葉から、ベルトランドは大袈裟にショックを受けた振りをする。 「ああ! 小麦色の大きなかわい子ちゃん、いつになったら会えるんだ!」 「そうでなくても、テルメのためだけに来るとは思えないけれど。ワーカーホリックだもの」 キツネ女は冷静に言い捨てる。 目まぐるしく変わり続ける状況の中、アルフィオは拾い上げた情報を頼りに確認する。 「……リングァフランカのヒットマンは、北部にもいるのか?」 「オレたちの目と耳はイタリア全土にいると話したじゃねぇか。必要になれば鼻も口も、手足も借りられる。ケツは無理だがな」 ベルトランドは笑みを浮かべたまま応じた。 「ミラノ人(ミラネーゼ)ならオルサが一番だ。クマみたいにデカくて無愛想だが、なかなか良い女だ」 オルサという名前を聞き、アルフィオはまた驚いてしまう。 「坊主頭で……浅黒い筋肉質な体つきの?」 「何だ、知り合いか?」 真剣な表情になって聞き返すベルトランドに、 「彼の──ディエゴの仕事仲間で、友人だと聞いている。車や、死体の解体業者だと思っていた」 一度だけ見た無骨な容姿を思い出しながら答えた。 ベルトランドは納得し、翼のような手を動かして説明する。 「整備士にしても、表の顔だな。リングァフランカの輪は、彼女たちのいる北部から諸外国を渡って、いずれはアメリカにも広がる。表からは見えないようにな」 「ディエゴも、知らないなんて……」 アルフィオは耐え切れず、先ほどの自身の主張も忘れ、そうこぼしてしまっていた。 これまでのディエゴとの生活は、アルフィオにとってのすべてだった。あの〈ウサギ小屋〉とフランス車で回る先だけが、すべてだったのだ。 それを失なって初めて見えてきた世界は、知っていたより、より壮大で、より複雑で、より厄介なようだった。 「…………」 ディエゴの顔が浮かぶ。知らない事を知った時、共有したくなるのは相手を想っている証拠だ。 しかし捨て犬アルフィオに、帰る事は許されなかった。 「知らない事なんて、この世にごまんとあるもんだ」 ベルトランドが愉快そうに言った。 「幽霊の正体だって分かっただろう? ひょっとしたら魂も、神も、オレたちが洗脳されて存在してると思い込んでるだけかも知れないぜ」

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