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第十七章 人材育成
ラツィオ州とトスカーナ州の境、マレンマ地方へ向かう昼日中の道路を、数台の車が走っている。中にはやや古く、右側のドアミラーのない車も一台。ベルトランドの運転する黒色のボディーの国産車だ。
曲率の高い道のりであってもスピードを落とす事はなく、大雑把なハンドルさばきを続ける。五人乗りのAセグメントは小さめで、その分エンジンのパワーも弱く、アクセルを常に全開にしている必要があった。
山奥に湧き出るムリーノの滝は、マレンマ地方サトゥルニアにある。地熱で温められた源泉がその滝つぼに溜まったのが、サトゥルニアの温泉 だ。
ローマ神話に登場するサトゥルヌスの名を冠した村の近くで、営業時間や入浴料といった制限のない、まさに天然温泉だった。
海寄りの道を北上する車の中、運転席のベルトランド、助手席のクラウディーナからの質問は続いていた。
「あんたの爺さんを殺させようとした?」
「偶然なんだ。俺の祖父だと、ディエゴは知らなかった」
後部座席に座ったアルフィオは腕に抱いたロゼッタを起こさないよう静かに答えた。乗り込む際、クラウディーナに強引に抱かされたのだ。
六歳未満の子供を乗せる際はチャイルドシートの取り付けが義務付けられている。が、その対象となるのは国内で正式に登録された車のみだ。
「本当に?」
クラウディーナがバックミラー越しに聞き返し、
「よく騙されるあんたのことだ。ヂエゴの言うことならすべて真に受けていただけじゃないか?」
ベルトランドも同様にミラーを見上げる。
視線を向けられ、アルフィオは目を逸らした。
「……詳細は知らない。仲介業者として渡せる情報しか受け取っていなかった」
「脳みそと同じ、穴だらけの契約ね」
キツネ女の冷やかな言葉に、カラス男は陽気に声を上げて笑う。
くだんの仲介業者とその契約について、二人はアルフィオを質問攻めにした。
本人がいまだ受け入れられない現実を受け入れる手助けを、というのではない。ただの情報収集と敵情視察だ。
ディエゴなる人物がいかに開拓精神があり、なぜ殺し屋 たちは彼に引き寄せられるのか。それを知り、ヒットマンによる同盟リングァフランカの勢力を効率的に拡大していくためだ。
個人への恨みはない、とベルトランドは言っていた。目的は、ディエゴの持つ人脈から有能なヒットマンを引き抜く事と、その交渉術を盗む事だ。
だが残念なことに、その下から抜け出した捨て犬を情報源として捕獲したところで、あまり役に立ちそうになかった。何故なら彼は仲介業者の一契約者に過ぎず、おまけに他のヒットマンとは明らかに違う関係性を望み、育んでしまっていたからだ。
仕方なく二人は、アルフィオが彼の元を去るに至った経緯から掘り下げる事になったのだった。
アルフィオは少し身を乗り出し、声に力を込める。
「南部くんだりで知らないことはないんだろう。祖父の消息を調べる事もできるか?」
しかし言い出したベルトランドは敢えて渋るように聞き返す。
「知ってどうするんだ? 自分の身寄りも|覚束《おぼつか》ねぇのに、爺さんを引き取って孫として生きるのか。それとも今度こそ死を与えに行くか?」
「それは、まだ分からない。だが俺は、ヒットマンなのに、標的 を生かす選択をしてしまった。結果が分からない事には、次に動きようがない」
そこへ、クラウディーナが前を向いたまま割り込んだ。
「情報ならすぐに集まると思うけど、その前にひとつ確かめさせてくれない?」
「ああ、何だ?」
「そのターゲット、本当にあなたのお爺さんだったの?」
あまりにも根本的な疑いを掛けられ、アルフィオは面食らってしまう。
「どういう意味だ?」
「だって、その話、どう聞いても変だわ。シチリアの老人が、どうしてナポリの公共病院なんかにいるのよ。あなたの故郷には病院もないの?」
よどみなく指摘を続けるクラウディーナに、アルフィオは戸惑いながらも反論する。
「だが……確かに本人の口から聞いたんだ。五人の孫がいて、長男は急にいなくなったと……」
「あんたがその長男だって言うんだな?」
ベルトランドに一度確認され、
「ああ、そうだ。俺は十八で……家出を」
短く答えた。
だが、クラウディーナも主張を曲げない。
「珍しい事じゃないわ。よくある名前で、よくある話だからこそ確証がないじゃない。依頼人 が誰だか知らないけど、寝たきりになってもヒットマンを派遣されるなんて。あなたのお爺さん、大悪党なのね」
売買していた情報の曖昧さとは別人のように鋭く、相手を追い詰めるような口調だ。
「そんなはずはない! ただの養蜂家で──」
咄嗟に言い返した事により、アルフィオはようやく気付いた。
「誰かに命を狙われる必要なんか……ない……」
尻窄 みになっていく様子に、クラウディーナは小さな口元に笑みを浮かべる。
「十年以上経って、家族の顔も分からなくなったみたい。暗い病室でよく見えなかったなんて理由にならないもの」
事態が飲み込めず、片手で頭を抱えるアルフィオ。
「……俺の祖父ではなかった、という事か?」
「そんなの知らないわ。今までその可能性を考えなかったのか不思議なだけ」
「じゃあ、どうして彼は年老いてまで殺されるような運命を……」
「あの仲介業者と契約した過去の自分を嘆くのね。ビジネスなら不利のないようにしなきゃ」
小柄な彼女に突き放すように言われ、大型犬はまた視線を落とした。
二人のやりとりを珍しく黙って聞いていたベルトランドが金色の嘴を開く。
「あんた、自分で言ってたじゃないか。不運なのは『アルフィオ』って名前だからだろう。もしその通りなら今もイル・ブリガンテは逃がした犬を血眼になって探してるはずだ」
ハンドルを片手で握ったまま、得意げに続ける。
「だがあんたはここにいる。気分がいいな」
競売に掛けられた商品を勝ち取ったかのような口ぶりに、クラウディーナは賛同するどころか眉をひそめた。
振り向かず、また質問を投げつける。
「それで、他に何か思い当たる事はない?」
「思い当たる事?」
顔を上げ、弱々しく聞き返すアルフィオ。
「ディエゴがあなたを追い出した理由よ。決まってるじゃない」
呆れたように言われ、後部座席の振動に身を委ねながら考える。
「……自分は結局誰にとっても赤の他人だと、言っていた。信頼していたという言葉も嘘なら、俺にも心を開いていなかったのかも知れない」
「おいおい、何もかも嘘とは言ってないだろう。違いの分からない男だな、白と黒の サポーターか?」
極端になり始めた思考へ、冗談交じりにブレーキを踏むベルトランド。車は走り続けている。
クラウディーナはミラー越しに後ろを見やった。腕に抱えられたロゼッタは退屈な話にもおとなしく耐えている。
「高血圧なファミリーはナポリのフォルチェッラに居るんでしょ? 猫おばさん に聞いたわよ」
「血縁のある家族 じゃない。生まれたのはローマだそうだ」
アルフィオは端的に答えるが、この件もまた、どこまで伝えて良いものか測りかねていた。線引きはかなり曖昧になりつつある。
これまでとまったく違った環境に置かれた緊張による心身の疲労と、望むと望まないとに関わらずひとまずの居場所を得た安心感は、アルフィオの判断力を鈍らせ、警戒心を薄れさせた。
野生のカラス男とキツネ女からの質問に答える事は、自分を捨てた主人を恨んでの行為ではない。自身の行ないを省み、ディエゴの言ったことを理解しながら、置かれた状況を受け入れて初めて、見えてくる事実があるものだ。
今後、もしディエゴとまた一緒になる機会に恵まれるのであれば、不用意に情報を漏らすべきではない。だが、ディエゴがアルフィオをふたたび受け入れるかという問いについては、誰も答えを知らないのだ。恐らく気まぐれなディエゴ自身にも、分からないだろう。
やがて、丘陵を流れるムリーノの滝が、白っぽい煙を上げながら石灰質の棚田に流れ込む、雄大な景色が見えてくる。
オフシーズンである十一月中旬にも、入浴客の姿はちらほら見受けられた。近くにある駐車場にも数台の車が停まっている。
人々はゴシップやジェラート、母親 が大好きであり、同様に温泉 も大好きだ。
火山国のイタリアでは、ローマ帝国以前、エトルリア都市の時代から温泉を愛好する文化が記録されており、今でも多くの入浴施設や温泉が存在する。
ベルトランドは到着するや否や、服を脱ぎ捨てて水着一枚になり、滝の上流へ向かってしまった。危険とも言える岩場の上を、サンダルも履かずに飛び立つように走り、移っていく。
準備をすると言ったクラウディーナにより、アルフィオはロゼッタを抱え、ハンドバッグに腕を通したまま車の外へ追い出された。
外では特有の硫黄のにおいが立ち込めており、わずかに頭痛がした。「猫足」に乗り慣れた室内犬にとって、古い車体とカラス男の運転は揺れがひどく、二日酔いに加えて車酔いもあったのだ。
アルフィオは眉間に皺を刻んで、遠くまで広がる空と景色を眺めた。
そうしながら、意識はやはりディエゴと祖父に向かっていく。考えるべき問題は山積みになる一方、解決策も、進むべき道も一向に見つからなかった。
今頃どこで何をしているのか、本当に祖父ではなかったのか、本当に自分を愛してはいなかったのか……
「まあ、なんて可愛いの! 天使を連れてるのかと思っちゃった!」
中年の女性が話しかけて来た事で、アルフィオのとりとめのない思考は途切れた。声の主の顔を見下ろす。
やや短めの茶色い髪は濡れ、肌が赤らんでいる。すでに入浴した後らしい。なだらかな肩にバスタオルを羽織っており、胸と腹、腿といった、いずれもふくよかな部位は、派手な柄のビキニからこぼれるようだ。
彼女の視線は、子連れの父親に向けられるものだった。
「ああ、いや、この子は……」
アルフィオはしどろもどろに答えようとした。容姿を見て、父親と間違われている事が分かるからだ。
しかし女性にもまた一方的に会話を押し進められ、それはロゼッタの母親が車から出てくるまで続いた。
「もういいわよ、パパ」
主張できないアルフィオを馬鹿にしたように、クラウディーナが笑いながら現れる。シンプルな色の、セパレートタイプの水着に着替えていた。
連れ合いと思しき中年男性の元へ向かう女性の背中を見送ったアルフィオは、クラウディーナに向き直ると、堪らず声を上げた。
「もういいのは、俺の方だ!」
抱えていた小さな体をクラウディーナに押し付ける。
ようやく解放された両腕は、肘から下が震えていた。よく鍛えられた筋肉が、産まれてからたった数ヶ月の体重に耐えられなかったのではない。
だが白い両手は異常に汗ばみ、肩からずり落ちてきたバッグを直せないほど硬直している。
「本当に子供は苦手なんだ! どうして俺にこんな事をさせる? 俺がお前に何をした? そんな、いつ泣き出すかも分からない、暴発する銃のようなものを──」
激しい剣幕で訴えかけたが、突然、言葉を続けられなくなった。
視線がある部分に吸い寄せられる。
女性の中でも小柄なクラウディーナの体は、小枝のように痩せ細っていた。アルフィオと同じく殺し屋をしていると言っても、生活に困窮する場合もあるだろう。仕事を得る伝 も、それをこなすだけの技術も必要だ。
だがその水着姿の、胸元だけが異様な形に膨らんでいるのだ。まるで風船を詰め込んだように膨らんだ様は、肉感的と表現しようにも明らかに不自然だった。
「…………」
アルフィオは目を逸らすに留まらず、言葉をのみ込んでしまった。
無論、女性特有の曲線に欲情したのではない。先ほど聞いた彼女の言葉の、もうひとつの意味を理解したのだ。
『あなたと“同じ仕事”をしてる』
さらに引き出される記憶は、いつかディエゴが言っていた、売春を強いられる女性たちの有り様だ。
『今ごろ動物用のホルモン剤でも打たれて、情熱的とは程遠い──オレ以外の男どもの情婦だ』
豊満で肉感的な女性らしさを好む客の需要に答えるため、一部の売春婦は安価な家畜用の薬剤を使用し、体を大きくする。その結果、過剰摂取によって死亡する例も出ているが、摂取を止めたとしても離脱症状に苦しむ羽目になり、客足が遠のけば生活もできなくなる。中毒を引き起こしてもなお、止められないのだ。
クラウディーナと名乗る彼女がどのように人生を歩んで来たのか、どのような経緯でここに居るのか、アルフィオは知る由もない。
だが、体全体ではなく、胸だけが異様に膨らんだその状態からでも、およそ平穏とは言えない事が察せられた。
アルフィオは何も言わず上着を脱ぐと、華奢な体を覆い隠すように彼女の肩に引っ掛けた。重い生地にすっぽりと埋まったクラウディーナが、不可解だと言いだけに眉根を寄せる。
「何するのよ。気に入らないなら怒ればいいじゃない」
「……俺は、他に生きていく方法がないから、ついて来ただけだ。お前たちのこともまだ信頼できない。それにはっきり言って、子供も好きじゃない」
シャツ姿になったアルフィオは腕を組み、淡々と答える。
「だが、この気温の中でそんな格好を黙って見ているほど心は失なっていない。湯に入りに行くまで羽織っていろ」
その言葉に、キツネ女の視線が少し和らいだ。
「あなたも、こんな事をするのね。意外だわ」
「男を愛したからと言って、女を嫌う理由にはならない。残念ながら、俺もイタリア男 だ……」
次の瞬間、顔をそむけ、くしゃみをするアルフィオ。
雨に打たれ、埃まみれの部屋、そして植物の生い茂る自然の中と、様々な環境の変化に、体の内側から拒否反応が起こっていた。
それを見たクラウディーナは吹き出し、
「健康を !」
と言って、借りた上着をわざとらしく翻した。その表情は女性と言うより少女のようにあどけない。
母親の準備が整ったのを見計らったようにロゼッタがぐずり始め、二人は一度、車の中に戻った。エンジンは切ったままでも、入れないテルメを前に立ち尽くしているより快適だ。
狭いながらも後部座席を独占できるようになったアルフィオは体を横向け、また外の景色を眺めた。
ベルトランドは誰よりも高い場所へ浴びに行ったようだった。上流の激しく白っぽい滝の中には、黒っぽい人影が見え隠れしているのだろう。
そうながら、唐突に切り出す。
「昔、ファミリーから脱走した男を殺した。斡旋先の売春婦と恋に落ちて……一緒になるつもりだったらしい」
一見脈絡がないようにも取れる、聞かれてもいないことを話し出すのは、それを通して伝えられる事があるからだ。自身の経験の中から、答えを見つけ出そうとしていた。
「俺に命じられたのは二人──組織を抜けた男と、雇い主を裏切った女だ。隠れている所をファミリーが見つけ出した時には小さい子供もいた」
助手席のクラウディーナの胸に抱かれたロゼッタに視線を向ける。淡い青色の瞳は何も知らない。
「……動かなくなった親にとりすがって泣く声が、今も耳から離れない。だから、子供の泣き声を聞くと動悸がするし、思い出す」
アルフィオは語りながら、自身の手を触る。震えは治まり、汗も引いていた。
「だが、子供だけじゃなく若い女性 に、罪は無かったと思う。相手の男の盾になる事さえある状況で……よく生きているな」
労いとも感心とも取れる言葉に、クラウディーナはようやくアルフィオを見た。目ざとく光るキツネのようなそれではなく、ただ赤子を抱く女性の眼差しだ。
「なんて事ないわ。この子を守るマンマは、私しか居ないもの」
***
十二月上旬、町には至る所にイルミネーションが灯り、プレゼーピオ人形やツリーが飾られはじめる。
広場にはスケートリンクが用意され、いつもより特別な商品を取り扱うマーケットが展開される。ツリーのデコレーションや、箒に乗った魔女の人形、大きな靴下、色とりどりの菓子といった賑やかな陳列を見るだけでも、これまでとは明らかに違う雰囲気が感じられるだろう。
様々な行事が商業イベント化する現代でも、二十五日の降誕祭 は、国民が最も盛大に祝う伝統的な宗教行事だ。
十二月八日の無原罪の御宿り に始まり、一月八日の公現祭 までのおよそ一ヶ月がその期間にあたる。
この頃から既に、冬服に身を包んだ人々は明らかに浮き足立っている。
華やいだ街の様子に、今年はどうにも馴染めないのがアルフィオだった。
生まれ育った故郷でも、ナターレは家族で集まって過ごすものだと教えられた。イル・ブリガンテの拠点でも、顔の見えない首領カルロの計らいで豪勢なパーティーが開かれたものだ。マフィアであっても、家族 である事に変わりない。
だが今年のアルフィオには、家族と呼べる者がいないのだ。
ベルトランドという男の紹介と、噂好きのホームレスたちにより、忠犬アルフィド、改め、オオカミ男アルフィオが独立した殺し屋として依頼を受け始めた事は、またたく間に知れ渡った。
ディエゴに殴られた理由を知らない者たちの間では、いよいよあの短気で横暴な性格に辟易し、彼の元を飛び出したのだという憶測まで飛び交っていた。
自由である事こそ、フリーランスたるゆえんだ。クライアントとの取引や交渉から、仕事の無い時をどのように過ごすかに至るまでが本人の判断に一任される。
一人で活動すれば報酬はすべて自分のものとなるが、たとえ消息が途絶えてもそれを知らせる術はない。かと言って誰かと共闘するにも、信頼に足る相手か見極める手間がかかってしまう。
どちらが動きやすいか、決めるのは自分次第。ここは、きわめて個人主義の世界だ。
そんな個々の活動をより効率的で合理的に行なうために生まれたのが、〈共通言語 〉である。
孤高の一匹狼が共通言語によって得た新たな繋がりは、自由と平等を謳う同盟に過ぎない。同盟とは、オオカミのパックやマフィアのファミリーのような組織形態を持つ事ではないのだ。
リングァフランカでは、加入する者への暴力的な儀式も、特別な契約もない。彼らは共通言語を介して繋がるが、同じ目的を見据える事も要求されない。脱退にあたっての制約もないようだった。
互いの利害が一致した時のみ、個体は群れとなって協力する。それはビジネスのようでいて、互いを守るファミリーのようでもある。だからこそ誰もが不利益を被る事の無いよう、平等を強調する。
そんな平等という名の均衡を保つ為には、ある程度の秩序が必要だというのもまた事実だろう。
『仲間の獲物を横取りしてはならない』
といった発言をベルトランドがしていた通り、リングァフランカにも、いくつかの掟が存在した。
例えば、
『他人の金に手を出してはならない』
というのは、表社会を歩けなくなった者が繋がるにあたって設けられた、最低限にして最大限の節度だ。
掟の狙いは、内輪でのトラブルという本末転倒を防ぐ事にある。
裏を返せば、空を飛ぶように気楽なカラス男や、つかみどころのないキツネ女がいる事からも分かるように、彼らを拘束し、何かを強いるような決まりはないという事だ。
元より戒律を重んじ、規律と自律を心掛ける性分だったアルフィオにとっても、遵守するのが困難なものは見当たらなかった。求められ、自身が応じると判断した時にのみ力と名を貸すだけで、属する全員の顔と名前を知り、憶える事も特に求められてはいない。
ちなみに、掟をやぶった者に制裁が加えられた前例はないと言う。
もちろん裏表を問わず、社会における決まり事を守れないのは、社会性を持つ動物にとって致命的だ。ともすれば個の範疇を超えた被害を及ぼしかねず、他の安全を脅かす可能性もある。
リングァフランカの秩序を乱す行為が発覚した場合、その事実が風よりも早く裏社会全域に広まるのは容易に想像できるだろう。
草食動物の群れの中で遅れをとった弱い個体が肉食動物に狩られるのは、自然の摂理だ。また、卵から孵った数羽の雛鳥の中で、成長する見込みのないものは巣から落とされるのも。
まだ目も開かない無力な雛鳥ですら、たまたま生まれついただけの能力で、彼ら彼女らは死線をくぐり抜けている。そこにあるのは平等であり、平等とは公平ではない。
ましてや他人の命を奪うほどの力を持ち、自身の意思でどこに属するかを決められる人間ならば、そこで定められたルールを理解するなど造作もないはずだ。属するに値しなかった個体がどれほど悲惨な末路を辿ろうと、興味を示す必要すらない。
まるで幽霊のように人目を忍んで暗躍する自分たちの秘密と信頼を守る術もまた、それぞれのメンバーに委ねられる。
そんな個人主義者の集合体とも言える、一見すると脆弱そうな性質を持ちながら、ディエゴと共に活動していたアルフィオにすら正体を気取らせなかった。
幽霊なる噂を吹聴し、好奇心を煽りつつ、逆手に取って隠れ蓑にする。〈パンとサーカス〉的方法にまんまと騙されていたのだ。
そんな彼らの共通言語の輪は、人々の知らないところで、着実に拡大を続けている。情報網としてホームレスの力を借りる事を提案した友人や、社会を変えるほどの権力を持った友人の協力によって。
「……ああ、分かった。引き受けよう」
それが、〈忠犬〉から〈オオカミ男〉と呼ばれるようになったアルフィオの新たな口癖となっていた。
行き場や仕事、家族、体だけでなく心を預けた相手……すべてを失なった野良犬は、とにかく、自身にやれる事とやるべき事に飢えていた。
クライアントとは無理を押して交渉する気にもならず、ターゲットの詳細な情報と報酬の内容さえ理解できれば、それで良かった。イル・ブリガンテに居た頃、ドン・カルロからの依頼だと言って伝えられていたのと同じだ。
目下のところ必要なのは、二十四日の夜に正装をしてミサに行く時間を確保する余裕と、二十五日を共に過ごす家族が居ない事など気にしなくて済むような忙しさのみだった。
個人主義の集合体であるリングァフランカは、確かに居場所となりつつある。
同時に、気掛かりな事もひとつずつ、解決の糸口を見出し、自分なりの結論を出した。
中でも特筆すべきは、祖父の「アルフィオ」が健在であり、誇り高き文化を支える養蜂家を続けているという事だ。
これはくだんの、南イタリアおよびシチリア島を網羅する“目と耳”を駆使して手に入れた情報だった。
南イタリアでは、名前を祖父から、仕事を父からそれぞれ継ぐのが伝統的だ。だが彼には娘しかおらず、養蜂場の権利はやがて他人の手に渡ってしまうだろう。義理の息子は家族ではあるが、仕事を与える事もない。
つまり、ナポリのはずれにある公共病院で死を待つばかりだった「アルフィオ」が口走った人生とは、偶然の一致に過ぎなかったのだ。
仲介業者から伝えられたのが、誤った依頼だったのではない。こちらのアルフィオはまたしても思い違いをした。
なお、あの老人は〈死の執行人〉の手によって一度は蘇生したものの、翌日に容態が急変して死亡したと記録されている。
だが、だからと言ってあの仲介業者の元に戻り、自身の誤解だったと弁明できるほど状況は単純ではない。
ヒットマンとして、ターゲットを殺さなかったのは事実だからだ。さらに互いの意見をぶつけ合う口論に留まらず、これまでの人生や価値観そのものを否定し合い、信頼を失なった過去は消せない。一度割れてしまった皿は、同じ形には戻せないのだ。
臆病なアルフィオはまたしても、逃げる事にした。
ディエゴについての情報と意識を一切遮断する事したのだ。まるで耳にプロシュートを詰めたように、聞こえないふりをし、話題に上げる事すら止めた。
寝た犬をわざと起こしにいく必要はない。あの短気な狂犬が縄張りと表現した、都市部に行く事も避けた。彼のことを忘れるためにも、別の何かに熱中する必要があった。
返す道もなくした黒いハンドバッグだけが、もはや体の一部のようにアルフィオの手にぶら下がっている。
リングァフランカに引き込んだ張本人であるベルトランドは、折に触れてそんなアルフィオをからかいに来た。
「それが当たったら“仕事”を辞めるか?」
タバッキの入り口近くの壁に凭れたベルトランドが訊ねた。手には一枚のくじを持っている。
出会ってから一ヶ月が経つが、このカラスのような男は、孤高を気取る一匹狼の周りを飛び回るのをやめなかった。よく喋る金色の嘴と、ポケットに忍ばせた便利なフォールディングナイフも、常に携帯している。
が、彼の一番の武器は、気の長いアルフィオでさえ、断り続けるのが億劫になってしまうほどの執拗さと恩着せがましさだった。
偵察や見回りと称してアルフィオを街に連れ出しては、酒を飲ませようとしたり、宝くじを買うよう唆したりするのだ。
今日もしつこく食事に誘われた挙げ句、根負けしたアルフィオは鉛筆を握ったまま視線を向ける。十二月の平均気温は昼間でも十三度を下回る。肌だけでなく吐く息までもが白くなっていた。
「ここまで持ち越された賞金があれば家が買える」
相変わらず余裕のある笑みを浮かべ、続けたベルトランドに、
「家は必要じゃないし、仕事も辞めない」
口の中にこもったような声で端的に言い返した。
と、ベルトランドが長い腕を伸ばし、その手と壁の間から宝くじをかすめ取る。
二人が購入したのは最も一般的な、世界的にも有名なくじだ。1から90までの中から六つ数字を選ぶという単純な仕組みで、毎週火、木、土曜日に抽選が行なわれる。
当選者が出なかった場合、その賞金は次回へと持ち越され、当選者が出るまで雪だるま式に膨れ上がっていく事になる。
二○一九年、当選者が手にした金額は過去最高となり、欧州全体での過去記録を塗り替えた。強運な当選者の元にはメディアが詰め掛ける事態となった。
ベルトランドは小さな黒目でアルフィオの選択した数字を見るなり、
「おいおい、偶然にしちゃひどい取り合わせだな」
と冷やかすように言った。
彼の指しているのは、数字に割り当てられたシンボルの組み合わせについてだろう。
この国では、数字に様々なシンボルが割り当てられている。例えば「1」には「L'italia 」、「2」には「la bimba 」、「3」には「il gatto 」といった具合に。
不思議なことに、キリスト教が深く根付く文化圏では不吉として忌み嫌われる「13」には「Sant' Antonio 」なる人物が割り当てられており、聖アントニオを守護聖人とするナポリではむしろ好ましい数字とされる。
これらはナポリの夢数字 と呼ばれ、主に数字当てゲームで使用されるほか、占いや運試しなどにも用いられる。その日に見た夢の内容に従って、シンボルと対応する数字を探し出し、宝くじを購入するのだ。
宝くじを買う全員が、1から90まですべての意味を暗記している訳ではもちろんない。
アルフィオはベルトランドにうながされ、近くの壁に貼られた数字の一覧表を見た。視線が向くのは、この一ヶ月で使う頻度の増えた数字だ。
『 29……il padre dei bimbi 』
『 78……la prostituta 』
と記されていた。末尾の「0」は意味を持たない。
「陰茎と売春婦なんて、欲求不満なんじゃないのか。メスのキツネが髪をかき上げて呼んでるぞ」
耳元で、からかうようなカラスの鳴き声がした。いつの間にか組まれていた肩を振りほどくアルフィオ。そのまま翼の付け根にあたる肩を押した。
「俺は彼女の客にはならない」
地区の北東にある拠点の不自然な内装を思い出す。天井から下げられた襤褸布は、狭い一室をわざわざ間仕切りするカーテンのようだった。
あの場所はカラス男の窼でもあり、リングァフランカに所属する者の仕事場にもなり得た。つまり、売春が行なわれるのだ。
クラウディーナをはじめ、キツネのように狡猾で強かな女たちは、時に格安のストリートガールとしてターゲットを誘い込み、油断した所を狙う。
動物が最も無防備になるのは、水浴びをしている時間ではない。快楽に没頭している瞬間だ。
「ああ、陰茎のついた売春婦だから……情夫って意味か?」
ベルトランドは面白がって小突き返してくる。
「思い出させるな!」
アルフィオが語気を強めても、カラスの人を食ったような態度は変わらない。
「オレは名前を出したわけじゃねぇ。失恋の痛手を引きずって、意識してるのはあんたの方だ」
「…………」
言い返され、アルフィオは黙ってもう一度相手の肩を突いた。舌は痛む歯に触ろうとするものだ。
店の軒先で小突き合う長身の二人組は、傍目にはただの友人同士に見えるだろう。
ベルトランドはひらりと身を躱すと、二人分のくじを持って店内のレジカウンターへ行ってしまった。
数字を書いたシートを渡せば、店員がレシートを発行する。抽選日になり、当選していれば、賞金と引き換えられるものだ。
店から出ると、陽気なベルトランドはまたアルフィオに寄り掛かるように身を寄せてきた。筋肉質な体重がのし掛かる。
そうして二人は、目当てのオステリアを目指して歩き出した。
「家族のようにべったりいるわけじゃないと」
よろめいたアルフィオが迷惑そうな表情を示しても、
「群れる必要があるって言っただろう」
と、悪びれる様子もなく笑みを浮かべる。
オオカミが群れを作って効率的に狩りをするのと同様、カラスもまた、繁殖期でなくとも番同士や近くの仲間と行動を共にする習性を持つ。
「安全のためなのは分かるが、友人になった憶えもない」
アルフィオはため息をついた。
強引な態度に変わりはないが、初めて会った時の不気味さは薄れているのも確かだ。
人を惹きつける愛嬌に恵まれ、自然体で振る舞う小型犬やウサギと違い、ベルトランドの言動にはいささか大袈裟な部分も見受けられる。
下がり気味のまぶたの下で素早く黒目が動く。気さくに友人と話すふりをして、常に周囲の出来事や情報に気を張り巡らせているのだ。
動物の中でも屈指の社会性と優れた記憶力を持つだけでなく、縄張り意識や警戒心が強いところも、オオカミとカラスの共通点だった。
地区の中央からわずかに東に、赤煉瓦造りの大きな教会がある。福音書を書く伝道師であった聖人の名を冠し、一九五○年代に建てられたものだ。
二階建てで、高い天井の下には輝くような白い壁と床がある。設計時には採光についても工夫され、菱形を組み合わせて端正な網目を模した形の大きな窓が入口と祭壇の奥にあった。中に入れば、さぞ明るく、快適な環境で、祈りを捧げられる事だろう。日曜日には多くの教徒たちが訪れていた。
また、敷地内には劇場が併設されており、役者たちの活躍を観劇したり、オーケストラによる演奏を聴いたりする事もできる。
その敷地内に、もうひとつ、小さな教会跡があった。敷地の中に植えられた木々で隠されてしまうような規模だ。
聖人たちの描かれた壁画やカラフルなモザイクは崩れて瓦礫となり、ヴォールトの天井を大きくえぐったような穴も空いている。参列者のための木製の座席ももぎ取られ、高浮き彫りや彫像は外された後らしい。
表の通りから見ると大きな教会の陰になる立地だ。人々の拠り所が新たに確保されたため、建て直される見込みがなくなったと推測できる。取り壊しの予算を割く価値すら見出されず、放置されている廃墟だ。
そんな不気味な場所にわざわざ立ち入る者はおらず、人目にもつかない。昼でも薄暗く、夜は外の明かりがわずかに射し込んでくるばかりだ。
ここが、新たに殺し屋として仕事を受けるようになったアルフィオの拠点だった。
と言っても、ここに腰を据えている事は少なく、大抵は狩りに出掛けている。
運転手も囮もいない生活も、イル・ブリガンテで過ごしていた時と同じだ。依頼を引き受ければ、車でなければ電車やバス、船や飛行機など、計算通りに運行される保証のない交通機関を乗り継ぎ、時には宿泊施設にも潜伏し、何日もかけて向かう事もあった。
土地の管理者であるはずの心優しく高潔な聖職者たちは、幽霊のように実体のない住人に気付かないようだった。
またアルフィオは、車を購入し、車上生活を送る事もしていなかった。雨風さえしのげればよく、家を借りる事もなく、持っている物は黒いハンドバッグのみだ。
季節の変化に耐えかねて服は買い足したものの、着なくなったものは寒さに凍えるホームレスに渡すようにしていた。
ナターレを待ち望む第四週、十二月に入って三度目の日曜日、アルフィオは拠点にいた。日曜日は神聖で特別な日のため、仕事をしないと決めている。
隣にある大きな教会での日曜学校が終わった頃、アルフィオは買ってきたパンにシチリア産を掲げた蜂蜜をかけて食べていた。
体力温存のために恒温動物でありながら冬眠するクマと違って、オオカミが冬眠する事はない。そして、多くの人間の暮らす社会には、冬でも食料調達に困る事もない。
それを見計らったように、熱心なクライアントが向かったとベルトランドから連絡が入った。
彼らはどうしても、〈忠犬アルフィド〉に頼みたいと言うのだ。
訪ねてきたクライアントは二人連れの男だった。
「あなたが……忠犬アルフィド?」
片方の金髪が少し不思議そうに言った。まるで予想外の人物と出くわしたように。
「俺たちを憶えてるか?」
もう一方の髭面が訊ねてくるが、アルフィオには分からなかった。
「いいや……」
「まあ、無理はないか。死んでいても不思議じゃなかったものな」
後ろの金髪の男とうなずき合う。
アルフィオは記憶を探るが、瀕死の状況に陥った事さえ、遠い昔のように思えた。
それから髭面の男は、アルフィオの容姿を上から下まで見た。よく手入れされた顎髭とは裏腹、不躾な視線だ。他人からの評価に鈍感なアルフィオも、違和感を感じざるを得ない。
男が癖の弱い黒髪と、大きな瞳を見て何かを思い出したように訊ねる。
「あんた、出身は?」
名乗る事を知らない彼らからは、信頼に足らない様が伺えた。今のアルフィオにとって仕事はあるに越した事はないが、クライアントを選ぶ権利はヒットマンにもあるというものだ。
「俺はシチリア島生まれ だ」
端的に答えるアルフィオ。
「ブルネットにグレーの眼で、シシリアン……なるほど、そういう事か。あのホモ野郎 」
その言葉は、単なる偶然だろうか。アルフィオは思わず胸の内でくすぶる記憶を押さえ込む。
ついて来た金髪の男がわずかに体を傾け、穏やかな笑顔を見せた。
「またお会いできて嬉しい」
「ああ、ええと……」
どのように反応するべきか迷っていると、髭面の男は一度彼の方を見やってから、スマートフォンを操作した。
「仕事を依頼したいんだ。あんたに頼むのが一番だと思って、指名させてもらった」
アルフィオはひとまず、差し出されたスマートフォンの画面を覗き込んだ。
瞬間、思わず呼吸が止まってしまうほどの衝撃があった。
「こいつは、自分のファミリーの掟をやぶったんだ」
「…………」
説明を受けても、画面と二人の顔の間で、視線をさまよわせるしかない。そんなアルフィオの態度を見た髭面の男が、何かに気付いたように告げる。
「ああ、言うのが遅くなった。俺たちはイ・ピオニエーリというマフィアファミリーなんだ」
写っていたのは、見間違えようにも見間違えようのない、あのディエゴだった。
画像はファミリーの食事会の様子を切り取り、拡大したものらしい。豪勢な食事を前に、自身の膝には幼ない子供を二人も乗せ、向かいに座る同世代の男性と話しながら、楽しげに笑っている。
いつ頃に撮られたものなのか、髪型も少し違い、顔立ちや服装もアルフィオの知っているものよりややあどけない。
「それと、俺はチーロ。名前からも分かるだろうが、生粋のナポレターノだ」
握手をしようと手を差し伸べてくるが、アルフィオは身動ぎもできない。手を取れば、この取引を了承する事になってしまう。
チーロと名乗った男は気難しいヒットマンにも堂々と自分たちの事情を突き付ける。
「本来なら俺たち友人の手で殺してやるのが手向けだが、うちには腕の立つヒットマンなんて居ない。それに運の強い奴で、依頼は何度か失敗してる」
「……他のヒットマンに依頼されている殺しは、引き受けられない」
アルフィオは咄嗟に言葉を押し出し、断ってしまった。個人的な感情を差し引いても、事実には違いない。
チーロたちは困ったように顔を見合わせる。
「そうなのか、それは弱ったな。あんたを頼ってローマまで来たんだが……」
「リングァフランカの掟なんだ。イ・ピオニエーリにも、掟はあるだろう」
アルフィオはなるべく動揺を悟られないよう言葉を継ぐ。
「俺たちだっていっぱしのマフィアだ、掟を持ち出されちゃ仕方ない。他を当たるよ」
二人連れは意外にもあっさりと引き下がった。
「…………」
うなずくばかりで何も言わずにいる、後ろの金髪の男が気になってしまう。首にタトゥーがあり、彫りの深い顔立ちをしている。相手も視線を投げかけてきていた。
「そうしてもらおう。この話は聞かなかった事にする」
アルフィオは逃げるように視線を落とし、淡々と告げた。チーロが少し意外そうに聞き返してくる。
「本当か? 助かるが、あんたが伝えないという保障は……」
聞きたくもない名前に、アルフィオは首を振った。
「伝えるつもりはない。借りは返した。今の俺には……彼を気にかける理由がない」
そう返すのが精一杯だった。
男たちは連れ立って出ていったが、すぐに、金髪が一人で戻ってきた。
「ねえ、あなた、本当にシチリア人 かい?」
「ああ、そうだが……」
先ほどよりも近い距離で訊ねられ、アルフィオは素直に答えてしまう。方言や食の好みというものは、そう簡単に無くなるものではない。
すると相手はにっこりと笑みを見せた。
「ルカという人を知ってる? よくいる名前だけど、サンタルフィオのルカだ」
その問いに、アルフィオは思わず顔を上げた。
「ルカ……」
小さくつぶやいた名前は、もう呼ぶ事などないと思っていたものだ。
目の前の金髪が、やけに懐かしく感じる。最後に見たのは、二十年近くも前になる。
「やっぱり。こんな場所で再会するなんて残酷だね、アルフィオ」
金髪をかき上げ、十字架を失なった祭壇の残骸を見上げる。
「……忘れられるはず、ないだろう」
アルフィオの口から言葉がこぼれ落ちた。
「良かった。さっき、日曜学校から帰る人たちを見たよ。こんな時間から海に行くなんて、どうかしてた」
隣の教会にいる伝道師と同じ名前を与えられたルカが、世間話のように口にする。それは、思い出話という〈共通言語〉だ。
受け取ったアルフィオもつい、返してしまう。
「ああ……帰りが遅くなって、こっぴどく叱られたのも憶えている」
待ち合わせてイオニア海まで出かけた。オレンジの蜂蜜をヨーグルトに混ぜて食べた。それが多感な少年たち に許された、精一杯のデートだった。
男性同士の同性愛は許されざる罪であると、幼少期から教え込まれて来たのだから。
「…………」
「…………」
二人して、黙り込んだ。チェリー・フラワー・フェスティバルの花のように開く思い出話より、感傷にひたってしまっていた。
彼もまた、話すのが得意ではないのだ。チーロの後ろで、話が進むのをただじっと見ていている事しかしなかった。
何から話せばいいのか、何を話すべきなのか、アルフィオにも分からない。
「ルカ、何をしてるんだ?」
外からチーロの声が急かすように呼びかけてくる。
「分かってる、チーロ。すぐ行くよ」
やはりルカと呼ばれた男は返事をした。向き直り、人差し指を口元に立てる。
「……ふたりだけの秘密だ。彼は同性愛を病気だと思っているから」
そしてルカは着ていた厚手のコートをためらいなく脱ぐと、何も言えずにいるアルフィオに羽織らせようとした。以前、アルフィオがクラウディーナにしたより自然な動きだ。
街行く人々がホームレスに施しを与えるのは、珍しい事ではない。
しかしアルフィオの背は高く、コートの裏地は頭に引っかかってしまった。頭から暗色のコートをかぶった姿は、シスターのウィンプルのようだ。
それを見たルカが、大きくなったね、と笑い、一歩分、距離を詰めてくる。
「ルカ? 何を……」
聞き返そうとするが、口が固まってしまうのを自覚する。口輪筋が引き攣り始めていた。
ルカはそんなアルフィオの口元に手を伸ばし、コートに隠れるような位置まで顔を近付けてきた。
「……相変わらず、蜂蜜の匂いがする」
そう言って、アルフィオの口元についたパンくずを取り払うと、また一歩下がった。
慌てて首をくすめ、自身の手で唇を拭うアルフィオ。世話を焼かれる幼ない子供のように扱われ、久々に恥という感情が湧き上がっていた。ひとつ歳上の相手に、成長したところなど何ひとつ見せられていない。
ルカはその肩にコートをきちんとかけ直し、またにっこりと笑みを見せた。
彼がアルフィオの体に上着を掛けてやるのは二度目だ。だがアルフィオは、一度目の事など覚えていない。あの時のジャケットには、天使の羽が生えていたものだ。
何も言えず見返すアルフィオに、ルカは
「きみに幸せが訪れるよう願ってる」
と告げた。穏やかだが、少し寂しげな様子だ。
アルフィオはコートの前をかき合わせながら、口元に力を込める。
「ま……また、会えないだろうか? ルカ」
どもりながら訊ねるが、ルカは容易に首を縦に振らない。
「こんな形──偶然だが再会できた。ルカは約束をやぶってなんかいない」
食い下がる少年の頃の記憶に、ルカが顔を上げる。
「約束を守らなかったのはきみの方だよ。僕が高校を辞めて町に戻った時、居なかったじゃないか」
「…………」
いつものように言葉に詰まってしまうアルフィオ。
歳上のルカが、進学のために島を離れて行ったのは間違いない。その後は音沙汰もなく、少年アルフィオの初恋はそれきりとなった。
だがその際に交わした約束を、アルフィオはすっかり忘れてしまったようだ。十八歳まで成長した頃、居心地の悪さに耐えかね、自分にできる事を求めて島を離れてしまった。
その後、入れ違うように、ルカは島に戻ったのだろう。そこには蜂蜜の香りをまとった少年も、その行方を知る者も、もう居なかったと言うのだ。
「もう約束はできないよ。同じ悲しみを二度も繰り返すなんて──」
「ルカ! あまり待たせるんじゃない!」
ルカの言葉をかき消すような怒号と共に、チーロが戻ってきた。割れたタイルを踏みしめ、肩をいからせてずかずかと歩み寄ってくる。
「もう後がないのが分かってるのか? ナターレまでには決着をつけるんだからな!」
「分かってる、分かってるよ」
ルカは両手を前に出し、なだめるようにチーロの方へ行ってしまう。横切る金髪に、青みがかった灰色の眼が吸い寄せられた。
「あとはアイツの自慢のフランス車に爆弾を仕掛けるくらいしか方法がない。できるか?」
「まずは車体を見てみないと……」
アルフィオはその後を追いかけ、ルカの腕をつかんでしまっていた。
驚いた二人の顔を見、震える唇から言葉を押し出す。
「少し……交渉させてほしい」
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