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第十八章 行動援護
ローマに続く深夜の道を、一台の貨物車が走っていく。中には男が一人。大型の車体を小柄な体で運転できるよう、シートは目いっぱい前に引き出されている。
その助手席の足元には、金属製のバールが一本。事故や災害などの際に、扉をこじ開けるのに使用する救助用の道具だ。
運転手はガムを噛みながら、荒い運転で車を飛ばす。交通量の少ない時間帯とは言え、赤信号で止まる事も、制限速度はおろか標識の意味すら知らない様子だった。
アルフィオは教会跡のところどころ割れたタイルの床に寝転がり、目を閉じていた。
ルカから貰った上着を毛布代わりに、大金の入ったバッグを枕に、何度目かの寝返りを打つ。眠れずにいた。
日が落ちてからと言うもの、気温は二度まで下がり、底冷えする寒さが脚の傷痕に沁 みるようになっていた。
昼間に写真を見た事で、ディエゴの顔を、声を、言葉を、久しぶりに思い出してしまった。どれだけ意識から閉め出そうと、別の事に没頭しようと、忘れられるはずなどなかったのだ。
『お前もオレを裏切ったんだ……くたばれ、オオカミ 』
記憶の中に居るのは、閉め出される寸前に振り返って見えた、逆光の中の姿。彼は失意ともとれる表情で、アルフィオを睨んでいた。
続いて、昼間に見たルカの笑顔が浮かぶ。
『きみに幸せが訪れるよう願ってる』
彼もまた、忘れようもない初恋の相手だ。無意識に、ディエゴと比べしまう。孤独な|殺し屋《ヒットマン》は、誰かから優しい言葉をかけられる事さえ久しぶりだった。
ルカに掛けてもらった上着のある部分だけは今も温かく、アルフィオを包み込んでいる。いつの間にかその背に追いつき、追い越しそうなほど成長していた。
と、アルフィオは目を開いた。知らない気配を察知したのだ。
何かが引きずられるような音が、否、何かが引きずられる感触が、地面を伝い、背中や腕に届いていた。
人の来るはずのないこの場所に、迷いなく近付いて来ている。
敢えて身動ぎせず、違和感に意識を集中させる。息を殺し、周囲をうかがう。自身の鼓動さえ耳障りなほど、神経が敏感になっている。
今夜の月は既に沈んだ後だ。光はほとんど届かず、状況を把握するには、視覚以外の感覚を研ぎ澄ませるしかない。
次の瞬間、アルフィオは頭をかばい、その場から離れるように体を横転させた。
それまで寝ていた場所のタイルが割れ、砕ける。
硬い物が振り下ろされたのだ。不自由な視界の中に、“それ”は突然現れたようだった。
バッグを抱いてタイルの上を転がり、起き上がると同時にピストルを抜いた。構え、照準を合わせる。
暗さに慣れた目が見開かれた。
「よお、犬のアルフィド! やっと見つけたぜ」
聞き覚えのある軽快な声だ。
外から射し込む光でその小柄な人影はシルエットになり、顔立ちもはっきりしない。それでも相手が誰であるかは、アルフィオにはしっかりと把握できた。左脚の傷痕が疼く。
「何をしに……いや、俺をもう一度殺しに来たんだな、マルチェロ」
アルフィオは照準をずらさず言った。
「へえ! 口をきけるようになったんだな、こいつは驚きだ!」
マルチェロという名の人影は握っていた棒状の獲物を構えた。救助用のバールだ。またしてもどこかで見つけてきたのだろう。先ほど伝わって来たのは、引きずられた金属の棒が地面を擦る感触だったのだ。
銃口を向けられているのは暗い中でも見えているはずだが、両手を挙げようという気もないらしい。
「オオカミ男だって言ってたら幽霊だったなんてな! ポールのやつも、噂を聞いてふるえ上がってる。でかいデブのくせに、アレは小さい。おれよりビビりなんだ」
その名を聞き、アルフィオの脳裏に太った男の顔が浮かぶ。太短い指にゴールドの指輪をはめた拳がくい込む感覚を思い出し、鳩尾に痛みがぶり返すようだった。
アルフィオは一度歯を食いしばり、目の前の相手を睨みつける。
「……もう一人いたはずだ。俺を狙った、おかしな薬を飲ませた奴が」
マルチェロが高い声で子供のように笑う。
「アイツは死んだ! おれが殺してやった! お前が生きてるって分かった時にな! アハハ!」
その言動に、アルフィオは鳥肌が立つのを感じた。
同じ屋根の下に暮らしていた時期もありながら、不気味さを覚える。マフィアの構成員をして「とんだイカれ野郎」と呼ばれた男である。悲痛な声を楽しんで聞きたがり、抗争に女性や子供を巻き込んでも罪悪感の欠片すら見せなかったのを知っている。
「いつもいつも偉そうに、おれをバカにしやがって、結局自分では犬っころ一匹殺せやしねぇんだ! だから仇を討ってやるよ!」
マルチェロは支離滅裂な理論を叫びながら、アルフィオに向かって突進して来た。金属棒を振りかざし、横向きに殴りつけてくる。
咄嗟にトリガーを引いたが、間に合わなかった。銃弾は崩れた外壁に当たり、火花が散る。構えていた照準がずれてしまった。
と、刀身が切り返される。大柄なアルフィオと小柄なマルチェロでは体格も筋力も違うが、接近戦は明らかに分が悪い。
空を切る音は鋭かった。アルフィオの左脚、以前重い丸太でぐちゃぐちゃにされたのとまったく同じ場所に、今度は細い金属の硬度が突き刺さる。
肉の中に埋まった、骨を継ぐプレートにかち当たった。尋常ではない力だ。
体の中で、薄いプレートがへし折れて曲がり、ボルトが浮いて飛び出す感覚があった。
アルフィオは堪らず大声を上げ、動けなくなってしまった。
殴られた脚から駆け上がり、尾てい骨から頭の先まで突き抜けるような痛みが走る。
視界が白く光ったかと思えば暗くなった。首筋や尻臀に汗が吹き出し、眩暈すら覚える。
バッグを片腕に抱えたまま、その場に倒れ込んでしまう。
顔を歪め、歯を食いしばると、眉間や顎が熱を持った。
その声を聞いたマルチェロがまたしても子供のような奇声を上げる。森小屋で受けた悪夢が繰り返されていた。
暗闇の中、顔めがけて振り下ろされるバールがはっきりと見えた。
もう、あの時のように三対一という状況ではないし、相手を信頼してもいない。薬も飲まされていない。脚と左腕が塞がっても、まだ動かせる部位は残っている。
アルフィオは唸り声を上げ、体を反転させる。右手に握っていたピストルを突き出し、寸でのところで刀身を受け止めた。
仰向けになった目と鼻の先で金属がぶつかる。高い音が廃墟の空間に反響する。
バールはピストルのトリガーガードにくい込み、止まった。
マルチェロは構わず、震える金属越しに笑顔をはりつけたまま、持ち手を両手で握り、押しつぶそうとしてくる。
「お前たちが居なくなって、ようやくおれに殺しの依頼が来たってわけさ! おれは組織を守るヒーローになるんだっ!」
そう言いながら、無邪気な子供のように飛び跳ねる。小柄とは言え男性一人分の体重が、アルフィオの膝を今度は真上から踏みつけていた。
「ううっ」
思わず声を漏らすアルフィオ。脚の関節に外側から圧力が掛かり、床に縫い付けられてしまった。
「痛いか? 痛いだろ? なあ、アルフィド!」
見開かれたまぶたの奥で、白目が不気味に輝いている。大きく開いた口からは唾が飛んだ。
やかましく、乱暴であるだけのこの男に、秘密裏に行なわれるべき殺しの依頼など、来るはずもなかった。それがようやくファミリーに評価され、認められたと思い込んで浮かれているらしい。
上から体重をかけられ、金属が音を立てて擦れ合う。
もし真正面から殴打されれば、今度は鼻の骨折だけでは済まない。
執拗に殴りつけられた頭蓋骨が割れて砕け、中身がぶち撒けられる様が想起される。
銃のマズルを口に咥えさせ、一瞬のうちに内側から吹き飛ばすのとはわけが違う。確固たる悪意を持って、気味の悪い愉悦すら聞かされながら、えぐられてゆくのだろう。
床に背をつけ、片手で受け止めている方が圧倒的に不利な体勢だ。脚は熱を持ち、蹴りつける事はおろか動かす事さえできそうにない。
「俺を殺すよう……依頼されたんだな?」
そんな状況の中、アルフィオは訊ねていた。これまでとは別の理由で、言葉が途切れがちになってしまう。
力を受け止めている手首が不自然な方向へ折れ曲がりはじめ、右手が震える。
重さに負け、人差し指と親指の間が裂け始めていた。皮膚のやぶれる痛みが走る。だが均衡を崩すわけにはいかない。
「誰から受けたかは言うなって言われてるからな! 言わないぞ!」
マルチェロが大声で答えたそれは、依頼人 が居るという証拠に他ならない。
「お前は……俺より、頭が足りない……」
アルフィオは懸命に開いた目で睨みつけながら、掠れた声を押し出した。
イル・ブリガンテの拠点で生活を共にした男たちが、自身らの失敗を隠蔽し、口封じのために「アルフィオ」という名の男を殺すよう、ヒットマンに依頼している。そう予想していた。
だが、それでは辻褄が合わなくなった。疑わしい首謀者はマルチェロによって殺され、信心深く臆病なポールなる男は行動できる状態ではないらしい。
マルチェロに依頼した人物は、二人の内のどちらでもない、というわけだ。
しかし、それ以上考える事に意識を割いている場合ではなかった。
こちらのアルフィオとて、今まさに、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるのだ。冷静に物事を推察できる状態ではない。
呼吸が浅く、早くなる。侮辱された事を理解したマルチェロは奇声を上げ、さらに体重をかけて来た。
血流が止まってしまったように、肘から前腕にまで痺れが出始める。
次の瞬間、視界の隅で何かが光った。ピストルの発火ではない。小さく、鋭いぎらつきだ。
マルチェロの動きが止まる。
その首筋から、音もなく、血が噴き出した。
暗闇では質の悪い白黒フィルムのように、どんな鮮血も色を失なう。下方から見上げる灰色の目には、どす黒い液体が飛び散ったように見えるだけだ。
アルフィオが見ている前で、マルチェロはその場に倒れた。
「狩られる側の気分はどうだ? オオカミ男」
平坦な声のした方向を、アルフィオは鋭さの抜けきらない目で睨んだ。
「危うく毛皮にされて、市場に売り飛ばされるところだったな」
現れたのは、やはりカラス男のベルトランドだった。片手には携帯型のナイフを持っている。
アルフィオはようやく眉間の力を抜いた。
「同じ相手に二度も殺されるのは御免だ……」
そう答えた時、初めて、歯ぎしりをしていなかった事に気付いた。
ピストルを握ったまま口元に触れる。
やらなければ自分がやられていた。そんな状況に居ながら、一人ではマルチェロを殺す事はできなかっただろう。二度も殺されかけてなお、相手に殺意を抱けずにいたと言うのか。
かつてひとつ屋根の下に暮らしたファミリーとして、裏切られたのは事実だ。だが今となっては、憎らしく思う事すら忘れていたと言っても過言ではない。
崩れた壁の穴から立ち入ってきたベルトランドはひらりと飛び上がり、割れた木製の椅子の上にしゃがんだ。さながら大きなカラスが飛んできて留まったようだった。
「二度も? 何をすればそんなに恨みを買えるんだ、大金持ちめ」
仰向けのアルフィオの顔を覗き込む形になる。
「別に、欲しくて買ったんじゃない。一度目はパスクアの夜だ。俺の存在が気に食わなかったと言っていた」
「それで生き延びたから、また殺してやろうってわけか。まさか“絶好調”のイル・ブリガンテが内部崩壊しかけてるなんてな」
「内部崩壊と言うほどでもない。俺一人欠けたところで、また次を見つけるだけだ。だが、ドン・カルロに消息が知られれば恐らく俺まで巻き添えを食う」
まったく厄介な事をしてくれた、と愚痴っぽくこぼし、ひとつ咳をする。
鳥のように、長い首を傾げるベルトランド。
「戻れば歓迎されるんじゃねぇのか? 元はと言えばあんたはカルロスの〈忠犬〉だろう」
「そうは考えにくい。話したはずだ。当時は俺が一方的に執着していただけで、ドン・カルロにとっては名前を聞いた程度のソルジャーに過ぎないと」
「執念深いのは仕事だけじゃなかったのか、ホモ野郎め 」
その言葉に、アルフィオは灰色の虹彩をじろりと向ける。
「誓って言うが、そうした気持ちは一切なかった。それにカルロは妻子持ちだ」
「関係ない。妻と息子と娘を愛しながら、若い男の愛人 を囲ってたギャングのボスを知ってる」
死闘を終えた後だと言うのに、カラス男の調子はいつも変わらない。
「……お前たちの頭は陰茎だ 」
アルフィオが珍しく汚ないフレーズを吐いた。目の前の相手にも、会った事もないくだんのボスにも向けるように。
それを聞いたベルトランドは、かえって機嫌を良くした様子で、
「自分の息子より若い少年と寝ようとして轢き殺された男も居る。心臓を狙って何度もタイヤが前後していたらしい」
などと男性同性愛者に関する噂話を次々と口にした。
だがアルフィオも折れず、寝転がったまま意地になる。
「どうしてもカルロをゲイに仕立て上げたいんだな。彼の名誉のために言うが、間違っても男と関係を持っただなんて話は──」
「何だ、ゲイだと言えば名誉に傷が付くのか? それこそ差別じゃないか」
女好きなイタリア男からの指摘を受け、驚いてしまう。
「そ、それは……」
思わず口ごもるアルフィオ。自身の中にあった無意識の偏見に気付かされたのだ。
「ゲイだと言えば差別され、ゲイでないと言えば差別だと批判される。まったく大変だな、力のある男は」
気楽なカラス男は他人事のように続けた。
友人から性的少数者だとカミングアウトを受けても、驚く者は居ない。少数派でこそあれ、彼らは異性愛者と同じく、必ず存在しているものと認識されているからだ。
だが、だからと言って差別対象にならないとは言い切れない。自分たちと違う異質な存在を排除しようとするか、しないかは、カミングアウトを受けた方の判断に委ねられるからだ。
たとえ個人主義色が強かろうと、多数派が圧倒的な強さを持ち、正義であるとみなされるのが、個として生きるには弱すぎる動物の社会というものだ。
一方、世間に影響力を持つ有名人にとって、同性愛者疑惑というのはスキャンダルのひとつと言える。
事実である場合も多いが、厄介なのは、何者かの利益のために利用されたに過ぎなかった場合だ。タブロイド紙は根も葉もない内容を書き綴り、その他メディアも世間の関心を煽るような報道するだろう。
事実であればノーコメントを貫くか、カミングアウトに踏み切るという選択肢が与えられる。今後のキャリアへの影響と、自身の人生への向き合い方を天秤にかけて、結論を導き出せばいい。
しかし、もしその疑惑は事実無根であるとして否定する際は、細心の注意を払う必要がある。
表現によっては、当事者および支援者から避難が殺到するからだ。
わざわざ否定するということは、自身が不利益を被らないためであり、それは差別しているも同義であると。
弱者として生きる人々にとって、著名人が自身らにどのような印象を抱いているのかは重要視すべき点だろう。彼らの影響力をもってすれば、言葉ひとつで、世間の目を変化させる事もできる。そんな希望を抱いている。
それが否定されたとなれば、どこか期待を裏切られたような印象を受けてしまう。たとえ身勝手であろうと、感情に支配された人間に、感情を無視した論理は通用しない。
不安な環境下に置かれた者は、狭い中で仲間意識を持ちやすい。ゆえに、排他的な行動に出てしまうのだ。
アルフィオはその話題について言及するのをやめ、一度大きく息を吸った。
「……どのみち俺のした行為は、裏切りに値する。こうして、組織の内情を外へ漏らした。まるで改悛者だ」
「それでファミリーに狙われるって言うのか? 犬が漏らした程度の情報で警察が動くとは思えねぇがな」
楽天的な見通しのベルトランド。
「崩壊しかかったマフィアファミリーなんて、放っておいても衰退していくだろう。違うか?」
改悛者のように裏切り者を出した時点で、組織の結びつきは綻び始めていると考えるのが妥当だと言うのだ。
だがアルフィオも安易には主張を変えない。
「予想される不安は取り除いておくのが〈聡明な男 〉だ。それに、誰かから依頼を受けたと言っていた。やっぱり仕事としてターゲットを始末しに来たんだろう」
それが俺の仕事だった、と言いながら、ようやく起き上がる。
痺れた腕を引き寄せるようにバッグを抱えなおし、反対の手で痛む箇所をさする。膝は無事らしいが、裏筋が突っ張るような感触があった。
強く打たれた腿は熱を持って脈打っている。皮膚の下、筋肉の中で、飛び出したボルトが周囲の組織を傷付けているような違和感もある。
異常事態に身体が強く反応したために、寒さや痛みは感じない。脳や筋肉が弛緩した頃にでも襲ってくるだろう。
今のうちに、考えを巡らせる。
「……俺は人と打ち解けるのが苦手だから、何年と写真を撮られていない。最近の俺の顔を知っているという点でも、同じ拠点に暮らしていた男が適任だ」
翼を折り畳むように、膝の上に両腕を組んだカラス男が聞き返す。
「ファミリーからの指示を、わざわざ依頼だなんて言うのか。気取りやがって」
「ヒットマンにとって、報酬のある仕事なら何だって依頼だろう。たとえカルロの友人からでも、下層部には首領 からの依頼として伝わる」
アルフィオは平然と答え、努めて冷静に続ける。
「だが、辻褄が合わない……クライアントになり得る男は死んだはずなんだ。マルチェロが殺したと」
傍らに倒れた死体を見やる。
「もっとも、この男にとっては人を殴れれば何だって良かったんだろうが。……斧を持って来なかっただけ幸運だ」
「何だそりゃ。正真正銘のイカれ野郎だぜ」
ベルトランドは金色のグリルをのぞかせて軽く笑うも、
「──となると、問題はあんたを殺すよう依頼したクライアントが誰なのか、だな」
と、アルフィオを擁護するような姿勢を見せた。
それが判明すれば警戒もしやすくなるだろう。加えて、「アルフィオ」と名のつく人物が見境なく狙われる事態も、収束を見せるかも知れないのだ。
「とは言え、あんたのペットを殺してくれ、と頼むような奴は普通の神経じゃねぇ。カルロスの友人の線はナシだ」
小気味よく進む話に、アルフィオも釣られてうなずいてしまう。
「ああ。俺の顔を知っているヒットマンに直接依頼できる立場の人間だろう」
「それに、だ。地元住民でもない、こんな小さい男があんたを見つけ出せたのも引っ掛かる」
そこでふと気が付き、無言で相手を見つめるアルフィオ。
「…………」
何を言うより先に、ベルトランドが珍しく真剣な表情で聞き返してくる。
「何だ? まさか、あんた、オレがこの場所を知らせたとでも思ってるんじゃないだろうな?」
言い当てられ、思わず視線を伏せた。
「……いいや。そう言えば、いつから見ていたのかと、思っただけだ。あの状況で加勢してくるなんて、タイミングが良すぎる」
「おいおい、そりゃないぜ! せっかく手に入れた希少なオオカミをみすみす見殺しにしろってのか? そっちの方がどうかしてる!」
ベルトランドが大声でわめいた。羽ばたくように腕を振り回し、心外だと訴える。
「言っただろう、街を偵察するのもオレの仕事だ! そこで襲われてる仲間を助けに入ったってのに、疑われるなんて!」
「仲間? ただの、同盟だろう……」
孤独に慣れたオオカミ男に、ベルトランドはタトゥーの入った手を突き出して答える。
「何のための同盟だ? オレたちは共通言語を話す仲間で家族 だ! あんたの新しい居場所じゃねぇか!」
親指とそれ以外の指をくっ付けた形の手が、保護された犬の鼻先で上下する。普段は真摯さなど感じさせない彼が、強い感情をむき出しにしているのが伝わってきた。
「……どうしてそんなに、俺のことを気にかけるんだ」
アルフィオが訊ねると、ベルトランドは腕に込めた力を少しだけ抜いた。
「あいにく、あんたばかりを気にかけてたんじゃねぇ。縄張りに知らない奴が入って来たら追い払うだろう? オレはこいつのバンを見て、追ってただけだ」
「バン?」
「ご丁寧に黒く塗られたバンだ。オレが用事を片付けて帰って来た時には、拠点の近くに停まってた」
肩越しに、リングァフランカの拠点の方角を指す。多くの貨物車は白色であり、警戒しておくべきだと勘が働いたのだ。
「最初はキツネを買いに来た客のものかと思ったんだが。こんな時間に来るなんて、よっぽどの陰茎野郎 でもねぇとな」
それからベルトランドは、バンの不審な点を列挙した。
近年の街乗り車には見られなくなったマッドガードが付けられており、森の中や泥道など舗装されていない道を走るのが主な目的である。
車体がタイヤから浮いた具合を見るに、貨物は入っていない。中を覗くと、やはり後部座席として簡易的なシートが取り付けられているだけだ。内装が少し歪んで見えたのは、窓が防弾ガラスだかららしい。
商品を扱う運送業者にしては車体に小さな傷も多く、駐車の角度も大雑把だった。
となると、秘密裏に運ぶ“品物”を扱うための装甲車である可能性が高い。
ユーロプレートにはイタリアで登録された事を表す文字があったが、都市コードが「 RM 」でないだけでも、ローマ訛りが飛び交うこの地区では目を引く。その数字とアルファベットの組み合わせまで伝えてみせた。
特徴という証拠を揃えられ、疑う余地はない。
「確かに……イル・ブリガンテが所有していた車だ」
相手の言葉に嘘偽りがない事を、アルフィオは認めた。
疑われたベルトランドはまだ不満げに、そして少し悲しげに、嘴のような唇を尖らせる。
「……あんたはもう少し、人間を信頼した方がいい。共生するのも悪くないぜ?」
「ディエゴにも、同じようなことを言われた。信頼し合えたと確信した直後に、別れる事になったが……」
つい、正直にこぼしてしまうアルフィオ。腕の中にあるバッグが、存在感を増しているように思えた。
「ヂエゴか。あんたの口からその名を聞くのは久しぶりだな」
椅子を下りたベルトランドはいつもの調子に戻って笑い、タイルの上に転がる死体へ歩み寄った。
「それで、クライアントの心当たりは? 相変わらず狙われる理由なんていくらでもありそうだが……」
改めて確認しながら、突き刺さったナイフを抜き取る。ナイフはマルチェロの頸動脈を切断し、刃先は気管に達していた。
武器を回収しても離れようとはせず、慣れた手付きで着ている服を引っ張ったり、捲り上げたりし始める。その仕草は死体を漁るカラスそのものだ。
目的を察したアルフィオが声をかける。
「今どき、情報を紙片で受け渡しする殺し屋なんて居ないだろう。それに、マルチェロは字が読めなかったはずだ」
ベルトランドが一旦、顔を上げた。
「そうか。そりゃあ大変だっただろうな」
他人事のように言いつつ、死体を漁るのを止めない。
やがて、何かを見つけたらしい。マルチェロの服の裏地に先ほどとは別のナイフの刃先を差し込み、切り裂いてしまう。
取り出されたのは、小さな透明の袋に入った少量の粉末だった。
ベルトランドはこれ見よがしにつまみ上げ、
「仕留めたのはオレだから、オレの獲物ってことでいいんだよな?」
と確認した。
何も言わず見ていたアルフィオは驚く事もなく、むしろ呆れてしまう。
「そんな山賊まがいな事を……いや、好きにすればいい」
タカやハヤブサなど肉食の猛禽類の鋭いそれと違い、雑食のカラスの嘴の形状は、肉食獣の食べ残した部位を骨から削ぎ落とすのに向いている。
だがこの殺害は誰からの依頼でもなく、マルチェロは誰のターゲットでもない。となれば、彼の主張に異議は唱えられない。
まだ何か隠し持っているはずだと、ベルトランドはまるで宝探しのように物色する。
「仕事をしくじった時の備えすらなってねぇとは、こいつもとんだ野良犬だ。無法者 は躾もできないらしいな」
そうしながら嫌味っぽく言われ、アルフィオは懇々と反論する。
「マフィアは矯正施設じゃない。たとえ素行が悪くとも、話が通じなくとも、組織と上層部の意向に従って、金と権力のためにどれだけ動けるかが重要で……」
「ところで、これ、使うか?」
説法をさえぎり、次に鉤爪で持ち上げられたのは、車のキーだ。くだんの黒いバンを動かす物と見て間違いない。
アルフィオは小さく首を振った。飛び散ったマルチェロの血しぶきが、白い肌に点々とついている。
尻尾のようなドレッドロックスを揺らすカラス男はまだ手を休めない。
カラスの食事は骨から肉を引きちぎるに飽き足らず、骨を割り、中の髄までしゃぶり尽くすものだ。
アルフィオはその行動に目を瞑り、自身の前髪をかき上げ、淡々と言葉を続ける。
「特に俺は……大抵のヒットマンと違って臆病者だ。いつだって命懸けで、確実に仕事をしている。しくじって命を狙われるいわれもない」
ベルトランドが不意に手を止め、顔を上げた。
「本当か?」
「ああ。ターゲットを殺しそこねたのは、後にも先にも一度だけ──」
そこまで言い、はたと思い出す事があった。
以前、雇われの身で働くと決まった時のことだ。雇い主とはどんな契約を結んだのだったか。
みるみるうちに、青白い顔の表情が険しくなる。
事実を認識するほど、辻褄が合い始めてしまう。
「そんな、馬鹿な……ディエゴが、俺を狙っていると?」
契約した殺し屋が前金を持ち逃げしたり、仕事をしくじったりした場合は、彼が依頼人となって、別の殺し屋を手配する事になっていたはずだ。信頼を裏切り、事業の信用を落としたとして。そこには容赦などない。たとえその相手がかつて恋人だったとしても、だ。
そのためには、必要とあらばどんな些細な、不明瞭な情報でも利用する男である。過去、拾ってきた捨て犬のためという名目で、イル・ブリガンテについても調べたはずだ。
そして、彼と契約を結ぶ「仕事仲間」は、たとえ別のマフィアファミリーの人間であろうと問題はない……
アルフィオは急いでスマートフォンを取り出した。例の「お下がり」のスマートフォンだ。
リングァフランカに加わり、当面の生活の目処が立った頃、中に入っていたカードは入れ替えた。
しかしGPSをオフにした事はない。ひょっとすると、このシステムは絶えず、飼い犬の位置を主人に知らせ続けていたのではないか。
だとすれば、マルチェロに依頼とともに情報を渡す事も容易だっただろう。
思わずベルトランドを見るが、何も言わず血のついた両手を広げ、肩をすくめるばかりだ。
「…………」
アルフィオは在らぬ方を見たまま、沈黙してしまう。
意識がそれ以上働くことを拒絶し、入れ替わるように、忘れていた寒さや痛みが頭をもたげ始めた。
***
忙しないカラス男は昼食の時間にリングァフランカの拠点に集まるよう言うと、朝を待たずに教会跡から飛び去って行った。
実直なアルフィオは昼食もとらずにアパートに向かい、部屋へ向かう途中で、若い女性と三回すれ違った。
それぞれ華美な装いではなかったが、みな一様にオーバーサイズのコートに身を包み、古いアパートの廊下を歩いてくる様子は華やかと言えた。
アルフィオが立ち止まって進路を譲ると、ヒールを鳴らし、足早にそのわきをすり抜けた。嗅ぎ慣れない女性物の香水の匂いが犬の鼻をくすぐり、うち一人はその際にウィンクをして見せた。
拠点の中は窓から射し込む昼間の光と、異様なほど強い香水の匂いで満ちていた。
天井から垂れ下がる襤褸切れで仕切られた中には、クラウディーナが一人で居た。床に直に敷いたマットレスの上に座っており、ロゼッタの姿はない。
そこでアルフィオはようやく、すれ違った彼女たちが“仕事”を終えた後だった事を察した。充満する香水は、様々な臭いを消すためらしい。
リングァフランカではメンバー同士が面識を持つ事を強要しない。だが、一部では有名人である〈忠犬アルフィド〉もといオオカミ男アルフィオの存在を一方的に知っている場合があっても、不思議ではない。
キツネはイヌ科でありながら、猫に似た生態を多く持つ。夜目の利く縦長の瞳孔を持ち、狩りも、子育ても、群れを作る事なく単独で行なう。
彼女たちもまたクラウディーナと名乗る〈キツネ女〉と同様、時にはホームレスとして、時には売春婦として、そして時には殺し屋として、その身ひとつで生きる事を選んだ、強 かで自立した女性だった。
その後、皿に盛られたパセリのように神出鬼没のベルトランドが、人数分のピザとワインを携えて合流するまで、ふたりの間に会話らしい会話はなかった。
アルフィオはクラウディーナから微妙な距離を取るように、傷んだフロアソファーに腰掛けたのだ。バッグを抱え、空腹に耐えながら、自身の取るべき行動について考えていた。
「いよいよディエゴに復讐する時が来たのね」
ようやく事情を知り、クラウディーナは目を光らせて言った。
「復讐?」
アルフィオは驚いて聞き返した。食べていたピザを吹き出しそうになった口元を慌てて押さえる。
古いアパートの一室で、傷んだ床に座って食事をしながら話す三人は、家族とも友人ともつかない距離感にあった。ベルトランドの言った通り、ファミリーとも呼べるが、ひとつ屋根の下に暮らすほどの仲ではない。
今まさに開かれているささやかな食事会は、仕事についての意見交換も兼ねている。リングァフランカという同盟において、共通言語の情報共有は欠かせない。
不審なバンと遺体は既に、縄張り意識の強い偵察係によって引き取られた後だ。今頃、その話題は風のように情報網を駆け巡っているだろう。
ディエゴがアルフィオを殺すようマルチェロに依頼したと知るなり、クラウディーナは躊躇なくそう言ったのだ。
「やらなきゃやられる世界なのよ。自分の身は自分で守らなきゃ!」
小さな拳を作り、空中を軽く叩くようにする。
アルフィオは動揺をごまかすようにボトルの水を飲み、
「俺には、個人的な恨みはない。ディエゴを殺す理由なんて……」
と逃げ道を探した。
向き合うべき理由を突き付けられてなお、かつてあった情がどこかで邪魔をしようとするのだ。
ディエゴのことは、忘れようとばかりしていた。やるべき事に没頭し、彼ではない居場所を求め、こうして築き上げてきた。
しかし今になって、相手は自分を殺すためにヒットマンを雇うまでになっている。それを、未だに確信する事ができない。
「あなた、自分の置かれてる状況が分かってるの?」
強い調子で指摘を続けるクラウディーナ。
「男って、やっぱりおかしいわ。一度でも愛した相手をいつまでも信じ続けるなんて!」
彼女は事実を知らないにも関わらず、まるで光る瞳で見透かすようだった。
ここにいるのは、曖昧な話を繰り返すただの若い女ではない。キツネ女の異名を持つ殺し屋だ。
キツネは、雪の中に隠れた、見えない餌を見つけ出す。その能力がどのように発揮されるのかは、未だに解明されていない。
追い出された時の虚しさがよみがえってくるが、アルフィオはそれでも何とか言い返そうとする。
「まだ、クライアントがディエゴだと決まったわけじゃない。ただその可能性があると、言ったまでで──」
「あんたが出した結論じゃねぇか。オレはそれを聞いて、彼女らに伝えただけだぜ」
ベルトランドが横槍を入れた。
まるで風に向かって叫ぶように、遺体の持ち主マルチェロに指示をしたのはディエゴであるとも広めてしまったようだ。
青灰色の目でその顔をじろりと睨むアルフィオ。
「……本当によく喋る口だ。ディエゴ本人の耳に入ったら、どうなるか」
それでも、ベルトランドはやはり悪びれない。
「食べるのが早い奴は仕事も早いんだぜ 」
得意げに言い、折り畳んだピザを口へ運んだ。
チーズやオリーブオイルが糸を引くように垂れ、空になった箱に落ちる。もうすでに最後のひと切れらしい。
「噂はあくまでも噂だ。買った情報を真に受けるかどうかも、判断するのは客次第だからな」
厚い唇の内側に、金色のグリルが見えていた。
幽霊の噂を聞き、忠告を受けても、真に受ける事すらしない者もいる。ディエゴもその一人だ。
リングァフランカはそうして、馬鹿げた話を隠れ蓑に裏社会の目さえかいくぐり、拡大しつつある。
だが、もしアルフィオの現状が何らかの形でディエゴの耳に入り、それを真に受けたとすれば。あるいは、依頼したヒットマンからの音信が途絶えた理由を知ったとすれば。
彼は他者が羨むような人脈を駆使し、またしてもヒットマンを派遣して来ることだろう。
追われる側となった以上、このまま行方をくらませ、逃げ続けるしかない。かつてターゲットを仕留める猟犬だった〈アルフィド〉は、今や狩るべきターゲットに据えられているのだ。
ディエゴにとって、〈開拓者 〉として切り拓いた、彼自身の居場所を守るために。
イタリアオオカミは国獣として愛され、伝説にも登場するシンボルとして称えられる一方、絶滅の危機に晒されている。
アルフィオもまた、必要とする組織に腕を買われ、仲間として迎えられる一方、その身を脅かされ続けている。
こうして群れに入る事を選んでも、単独で過ごすに比べて脅威がわずかに減らされただけであり、根本的な問題は解決されていない。
その解決策というのは、残念ながらクラウディーナの言う通りだ。
「もし、クライアントが死ねばどうなるの?」
彼女からの確認に、
「その時は……おそらく契約は不履行になる」
アルフィオは咀嚼していたピザを飲み込み、訥々と答える。
死は、生きとし生けるものに必ず訪れる。
ヒットマンが依頼を完遂する前に、クライアントが死亡してしまう可能性も、理論上はゼロではない。
となれば、契約を履行する必要がなくなる。否、履行する事はできなくなってしまう。ターゲットの死を望む者がいなくなった以上、ヒットマンにはその生死など興味のない事項だ。
その場合、ヒットマンは働かずして前金を受け取り、得をした事になる。タイミングによっては、後金を受け取れず、損をしたと感じる事もあるかも知れない。
〈死の執行人〉なる天使がいつ迎えに来るかは、医療という神をも恐れぬ領域に足を踏み入れた人間にすら、正確には分からない。
自身が与えられた命を生きるために、時には他人の命を奪う。そんな力を持つ覚悟こそ、裏社会において必要だった。
つまり、アルフィオかディエゴ、少なくともどちらか一方が死ななければならないという事だ。
オオカミに育てられ、ローマを築いた双子の争いも、一方の死によって終止符が打たれたのだから。
「つまり、ディエゴを殺せば、あなたは晴れて自由の身ってわけ」
クラウディーナは繰り返した。
自分の考えは間違っていないとでも言いたげだ。
人が集まり、意見を交わすとなると、みな一斉に自前の主義主張を述べる。一様に早口で、相手の言葉に耳を傾ける姿勢は見られない。
そんな中で、話すのが得意でなかったり、考えをまとめるのに時間がかかったりする者は沈黙しがちだ。その結果、自身の意見を持たないと見なされてしまう。
「…………」
やはり、アルフィオは黙り込んでしまった。
またしてもやり込めたクラウディーナは、残ったピザを包んで持って帰ると言い、仕切りの向こうへ行ってしまった。
それを見計らったように、そう言えば、とベルトランドが話題を変える。
「昨日の昼にあんたを訪ねたクライアントはどうなった? 依頼は請けてないのか?」
「……俺の仕事だ」
アルフィオは口元についたトマトソースを拭き、短く答えた。
訪ねてきた二人連れの片方がかつて初恋を捧げ合った相手だったという事も、そのターゲットが二度目の恋をしたディエゴである事も、他言する必要はない。
「そう言うなよ。獲物を横取りしたりするつもりはねぇ。ただ、貸せる力があれば貸すだけだ。車だって用意できる、ワケありのな」
仲間と認めた相手を気にかけての質問なのだろう。
「……でないと、あんたは誰のことも頼ろうとしないからな」
と続け、やはり大袈裟なスキンシップを図ろうとする。床に胡座をかいたまま、長い腕を翼のように広げるのだ。
アルフィオはピザを食べ終わった手を払い、身を寄せる事もなく、淡々と返す。
「もう充分に頼っている。やる事と、居場所があるだけで──」
そこで、ようやくその存在を思い出した。
個人的な恨みでなくとも、自分を守るためでなくとも、正当化する理由なら、あるではないか。
「ひとつ聞くが……他の殺し屋の獲物を横取りしたら、どうなる?」
アルフィオが訊ねると、ベルトランドは構えていた腕を下ろし、体をまっすぐに向けた。小さな黒い瞳が、じっと見つめる。
「嘘つきな少年と違って、ずいぶん正直なオオカミだな……」
何を考えているのか分かる、とでも言いたげに茶化した。その調子はいつもの陽気なものではなく、むしろ警戒をうながすようだった。
しかしアルフィオも視線を逸らさず、真正面から睨み合う形になる。
「裏切り者はどこに行ったって裏切り者だ。たとえ女神の命令だろうと、そんな奴まで掬い上げて育てられるほどの優しさはねぇ。リングァフランカからの追放を言い渡す」
毅然とした態度だった。
「表立ってだけじゃなく、オレたちの持つ裏社会ですら生きられなくなるって事だ」
「もし、相手がリングァフランカに所属していない殺し屋だったとしたら? 仲間の仕事を横取りした事にはならないだろう?」
アルフィオが改めてそう訊ねると、途端に表情が和らいだ。
「なんだ、それなら話は別だ。オレたちの知った事じゃない。リングァフランカに面倒事の種を持ち込まない自信があるなら、勝手にすればいい」
請けてしまった依頼のターゲットや、これからどんな行動に出ようとしているのかを確信したような返答だ。
「顔の広いターゲットを殺せば、それだけ影響力がある。あんたは、リングァフランカをますます繁栄させてくれそうだな?」
元より嘘も苦手で冗談も言わない性分では、隠し事もできなかった。
「……前金は受け取ってしまったが、まだ決めかねているんだ」
明言しないまま打ち明けると、ベルトランドは、
「捨てられた犬っころで終わるか、失なった物を取り戻すオオカミになるか。あんた次第だ」
と金のグリルを見せて笑った。
オオカミの世界には、落ちこぼれ、群れからあぶれてしまう個体がいる一方、みずからの意思で群れを離れる若い個体がいる。
ディスパーサーと呼ばれる彼らが文字通りの一匹狼である期間は短く、繁殖のため、番 を見つける事を目的に離れるのだ。
時には開拓者の役割を担って他の個体のいない場所に新天地を切り拓き、やがてまた新たにパックを形成する例も確認されている。
彼らは居場所を失なうのではない。新しく作り出すのだ。
オオカミはそうして、世界中に生息地を拡げた。絶滅の危機に晒されても、生かされるべき種として、天が味方をしたという事だ。
日が落ちた細い通りに、自由猫の姿はなかった。冬は、猫を見つけるのが難しい季節だ。
人目を避けて近付くと、ぼんやりと座っている老婆が顔を上げる。
「大きい仔犬ちゃん ね?」
「ああ、そうだ。よく分かったな」
言い当てられたアルフィオは少し驚いてしまった。姿勢を下げ、伸ばされる手に顔を触らせる。
「靴音や歩き方、匂いで分かるの。足を悪くしたの?」
「一度治ったはずなんだが、最近寒くなって、また痛むようになってきた」
アルフィオは当たり障りなく答える。無意識のうちに庇うような歩き方になっており、靴底が不自然にすり減っていた。
顔に触れたチェチーリアは、
「ディエゴは元気にしてる? このところめっきり姿を見せなくて……私が見るっていうのもおかしな話かしら」
そう言って目を閉じたまま茶目っ気を含ませてほほえんだ。しかしアルフィオの表情は険しくなる。
「今日はそれを聞こうと思って来たんだ」
「ルームメイトと言っていたでしょう。帰って来ないの?」
「今は……色々あって別々に暮らしている。最後に彼がここに来たのは?」
少し言葉に詰まりながら、節くれだった手に紙幣を握らせる。一人では何もできなかったのが遠い過去のようだ。
「もう一週間以上前よ。いつも決まった時間に現れるわけでもないけれど……」
チェチーリアが顔の皺をさらに深め、悲しげな表情を浮かべる。
「近いうちにフィレンツェに行くって言ってたから、もう出て行ったのかも知れないわね」
「フィレンツェ?」
思わず聞き返すアルフィオ。
北部にあるその地名を耳にしたのは、あのゲイ・クラブ『キアーロ』でのことだ。
一人で訪れた際、店長のパオラと客のドナテロは、アルフィオを追い出したディエゴはすぐさま別の男を連れ込んでいるに違いないと笑った。嘘をついて、行かないと言っていたバカンスには、どうせ知らない男を連れて行ったのだとも。
そしてその前日、ディエゴはこの仕事が終わればバカンスにでも行こうと呑気に話してきた。
「バカンスだと言っていたか?」
食い入るように訊ねるアルフィオに、チェチーリアは不思議そうに答える。
「この寒いのに、北部にバカンスなんて行かないわ。ローマで暮らせなくなったのよ」
「どういうことだ?」
「追われているの。雇っていた人が仕事をしくじったんですって。その報復に、彼自身も命を狙われてる」
「そんな、馬鹿な……」
アルフィオは思わずつぶやいた。
依頼を果たせなかった事が、クライアントに伝わったのだろう。そのせいで、ディエゴまで命を狙われていると言うのだ。
ヒットマンが殺しの依頼を受けるのは、自身の生活や、名誉のためだ。そんな彼らに仕事を任せるという事は、仲介業者ディエゴも常に、それらが脅かされる可能性と隣り合わせだという事だ。
それでもビジネスを辞める事はない。命の行く末まで他人に預けてしまう、文字通り命懸けで他人を信頼する意志の強さもまた、人脈に恵まれる理由なのだろう。
動かなくなっていた頭が回転を早める。様々な記憶を、点と点が線になるよう繋げてゆく。
命の危機にさらされたディエゴは、他のヒットマンを差し向けてアルフィオを殺そうとしながら、自身は逃亡を図っている。マフィアは自分と家族を守るためなら、住み慣れた地を離れる事も辞さない。
追われる身となった彼の目指す先が、なぜファミリーのいる南部ナポリでも、バカンス地プーリアでもなく、北部のフィレンツェなのか。それはアルフィオこそが知っている。
ディエゴはとうとう、自身を受け入れないファミリーを抜けたに違いない。
当初こそ、従順な大型犬も連れて行くつもりだったのかも知れない。だが、旅路の足でまといになるとして、放り出してしまったのだ。
そしてゲイの街フィレンツェへの同行者として、アルフィオではない男の手を取り、ローマで過ごしたすべてを捨て行ったのだろう。
そのために裏切り者として、ファミリーからも殺されそうになっている。
その誰か──その手を握っている男の顔さえ、アルフィオは見た事があるのかも知れなかった。物置部屋に引っ込んでいるのを良いことに、ディエゴが連れ込んだ中の誰かか。
もしくは、留守中にヒマワリを置いて行った男か。小さなメッセージカードを読み、笑みを浮かべていた口元を思い出す。
華奢な手首に嵌めた、誰かからプレゼントされたと言う、シルバーのブレスレットの輝きさえ憶えている。
「……くそったれ」
アルフィオは低い声で罵った。
チェチーリアが不穏な表情を見せる。悪い知らせが来たとしても、使者に罪はない。だが、アルフィオは誰かを呪いたいような衝動を抑えられなかった。
玄関先に置かれたヒマワリなどあのまま枯らしてしまえば、何事も無かったかのようにしていれば良かったのだ。メッセージカードも、書かれた内容を知っていれば、気付かれないよう捨てていたかも知れない。
すべての引き金を引いてしまったのは、アルフィオ自身なのだ。
チェチーリアが問いかけてくる。
「家には行ってみたんでしょうね? 居なかった?」
情報を求めて訪ねてきた相手に対して、家出してしまった仔犬の捜索を手伝ってもらうような態度だ。
アルフィオは首を振る。彼女には見えていないとしても。
「いや……ディエゴはカレンダー通りに動かないし、忙しければ電話にも出ない。だから聞きに来たんだ」
週末だからと言って必ずしも現れるわけでなければ、バカンスの時期に休みを取るわけでもない。朝も夜も関係なく、誰かと“繋がって”いれば電話すらも繋がらない。
はやる気持ちで立ち上がりかけたアルフィオの手を、チェチーリアはしっかりと握っていた。
「もしお別れを言いに行くなら、私からも伝えてちょうだい。きちんとプレゼントを買ってね」
「プレゼント? そんな呑気なこと……」
先ほど渡した紙幣を押し付けるように返してくる。それが、彼女に支払える精一杯の依頼料なのだ。
「友人でしょう? 人生には、大切にしなければならない出会いと別れがあるわ」
「別れ……」
ぽつりと繰り返すアルフィオ。
愛しい気持ちを胸に抱きながら、街を離れてゆく相手を送り出すのは、つらく、悲しい。それは青春時代に経験済みだ。
不要だとしていた愛を伝え、仕事の腕を落としたのは裏切り行為だと、ディエゴは言った。
ならば、別の男の手を取り、逃げてゆくのもまた、アルフィオに対する裏切り行為と言える。
一度ならず二度までも、信頼していた家族 に裏切られたとあっては「事業」に差し障る。理由はどうあれ報復を果たしてこそ、マフィア上がりのヒットマンではないか。
珍しい金髪で、一つ歳上だった初恋の相手とは、運命的であり皮肉な再会を果たした。
二十年近く経った今もアルフィオは物静かではあるが、もう、純真な少年ではなかった。今なら、他とは違う優しい“彼”の望みを叶える事さえできてしまう。契約とは、約束だ。
自分の居場所は、自分で守る。マフィアでなくとも、この世界で生きてゆく方法だ。十八世紀の頃から、シシリアンはこうしてきた。たとえ嫉妬深いと言われようと、愛情あってこその執着だ。
愛しい相手が街を離れてゆくのが嫌なら、引き留めるべきだ。ウサギを飼うなら、ケージに入れておくべきだったのだ。
他の男に取られるくらいなら、それを阻止するべきだろう。
そう、ディエゴがローマを離れ、行方をくらませる前に、殺してしまえばよいのだ。
そうすればアルフィオが失なったすべて、否、それ以上の物が手に入るに違いないのだから。
仮にかつて恋人であったとしても、容赦する事などない。友人の手で葬ってやる事が、裏切り者への手向けとなる。腕にぶら下がっていた荷物を、手放す時が来たのだ。
「……分かった。引き受けよう」
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