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終章 復旧作業_1/2
正午の石畳の道を、一台のスポーツカーが走っていく。中には男が一人。美しい顔を歪め、歯を食いしばっている。
険しい表情を浮かべながらも、ネクタイ付きの正装に身を包み、髪も整えていた。仕事を終えた後、夜には教会のミサに行き、厳かに降誕祭 を迎える予定なのだ。
その後部座席にはワインボトルが一本と、花束が一つ。ボトルのラベルには『GIGONDAS 』という文字と特徴的な絵が刷られ、朝一番に花屋で買った薔薇の花は真紅に咲いている。
今朝がた調達されたばかりの、ワインや薔薇と同じく赤色の車体は、見るからにスピード感のある流線型のフォルムだ。
誰もが憧れる高級車だが、アルフィオが車種にこだわったのではない。盗難車や訳ありの車を用立てるリングァフランカのメンバーに、日数も速度も早いほど助かる、と伝えた結果だった。
前方に、一ヶ月と一週間ぶりの景色が見えてくる。
ナターレの前日だと言うのに、デコレーションなどされていない、煉瓦と木造の家だ。家主は宗教行事はおろか、これから手放す家にも興味を示していないと言いたげな様相だった。
そのガレージのシャッターは閉じられ、持ち主自慢の「猫足」が中にあると示している。逃亡を図る運転手は、まだ家にいると見て間違いない。
アルフィオは目的地よりやや手前、現場動きがあれば確認できる位置に車を停めた。
標的 が〈ウサギ野郎〉と呼ばれるゆえんは、エンジン音を聞きつけて逃げ出すほど耳敏いからではない。臆病な草食動物と違って、警戒という言葉など知らないのだ。
問題はこちらの〈オオカミ野郎〉の脚にあった。マルチェロに殴られて以来、痛みと違和感が引かず、ズボンの内側に隠れた部位は変色したままなのだ。自慢の脚は、これまでのように長すぎる距離を歩くには向かなかった。
当然、デュアル・クラッチ・トランスミッションの走行システムも、傷付いた脚に負担をかける。が、他の車が届くのを待ってはいられなかった。
第二次世界大戦以降、片足で操作できるオートマチック・トランスミッションは身体にハンディを抱える顧客のものとされた。
近年はそんなイメージも払拭されつつあるとは言え、二〇二〇年現在、国内市場での比率は二十五パーセント程度だからだ。
静かに車を降り、手際よく持ち物を確認する。
ワインと花束を携えた、歩くマネキンか彫像のような出で立ちを見て、これから仕事に向かう|殺し屋 だとは誰も思わないだろう。汚ないハンドバッグだけはやや場違いだが、街を行き交う人の姿もなければ、気にする者はいない。
十二月二十四日ともなれば、伝統や慣習を重んじる敬虔なキリスト教徒にとっては、断食や禁欲を行ない、静かに過ごすべき期間なのだ。
本来なら殺しになど手を染められるはずもない。しかし、四日前の日曜日に請けた仕事を決行できるのは、今日しかなかった。
今回のターゲットは、間違えようのない“あの”ディエゴだ。
依頼人 によれば、今の彼はマフィアの一員でありながら、ファミリーの掟をやぶった裏切り者らしい。
秘密結社的である組織が何より恐れ、警戒すべきは、友人からの裏切りと内部崩壊だ。ナポリに拠点を置く「イ・ピオニエーリ」のチーロとルカは、ファミリーのため、友人を排除する事に決めた。
これまでにも別のヒットマンに殺しの依頼をしたが、切り抜けられてしまっているとも聞いた。腕の立つヒットマンを探すうち、かつて「イル・ブリガンテ」に雇われていた忠犬アルフィドに回ってきたという訳だ。
さらに情報を集めてみれば、ディエゴは生まれ故郷のローマさえ捨てて、逃亡を図っていると言うではないか。逃亡先に選んだのは、ローマから約三百キロメートル離れたフィレンツェだ。
何故その場所を選んだのかも、アルフィオには予測できた。
いくら獲物を地の果てまで追いかけて狩りをするオオカミとて、頼りの情報網がまだ発達し切っていない北部へ行方を眩ませられると、依頼の遂行は困難になる。手の届く場所にいるうちに殺しておくべきだろう。
ターゲットがかつて愛した男であろうと、現場がかつて暮らした家であろうと、否、だからこそこの手で始末する必要があるのだ。
人が動いていない夜の方が仕事が捗るのは分かっている。ターゲットがどこにいるか把握しやすく、人目も少ないからだ。
これまでは、月の光も届かず、真っ暗な森の中を一人で駆け抜けた。黒い髪をなびかせ、黒い皮の衣服をまとい、銃口と同じ鋭さと色をした瞳を持って。
今夜ばかりは、それができない。だからこうして白昼堂々、ターゲットの元を訪ねて来たのだ。
情報を売る老婆の助言を得、注意を引くための「プレゼント」も準備した。よく手入れをしたピストルはいつも通り、ズボンの腰の後ろに差し込んである。
これらはあくまでも、仕事を着実に進めるための材料だ。
街なかで発砲するのは、得策ではない。玄関扉が開いた瞬間に銃口を突き付けるなど、今回は避けられる手法だ。
そう、この家にはアルフィオの知らない間に、ディエゴによって連れ込まれた男が暮らすようになっている可能性がある。となれば、口封じのためにその男も始末する必要があった。
死体をどうするかについては、クライアントからの要望にない。仕事を終えた後は、この家に放置し、速やかに現場を離れるのみだ。
アルフィオが連絡を入れれば、チーロたちが頃合いを見計らって回収しに来るだろう。それが効率的かつ合理的だ。何故なら彼らの仕事場は、ナポリの廃棄物処理場だからだ。
かつてキリスト教が迫害された地では「キリシタンの遺体は復活する」と信じられ、キリスト教徒の亡骸は切り刻まれて川に流された。
医療技術が目覚しい進歩を遂げる現代、一度死んだ人間が復活する事など起こり得ないと人々は知っている。それでもマフィアが遺体を消すのは、自身らの起こした事件や事故の証拠隠滅のためだ。
アルフィオが幸運だったのか、例の三人ががさつだったのかはさておき、ゴミの山に埋もれてしまえば、復活など有り得ないのだ。
いよいよ玄関扉の前に立ったアルフィオは唇をきつく結んだ。自身の口輪筋が引き攣っているのを確認する。
「…………」
呼びかけようにも、やはり声は出せそうにない。
これまで数々の獲物を追いかけ、仕留めて来た冷酷で残忍なヒットマンだったが、今回のターゲットがどのような行動に出るかは、その想像の範疇を超えている。銃口を向けられても、指をツノの形にして眼前に突き付け返し、挑発するような男なのだ。
未知に対する不安や恐怖、極度の緊張に襲われている精神が、肉体に現れていた。
アルフィオは呼び鈴を鳴らし、玄関扉を叩いた。
姿が見えないよう、スコープを片手の指で押さえる。追い出した相手が戻ってきたと知れば、ディエゴはまた扉を閉ざしてしまうだろう。まずは対面しなければ、話にならない。
耳をそばだてると、扉の向こうから足音がした。懐かしさを感じさせる、聞き慣れた革靴の音だ。
誰かと訊ねられる事さえなく、扉が開いた。
以前は鼻先で閉じられた扉が、またしてもアルフィオの高い鼻の先を掠める。咄嗟に一歩退いた。
「何してんだよ、そんな所に立ってたら鼻を折っちまうぞ!」
まだ姿も見えていないと言うのに、聞こえてきたのはあのよく通る声と軽い口調だった。
「…………」
何も言い返さず、木製の重い扉から現れた姿を見る。
この数日間、頭から離れなかった彼がそこにいた。
最後に言葉を交わした時と何ひとつ変わらない、とは言えなかった。
なぜかディエゴも、アルフィオと同じく正装に身を包み、髪を整えた姿なのだ。ミサに行くような落ち着いた色合いではなく、くだんのパーティー用のジャケットだった。
さらに、家のリビングはすっかり片付けられ、ソファーのそばにはスーツケースが置かれている。
理由を言及する事はできない。ふたたび話せるようになる頃には、ターゲットはもうこの世に居ないのだから。
しかしそれ以上に驚いたのは、ディエゴの方だったようだ。
形のいいカーブを描く上まぶたを上げ、両目を見開く。明るい茶色の瞳に、外の光が透けている。
「アル、フィオ?」
ようやく押し出された声から、驚き以外の感情は読み取れない。
「…………」
信じられないと顔を見上げてくるディエゴに、真正面からゆっくりと歩み寄るアルフィオ。建物に入ってしまえば、目撃の可能性はかなり低くなる。扉を閉めさせればしめたものだ。
「な、なんだよ」
ディエゴは距離を詰められるまま、取っ手から手を離し、家の中へと後ずさった。
過去には、迫ってくる大柄な体躯と表情のない色白い顔に、恐怖を感じたターゲットも居ただろう。
「まだ生きてたなんてな。いったい、何しに来やがった……」
今のディエゴも、強い口調だが、動揺を隠せない様子だ。声がわずかに震えている。
殺しを依頼したはずのターゲットが生きていたばかりか、目の前に現れた現実が、まだ理解が追いついていないのだ。マルチェロの死が伝わっていないのか、本人からの音沙汰がない事さえ、不審に思わなかったのか。
「お前、本当にアルフィオなんだろうな? まさか幽霊だなんて、言うなよ?」
そう言いながら、距離を取るように後退する。すぐに、リビングの中央に置かれたソファーに行き着く。
それを見つめるアルフィオの後ろで、扉の閉まる音がした。
アルフィオはやはり何も答えないまま歩み寄り、持っていた物をディエゴに差し出した。まるで犬や猫が、自分で仕留めた獲物を飼い主に見せびらかすような、従順な態度や愛らしさはない。
ディエゴが一度、そこへ視線を落とす。間違いなく、大好物の赤ワインと、情熱的な男にふさわしい薔薇の花だ。
「ハハッ、どういうつもりだよ、ご機嫌取りか? それとも、ご主人に褒めてもらおうってのか?」
声を立てて笑い、笑顔を見せるが、どこかぎこちない。不自然に引き攣った表情だ。
感情表現が豊かで能天気だったさすがの彼も、違和感を超え、危機感を感じ取っているらしい。それほど、ヒットマンとしてのアルフィオの様子は鬼気迫っているという事だろう。
贈り物をその胸の高さに押し付けるようにすると、仕方なく受け取る。
これらは注意を逸らすための材料なのだ。ターゲットの視線が手元に向けられるのを待つ必要がある。
「何とか言えよ、相変わらず──」
そこで、ディエゴの表情が変わった。笑みは消え、また驚いたように、一点を注視する。
アルフィオの腕に体の一部のようにぶら提がった、もうひとつの荷物に気付いたらしい。
「まさか……その金、ずっと持ってたのか?」
それは間違いなく、追い出される際にディエゴに投げ付けられたあのハンドバッグだった。中に押し込められた紙幣は一枚たりとも減らしていない。
「…………」
ゆっくりとうなずいて見せるアルフィオ。
たとえディエゴの存在を意識から追い出そうと、重さがどれだけ邪魔になろうと、これだけは肌身離さなかった。
否、離せなかったのだ。哀れな十代だった少年が文字通り血の滲むような視線をくぐり抜け、今のディエゴを作り上げた証なのだから。
まさかこのような形で再会するとは思いもよらなかったが、ようやく持ち主に返せる時が来た。
バッグのハンドルを腕から抜くと、先ほどと同様に差し出した。
すでに両手にはワインボトルと花束が抱えられているが、
「戻ってくるとは思わなかったぜ。だって……」
ディエゴは片手で受け取り、珍しく言葉を詰まらせる。あまりにも感慨深く、心が震えてしまったらしい。
遺失物は、戻ってこないと考えるのが自然だ。引ったくりやスリが横行し、家にいても強盗に襲われる環境で、大金を詰め込んだバッグが持ち主の元に戻るなど奇跡と言える。
ターゲットはすっかり油断し切ったようだ。視線は手元に注がれ、両手もふさがっている。今なら、何をしても勘づかれる事はない。
アルフィオは素早く腰の後ろへ手を回した。ジャケットの下に忍ばせた、ピストルのグリップに手を掛ける。
家の中でも道路に面していない場所──キッチンか、ベッドルームで実行するのがより確実だが、次の好機が訪れるかは分からない。
しかし、次の瞬間、アルフィオの動きは封じられてしまった。
ディエゴが飛びついて来たのだ。
「──ああ、バカ野郎! 本当に、どこ行ってたんだよ!」
それこそが、彼の本心なのだろう。言葉遣いは荒々しいが、声には隠しきれない喜びが表れていた。
左右の手がふさがっているのも気にせず、両腕をアルフィオの首に、両脚を胴に回して、しっかりとしがみ付く。絶対に落とされる事はない、という信頼が、その四肢から伝わって来る。
まるで旧友との再会を果たしたかのような、無邪気な動作だ。自身の大切な物を汚されたと、怒り狂って追い出した事などすっかり忘れてしまっている。
アルフィオは手を後ろに回した状態で、その場から動けなくなってしまう。
上体が前に傾き、危うく倒れそうになる。男性一人分の体重がぶら下がっているのだ。閉じた口の中で奥歯を食いしばり、両足に力を込めて踏ん張った。
こうなっては、力づくで相手の体を引き剥がして撃ち抜くのは早計だ。
気付かれないようグリップから離した手を、ディエゴの体に回した。尻と腰を支え、姿勢を起こすと、顔を見上げる形になる。
重心を安定させてしまえば、平均より少しだけ華奢な体は簡単に運べてしまうほど軽い。
「お前は本当にバカな犬だ……今さら、戻ってくるなんて」
肩に顔を埋めるようにしてアルフィオの耳に口を寄せ、次々と言葉を羅列するディエゴ。その調子は先ほどのように不自然なものではなく、心の底から溢れ出すままに流しているようだった。
そうする内、ようやく違和感に気付いたらしい。
ディエゴは抱き上げられた状態のまま、一度体を離した。改めて互いの服装を確認する。
「……てっきり汚れて帰ってくると思ったのに、ずいぶん綺麗じゃねぇか」
いったい何が気に入らないのか、やや不満げですらあった。感情表現が豊かで、機嫌の変わりやすいのは、初めて出会った時からだ。
さらに、荷物を持った手をアルフィオの肩に置き、顔を覗き込む。
「その様子だと、何も答えられねぇって事だな?」
「…………」
表情を変えず、ディエゴの顔を見上げるアルフィオ。
熱を帯びた視線が絡み合う。
それが何を表すのか、次に何を求められるのか、アルフィオには分かっていた。頭で考え、推察するより先に、体が反応するほど慣れ親しんだ感覚がある。
ふたりは唇を重ねた。
ふたたび、首に腕が回される。それに応じ、アルフィオもディエゴの腰を抱え直した。互いの吐息すら逃さないと、貪り合うようなキスが始まる。
「このまま……」
ディエゴが何やら言いかけるが、アルフィオは聞くまでもなかった。
よく知っている香水の匂いが、犬の鼻腔に流れ込む。嗅覚は五感の中で最も環境に順応しやすく、それでいて記憶と密接に結び付いている。
過去の経験から導き出せる答えは、この家の最奥、ベッドルームに繋がっている。
オオカミ男であれ、忠犬アルフィドであれ、この男のベッドに誘われる事は、難しくない。コールガールに扮したりなどしなくても、「デカい」男であればいい。
どうやら有能なヒットマンは目的遂行に固執するあまり、有効な方法を見落としていたようだ。情欲をかき立てる容姿を持って生まれたからこそ、容易にこなせる依頼だと言うのに。
『あんたに頼むのが一番だと思って、指名させてもらった』
チーロの言葉を思い出す。彼はただ、同居人としての経験から行動パターンを予測して動くよう求めていたのだろう。それ以上に、むしろこれ以上ないほどに適切な人選だったと言える。
アルフィオはディエゴが頭をぶつけないよう気を付けてアーチをくぐり、廊下へ出た。バスルーム、物置部屋、ベッドルームの戸がすべて開放されているのが見える。
キスを交わし、体に触れながら、廊下を進む。包帯と古いガウンに身を包み、肩を貸されて歩いたのと同じ距離はあまりにも短い。
あの時と同じ部分に傷を負っている事すら、今のアルフィオには気に留める必要がなかった。まるで麻痺したように痛みを感じない。ただ、引き請けた仕事に没頭している。
不意に、脳裏を金髪が過 ぎる。いま腕の中にいる相手とはまったく違う、珍しく、懐かしい存在だ。
交渉を申し出、依頼を請けた事は、過去への償いとも言えるのかも知れない。かつての恋人のために、かつての恋人を殺すのだ。
アルフィオがそのように自分以外の誰かを想っているなど、ディエゴは微塵も考えないだろう。これまでも冗談まじりに口にする事はあれど、自信に溢れたのが彼なのだ。
今もこうして、愛を表しながら悪態をついている。まるで自分は悪くないとでも言いたげに。
「クソ野郎、お前のせいで、オレがどんな目に遭ったか……」
友人として、あるいは恋人として再会すれば、積もる話もあるものだ。離れている間、それまでの日常とはまるきり違った生活を送ったのは、アルフィオに限った話ではない。
物置部屋の前を通過する瞬間、アルフィオは横目で中を確認する。
あれだけあった荷物はどこへ消えたのか、暗い部屋の中には埃っぽい空気と、空になった棚しか残っていなかった。片付いたリビングと言い、スーツケースと言い、やはりディエゴは逃亡を計画している。
逃すわけにはいかない、とアルフィオの決意はますます固くなる。腹の底で燻 るような感触が、全身に燃え広がるのを感じる。
窓から陽の射し込むベッドルームも整然としていた。クローゼットの中も、空にされているのだろう。
家具だけでなく、シーツやカーテンすらも置いて行く予定だったのだ。こだわりのインテリア一式を含めたこの家から、間もなくディエゴは居なくなる。
「…………」
アルフィオは抱えていた体をベッドに落とすように寝かせ、自分も乗り上げた。
四つん這いになって覆いかぶさる体勢は、大型犬が主人の顔を舐めに行くのとも、獲物を狙うオオカミが姿勢を低くするのとも似ている。
花束、ワイン、そしてバッグをようやく手放すディエゴ。贈り物の散らばったキルトケットの上、仰向けで、待ちわびたようにベルトを外し始める。
「久々に会ったのにいきなり乗っかるなんて、お前はすっかりオレの情夫だな」
その間も視線を逸らさず、得意げな態度で挑発を続ける。
「一ヶ月と一週間のお預けだ。待ちくたびれただろ?」
「…………」
無言で見つめているだけのアルフィオ。
「まさかセックスの仕方も忘れたか? ベッドまで運んだクセに……ちゃんとオレを愛してみろよ」
愛など求めていない、と言った彼自身の主張は覆されていた。セックスは最高の愛情表現であると教えたのも彼なのだ。
アルフィオは即座に従い、ディエゴのズボンからシャツの裾を引っ張り出した。その下へ手を潜らせる。久々に触れた肌と体温は、若々しく、よく馴染んだものだった。撫でると、間違いなく男性と分かる筋肉と骨の感触がある。
一方でディエゴは、ズボンと下着から何とか片脚を抜き、股を大きく拡げた。膝を曲げ、股間に向けた手元で何かしているが、アルフィオには見えない。
そうしている間も、キスは続いていたからだ。
次第に、絡み合う唾液とは違う水音が聞こえ始める。粘液質な音は、相手を迎え入れる準備をしている部位からのものだ。
「待てだ、アルフィド……すぐに、食ってやるから」
ディエゴは眉根を寄せながら息を吐き、時おり身をくねらせた。愛らしいウサギや仔犬からは想像もつかない言動だ。
「…………」
従順な大型犬はその身体をほぐすのを手伝うように、シャツをまくり上げ、首や胸にも唇をつけていく。言われるがまま、舌を出し、歯を立てて、敏感になる肌をさらに刺激する。
触れられる部分を増やすように、ズボンを抜いた右脚からは靴と靴下も脱がせ、床へ捨てた。すべて、この雇い主であり客であった男に仕込まれた事だ。
わずかに息を上げたディエゴが何かに気付き、動かしていた手を止めた。濡れた指を引き抜く音がする。
「何してんだ? お前も脱ぐんだよ、おバカさん 」
そうして、アルフィオが動く前に、手ずからベルトを外してしまう。慣れた手つきで前を開けられ、ズボンと下着をずり下げられる。
アルフィオには止める暇も与えられなかった。
「…………」
戸惑う当人をよそに、ディエゴは自由に動く片足をそれらに引っ掛け、一気に腿から膝へと下ろしてしまった。
いつからそうなっていたのか、硬くなった先端は下着のゴムに引っかかり、反動をつけて下腹を打つ。毛のない肌に当たり、強くはじいた音がした。
「おお……相変わらず、すげぇな」
ディエゴが一瞬、顔を下方に向け、冷静になった調子で言った。触れなくても質量が分かる存在感に、やはり感心してしまったらしい。
アルフィオも釣られ、自身の股間を見ようとする。が、ディエゴはすぐにアルフィオの顔へと視線を戻し、またキスをせがんだ。腰を揺らして直情的に誘う。
と、ズボンの後ろに差していたピストルが抜け落ち、床へ転がった。
ヒットマンの手元からピストルが失なわれるなど想定外だ。思わず振り向きそうになるが、拾うわけにはいかない。
幸いにも、ターゲットは気付かなかったらしい。
アルフィオは不安を抑え込み、目的に集中する。自身に与えられた使命をこなさない者に、居場所はない。懸命に口を開け、舌を使ってキスを与える。
ディエゴの湿った手が中心に触れてくる。包み込み、しっかりとした形をなぞるようにされ、身を硬くせずにいられなかった。アルフィオは顔を離して一点を見つめ、ゆっくりと息を吐く。
例によってどこからともなく取り出された、スキンを装着される感覚がある。ディエゴに限らず奔放なウサギ男たちは、いつ何時チャンスが訪れるか分からないと、そういった準備を怠らないのだろう。
その罠とも言うべき口に引っかかったのは、自身の意思で群れを離れてきた一匹狼だ。
ディエゴは少し体を丸めるようにして尻を上げ、先端を導いた。濡れそぼった襞が、暗い口を開けて待ちわびている。捕食、という表現がいっそふさわしい。
アルフィオは腹を括り、ディエゴの顔の脇に手を突いた。手を添えられたまま、前進する。温かい感覚に飲み込まれる。
「ああっ!」
ディエゴが甘い声を上げ、のけ反った。首の中で喉仏が跳ねる。
アルフィオも詰めていた息を吐きながら、ディエゴの肩へ顔を埋めた。強烈な感覚に、歯ぎしりをして耐える。体温で溶けたような熱と水気がまとわりついてくる。それを掻き分け、押し進んだ。
柔らかくうねるような中に、やや硬い感触を探り当てる。ディエゴみずから白状した、男性の弱点とも言える〈聖なる場所〉だ。そこへ硬くなった外性器で触れさせるという行為は、まさしく相手を受け入れるという事だ。
望む通り、その一点を突き刺し、えぐるようにしながら最奥へ押し込む。
ディエゴが言葉にならない声で叫ぶ。痛みに苦しんでいるのではない事は、恍惚とした表情を見れば分かった。
「アルフィオ、ああ、アルフィオ!」
ようやく口にできた、という風で、繰り返し名前を呼んだ。さらに、薄く涙すら浮かべたあどけない瞳を向ける。
「ここが……お前の居場所だ、そうだろ?」
息を荒らげて訊ねながら、下腹を撫でた。
「ハァ、ハァ……オレのアルフィオが、戻ってきた……」
その言葉に、アルフィオは頭に血が上るのを感じた。昂りを抑えられなかった。仕事の一環だと理解させる理性の箍 すら、はずれてしまいそうになる。
下唇を噛みしめ、勢いよく突いた。まとわりついてくる襞が巻き込まれ、外側へ出てきてしまうのではないかと不安にさせるほどの、激しい動きを、二人は共に望んでいる。
鳴き声に似た喘ぎを上げる小型犬のようなディエゴは、しきりに呼び続ける。
「ああ、オレの下戸さん 、アルフィド、聖 ア ルフィオ、白いオオカミ野郎……」
記憶の中では見せなかった、どこか心細げな姿だった。
明るい部屋で、互いのすべてがはっきりと見えていた。羞恥などという感情は、セックスにおいて無用だ。
結合したまま、もつれ合うように服を脱ぎ捨てる。裸を突き合わせ、悶えながら、正反対の色をした肌へ腕を回す。アルフィオの着けたゴールドの鎖がディエゴの肌に転がる。
リズミカルに体を揺らし、感情をぶつけ合うような、ダンスにも似た行為だ。フッフッ、というアルフィオの吐息や、ベッドが軋む音も規則的で、拍子を刻むように聞こえてくる。
最中、とにかくディエゴはアルフィオにキスをせがんだ。たとえ口をきける状態だったとしても、言葉を発する暇も与えないだろう。文字通り息付く暇もないほど、深く、長いキスを求めた。
あっという間に、押し上げられたディエゴが限界を訴える。
途端に、アルフィオの頭からは昂りが消えていった。まるで熱が冷めるように脳からの司令が切れても、硬度は保っている。
有能なヒットマンは腰の動きを止めず、その時を待った。勃起は緊張反応であり、射精はその正反対の弛緩を要する。動物が最も無防備になるのは、水浴びをしている時間ではない。快楽に堕ちた瞬間だ。
浅黒い肌に包まれた腹筋や、内腿の筋肉が収縮する。苦しげに表情が歪み、昇り詰める姿を幾度となく見てきたのは、無駄ではなかった。
次の瞬間、アルフィオは両腕を伸ばした。華奢な喉は、大きな手に簡単に収まってしまう。気配を察知される寸前、白い両手でディエゴの首を絞めた。
「ぐっ!」
食いしばった歯の間から呻き声が漏れた。
離させようと褐色の両手が首元に伸びて来るが、アルフィオも強く歯を食いしばり、腰を打ちつけながら、真上から体重をかける。
いきなり首を絞められる苦しさは身をもって知っている。家族から裏切られる痛みも、友人の手によって殺される辛さも。
信頼したふりをして、最後の最後にはこの手で、一番確実な方法で殺してやる。それが、彼への手向けとなる。
ディエゴが苦しげに目を開け、見上げる。
「何、しやがる……」
快楽に耽っていたところから突然呼吸を止められ、何が起こっているか理解できていない。
驚くのも無理はないだろう。
以前、ペン一本で人を殺せるかと聞かれた際、アルフィオはこの腕さえあれば充分だと答えた。当時は使い物にならないと揶揄した相手に、今まさに首を絞められているのだ。
しかも、下半身から送り込まれる快感は続いているとなれば、ますます混乱しているはずだ。
太く白い手首に、切り揃った爪を立て、力を振り絞ろうとする。しかしディエゴが力でアルフィオに敵うはずなどない。
「どこで、誰に、教わった……」
顔を歪めながらも、楽天的に訊ねてくる。何と繁殖力の強いウサギは、この行為さえもセックスの一環だと思っているらしい。
「…………」
さらに力を込めると、動いていた喉仏が深くめり込む感触がある。気道を絞めつけるほど、下半身の絞めつけが強くなった。
今もなお、肉と肉をぶつけるように、腰を動かし続けている。だがアルフィオの方は、そこに、快楽を感じる余裕は無くなっていた。
「アルフィ、オ……」
そう呼ぶよく通る声も、今はかすれていた。次第に顎が浮き、舌が押し出され始める。
返事のできないアルフィオは、ディエゴの顔をしっかりと見つめていた。果てる瞬間を、その目に焼き付けておこうとするかのように。
またディエゴも、アルフィオの目的を理解したのか、目立った抵抗を示さなくなった。
そして、あろう事か手や体に込めていた力を抜いてしまった。これまで精一杯に楽しみ、謳歌してきた“それ””への執着を手放すように。
筋張った首が軽くなる感触があった。戦う術を持たないウサギは、みずから心臓を止めるものだ。
「……愛してる 」
かすかに、だが確かにディエゴの唇がそうつぶやいた。
途端に、アルフィオの動きがぴたりと止まった。首を絞める手腕も、腰の動きも。何かに気付いたように。
鋭く、険しかった表情が、恐れに変わってゆく。噛み合わさっていた上下の歯に隙間が空き、離れ、かちかちと堅い音を立てて震え出した。
「…………」
筋が浮くほど込められていた力がゆるみ、解放されたディエゴがその手を跳ねのける。激しく噎せ、ふたたび開いた気道に、大きく息を吸い込んだ。
「……でき、ない」
アルフィオが小さく言った。そう、間違いなく言ったのだ。
何より驚いたのはアルフィオ自身だ。
自分の体が、思い通りに動くようになった。それは望ましいはずだが、まだ状況が把握できない。
追い詰められた自分の声が頭蓋骨に反響している。混乱する頭を抱え、繰り返す。
「できない……できない、俺は、俺には!」
話せるようになった事を確認するように、懸命に言葉を発する。
「ディエゴを、殺す、なんて……俺にはっ……」
それは、自供も同然だった。
横たわったディエゴは自身の首をさすりながら、それを見ていた。
一度咳払いをし、短く呼びかける。
「アルフィオ」
それだけで、臆病なアルフィオの体は強ばってしまう。だが、これまでのように口の筋肉が収縮する事はなかった。
「ディエゴ……その、俺は……」
何とか言葉をしぼり出そうとしながら、ゆっくりと、視線を上げる。
その視界の端で、何かが動く。寝転んだままのディエゴが、右腕を振りかぶっていた。
目が合うなり、アルフィオの視界が揺れた。重い音がした。
「何で殴られたか分かるだろ、“答えてみろ。その口で”」
殴られたのを理解するが、痛みは感じなかった。
お前を殺そうとしたからだろう、と答えかけ、はたと思い出す。
「俺が、セックスを……中断したから……」
彼が嫌うのは神と教会、薄汚い違法ビジネス、そしてセックスを中断される事だ。
機嫌をうかがうようにそう答えると、ディエゴはようやく、満足げに笑った。
「……ちょっとは賢くなったな? バカ犬」
肘を突いて起き上がるや否や、戸惑っているアルフィオの体に乗り上げ、正面から抱き合う体勢になってしまう。腰を両脚で捕まえ、尻を押し付けてきた。
「ま、待て、ディエゴ、どうして……」
奥まで咥え込まれたアルフィオは焦って見上げる事しかできない。そんな場合ではない、と言いかけるが、理解が得られる相手ではなかった。
「どうして! 俺は、お前を殺そうと──」
「そんな事はどうだっていい! 今は、コッチが先だ」
強い剣幕で言われ、髪を乱暴に引っ張られる。目の前に、見慣れたディエゴの顔が迫った。
「二度とするな。今からオレが満足するまで、愛を囁き続けろ。それで許してやる」
その態度はさながら、自身より大きな体にマウントを取った、発情中のオスのウサギだった。
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