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閑話 お父さんはド天然
「あれ、多家良 さん?」
アルバイトに出かけた息子から夕食の調達を仰せつかってとりあえず近所のスーパーマーケットに来てはみたものの、はてさてどうしたものかと入口に置かれていたカゴを手にして固まっていたところで声をかけられた。
後ろで一つに束ねられた、長く伸びた黒髪。目尻の下がった温和な微笑み。
たしか奏川温人 だったか。会うのは二度目だが、昨日顔を合わせたばかりだ。人の顔を覚えるのが苦手な自分でも流石に覚えていた。
「こんにちは。」
「ああ。……どうも。」
昨日の緋葉の態度から察するに、この親子とは距離をとった方がよさそうだと思っていた矢先にこれだ。つい無愛想に返してしまったが、本人はいたって気にしていない様子だった。
「多家良さんもお仕事帰りですか?」
「ああ、いや、」
「僕も今大学から戻ってきたところで。あ、僕は二駅先の大学で人文学の教鞭をとっておりまして。あ、ですから今は春休みで講義はお休みなのですが、資料の整理と来期の講義の準備をしておりまして。」
「ああ。いや、そうか。……こっちは、まあ、今はリモートでの仕事だから、帰りというわけではないのだが。」
「そうなんですね。お仕事お疲れ様です。」
「……ああ。」
別に話すことを強制されているわけではないのに、にこにこと温和な笑みで物腰柔らかに語り続けられると、どうにも返さなければならない気がして話の切りどころを見失ってしまった。
歳の頃は自分と大して変わらないのだろうが、この男は四十五年生きてきた中で自分の周りにはいなかったタイプの人間のようだ。
扱い方が……わからない。
「多家良さんもお夕飯のお買い物に?」
「ああ、まあ。」
なぜ、二人でカゴを手に並んで店内を歩いているのだろう。
店の奥に勝手に歩いているが、隣人はにこにこと笑みを浮かべたままついてくる。
「今日のお夕飯は多家良さんの担当なんですね。そういえば、多家良さんと多家良さんはお二人で暮らしてらっしゃるんですか?」
「……、」
思わず足を止めてしまっていた。
……意味が、わからない。
ああ、そうか。昨日伝えそびれていのかと、ようやくその事実に思い至った。
「緋丹 だ。」
「はい?」
「私の名が緋丹。息子は緋葉 という。」
隣人なんて今後も大した付き合いがあるわけではないだろうと、昨日は告げなかった名前。
多家良緋丹 だと改めて名乗れば、ご丁寧にどうもと何故か深々と一礼されてしまった。
「改めまして、僕は奏川温人 と申します。」
「ああ、昨日きいた。」
「あ、それでですね、多家良さ…」
「名前で、」
思わず手で制してしまった。
「……名前で話してくれないか。」
ややこしすぎてかなわない。
聞きたいことがあるのならわかるように話せと伝えたつもりだったのだが、目の前の男は何故かえ、と驚きに口を開き、そうして何故か見開いた瞳をキラキラと輝かせる。
「あ、あの、でしたら僕のことも是非温人と呼んでください!」
「は?あ、いや、」
「そうですよね、子供達も僕達も歳が近いみたいですし、なによりお隣さんですもんね!いわゆるパパ友というやつですね!うわぁ、僕そういうお友達初めてです。」
……なにをどうすればそういう思考に至るんだ。
否定しようにも何やら物凄く嬉しそうによろしくお願いしますと一礼されて、開きかけた口は閉じるしかなかった。
……もう、どうでもいい。
「緋丹さんはお夕飯のメニュー決まりました?僕はまだ何を作るか悩んでまして。」
「……いや、息子に惣菜を買ってこいと言われて。私は料理どころか生まれてこの方包丁すら握ったことがないからな。」
「え?」
温和な笑みが一瞬凍りついたように見えたのは気のせいだろうか。
「あの、えっと……普段お食事はどのように?」
「外に食べに出かけていたんだが、近隣の店舗はいい加減食べ飽きてな。」
「毎日、外食……」
だから今日は惣菜を買ってこいと息子からここまでの地図と買い物のメモを預かってきたと正直に話せば今度は明らかに笑顔が驚愕の表情へと変わった。
そういえば、店員を見つけてすぐにメモを渡せ、ドン引きされるから余計なことは喋るな、とよく意味のわからないことを緋葉から言われていた気がするが……自分はすでに何かまずい発言をしてしまっているのだろうか。
「ええと、私はこれで失礼する。」
とりあえず、栄養が、健康がと何やらつぶやき考え込み始めた隣人から離れるなら今だろうとひっそりとその場を後にしようとしたのだが、
「あの、」
ガシッと思いっきり腕を捕まれた。
突然のことに思わず肩が跳ねたが、隣人、もとい温人はそんなことお構い無しにずい、と顔を寄せてくる。
「あ、あああの!」
「な、なんだ。」
その瞳に狂気に近い色を見た気がした。
思わず一歩後ずさったが、温人は瞬きひとつせず、鼻息荒くどんどん距離を詰めてくる。
「あの、僕にお夕飯作らせてもらえませんか!」
「………………は?」
その言葉を理解するのに、たっぷり十数秒の時間を有した。
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