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閑話 お父さんはド天然2
……で、何故こんな事態になっている?
つい一時間前の出来事を事細かに思い起こしてみても、答えはさっぱりわからなかった。
あの後反論する間も与えてもらえず、苦手な食べ物はあるかだの、アレルギーはあるかだの、質問攻め。温人 の買い物かごには人参じゃがいも玉ねぎいんげん豚肉と次々と食材が放り込まれていった。
そうしてあれよあれよという間に帰路につき、温人は青葉荘 の101号室ではなく、本当にこの102号室へと荷物を運び込み台所を使い始めたのだ。
食材が皮を剥かれ、刻まれ、煮込まれ姿を変えていく。ほぼ初めて見ると言っていい光景に、ついつい隣で見入ってしまっていた。
「凄いな、」
思わず呟けば、年季の入った黒いエプロンに身を包んだ温人は、ありがとうございますと照れ笑いを浮かべた。
「母が長年家政婦の仕事をしておりまして。料理の技術と大切さは幼少の時からずっと教え込まれてきましたから。」
温人の手が、カタカタと煮えて小さく音を立てる鍋の蓋を開ければ、ほわりと湯気が上がり煮物の甘い香りが立ち込めた。
「母いわく、料理は愛なんだそうです。」
「愛、」
「出来合いの食事もいいですけど、愛情をかけて作ったご飯はやっぱり美味しいものですよ。」
小さな白い小皿の上にじゃがいもを一欠片のせた温人は、箸でそれを二つに割った。
おそらくは煮え具合を確認しているのだろう。そしてどうやらそれは満足のいくものだったらしく、後ろで束ねられた長い黒髪が、うん、と満足そうに揺れた。
「緋丹 さん、味をみていただいていいですか?」
ここまできて、拒否をする理由はない。
なにより甘い香りと照りのついたじゃがいもは、不思議と見ているだけで空腹という欲求を呼び起こす。だから差し出された小皿と箸を黙って受け取った。
期待のこもった視線を感じながら一口、噛み締める。
衝撃を受けるような味ではない。けれど、どこか懐かしさを感じる素朴で優しい味わいが、じんわり、じんわりと身体に染み込んでいく。
「……うまい。」
言葉は自然にこぼれ出ていた。
面白みのない感想だっただろうに、目の前の男は嬉しそうに瞳を細める。
「よかった。冷蔵庫に大根サラダと、あとお味噌汁もありますから召し上がって下さいね。」
「ああ、……ありがとう。」
「いえいえ、たいしたものは作ってませんから。」
見事な手際で片付けまで終わらせた温人はエプロンを脱ぎ、持ち込んだいくつかの調味料と共にトートバッグに収めていく。
「それでは、僕はこれで。」
「は、いや、ちょっと待ってくれ。」
そうして本気でそのまま帰ろうとしていたので、慌ててその手を掴んでしまっていた。
「どうかしましたか?」
疑問に首を傾げられてしまったが、理解できないのはこちらの方だ。
「いや、まだ何も礼をしていない。」
「お礼?今言ってくださったじゃないですか。」
なぜそこで首を傾げる。
自分が何者なのか知った上での打算的な行動とは違うと思ってはいたが、この男はどうやら本気でなんの見返りも求めていないようだった。
どうして、昨日知り合ったばかりの隣人にここまでできるんだ。なんの見返りも求めず、ただ一方的に。何の得もないのに。
「あ、そうだ緋丹さん、明日なんですけど、」
「明日?」
「はい、僕ちょっと明日は論文を仕上げなければならなくて、お邪魔できそうにないんです。」
……仕事がなければ明日も来るつもりだったのか?
言葉にはしなかったが思わずその顔を凝視すれば、温人はどうかしましたか、とまた首を傾ける。
思考回路が不明すぎる。この男、本気で同じ人間なのか?もう、それすら怪しく思えてきた。
「それでですね、代わりと言ってはなんですが、こちらを。」
肩にかけていたトートバッグからごそごそと何かを取りだし笑顔で差し出してきた。
反射的に受け取って、思わずその場に凍りつく。
――はじめてのお料理
表紙に大きくそう印字されていたタイトルだけで、本の内容なんて想像するまでもなかった。
「僕も翡翠 も最初はこの本からだったんです。とっても丁寧でわかりやすいんですよ。」
……作れと、そういうことなんだろうな、これは。
ニコニコと音が聞こえてきそうなくらいの満面の笑みは、悪意などどこにもないと伝えてくる。
これは正真正銘、100パーセントの善意。
……何故、こんな事態になっている?
自問したところで答えは当然返ってこない。
ただ一つわかるのは、この笑顔を前にするとどうしても拒否することができないという事。
間違いない。今目の前にいるのは、この四十五年の間に出会ったことのない。未知の生き物だ。
善処する。
なんとか短い一言を絞り出せば、温人は頑張ってくださいね、と胸の前で両の拳をぎゅっと握りしめ、無言の圧という名のエールを送りつけてきた。
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温人さんは次男坊。長男は父親から、温人さんは母親から一字もらったそうです。
わかる人にはわかる、ここだけのお話。
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