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第5話 隣人さんはどんな人

春休みと言えど大学に来なければならない生徒は大勢いる。課題、論文、サークル、僕の場合は研究だ。昨日は一日家に籠って結局父さんの分まで荷解きを終わらせたのだけれど、ようやく落ち着いた本日は僕はいつもよりは人気のない大学へ訪れていた。 新しい我が家、青葉荘(あおばそう)から電車で二駅。都心から通っていた数日前とは通学時間が三分の一以下になった学舎は、県内では一番の広さを誇るマンモス校だ。 僕は朝一番で役所に転居の手続きをした足で、大学の窓口で住所変更の手続きを。ついでだから事務手続きなんて完全に頭から抜け落ちているであろう父さんの分までこなしてから、西棟の奥に位置する研究室へと向かった。 休みだからと言って研究は待ってはくれない。培養している培地の経過観察や湿度や温度の管理、そういう雑用は例年一年生の仕事なのだそうだ。新入生が入ってくるあと一ヶ月程度の間は、僕と数人の一年生が当番制であたっている。 もっとも、本来研究室には四年生からが必須で入るものであり、それ以前に研究をしたいと自主的に入ってくる人間は非常に少ないらしいので来年の今頃もこうしている可能性大なんだけど。 僕がいつも通りの観察記録とチェックを終えたのは、時刻が午前から午後へと変わろうとしていた頃だった。 いつもなら持参しているお弁当を研究室奥の談話室でひっそりと食べているところだけど…… 今日なら、空いてるかも。 僕はふと脳裏に湧いた誘惑に勝てずに、読みかけの本とお弁当片手に研究室を後にしていた。 広大な敷地面積を誇るこの大学には全部で四つの食堂が存在している。にも関わらず、学生や教授達のみならず一般にも公開されているため、どこもいつだって人だらけ。出来ることなら誰とも関わらず静かに休み時間を過ごしたい僕はまず近寄らない場所だった。 だけど、春休み中の今日なら…… 今なら利用者もそういないかもしれない。今ならまだ間に合うかもしれない。そう思ったら無意識のうちに早足になっていた。 理系学部がまとめられている西棟を出て、中央棟へ。朝住所変更の手続きをした窓口の奥にあるのが校内一の広さを誇る食堂「キャンパスキッチン」だ。 いつもなら入口を超えて廊下まで長蛇の列ができるこの時間帯でも、やはり今日は閑散としている。 僕はよし、と心の中で気合を入れて中へと入った。 目立たないように隅の席に座ろう。そう思って一番奥の席へ行こうとしたのだけれど、 窓際の席に見知った蜂蜜色を見つけてしまった。 「あ、」 思わず口をついて出た小さな声は、けれど本人に届いてしまったらしい。 六人がけの席でわいわいと話に花を咲かせていた蜂蜜色が、ふとこちらに視線を向け、そのまま驚愕に瞳を見開いた。 「翡翠(ひすい)!?」 食堂中に響く声で叫んだ緋葉(ひよう)は椅子をひっくり返しそうな勢いでその場に立ち上がる。 そのまま凄い勢いでこちらに詰め寄ってきた。 蒼穹の瞳が、まん丸に見開かれて僕を見つめる。 蒼穹だけじゃない、周りの視線も僕に注がれているのがわかった。 「青葉荘に越してきたってことはもしかしてとは思ってたけど、嘘だろ!?」 「あ、あの、」 「ずっと探してたのに、まさかの同じ大学って、……」 緋葉ははぁ、という盛大なため息とともにその場に脱力ししゃがみ込んだ。 視線が。周りの視線が痛い。 変な汗が僕の背中を流れ落ちた。 「ちょ、ちょっと緋葉!」 僕は慌てて緋葉の腕を掴んで立たせてから、周りの視線から逃げるように食堂から外へと連れ出した。 緋葉の友人だろう人達の呼び止める声が背後に聞こえていたけれど、そんなこと関係ない。とにかくこの男には一言言ってやらなくては。 僕は人気の少ない中庭まで問答無用で緋葉を引っ張ってから、思いっきり睨みつけてやった。 「声が大きい!注目集めちゃっただろ!」 「ん?ああ、わりぃわりぃ。」 思いっきり怒りをぶつけてやったつもりなのだけれど、緋葉はどこ吹く風だ。 肩にかかる蜂蜜色の髪をわしゃわしゃと掻き乱しながらペロリと舌を出すその様子は反省なんて絶対全くもってしてない。 僕は怒るのも馬鹿らしくなってきて、呆れながらため息をひとつ。そのまま近くのベンチに座り込んだ。 もう絶対あの食堂に行けない。 僕の、僕の、一日限定四十個の幻のクレームブリュレが。 恨みがましく視線を送ってみても緋葉は全く動じることなく平然と僕の隣に腰掛けてくる。 澄んだ空の色を映した瞳が、じ、と僕を見つめ、優しく細められた。 「で、学部どこなんだ?文学?薬学?あ、もしかして医学部か?」 「…………薬学。」 なんで、選択肢がその三つなんだ。 僕が進路で悩んだ学部をピンポイントで言い当てられて、言葉につまる。 けれど、緋葉にとってそれはどうやら当たり前のことらしかった。 「そっか。本も好きだけどお前ずっと大人になったら薬作る人になりたいって言ってたもんな。やっぱ夢追いかけてんのか。」 心臓が止まるかと思った。 なんで、どうして。 ……誰にも、話したことのないはずのこと。 父さんにだって、きちんと話したことはないのに。 物心ついたときには僕の心臓の手術は既に終わっていて、僕にとっては時々病室に検診に来てくれる先生よりも毎日飲む薬の方が身近だった。 苦しい発作が、薬を飲むと和らいでいく。手術の傷の痛みが消えていく。幼い僕にはそれは魔法みたいに思えた。 僕もいつか、誰かを助ける薬を作りたい。 常に僕の身近にあった、夢。 誰も知らないはずの、僕。 「なんかさ、別人みたいに大きくなってて昨日はびっくりしたけど、翡翠はなんにも変わってないのな。」 僕に伸びてきた大きな手が、雑に僕の髪をかき乱す。 やめてと何故だか拒絶できずに、僕はその手を甘んじて受け入れてしまっていた。

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