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閑話 お父さんとホットミルク
「緋丹 さん、一息入れませんか?」
降ってきた声に、パソコン画面から顔を上げる。
思わぬところから思わぬ助言を貰い、急展開で纏まりつつある話の為に部下に連絡を取りスケジュールを調整して、その為の情報をまとめ書類を作成し……気がつけば夕食を食べ終えたそのダイニングテーブルでパソコンを広げ仕事に没頭してしまっていた。
壁にかけられた時計を確認すれば、夕食から既に一時間以上経過してしまっていて、慌ててデータに保存をかけてパソコンを閉じる。
「すまない、任せきりになっていたな。」
夕食を作ってもらってるんだから、片付けはこっちでやるもんだ、と昨日緋葉 から言われたばかりだったのに。
「いえいえ。お忙しい時なんですから気にしないで下さい。」
夕食を作ってもらうだけでもおこがましいというのに、買い出しも片付けも全て隣人任せ。そんな状況でも温人 は腹を立てるどころか、お仕事大丈夫ですか、と気遣いまでみせてテーブルを挟んで向かいに腰を下ろした。
その手には二つのマグカップ。
「緋丹さん、甘いものは苦手ではなかったですよね?」
なぜ知っている?と湧いた疑問は、朝食の甘いフレンチトーストを思い出し言葉にする前に立ち消えた。
差し出されたのはホットミルク、だろうか。
牛乳だろう真っ白な液体で満たされたカップから、温かな湯気が立ち上っている。
「眠れなかったり、リラックスしたい時の我が家の定番なんです。」
どうぞ、と勧められて、カップを受け取る。温人の手にも色違いの同じカップ。それを両手で包み込むように持って口をつけたのを見ながら、自分も手元のカップを傾けた。
ホットミルクなんておそらく初めて飲むはずなのだけれど、どこか懐かしさを感じる優しい味だ。
「たしかに落ち着くな。」
大した感想は言えないけれど、それでも温人は嬉しそうに口元に笑みを灯す。
先程まで慌ただしく過ぎていた時間が、急にゆっくりと流れはじめた気がした。
甘い優しさが身体を温めていく。
「色々と迷惑をかけてすまないな。」
改めてこれまでの諸々を謝罪すれば、温人は瞳を瞬かせ首を傾げる。
「迷惑?何がですか?」
なるほど。迷惑を迷惑と思わぬ彼には謝罪ではなくこの言葉の方がいいのだろう。
「……色々とありがとう。本当に感謝している。」
言い直せば、今度はその瞳を嬉しそうに細めた。
「お役に立てたなら良かったです。」
なぜそこまで嬉しそうに声を弾ませることができるのか。本当に、奏川温人 という男は変わっている。
目尻の下がった温和な微笑み、穏やかで柔らかな声。ひとつに束ねている長い髪は、おそらくは何かこだわりがあるわけではなく、自分の事に無頓着故の結果なのだろう。何をとっても人の良さが滲み出ている。
いつだって自分のことは後回し、気にするのは他人の事ばかり。息子の苦労が容易に想像できて、思わず口の端が緩んでしまった。
「おかげさまで、憂いなく全てを終わらせることが出来そうだ。」
会社を追われ、一族からも事実上見放された。そんなこと、この男には一切関係の無いことのはずなのに。温人は他人の為に全力で憂い、喜び、行動する。隣人であるというただそれだけの縁でここまでしてくれるこの男には、今までに感じたことのない、ザワザワと落ち着きのない感情が芽生えてきているのを感じていた。
それは、温人があまりに善良で純粋すぎるが故の心配かもしれない。自分を気にかけてくれることへの嬉しさかもしれない。あるいは――
「でも、残念でしたね。緋葉君が跡を継いでくれる未来があったかもしれないのに。」
寂しそうに呟かれた言葉に、視線は真っ白なカップの中身から向かいに座る温人へ。
まさか、自分だけでなく息子の未来まで気にしていたとは。
「元々緋葉が跡を継ぐことはなかった。本人がそれを望んでいないし、……そもそも境遇が境遇だ。多家良 の家からは存在を認められていないからな。」
「え、」
温人の瞳が大きく見開き驚きの色に染まるのを見て、ようやく自らの失言に気がついた。
あまりに距離が近すぎて失念してしまっていたが、この男は息子達の繋がりも、緋葉に関する事も何一つ事実を知らないのだ。
「ああ、いや、……」
手にしていたカップに口をつけ、言葉を濁したところでもう遅い。
他人の不幸や苦しみを、この男が見過ごすはずがないのだから。
不安に揺れる瞳を前にふぅ、と深く息を吐き思考を巡らせる。
慎重に言葉を選ばなければ。
「……緋葉の母親とは、身分の違いなどという下らない理由で親を始め一族から否定されてな。恥ずかしい話だが私はそんな彼女に助けを出すこともせず、そうしている間に籍を入れることなく鬼籍に入られてしまった。」
「……そう、だったんですね。」
語ることのできる事実を端的に述べれば、温人は痛ましそうに表情を曇らせる。
「でも、その、……関係、ないですよね。どこで生まれたとか、戸籍の繋がりがないとか。」
「、」
それは、誰に向けての言葉なのだろうか。
浮かんだ言葉は、もちろん口にはしなかった。
そう、この男は知らないのだから。
この男が隠している事実を、私が知ってい事を。
緋葉から詳しく話を聞いたわけではない。けれど、息子の探していた人物、そしてその人物を見つけたあの時の息子の態度と彼の名を考えれば、答えは明らかだった。
「そうだな。生まれや戸籍や……血の繋がりなどというものは、ちっぽけなものだな。」
今は、届くかどうかもわからない言葉をかけてやる事くらいしかできないけれど、いつかはこちらが彼の助けになってやれれば。
優しすぎる男の為に今の自分に出来ることは、これ以上彼に心配をかけないこと。
そして、……こんなことくらいか。
話のそらせ方としてはお粗末すぎるが、手にしたままだったカップを再び傾ける。
その優しい甘さに、思わず口角が上がっていた。
「ん、やはり美味いな。」
正直に、なんの面白みもない感想を告げれば、目の前の温人は先程の苦しげな顔から一転して嬉しそうに口元を緩めた。
「おかげでよく眠れそうだ。……明日はよろしく頼む。」
「は、はい!僕に任せてくださいね。」
今は、これでいい。
胸の前で両の手を握りしめて張り切る温人を前に、それ以上の言葉は温かな優しさと共に飲み込んだ。
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