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第17話
夕食後、僕は一人自宅である101号室に戻って、山積みだった本をなんとか自室の机の上と本棚の僅かな隙間に押し込んでから、読書にふけっていた。
父さんはと言えば法学部の教授に連絡がついたらしく、明日にでも相談に行こうといまだ102号室で緋丹 さんと予定を擦り合わせている。
リビングにダンボールいっぱいに詰められた本達が放置されているけれど……はたして部屋に入りきらない本は買わない、という奏川 家ルールは守られるんだろうか。
ふと、机の隅に置いていた時計が視界に入って、僕は手元の本に栞を挟んで閉じた。
凝り固まっている肩をぐるりと回してから立ち上がる。
今ならまだギリギリ聞けるかもしれないな。
そう思ったら、部屋の窓を開け足は自然とベランダへと出ていた。
半分よりも少しだけ丸みを帯びてきた月を眺めながら、ベランダの手すりにもたれる。
耳をすませて探せば、聞きたかった音は春の夜風に乗ってうっすらと聞こえてきた。
淡く優しいこの月明かりみたいなバイオリンの音。曲名は……たしかタイスの瞑想曲、だったかな。
子守唄みたいなゆったりとした音が耳に心地いい。
上の階の人が毎夜弾いているらしいバイオリンは何故か毎日キッカリ夜の九時までということらしいから、今日の演奏もそろそろ終わりなんだろう。
残り僅かな演奏会を、錆びた手すりにもたれて静かに耳を澄ませる。
うん、やっぱり優しい音だな。
注意深く聞かなければ気づかないくらいの音にしばらく集中していたら、突然ベランダの壁の向こうからガラガラと窓の開く音がした。
勢いよく、ちょっと乱暴に開けられたのだろう音を立てたヌシには心当たりしかなくて、僕はほんの少しだけ隔壁から身を乗り出して隣を覗き込んでみる。
そこには、思った通りの人がいた。
月明かりに映し出された蒼穹の瞳が、僕の存在を目にしたとたんに優しく細められる。
「えっと、……おかえり。」
「おう。ただいま。」
緋葉 はニカッと歯を見せて笑うと、声を落としてまだやってるか?と隔壁越しに僕の隣に歩み寄る。僕と同じように手すりにも垂れてじ、と上の階へと視線を向けて耳を澄ませる。
優しい音が聞こえたのだろう瞬間、彼の口元に優しい笑みが灯った。
「バイト終わりの癒しだな。」
「……お疲れ様。」
バイオリンの音を消さないように小さな声だったけれど、緋葉にはちゃんと届いたらしい。
ぼんやりと空を見上げていた視線が僕へと降りてきて、おう、と嬉しそうに細められた。
「今帰ってきたの?」
「いや、さっきまで親父らがなんか話してる隣で飯食ってた。……いやぁ、煮付け、ヤバかったな。最後には煮汁ご飯にかけてさ、最高だった。」
今にもヨダレを垂らしそうな緋葉に思わず笑ってしまった。
「で、飯食いながら聞いたけど、親父に啖呵切ったんだって?」
「はぁ!?ちょ、そんな事してない!」
慌てて反論すれば、緋葉はふはっ、と思いっきり笑った。
いや、本当にしてない。だって、あれはただのアドバイス……にしてはちょっとキツく言い過ぎたかもしれないけど、その、たしか指まで突きつけて怒ったような気がしないでもないけど……
バイオリンの音を消さないようになんとか笑いをこらえた緋葉はそれでもくつくつと肩を揺らしながら隔壁越しにこちらに顔を乗り出してくる。
「感謝してたよ。結局最後はいい案くれたんだって?親父と奏川教授で明日法学部の教授んとこに行くって言ってたぞ。」
「あ、……やっぱりそうなんだ。」
どうやらいい方向に話はまとまっているみたいだ。
「ありがとな。」
「……うん。」
少しは状況が好転するならよかった。
よかった、けど……
「ん?どうした?」
曖昧な僕の態度に緋葉は心配そうに顔を覗き込んで首を傾げる。
もちろん、緋丹さんの悩みが解消されるのは僕としてもいい事なんだろうと思う。僕以上に気にしていた父さんが力になれるなら尚更だ。
ただ、まぁ、善は急げ。そうなるよね。
「明日、年に一度の検診の日だったから。……検査くらい僕一人で行けるって言ってるんだけど、毎回父さん心配でついて行くってきかなくてさ。」
無意識のうちに服の上から胸の手術痕をなぞってしまっていた。
生まれつき僕の心臓に空いていた小さな穴は、今は手術で塞がってはいるけれど年に一度の検診は必須だと主治医の先生に言われている。
それが実は明日だったんだけど、どうやら日を改めるしかないようだ。
一年前から予約取ってたから、先生にも謝らないと。
「あのさ、だったら俺がついていくってのは?」
「え?」
思いがけない提案に、思わず聞き返してしまっていた。
けれど緋葉はさも当然と言わんばかりにうんうんと頷く。
「親父が奏川教授を借りるんだから、代わりに俺が送ってってやるよ。そしたら教授も安心だろ。」
「え、いや、でも、」
「よし、そうと決まれば。……奏川教授〜!」
僕が反論するより早く、緋葉は踵を返して部屋の中に戻ってしまった。
身を乗り出して覗き込めば、カーテン越しに部屋の中から父さんの声と緋葉の声。
何を話しているのかと聞き耳を立てるより早く、あっという間に話をまとめたのであろう緋葉がベランダへと戻ってきた。そうして何故か僕に向かってブイサイン。
「翡翠 をよろしくお願いします、だと。」
なんで、そんなドヤ顔なんだろう。
緋葉が嬉しそうにしている理由はさっぱり理解できないけれど、どうやら話は決まってしまったらしい。
「えっと、じゃあ……明日、よろしくお願いします。」
なんとなく丁寧に頭を下げれば、おう!と嬉しそうに緋葉が頷いた。
――やくそく、あしたも!
一瞬、その笑顔に何かが重なって見えた気がしたのだけれど、その時の僕はそれを深く考えることはしなかった。
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