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第1話

 アンコールワットの日の出」と検索したのは、ほんの数ヶ月前のことだった。何故自分がその検索ワードに興味を惹かれたのか、今思うと不思議に感じる。あの時突然頭の中にそのワードが落ちてきた。そのワードが、自分の中の何かを突き動かしてくるような、そんな熱量を、あの時自分は確かに感じた。  たまにあるだろう。何故自分は「これに」強く惹かれるのかと疑問に思うことが。そこには幼い頃の記憶や、親からの影響など理由は様々あると思う。でも、それだけでは説明できない、胸を熱くする何かに出会うと、一体この感情は何処から生まれてくるのだろうという不思議な気持ちになる。  普段の自分だったら、優柔不断が故に自発的に行動することなど滅多にないのに、アンコールワットの日の出を見るためにカンボジアへ旅行をすることには、何の迷いも躊躇いもなかった。むしろ、自分の仕事を普段以上にきちんと片付けて、堂々と有休を使って今ここにいるのだから。  背中に汗が流れていくのが分かる。さっきよりも尋常じゃなく暑い。こめかみにも汗が流れ、下を向いた瞬間地面にポタポタと汗が落ちた。時期を間違えたかもしれない。そういうところがいつも、自分の詰めの甘いところで嫌になる。  観光客も異様に多い。『みんな詰めの甘い人間たちばかりだな』と自虐的に心の中で笑った。でも、アンコールワットの第二回廊に辿り着いた時、笑っている場合じゃないと即座に思った。そこには、第三回廊に繋がる、これでもかというような急な階段が存在していたからだ。それは第三回廊から中央祠堂の中に入るための階段で、相当体幹が強くない限り、手摺りなしでは絶対に上れないほどの傾斜だ。 (嘘だろう・・・・・・)  噂では聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。そして何より階段を上っている人、下りようとする人、上り下りを待っている人で第二回廊はごった返している。人の密度の高さと、異常なほどの蒸し暑さで、自分の意識が朦朧としてくるのが分かった。 『やばいな』という不安が過り始めた時、自分が階段を上る順番が巡ってきた。  水分を補給したいが、ホテルで買ったミネラルウォーターはさっき飲み干してしまった。1本あれば十分だと勝手に高を括った自分を殴りたくなる。この状態でこんな急な階段を上るのは止めた方が良いと分かっていても、列から抜け出すタイミングを逃してしまい、流れに逆らえぬまま階段に足を踏み入れた。  自分が今どこにいて、何をしているのかさえも分からないくらい意識が薄れている。それでも必死に手と足を動かして、何とか階段を上りきろうと頑張った。  最上階に足を置いた瞬間だった。自分は膝から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。その時、床の温度は灼熱の太陽に照らされ火傷するほど熱かった。でも、そんな熱さを気にする意識が自分にはもう既にないのか、熱さを感じたのは最初の一瞬のような気がした。 「大丈夫か?」  その時、誰かに両脇に手を入れられ引きずられて行くのが分かった。その間も自分はしゃべることも動くこともできず、ただされるがままずるずると、回廊の方に引きずられて行く。  目も開けることができず、自分を引きずってくれた人物が誰なのか分からない。でも耳はかろうじて聞こえるから、『大丈夫か』の言葉で、日本人の男性だということは分かった。 「す、すみません・・・・・・」  蚊の鳴くような声量で、野村陽向(のむらひなた)は何とか返事をした。 「ここで少しやすんだ方がいい」  その人物は陽向を回廊の壁に凭れさせると、自分も陽向の脇に座り、自分の肩で陽向の頭を支えた。  「これで冷やそう」  その人物はそう言うと、凍ったペットボトルを陽向のおでこや首の後ろに宛がった。その冷たさに、今までボンヤリしていた意識が僅かにクリアになった。でも、それはほんの一瞬で、すぐにまた体の奥から、自分ではどうする事も出来ない熱が生まれきてしまい、それが自分の体から力を奪っていく。 「熱中症だ・・・・・・水、飲めるか?」  その人物は、手に持っているペットボトルの口を開けると、陽向の口に、ペットボトルの飲み口を持って行き、ゆっくりと陽向の口へと水を流し込んだ。 「んっぐっ、んっぐ・・・・・・」  陽向は、口の中と喉に染み渡る水の冷たさに我を忘れた。口の端から水がこぼれ落ちるのも気にせず、流し込まれる水を必死に欲する。 「慌てなくていい。ゆっくり飲め」  その人物は落ち着いた声でそう言うと、陽向に水を飲ませながら、もう片方の手で、陽向の首や脇を今度は保冷剤を使い冷やし始める。その慣れた手つきに陽向は感心するが、その反面こんな情けない自分にひどく幻滅する。  気がつくと、好意とはいえ、人の水を無我夢中で飲み干してしまい、陽向はひどい罪悪感に包まれる。それでも、自分の体はまだ強く水分を欲しているのが分かり、余計情けない気持ちになる。 「す、すみません・・・・・・水、飲んでしまって・・・・・・」  陽向は絞り出すようにそう伝えた。 「いいよ。気にするな・・・・・・病院に連れていってやるよ。動けるか?」  陽向はかろうじて目を開けると、自分の隣に座る人物を見つめた。陽向の目に映る人物はもちろん男で、年齢は自分よりも年上に見える。肌はこんがりと焼けていて、おでこを出した長い髪を無造作に後ろで縛っている。取り残された前髪が頬の両端に掛かっていて、それがとてもおしゃれだと陽向は感じた。短パンにティーシャツというラフな格好で、ティーシャツと短パンから伸びる手足はすらっと長く、でも、決して華奢ではなく、ほどよく筋肉質で、自分よりも体格が良いのが一目で分かった。顔はよく分からない。前髪に隠されている横顔しかまだ確認できていないから。 「・・・・・・はい。動けそうです」  陽向は、自分の体と交信しながらそう判断した。 「よし、俺の肩に腕を回せ。肩を貸すから、今からゆっくりと階段を下りるぞ」  男はそう言うと、陽向の脇に手を入れ立ち上がらせた。力が凄くある。力の入っていない陽向の体を軽々と持ち上げるのだから。 「は、はい・・・・・・」  陽向は素直に返事をすると、男の肩に腕を回し、必死に足に力を入れて一歩踏み出した。 「そうだ、その調子だ」  男は陽向を励ますようにそう言うと、陽向を支えながら階段に向かいゆっくりと歩き始める。陽向は、見ず知らずの男に迷惑をかけたくない一心で、必死に足を動かした。まだ意識は朦朧としているし、気を抜くと倒れてしまいそうなほど体調は最悪だが、気合いでこの急な階段を下りようと、意識を集中する。 「ゆっくりでいい。焦るな・・・・・・」  男は陽向の耳元にそう語りかける。不思議とその声は陽向に安心感を与え、心を落ち着かせてくれる。  陽向たちは、ゆっくりと歩調を合わせながら、一歩ずつ階段を下り、無事第二回廊まで来ることができた。第二回廊から第一回廊に下る階段は、第三回廊から下りる階段と比べると急ではなく、段数も少ない。陽向たちはその階段も無事下り切ると、第一回廊を抜け、西塔門まで時間をかけて歩いた。 「俺の車が駐車場にあるから。そこまで頑張ってくれ」 男はそう言うと、駐車場がある場所まで、陽向を支えながら誘導する。 「ほんとうに、すみません、ご迷惑を、かけしてしまって・・・・・・」  陽向は途切れ途切れにそう言うと、男の横顔をさりげなく見つめた。 「気にするな・・・・・・カンボジアの日差しの強さは殺人的だからな」  そう言って自分に微笑みかける男の顔を、陽向は目敏く見つめた。  精悍な男らしい顔をしている。自分とはひどく対照的だ。きりっとした太い眉の下に、奥二重の切れ長の目がある。鼻も口も品良く整っていて、ぱっと見誰が見てもハンサムだと思う顔だろう。この男の顔を一言で表すなら、あれだ、ライフセーバー顔だ。この男なら、必ず危険から救ってくれると、疑うことなく信じられる頼もしさを持っているような、そんな顔。 「あの車だ。もう少しだよ・・・・・・・頑張れ」  男はそう言うと、さっきよりも力を入れて陽向を肩で抱えた。  陽向は自分の体を自分で支えることが出来ず、男に体を預けるしかない。本当に申し訳なくて、思わず泣きそうになる。 「・・・・・・後部座席に乗って、横になって」  男はそう言うと、後部座席のドアを開けて、素早く陽向をシートに寝かせた。 「ここから病院まで十分くらいだから。もう少しだけ辛抱してくれ」  男は慣れた手つきで車のエンジンをかけると、わざわざ陽向に振り返ってそう言った。 「はい・・・・・・頑張ります・・・・・・」   このライフセーバーみたいな男がそう言うと、本当に大丈夫なのだろうと、陽向は何故か不思議と自信を持ってそう思えた。           ✴︎  カンボジアの病院に自分が世話になるとは思いもしなかった。まさか熱中症で倒れるなんて想像もしていなかったから。自分が思っている以上に体力がないことに陽向は正直落ち込んでいる。自分を助けてくれたこの男とは大違いだ。もし彼が自分よりもかなり年上だったら目も当てられない。  ロイヤルアンコール国際病院は、アンコールワットを見学中に体調不良になった旅行客を受け入れてくれる病院で、日本人スタッフも常駐している。医療レベルは流石に日本に比べると劣るらしいが、病院内は意外と清潔で近代的だった。  男は自分に代わって受付を済ませてくれた。運良く自分のクレジットカードには保険が付帯されているようで、それを使えば医療費が無料になるらしい。そんなことも含めて、出会ったばかりの見知らぬ男に、自分は今完全に世話になっている。 「番号を呼ばれたら診察室に入ればいい。点滴を打ってくれるはずだ」  男は番号が書いてある紙を陽向に手渡した。 「後は大丈夫かな・・・・・・」  待合室の椅子にぐったりと横になっている陽向を見ながら男は言った。 「うーん、でも、ちょっと心配だな・・・・・・」  男は眉間に皺を寄せながらそう言うと、陽向の脇に腰掛けた。 「点滴が終わるまで側にいるか・・・・・・もし、何かあったらやだし」  陽向は『大丈夫です』と伝えたかったが、病院に来られたせいで気が抜けてしまい、頭も口もうまく働いてくれない。  そうこうしているうちに番号を呼ばれ、陽向は診察室に入り、点滴を受けた。体中に水分が充満していくような心地良さを感じ、陽向は、自分の体がやっと生き返っていく感覚に心から安堵する。   点滴が打ち終わるまで二時間くらいかかるとのことで、男はそれを確認すると、『心配だから終わるまでいるよ』と優しく陽向に言った。    陽向は、本当はとても申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、何故か分からないが、彼の優しさに甘えたい気持ちが生まれてきてしまい、素直に『ありがとうございます』と、声と瞳で彼に感謝の気持ちを必死に伝えた。  点滴の効果があり、陽向は自分で病院の会計を済ますことも、ホテルにトゥクトゥクを使って帰ることもできるくらいになるまで体力が回復した。  そのことを陽向は男に伝えると、彼は爽やかな笑顔で『じゃあ。元気で』と言い、自分の前から去ろうとするから、陽向は慌てて引き留めた。 「あ、あの、何かお礼をさせてください! あ、あとお名前を教えてください!」  陽向は深々とお辞儀をしながら彼にそう言った。 「……俺の名前は向井 迅(むかい じん)。カンボジアに来て三年になる。半導体や電子部品を扱ってる日本企業の海外駐在員をしてるサラリーマンだよ。今日は休暇で久しぶりにアンコールワットに来たら、君に会ったっていうわけ」   「ああ、そうなんですね。僕は旅行でカンボジアに来ました。野村陽向と申します。六日間滞在する予定なんです。今日が二日目で……」  陽向はこのまま帰られては困ると思い、必死に言葉を繋げた。 「旅行客なのは一目で分かったよ。熱中症になるような無謀さがね、滲み出てた」  迅は笑顔で、陽向を少しからかうようにそう言った。 「……ほんと、情けないです。カンボジアを甘く見てました」  陽向は項垂れながらそう言うと、このまま迅に帰られては困るとばかりに、もう一度縋るように、上目づかいで迅を見つめた。 「うーん、わざわざお礼なんていいよ。どうせならさ、俺、明日も仕事が休みなんだ。明日一緒に、アンコールワットの日の出を見に行かないか? ちょうど西塔門正面の中央祠堂から朝日が昇るんだよ……この日の出を目当てに朝早くから観光客が沢山訪れるけど、せっかくだし、見てもらいたいなと思ってね」  迅は早口でそう言うと、床に置いていたリュックをいきなり背負い始めた。 「はい! よ、喜んで。僕はそれを目当てにここにいるようなものですから。でも、それ全然お礼になってませんよね? むしろまた僕がお世話になってしまうような……」  陽向は、迅からの誘いを素直に嬉しいと感じたが、また結局迅を煩わせるようなことをしているような気がして、心苦しい気持ちでいっぱいになる。 「いいよ。気にしないで。久しぶりに年の近いに日本人の男と話せるの嬉しいし。気軽に考えてよ」  迅はそう言って、陽向の腕をバシっと軽く叩いた。 「じゃあ明日、アンコールワットの西塔門入り口に、午前五時に待ち合わせね。必ず冷やしたペットボトルの水たくさん持ってくるように」  迅は話しが終わる前に陽向に背を向けると、軽やかに手の平をひらひらと揺らしながら、病院を後にした。

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