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第2話
夕べ陽向は、早起きをするためにいつもよりも早くベッドに入った。普段よりも長く睡眠を取ったことで、目覚めは良く、体調もいつもと変わらなかった。陽向はそんな自分に安堵しながら、出かける準備を始めた。迅に言われた通り、冷凍庫から凍らせたペットボトルの水を数本リュックに詰めると、陽向は午前4時にトゥクトゥクに乗ってホテルを出た。
トュクトュクに揺られながら街の景色を眺めていると、今からアンコールワットの朝日を見ることよりも、また迅に会えることの方に、不思議とワクワクしている自分に気づいた。こんな感情は久しぶりで、自分の中で生まれたこの久しぶりの感情を、陽向はわざとオブラートで包むように、そっと心の片隅に追いやった。
アンコールワットには待ち合わせの十分前に着いた。敷地内は懐中電灯がないと歩けないくらいまだ暗いし、既に日の出目当ての人でいっぱいだ。ここの日の出見たさにこれほどの人が訪れることに、陽向は素直に驚いた。
想像以上に人が多いのとまだ暗いこの場所で、ちゃんと迅に会えるかどうか陽向は急に不安になった。迅とは連絡先を交換していないから余計不安になってしまう。
その時、背後から肩を叩かれた。陽向は迅だと思い慌てて振り返った。しかし、自分の視線の先にいたのは現地人らしく、写真を撮ってあげると頻りにジェスチャーをしている。陽向は、観光客相手の商売だと気づき断ろうとするが、これがなかなかしつこい。自分もジェスチャーと片言の英語で応戦するが、相手は陽向を無視し、手に持ったボードで料金の説明をし始める。
「ほんと世話が焼けるなあ……」
その時、いきなり誰かに耳元で囁かれた。陽向は声のする方に振り返ると、そこには迅がいた。迅は現地人に何かを言うと、陽向の腕を掴みいきなり歩き出す。
「迅さん!」
陽向はホッとした余り、かなり大きな声で迅の名を呼んだ。
「あーゆうのに真面目に対応してたら駄目だよ。『ノーセンキュー』って笑顔ではっきり言ってその場からすぐ立ち去るの」
迅は陽向の腕を掴んで歩きながらそう言った。海外での生活が長い分、こういったことに対する対処にも慣れている。陽向は迅の頼りがいのある姿に羨望の眼差しを向けた。
「すみません。もう迅さんには助けられっぱなしで」
陽向は素直にそう言うと、迅に軽く頭を下げた。
「陽向君は……お人好し過ぎるのかもな」
迅は陽向を自然に君付で呼んだ。まだお互いに年齢を確認してないが、多分そういうことで間違いないだろう。
「あ、あそこがベストポジションだよ。行こう」
迅はそう言うと、陽向の腕を掴んだまま、左右に二つある池の、左側の池の方に向かって歩き出した。自分の腕を離したら迷子にでもなってしまうと迅に思われているみたいで、陽向は少し恥ずかしくなる。
池のほとりに着くと、やはりそこはベストポジションらしく、多くの人が日の出を待ち構えていた。陽向と迅は、草の生えた地面に腰かけて、日の出を待つことにする。
「何度見てもここの朝日っていいよ。カンボジアに来たら、陽向君にも見てもらいたいって思って誘ったけど、迷惑じゃなかったか?」
迅は自分よりも背が高く足も長い。その足を邪魔そうに抱えながら、迅は陽向に尋ねた。
「いいえ! むしろ有難かったです。ていうか、やっぱり僕は迅さんにちゃんとお礼がしたいです……」
「ここに来るのに付き合ってくれたことが十分お礼だよ……あ、そろそろ日が昇るぞ」
迅はそう言うと、池のほとりから見える祠堂を指さした。
陽向は、祠堂と空の境目がうっすらと明るくなっていることに気づいた。それをしばらく眺めていると、じわりじわりとその輝度は上がっていき、同時に自分の心拍数もワクワクしながら上がっていくのが分かる。
祠堂の背後にある空がうっすらとピンク色になり始めた。そのせいで、逆光によって真っ黒なシルエットになっている祠堂とのコントラストがより際立ち、その美しい光景に目を奪われる。でも、そのピンク色の時間はあっけなく終わり、次第に空はオレンジ色に変化していく。真っ黒なシルエットだった祠堂は、中央にある祠堂の真上から、少しだけ頭を出した太陽に照らされ始め、その様相を明らかにしていく。でも、太陽の動きは割と早く、もう既に半分ぐらい姿を現している。そのせいで、自分がいる空間が薄っすらと明るくなっていくと、目の前の池に、祠堂がくっきりと映っていることに気づく。二つ分の景色を同時に見ているような感覚に、陽向はとても不思議な気持ちになる。
『もっとゆっくり昇ればいいのに』と陽向は心の中で思った。当たり前のように毎日行われている日の出という自然現象に、自分がこんなにも名残惜しさを感じる日が来るなんて思いもしなかった。
陽向は太陽が昇っていく様子を集中して眺めた。それは迅も同じようで、二人特に意識はしていないと思うが、ずっと無言だった。この瞬間を一瞬でも見逃したくないような、そんな気持ちにさせられる高貴さが、二人の前に確かに存在していた。
日の出の瞬間は本当にあっという間だった。でも、この瞬間をしっかりと目に焼き付けられるほど、その光景は素直に感動的だった。そこには、せっかく遠路はるばるカンボジアまで来たのだから、無理してでも感動しようとするような邪心はない。本当に心から素直に、陽向は今感動している。
「……迅さん。ありがとうございます。僕は今凄く感動しています」
自分のすぐ横に立つ迅に、陽向は正直にそう伝えた。
「ああ、俺も……何か今日は特に感動したかも」
迅はそう言うと、陽向に優しく微笑みかけた。顔を出したばかりの朝日はまだ柔らかく、その柔らかな光に包まれた迅の顔は、ハッとするほど魅力的だった。
陽向はドギマギとしてしまい、迅の顔から慌てて正面に目を移した。
「さてと、感動したのも束の間だけど、今日のこれからの予定は? 俺は何もない」
迅は長い両腕を伸ばして、伸びをしながらそう言った。陽向は、まだ正面を見つめたまま『僕も何もないです』と即答した。
「じゃあ、このままここで時間潰そうか。昨日ほとんど観光できなかっただろう?」
「はい。喜んで」
陽向はそう言うと、喜び勇んで僅かに背伸びをした。
✳︎
昨日は自分の失態で殆ど観光できなかったアンコールワットを、迅と一緒に廻った。もう何度もここに訪れている迅は、ガイドさながらの説明をしてくれて、陽向はとても有意義な時間を過ごしている。
迅は、アンコールワットの設立の理由や、経緯を解りやすく教えてくれた。歴史や宗教の移り変わりによって翻弄されてきたが、今でもこうやって何百万人の人が訪れるほどの有名な観光地となっていることも。皆、アンコールワットの魅力に引き寄せられる。そこには、絶妙に朽ち果てた遺跡を見つめ、万物は永遠じゃないという儚さに酔いしれるためかもしれない。などと、少しかっこつけて思ったりする。もちろんそんなこと迅の前では言わない。
昨日自分は、階段を上り切ったところで倒れてしまったせいで、中央祠堂の中を見学できなかった。それをちゃんと覚えていてくれた迅は、『行こうか』と言い、中央祠堂を指さした。そこには松ぼっくりみたいなシルエットの建築物が立ちはだかり、神々しい雰囲気をこれでもかと醸し出している。
今日も昨日と変わらず本当に暑い。日差しの鋭さが日本と違う。でも、水分は余裕を持ってあるし、何より隣に迅がいるということが、陽向にはとても心強かった。
とてつもなく急な階段をもう一度上り、中央祠堂の中に入ると、意外にも中は静かだった。その理由は、この場所に来るまでに疲れてしまう人が多く、長く滞在する人が少ないからだと迅が教えてくれた。また、この場所は、仏像に祈りを捧げる僧侶がいるため、騒がしくしてはいけない雰囲気があるからだとも。
陽向は『なるほどな』と感心しながら、たくさんのレリーフが施されている中央祠堂の壁を、静かに歩きながら見つめた。
「腹空かないか?」
唐突に迅がそう言った。
「はい。空いてます」
陽向はそう言うと、お腹を摩った。
「ちょっと高いけど、手っ取り早く、ここの敷地内にレストランがあるからそこ行こう」
迅はそう言うと、また陽向の腕の掴み引っ張った。陽向はこの迅の強引さがとても心地よくて、自分たちは相性抜群なのではないかと密かにそう感じた。
アンコールワット遺跡群の敷地内にあるレストランは、観光地価格になっていて、街場のレストランよりも値段が高い。それでも、腹を空かせた迅と陽向は、少しでも近い場所を選んだ。
店内に入り、迅によるとこの店で一番まともだというヌードルとコーラを二つずつ注文した。この店の料理はどれもあまりおすすめではないが、唯一このヌードルだけはまあまあ食べられるということらしい。
野菜と肉と麺が香辛料の入ったスープで炒められているような料理で、見た目はそれほどまずそうではない。
「見た目上手そうでも、食べると普通だよ。期待しないで」
迅はそう言うと、テーブルに置かれたフォークを二本取り、一本を陽向に渡した。
「ありがとうございます。でも、お腹空いてるから、多分美味しく感じると思います」
陽向は迅からフォークを受け取るとそう言った。
「確かに。俺も腹ペコペコ」
迅は笑顔でそう言うと、麺をフォークに器用に巻き付け、素早く口の中に運ぶ。陽向はフォークに巻き付けず、そのまま麺を救うと、ラーメンを食べるように勢いよくすすった。
「どう?」
迅に素早く感想を聞かれ、陽向は正直に『普通です』と答えたら、迅は首を後ろにのけ反らせながら大きな声で笑った。
「あはは……だろう? ここのヌードルはいつだって普通さを裏切らない」
迅はフォークでヌードルを刺しながら、楽しそうにそう断言する。
それでも陽向は腹が空いているせいで、味など気にせず食べ続けた。それは迅も同じようで、二人ただ無言で食べ続ける。
「ねえ、陽向君。今頃聞くのも何だけど、年いくつ?」
迅が、口いっぱいに麺を入れ、それを咀嚼しながら聞いてきた。
「僕は、この間の誕生日で二九歳になりました。迅さんは? おいくつですか?」
「……嘘、マジ?」
迅は少し言葉を詰まらせながらそう言った。
「……俺まだ誕生日来てないけど、来たら二十七歳になるよ……」
「え?!」
この場に、一瞬で微妙な空気が流れるのが分かる。
「何だよもおー、陽向さんさあ、童顔過ぎなんだよ。俺めっちゃ勘違いして恥ずかしいだろうよ」
迅は本当に恥ずかしそうな顔をしながら気まずそうに下を向いた。
「あはは、そうなんだ。じゃあ、僕の方が二歳年上なんだ?」
陽向は驚きとおかしさで、顔を引きつらせながら笑った。
「はいそうです……今までの上から目線の失礼な振る舞い、すみませんでした!」
迅は急に体育会系なノリのような話し方で、陽向に頭を下げた。
「いやいや、待ってよ。そんなこと気にするのやめない? ここは海外だよ? 僕はもうこのまま年下気分でいたいくらいだよ。だって迅君すごく頼りになるし」
陽向は正直にそう言うと、迅は苦笑いをしながら陽向を見つめた。
「まあ、確かに。俺、陽向さんを完全に年下だと思ってたからね……頼りなげだし」
「うーん、そうはっきり言われると何かもやっとするけど、まあ、事実だよね」
「おいおい、認めるんだ?」
迅は陽向にそう言って突っ込むと、二人顔を見合わせて笑った。
「年齢って本当に分かんないわ。見た目凄く若かったり、逆に老けてたりすると、本当に難しい。陽向さんはヤバいくらい若見えするね。そう言われたことない?」
「あるよ。しょっちゅう勘違いされて、最初かなり舐められる。もう慣れたけどね」
「そうか、俺はその逆かも。いつも実際の年齢より三、四歳年盛られちゃう」
「確かに。僕も絶対自分よりも年上だと思ったのもの」
陽向は感心したように頷きながらそう言った。
「真逆の二人が出会った奇跡に乾杯!」
迅はいきなりそう言うと、コーラの入ったコップを持ち上げた。陽向も笑いながら『乾杯』と言うと、二人グラスをぶつけ合った。
「さてと、あのさ、陽向さん。俺さっき会社からメールが突然来て、午後ちょっと用事ができちゃったんだ」
迅は、財布からカードを取り出しながらそう言った。
「そっか、それは残念だな……あ、ここの代金払わせてよ。お礼も込めて」
迅の言葉に、陽向は自分の心が一気に沈むのが分かった。このままこの男とここで別れるのは、本当に名残惜しいと感じるからだ。
「いや、ここは各自で払おう……お礼ならさ、今晩街場で飯食わない? 陽向さんのおごりで」
「え?」
「シェムリアップのパブストリートに『レッドピアノ』ってバーがあるんだ。有名だからすぐ分かるよ。そこで十九時に待ち合わせね」
「わ、分かったよ! 喜んで!」
陽向はおたおたとスマホのメモ機能に、店名と時間を入力する。
「じゃあ、もう時間がないんだ。ここでごめん」
バカみたいに胸をドキドキさせている陽向をよそに、迅はそう元気よく言うと、さっさと会計を済ませ、陽向を置いて店を出て行った。
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