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第3話
パブストリートにある『レッドピアノ』というレストランバーは、ハリウッド女優が足しげく通ったことでも有名で、とても人気のある店だ。この場所はアンコールワットの遺跡群とは対照的なネオン街で、きらびやかな光に溢れている。このギャップに不思議な気持ちになる。ついさっきまで、寺院という神聖な場所に身を置き、過去の遺産に思いを馳せていたと思ったら、今は、煩悩の塊のような歓楽街に身を委ねている。
『レッドピアノ』に十九時という言葉を頭で何度も反芻させながら、陽向は店を探した。店は、パブストリートで一番の人気店なだけあってすぐ見つけることができた。陽向は久しぶりに感じる高揚感に少し戸惑いながら、店のドアを開けた。
ドアを開けてまた気づいたのは、お互いに未だ連絡先を交換していないことだ。こうやって待ち合わせをするたびに、すれ違ってしまう不安を陽向は海外というのもあって、どうしても感じてしまう。でも、今日のアンコールワットでの朝日鑑賞の時も、無事迅に出会うことができた。ここではどうだろう。ちゃんと迅に出会えるだろうか。
「陽向さん!」
その時、背後から痛いくらい肩を叩かれた。陽向は取り越し苦労だと分かり、喜び勇んで振り返った。
「ああ、迅君。良かった」
陽向はホッと胸を撫で下ろす。
「席予約しといたよ。あっちだよ。ついてきて」
迅はそう言うと、また男らしく陽向の腕を掴んで引っ張った。自分の方が年上だと気づいてもこの関係性が何も変わっていない。そのことが、陽向は素直に嬉しいと感じた。
迅は、今までの半そでに短パンといったラフな格好ではなく、少しだけ畏まった、大人っぽい格好をしていた。胸元が開いた黒いシャツに白の細めのスラックスが、すらっとした長い迅の脚にとてもよく似合う。
自分はグレーのポロシャツにブルージーンズという、大学生みたいな恰好をしてきてしまった。これではお互いに、実年齢と見た目が益々乖離してしまっている。
「ここだよ」
迅は慣れたように赤い色のクッションをポンっと叩いた。
「ごめん。ここしか席取れなかったんだ。テラス席でもいいよね? 暑さも今ならだいぶ和らいでるし」
迅はすまなそうな顔をして陽向を見つめた。
「全然いいよ! むしろこの席の方がいい」
陽向は意気揚々と椅子を引いて腰かけた。
「だってほら、こんなに雰囲気がいい」
陽向は椅子に腰かけながら、パブストリートのきらびやかなネオンに目を向けた。そんなネオンを背にストリートを行き交う全く見知らぬ旅行客を見ていると、強い解放感に心がウキウキとする。
「良かった……かっこつけて誘っておいて、なんかごめん……」
迅は椅子に腰かけるや否や、メニュー表を素早く手に取りながらそう言った。まだ二日間の付き合いだが、多分迅はとてもせっかちな性格に違いない。
「取り敢えずアンコールビールで良い? あ、それともお酒は飲めない?」
「飲めるよ。ビール大好きだよ。でも、腹空いてるから、ここでのおすすめの料理、迅君が適当に頼んでくれる? 何でもいいから」
「おっけい。じゃあ、レッドピアノに来たらこれだな。ロックラック。これは甘辛い味付けが意外と日本人に合うと思うよ。あとは適当につまみ頼むね」
「ありがとう」
陽向は迅に礼を言うと、楽しそうに往来する人たちをぼんやりと眺めた。
すぐに来たアンコールビールで迅と乾杯をする。アンコールビールは日本のものより少しさっぱりとしていて、まだ暑さの余韻が残る夏の夜にとても合っている。
「はあ、上手いっ」
思わず、心の底から出た自分の声に陽向は驚いた。多分今まで飲んだどのビールよりも、今日のこのアンコールビールが一番美味しい。
「はあ、ほんと美味しい……陽向さんと飲んでるからかな?」
迅は陽向を見つめながら、にこやかな笑顔でさらっとそんなことを言った。それは多分自分も同じで、今まで飲んだどのビールよりも、今日のこのビールが美味しいことがそれを強く物語っている。
良く言うではないか。旅は何処に行くかではなく、誰と行くかで決まると。今自分は、目の前のこの男といることが、心の底から楽しくてしょうがない。こんなことは自分の人生で初めてで、その感情をどう扱って良いか分からず戸惑ってしまう。
しばらくして『ロックラック』という牛肉を甘辛たれで煮込んだ料理がライスとともに現れた。迅の言う通り日本人の口に合うような味付けで、なかなかの美味だ。
「これ初めて食べた時、俺吉野家の牛丼が凄く恋しくなってさあ。実家に頼んでレトルト速攻で送ってもらったの」
迅は牛肉の煮込みを一口掬って食べると、そう言った。
「長い海外生活だと、日本食が恋しくなるだろう?」
陽向は迅にそう尋ねた。自分は六日間の旅行で済むが、迅はそうはいかない。
「ほんとそれ。でも、もう慣れたかな。この間日本の商品が手に入るスーパー見つけて、そこで日本の調味料買って、最近は自炊してるし」
「へえ、偉いね。僕もたまには自炊するけど、どうしても外食の方が増えちゃうよ」
そんな他愛のない会話をしている間に、既に迅と陽向はビールを三杯も飲んでいた。陽向は、自分がいつもより飲むピッチが速いと感じたが、旅先の解放感で細かいことは気にしないと、すぐに思いを変えた。
「……ねえ、陽向さんは日本で何してるの? 俺と同じサラリーマン?」
酔いが回っているような無防備な雰囲気で、迅は少し前かがみになって陽向に尋ねた。陽向もビール三杯目あたりからだいぶ酔いが回ってきている。
「僕は、商社に勤務してる……でも海外旅行はこれが始めてなんだ」
「うへえ、めっちゃエリートじゃん……全然そんな風に見えないけど」
迅はさりげなく嫌味を込めながら驚いた顔を露骨にすると、ビールを一気に煽った。
「いや、違うよ。僕は落ちこぼれの方。俗にいう勉強だけ真面目にしてきましたみたいなつまらない人間だよ。僕の同期は既に出世してる。なんか僕はその同期が少しに苦手なんだよね……」
本当にそうだ。人付き合いが苦手で要領の悪い自分は、上司の機嫌を取ることや、自分の良さをアピールすることが苦手だ。だから今まで出世に繋がるようなチャンスを得ることができなかった。否むしろ出世というものにそもそも興味がない。誰かを蹴落としてまで手に入れるなんて、僕は自分の向上心を、そんなものに使う価値を感じない。
「なるほどね。確かに陽向さんはそんなタイプに見える。でも、出世することは何も悪いことじゃない。だって誰かが必ずそのポジションに着かなきゃいけないんだから。むしろ有難い」
迅は空のビールグラスを床にトンと置くと、陽向を真っ直ぐ見つめて言った。
「……確かに。給料が上がる分、さらに仕事の責任が大きくなるってことだものね。それでも、そこのポジションを敢えて前向きに狙う人って、僕にはあまり理解できないけど、なんてポジティブなんだろう……」
陽向は何だか自分が情けなくなってくる。逃げてばかりの自分が。
「あ、今陽向さん落ち込んでるでしょ? そんな必要ないよ。出世はしたい人だけにやらせておけばいいの。人には向き不向きがるんだから。俺だって別に出世目的で、望んで海外駐在員を希望したわけじゃないよ。ただ訳あってこうなっただけだから……」
「訳あって?」
陽向は迅のその言葉を聞き逃さなかった。
「うん。そう……あ、次はこれ飲んでみようかな。ヘイ! アイム レディ トュー オーダー!」
迅は陽向の質問を上手にはぐらかすと、近くにいた店員にそう声をかけた。
「これ二つプリーズ」
迅は勝手に陽向の分の酒も注文すると、さっきよりも酔いが回った目で陽向を見つめた。その瞳にはどこか憂いがあり、迅という人間の隠された何かを示唆しているようで、陽向は益々迅の魅力に引き込まれる。
「ねえ、陽向さん。陽向さんは今までどんな恋愛をしてきたの?」
迅がいきなり突拍子もない質問を投げて寄こした。陽向は戸惑いながらも、酔った頭で考えを巡らせる。
「どうだろう。僕は今まで誰かを本気で好きになったことがあったかな。そう思ってる時点でないのかな……」
「そうなんだ。俺はあるよ。そんな経験が」
迅がそう言ったタイミングで、酒が二つ運ばれてきた。それは白く濁った液体に、絞られたライムが入っているカクテル。
「ここで一番人気のカクテルだよ。映画のタイトルにもなってる」
「へーそうなんだ」
陽向はさっきから迅に上手く話をはぐらかされてしまう。そこにはどんな意図が隠されているのか、陽向は気になってしょうがない。
「まだ十一時なのにもうラストオーダーだって……あいにく今日は店が閉まるのがいつもより早いんだね……陽向さん。飲み足りてる? もし足りないんなら、俺んち来ない?」
「え?……迅君ちに?」
「そう。ここからタクシーで十分くらいのとこにある……どうする?」
迅は探るような目で陽向を見つめた。
その誘いを受け入れない選択肢など陽向には一ミリもなかった。本当は即答で『行く』と答えたかったが、それではあまりにもかっこ悪くて、わざと考えを巡らせるような仕草をしながら『いいよ』と答えた。
✳︎
迅の家は五階建でのマンションで、部屋は三階にあった。エレベーターはなく階段を使って三階まで上がった。家賃は月四万円で、間取りは1LDK。日本でこの程度の部屋に住もうと思ったら、多分家賃は倍以上かかるだろう。ただ、日本の物件よりも、キッチンやバストイレなどの水回り関係の物はすべて古臭く、使い勝手が悪いと、迅は部屋に入るなり陽向に愚痴をこぼした。
「ここ座ってて……あ、お酒コークハイでいい? ウイスキーとコーラがちょうどあるから」
陽向はソファーを指さすと、冷蔵庫を開けながら陽向にそう言った。ここでも迅のせっかちさが伺えて、陽向はおかしくて少し笑った。
陽向は迅に言われた通り三人掛けのソファーに腰かけた。ぐるっと部屋を見渡すと、独身男の一人暮らしの割には奇麗に片付いている。自分も割と几帳面な方だから、迅のこの部屋の雰囲気に、すぐさま好印象を持った。
「はいどうぞ」
迅はそう言うと、ソファーの前に置かれたガラス製のサイドテーブルに、コークハイの入ったグラスを二つ置いた。
「ありがとう」
陽向はソファーの上で姿勢を正すと、グラスを掴み一口飲んだ。
「うん、結構濃いね」
「そう?……薄めようか?」
迅はソファーには座らず、ソファーを背もたれにしながら床に座ると、上目遣い陽向を見つめた。
「大丈夫だよ。ありがとう。濃くても平気」
陽向はそう言って迅に笑いかけると、迅は少し照れたように前を向いた。
「そうだ、陽向さん、あと何日カンボジアにいるの?」
迅はコークハイを飲みながら陽向に尋ねた。陽向は何げなく迅の後頭部を見つめた。そのまま視線を下すと、迅の首筋がほんのりピンク色に染まっていることに気づいた。多分迅はそこまで酒が強くないのかもしれない。陽向は、迅のそのギャップに興奮を覚えてしまい、それを逃がすように、慌ててコークハイを二口飲んだ。
本当は分かっている。自分にはその気があるということを。でも、確信を今まで持てなかったし、信じたくなかった。女性とだって二回付き合い、セックスだってした。でも、その行為で満たされることはなかった。いつもどこか違和感を覚えていた。
でも迅に出会い、自分の中で何かが弾けた。今日、自分は一旦ホテルに戻ったベッドの上で、迅との性行為を恐る恐る妄想してみた。その時、異様なくらい興奮している自分に気づき、ああ、やっと合点がいったという思いに至った。でも、それは本当に独りよがりで、迅に対してとても申し訳ないという感情が生まれ、そんな自分がとても嫌になった。
(触れたい……。)
陽向は今、迅の首筋に触れたいという衝動と必死に戦っている。
「陽向さん? 聞いてる?」
迅にいきなり振り向かれ、陽向はハッと我に返った。
「え、ああ、今日で三日目だから、あと残り三日間かな」
陽向は視線を泳がせながら、自然を装いそう言った。
「そうか……この先の予定は決まってるの?」
「うん。明日からはプノンペンにホテルを取ってるから、その近辺で観光かな。そしてそのまま帰国する予定だよ」
まるで棒読みのように話す自分がいる。本当は明日の予定などどうでもいい。残り三日間を一人プノンペンで観光することに何の興味も持てない。今この瞬間が永遠に続けばいいと思っている。でも、そう思っているのは自分だけだと思うと、陽向は猛烈な悲しみに襲われる。
「俺は明日からまた仕事だよ……カンボジア人相手に仕事するの大変だけど、誠意をもって接すれば、意外と思いは通じるんだよね。これって日本にいるとなかなかできない濃い経験だよ。相手に思いが通じるとね、自分に自信が付くっていうか、自分を好きになれるっていうか……そんな感じ」
迅は陽向の方に体を向けると、長い脚を抱えながらそう言った。迅の言葉に、彼の誠実な一面を垣間見て、陽向の悲しみは一気に跳ね上がる。
「素敵だな。そんな風に思える迅君は……僕はどうだろう。僕は逃げてばかりいる臆病者かもしれないな……」
「どうしてそう思うの? 陽向さんのこと、俺まだ何も知らないから、凄く知りたいよ」
迅は上目遣いで陽向を見つめた。酒のせいでトロンと潤む瞳は、迅を幼く見せ、年相応の男にさせる効果がある。それはとても危険な瞳で、陽向の理性をぐらぐらと揺るがす。
「ねえ、もっと知りたい。陽向さんのこと……」
迅はそう言うと、陽向の太腿に手を伸ばした。陽向は迅の突然の行動に驚き目を見張った。迅の手はジーンズ越しでも分かるくらい熱っぽくて、その迅の意味深な行動に、陽向の心臓はバクバクと動悸を速める。
「ぼ、僕のこと知っても、な、何も面白く、ないよ」
陽向は緊張と興奮で声が上ずってしまう。
迅はそんな陽向の様子を探るように、ただ無言で見つめてくる。陽向は、迅が今何を考えているのか分からなくて、様々な憶測が頭の中でぐちゃぐちゃと駆け巡る。
その時、迅がパッと陽向の太腿から手を離した。
「聞いてみなきゃ分からないのに……ほんと、陽向さんは謙虚だな」
迅はコークハイのグラスを手に取り、それを一気に飲み干すと、もう一度陽向に顔を向けた。
「どうして、僕のことそんなに知りたいんだ?」
陽向は迅から顔を逸らすと、声を僅かに震わせながらそう尋ねた。
「え? じゃあ、逆に聞くけど、陽向さんは俺のこと、もっと知りたくないの?」
知りたい。もっともっとこの男のことを知りたい。今の意味深な行動の理由も、自分に興味を持つ動機も、今までどんな風に生きてきたかも。
「知りたいよ。僕も。迅君が良ければ……」
陽向はわざと感情を抑えるように静かに言った。
「了解。じゃあ、今晩は夜通し話そう。お互いのこと」
迅はそう言って立ち上がると、突然陽向の隣に腰かけた。
「じゃあ、手始めに俺からね。俺はね……ゲイなんだ……」
「え?!」
陽向は心臓を大きく鳴らすと、ゆっくりと迅に顔を向けた。
「さっきレッドピアノで、何で俺が海外駐在員になったか、理由話してなかったよね。それはね、ゲイだってことを会社に伝えたら、ここでの仕事を勧められたの。俺が会社にいると周りの社員に迷惑だって。あはは、笑い話にもならないな」
陽向は茫然と迅を見つめた。ここで陽向に自分がゲイだと告白するということは、自分もゲイだと思われているということだろうか。陽向は突然のことに脳が思考停止してしまい、自分の取るべき行動が全く分からなくなる。
「そ、そうなんだ……それは、大変だったね……」
通り一遍の返し文句しか言えない自分を心の底から殴りたい。自分は、またここでも逃げようとする臆病者に成り下がる。
「えー、感想それだけ? 俺がキモイとか怖いとかないの?」
迅は大袈裟な身振りでそう叫ぶように言った。
「そんなこと思わないよ。君はとても親切で頼りがいがある素敵な人だよ。それに僕は迅君にはとても感謝してるし」
「ふーん。なんか、心がない感じだな……」
「え?」
陽向は迅の言葉に胸を抉られてしまい、そっと自分の心臓を抑えた。
「あ! そうだ、迅君、今何時?……ホテルに門限があって、そろそろ帰らないと」
陽向は勢いを付けてソファーから立ち上がると、ポケットからスマホを取り出し時刻を確認した。時刻は午前一時を示していて、門限の時間まであと一時間しかない。
(ああ、断腸の思いってきっとこういうことを言うんだな……。)
陽向は迅と握手を交わそうと手を伸ばした。迅はそんな陽向を感情の読めない顔で見つめてくる。
「ありがとう。迅君。短い間でも君に会えて嬉しかったよ……」
陽向は必死で笑顔を作りながらそう言った。
「ああ、俺も……」
迅はそう言って陽向と握手を交わしたが、突然その手に力を込めると、陽向を強く引き寄せ、耳元に口を寄せた。
「……陽向さん。お互い後悔しないように生きようぜ……」
そう耳元に囁かれた時、陽向は自分の目の前に、真っ黒な幕が下りたような錯覚を味わった……。
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