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第4話
翌朝目を開けた瞬間、ここが夢の中ではなく現実だと気づくと、まるで口から鉛を埋め込まれたみたいに胸がズンと重くなった。この感覚には慣れている。毎朝仕事へ行く度に、自分が感じている感覚と同じだからだ。でも今日は、それ以上の重みがあった。
陽向はしばらく起き上がれず、天井をぼんやりと見つめた。今からベッドから降りて、ホテルをチェックアウトしたら、バス乗場に向かいバスに乗って、途中の休憩を含めて片道七時間かけてプノンペンへ向かう。プノンペンに着くのは夕方だから、そのまま予約したホテルにチェックインし、夕食は近くのレストランで一人食べる。次の日は、一日使ってプノンペンを観光して終わる。観光先は既に決めている。カンボジアに来たからには、目を逸らしてはいけない負の遺産と対面しようと思っている。次の日は日本に帰国し、陽向のカンボジアの旅は終わる。
『アンコールワットの日の出』という言葉から始まったこの旅もついに終わる。あの時何故この言葉に自分が強く興味を持ったのか。それが迅との出会いを意味しているなら、とても運命的なことかもしれない。でもそれは単なる後付けだ。ロマンチストが都合よく考える美談だ。だから自分は間違っていないと思いたい。夕べ迅と潔く別れたことは正しいのだから。あのまま勢いに任せていたら、二人どうなっていたか分からない。自分には将来がある。いずれ結婚し、子供を作り、親に孫を見せるという親孝行をしなければ、ここまで何不自由なく育ててくれた親に恩返しができない。自分は両親を悲しませたくない。絶対に。
でも迅は? 彼は何処までカミングアウトをしているのだろう。親兄弟は? 友人は? もちろん、会社側にされたことに傷ついていないわけはないだろう。
陽向は、迅の立場を自分に置き換えて想像をしてみた。でも、すぐに怖くなってしまい、慌ててその想像をかき消す。
(冷たいシャワーを浴びたい……。)
陽向はベッドからゆっくりと降りると、ぐるぐると駆け巡る思考を拭うために、おぼつかない足取りでバスルームに向かった。バスルームに入るとすぐ服を脱ぎ捨て、冷水シャワーを躊躇いなく頭からかぶる。
『両親への恩返しなんて、普段から考えたことなんてないのに』陽向は自分自身に自虐的に突っ込む。そんな取って付けたような偽善を言い訳に、自分は何から逃げているのか。
冷水を浴びていると、自分の弱さをより明確にされていくようで、陽向はシャワー室の床に膝を抱えてしゃがみ込むと、乱暴に頭を掻きむしった。
ホテルを出ると、陽向は予約していたバス会社の待合所に向かった。
プノンペン行きのバスは、カンボジアに来る前から日本で予約をしていた。長時間バスに揺られるなら、なるべく快適なバスに乗りたいと考えて。料金が安いからと選んでしまうと後で後悔することになると、ネットで調べて知ったからだ。
シートの具合も重要だ。自分は七時間もかけてバスに揺られたことなどない。絶対に腰に悪いに決まっている。だったら少しでもハイクラスのバスに乗った方が良いと、陽向はあの時そう思って予約をした。でも、今ではそんなことなどどうでもいい。むしろプノンペンに行こうという気力すら沸いてこない。後残り三日間をひとりで観光しても、きっと何も心に残らないだろう。迅と過ごした時間に、自分の心は捕らわれたままでいる。
(まだシェムリアップにいるからだ……。)
陽向はそう心の中で呟いた。あと数時間後には三百キロ以上離れた場所にいる。物理的な距離が、自分の気持ちを上手く切り替えてくれるに違いないと信じて、陽向は待合所で、プノンペン行きのバスを待った。
十分ぐらい待つと、大型バスが現れ、陽向は席番号を確認すると、バスに乗った。バス内はエアコンが効いていて快適だった。外気温との差を強く感じ、カンボジアの暑さを実感する。これで一番リーズナブルな料金のバスに乗ったら、多分エアコンは付いていないだろう。それを想像すると陽向は、今回の旅行で、これだけが一番自分の選択で正しかったことになる。でも、今となっては、自分はプノンペンに行く気力など全然ないのだから、自己満足に浸る必要もないのが皮肉だ。
バスが出発すると、自分の後ろの席が空いていることに気づき、陽向はすぐにシートを倒した。日本ではリクライニングシートなど当たり前だが、カンボジアでは高いお金を出さないとリクライニングができるシートに座れない。トイレもそうだ。陽向は背後にあるトイレの場所を目で確認すると、正面を向き、ポケットからスマホを取り出した。
結局迅とは連絡先の交換ができなかった。いくらでもチャンスはあったのに。お互いに交換をする機会を見失っていたのかもしれない。
迅は陽向がゲイだという確信はないだろうし、それは勝手な迅の思い込みで、違っていたらという不安があるかもしれない。陽向の方は、セクシュアリティはまだ不安定で、やっぱり自分はゲイではないと思い直す時が来た時、迅から連絡が来るのを恐れるかもしれない。そんなお互いの深層心理が、連絡先の交換に、無意識にブレーキをかけていたのだとしたら……。
(今更冷静に分析して何になるんだ。)
車窓から見えるカンボジアの田園風景に目を向けながら、陽向はそんな自分を嘆いた。
『お互いに後悔しないで生きようぜ』
ふと、迅の最後の言葉が頭を過る。あの時、自分の前に真っ黒な幕が下りたのは、自分が後悔する人生を選択したからだろうか。だとしたら、自分は本当にそれで良かったのだろうか……。
陽向は何も考えたくないと頭を振ると、ちょうど良い角度になっているシートに体をゆだね、スマホで小説を読み始めた。そうすれば自然と眠気がやってくるはずだと思い。でも眠気はなかなかやって来ず、陽向は何度も体勢を変えながら、小説を読む羽目になる。
結局、中途半端な睡魔しか訪れず、うつらうつらの状態でバスに揺られていると、コンポンチャンという街の食堂でバスが止まった。ここで三十分の休憩があるらしく、腕時計を見ると、バスに乗り始めてからちょうど三時間が経っていた。空腹だった陽向はバスから降りると、迷わず食堂に向かった。その食堂にタイ料理があることに気づくと、一番無難そうで有名なガパオを一皿頼んだ。
まあまあ食べられる味で、空腹なのも相まって、陽向はガパオを完食すると、アンコールビールを一杯頼んだ。運ばれたそれを一口飲んだ瞬間、あのレッドピアノでの楽しかった夜を思い出し、胸が締め付けられる。
何をするにも頭の中に迅との思い出が蘇ってしまう。でもそれは一時的に過ぎないはずだ。明後日、日本に帰れば、またいつものような日常に戻り、迅との思い出はあっという間に懐かしい過去の思い出として、自分の頭の片隅に留まるだけだ。
陽向はそう強く思い込むと、グラス半分ぐらい残ったビールを一気に飲み干しバスに戻った。
✳︎
プノンペンに着いたのは、夕方6時を回った頃だった。バスの到着場所は、自分の乗っているバス会社のオフィスがある所だった。そこはプノンペンのリバーサイド地区で、周辺にはレストランやバーが多くあり、夜になるとナイトマーケットが賑わう場所としても有名らしい。
到着場所の近くにはトンレサップという川が流れていて、風光明媚な場所のようだった。陽向はバスを降りると、川の方に向かい歩いた。途中、川沿いの公園を見つけると、陽向は堤防に腰かけ、夕涼みをする現地の人に交じりながら、ぼんやりと川を眺めた。川幅は割と大きく、水は茶色く濁っている。向こう岸にはまあまあ近代的なビルが、間隔を空けて並んでいる。
夕焼けに染まり始めた空を眺めていると、アンコールワットで迅と見た朝日を思い出してしまう。同じ太陽でも、沈む太陽はやはりどこか物悲しい。
つい、センチメンタルな気持ちになってしまう自分が嫌だ。自分は、自分自身に酔うことで、迅との思い出を美化しようとする。そんな焦りのようなものを感じながら、陽向は勢いを付けて堤防から立ち上がると、ホテルに向かうため、タクシーを探した。しばらくして表れたタクシーを捕まえ乗り込み、ホテル名を告げると、タクシーの運転手は無言で行く先にハンドルを切った。
五、六分タクシーに揺られていると、運転手が振り返り、ホテルに着いたことを知らせてくれた。料金を払いタクシーから降りると、今晩自分が泊まるホテルが目の前にあった。
陽向は、ホテルを見ても何の関心も湧かなかった。ただ自分が寝泊まりをする場所としてしか認識できていない。カンボジア旅行を計画している時、陽向はパソコンとにらめっこをしながら、どこのホテルが良いか何度もリサーチした。その思い入れが見事に消えてしまったことに、陽向の心はひんやりと冷たくなっていく。
フロントでチェックインを済ませると、初々しい感じの従業員に部屋を案内された。部屋の中は別段特別な何かがあるわけではないが、一人部屋の割には広く、ゆったりとしていた。
陽向はスーツケースを投げ倒すように床に置くと、ベッドへうつ伏せにダイブした。六時間以上バスに揺られた体は、自分が思っている以上に疲れていたのかもしれない。バスにのっている間は訪れなかった強い睡魔が、自分を襲ってくるのが分かる。
(このまま朝まで寝ちゃうかも・・・・・・。)
陽向はそんなことを危惧しながらも、重たい瞼を閉じてしまった。
✳︎
ハッとして目が覚めた。一瞬自分がどこにいて何をしているのかが分からなかった。慌ててスマホで時間を確認すると、時刻は午前7時を指していた。その時間に陽向は目を丸くして驚いた。
(完全に朝じゃないか・・・・・・。)
自分が危惧していたことが現実になってしまった。陽向はベッドから飛び起きると、取りあえず汗で不快な体を洗い流そうと、シャワー室に向かいシャワーを速攻で浴びた。
腹も空いている。外に食べに行くにはまだ早いから、ルームサービスを頼もう。陽向はシャワー室から出ると、部屋にある電話からルームサービスを頼み、届いたそれを夢中で食べた。ルームサービスの朝食は、パンと目玉焼きと生ハムのサラダで、その定番のメニューのおかげで、久しぶりに安心して食事をすることができた。
一通りやりたかったことを済ませると、陽向はベッドに座りながらスマホを確認した。まずはカンボジアの負の遺産を巡る予定を実行する。この国に来たからには、それを避けては通ることはしたくないと思っていたから。
陽向はリュックに荷物を積めると、足早に部屋を出た。
一階のホテルのロビーは観光客で込んでいた。陽向はルームキーをフロントに預けると、ホテルを出て、プノンペン観光を始めた。
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午前中いっぱいを使って、カンボジアの凄惨な過去を残している施設を巡り、陽向の心はかなり疲弊していた。食欲は無かったが、喉が渇いたのでカフェに入り、沈んだ心を紛らわすために、アルコールを頼んだ。
最初は軽く一杯と思っていたが、それでは飽き足らず、陽向は、更にアルコール度数の高いお酒をわざと選んで注文した。
こんな風にアルコールを飲みたくなる理由は、本当は朝目覚めた時から、迅のことが頭に浮かび離れなかったからだ。昼間から酒を飲めば、迅のことを少しでも考えないようにできるかもしれない。陽向はそう思って、二杯目に注文した酒を一気に飲み干す。
色んな種類の酒をどのぐらい飲んだだろう。腕時計を見ると、時刻は一三時を回っていた。自分でも驚いているが、陽向は自分の人生でここまで酒に酔ったのは今日が初めてかもしれない。酒に酔うというのはこういうことなのだと、この年になって今更実感している。それは、理性が壊され、自分で自分を制御できなくなるという、とても本能的な人格になるということだ。
陽向はカフェの椅子を倒す勢いで立ち上がると、会計を済ませ店を出た。通りに出ると、すぐにタクシーに乗りホテルに戻った。そして、ホテルをすぐにチェックアウトすると、またタクシーを使い、リバーサイドにあるバス会社に向かった。運良く一五時発のバスのチケットを取ることができた陽向は、迷わず、シェムリアップ行きのバスに乗り込んだ……。
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