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第7話
日本に戻ってから陽向は、朝起きて、朝食を食べて、満員電車に乗り、会社に行く。会社が終わったら、近くのスーパーで総菜を買い、毎朝に炊いている炊飯器の中の米と一緒に食べる。その染みついたマイルーティーンを、陽向は、カンボジアに行く前と変わらず、帰国してからもう半年も繰り返している。既に半年も経つというのに、もうずっとそのルーティーンに自分の意識が伴っていない感じがする。自分の心が存在していないようなこの感覚はなんだろう?
陽向はそんな問いかけを自虐的に自分にしてみては、呆れて苦笑いをする。その問いかけの答えを自分が一番良く解っていて、知らないふりをしているだけだということも。
(僕は本当の自分と、迅君への思いを、カンボジアに置いてきてしまった……。)
でも、自分はいつも、それは単なる妄想だと思い、そんな考えは二度としないと決めていた。でも、ふと、仕事や家事の隙間を狙っては、その妄想は、陽向の頭にしつこいくらい何度も忍び寄ってくる。
(ああ、まただ……。)
机上のノートパソコンの画面を見つめている時、その妄想はまた陽向の頭を占領しようとする。
カンボジアでの思い出が鮮烈すぎて、陽向は時々その思い出が自分の意思に反して思い出されてしまうと、迅を焦がれる感情に狂いそうになる。迅に抱かれたあの夜のあの興奮と幸せは、今までの陽向の人生を簡単に覆すほどの衝撃を与えた。
でも、自分はあの時、迅の前から去った。もし、迅宛にあのメールが届かなかったら、自分はどうしていただろう。ゲイとして生きることに勇気を持ち、親や兄弟にもカミングアウトして、潔く自分らしく生きる道を歩んだだろうか。本当にそうしただろうか。でも、何度冷静に考えても、きっとそうはならなかっただろう。あの時自分は、勝手に迅の生き方にプレッシャーを感じ、勝手に自己完結した。でも、絶妙なくらい嫌味なタイミングで、元カレが本来の自分を取り戻し、迅に連絡を寄越した。
(そう。だからこれでいい。これでハッピーエンド。なんてめでたい……)
心の中でそう呟くと、陽向は迅が最後に自分に言った言葉を思い出してしまう。
『俺は陽向さんが好きだよ。それだけは忘れないでいてね』
本当はずっとあの言葉を消化できずにいる。もしかしたら自分は、とても愚かな過ちを犯してしまったような気がして……。
陽向は仕事に集中するために、パソコンのエクセル画面から調べ物をしようとインターネットの画面に切り替えた。その時、検索エンジンのホーム画面に映る最新ニュースが目に飛び込んできた。
『カンボジアで路線バスが横転。邦人一名が死亡』
陽向はニュースの内容を詳しく見るため、震える手でマウスをクリックした。心臓がぐねぐねと自分の体の中でうねっている。大丈夫。カンボジアにだって迅以外の日本人は大勢いる。観光客を含めたらもっと多い。陽向は自分のネガティブな考えを嘲笑うように画面を見つめた。
開いた画面には事故の詳細が載っていた。バスの運転手の居眠り運転らしく、反対車線にはみ出したバスが、前から走ってきたトラックと正面衝突をした。その後バスは炎上し、バスに乗っていた乗客の半分が死亡した大事故。その乗客の中に、不運にも日本人が一名いた。今現在分かっている情報は、遺体の損傷が激しく、名前など詳しい情報がはっきりと確認できないこと。ただ、カンボジアに子会社持つ企業の社員だということは分かっているらしい。
陽向はその企業名が目に入った時、ひゅうっと大きく息を吸った。
(そんな……)
陽向は聞き覚えのあるその社名に、頭が一瞬で真っ白になった。それは迅の会社であり、その死亡した日本人が迅である可能性が一気に膨れ上がったからだ。
(まさか、まさか……そんなことあるわけ……)
陽向は机から立ち上がると、スマホを握り締めながらふらふらとオフィスの出口に向かった。何をどうしたら良いか全く頭が働かない。廊下を茫然と歩きながら、とにかく外の空気が吸いたいと思い、エレベーターに乗って下へ下りようとした。
陽向は、エレベーターに乗った瞬間、壁に寄りかかりながらずるずると床に座り込んだ。頭を抱えるように体育座りをしたまま、誰かに声を掛けられるまで、陽向はその場から全く動けなかった……。
✳︎
自分がもしあの時空港で、迅の自分への思いを素直に受け入れていたら、この状況は避けられただろうか。否、そんなことはない。例えそうなったとしても、運命のいたずらは自分と迅を容赦なく翻弄してきたはずだ。
だったらまだ遅くはない。自分にはあの時まだ覚悟できていなかっただけだ。その覚悟は、自分の中で今しっかりと整っている。
陽向はあの後すぐに会社を辞めた。家族にも自分がゲイだと打ち明けた。家族には心から謝罪し、自分の我儘を許してくれと乞うた。
事故の被害者についての報道はその後なく、陽向はバス事故の被害者の名前を調べようと、迅の会社や外務省にも電話をしたが、家族以外にはその情報を教えてはくれなかった。陽向は自分でそれを確かめるために、今カンボジアに向かう飛行機に乗っている。
もし、その被害者が迅だったとしたら。
そう思わない日など一日もない。それでも陽向は自分の地位も家族も捨てて、カンボジアに向かう選択を選んだ。その先にもし絶望が待っていたとしても、そうでない方に自分の人生を賭けたいと陽向は思った。
飛行機に乗っている間、陽向は恐怖でずっと体が震えていた。その賭けの大きさに怖気づきそうになるからだ。シェムリアップ空港に近づくにつれ、その思いは大きく膨れ上がり、陽向は客室乗務員に何度も体調不良を心配された。
空港に着いたのは朝の八時だった。陽向は迷わず迅のアパートに向かうため、タクシーを拾った。タクシーの運転手に、以前と同じように国立博物館までと伝えると、陽向は迅のアパートに着くまで、身動き一つせず石のようにタクシーの後部座席に座り続けた。
国立博物館にタクシーが泊まると、陽向は荷物を降ろし、迅のアパートまでゆっくりと歩いた。逸る気持ちと逃げ出したい気持ちが鬩ぎ合い、陽向の脳は、逃げ出したい気持ちの方が僅かに勝り、歩みを遅らせようとする。
迅の部屋の前まで来ると、陽向は拳を作り、思い切りドアを叩いた。でも、中からは何の応答もなく、陽向はもう一度声を上げながらドアを叩いた。その時、郵便受けに郵便物が溜まっていることに気づいた。よく見ると窓のカーテンも無くなっている。陽向はこの状況から考えて、既に迅はこのアパートで暮らしていないことを理解する。
(ああ、そうだよ……あれから半年も経ってるじゃないか……)
陽向は、迅がもうこの世にいないという考えはせず、半年という時間が、迅の人生に僅かに変化を与えたという考えの方を優先した。そうでもしないと、自分も迅を追うように、この世からいなくなってしまいたいという思いに強く引っ張られてしまう。
(ダメだ。ダメだ……まだそうと決まったわけじゃない!)
陽向は自分にそう強く言い聞かせると、自分を奮い立たせながらアパートの階段を駆け下りた。
「タクシー!」
大通りに出た陽向はタクシーを掴まえると、迷わず運転手に、『アンコールワットまでお願いします』とはっきりと伝えた。
✳︎
アンコールワットに行けばどうにかなる。自分と迅を引き合わせてくれた場所だ。そこに行けば奇跡が起きるかもしれない。そんなファンタジーのような考えにあの時の自分縋った。でも、それは無残にも打ち砕かれた。
今日で何回目のアンコールワットだろう。陽向は指を折って考えると、今日で五日目だと気づく。このまま行くと、貯金を予想よりも早く食い潰してしまうかもしれない。陽向はカンボジアに勢いで来てしまったから、ここで迅に会えるまでどうやって生活をしていくかの計画を立てぬまま来てしまった。今は安いホテルに滞在しているが、その内ホテル暮らしも苦しくなるだろう。
でも、僅かな希望を失うわけにはいかない。この場所で迅と出会ったあの日のことが、陽向は今でも熱く胸に焼き付いている。それは今までの陽向の人生で絶対になかったことで、本当に、宝物のように大切な出会いだった。それを自分は、その宝物から自分の弱さで逃げてしまった。その後悔が、何ものよりも耐えがたいということを、陽向はこの半年間痛いほど味わった。
バカだと、愚かだと罵られてもいい。迅の死の可能性を知ってから、すべてを捨ててここに来た情けない自分のことを。このバス事故がなかったら、ずっと死ぬまで、日本で心を空っぽにしたまま生きていたに違いない自分のことを。
陽向は、そんな思いを頭の中で嵐のように吹き荒らせながら、迅に会いにカンボジアに来てから五回目のアンコールワットの中に入った。
一〇月のカンボジアは雨季の時期だ。アンコールワットの中に入った途端、土砂降りの雨が降り出した。運悪く傘はなく、陽向は、雨宿りができそうな建物を探したが上手く見つからない。
陽向は雨に濡れたまま西塔門を抜け、まっすぐ歩くと、迅と一緒に、祠堂を背後から神聖に照らす朝日を見た池の方に目を遣った。陽向は、迅と見た朝日を思い出すのが辛くて、本当はずっとその場所に行くのを躊躇っていた。でも、今日は何となくそこまで足を運んでみようという気持ちになった。でも、その場所に来た途端、陽向は、既に諦めかけている自分の心を認めてしまい、堰を切ったように一目も憚らず、草の上に膝を付きながら大声で泣き始めた。雨に濡れて涙は跡形もなくなるが、止めどなく溢れて来る涙に、自分自身でも戸惑ってしまう。
この止まらない涙が、自分が本当に心から必要とする人を失ってしまったかもしれない絶望を表しているのなら、もう迷うことなく自分は迅を愛している。ここで叫んでもいい。いや、叫ぶ、自分は叫ぶ。
「迅君! ごめんよ! 愛してるよ! 僕はバカだ……本当にバカだ!」
陽向は顔を天に向けながら叫んだ。雨が口や鼻に入ってきて息が上手く吸えない。その時透明な何かが、陽向の顔を雨から遮った。
(え?……)
それに気づいた瞬間背後から声がした。
「陽向さん……ここで何してるの? これでこの台詞二回目だよ」
「え?!」
陽向は驚いて声のする方に振り返った。
「迅君!!」
陽向は驚きの余り立ち上がることができず、そのまま腰を抜かしたように地面に尻もちを付いた。自分の目の前にあの時と変わらない迅が立っている。ライフセーバーのように精悍で清潔で、どんな危機からも陽向を軽々と救ってくれる安心感が、そこに佇んでいる。
「これは夢? 僕は幽霊を見てるのか?」
陽向は独り言のようにそう言うと、口をぽかんと開けたまま、目の前の男を茫然と見つめた。
迅はそんな陽向を真っ直ぐ見つめ返すと、陽向の正面にしゃがみこんだ。
「ほら、お尻濡れるよ」
迅はそう言うと、陽向の腕を引っ張り、尻もちを付いている迅の体を起こした。二人土砂降りの中しゃがみこんだ状態で、お互いを見つめ合う。
「今僕に触れたね? じゃあ、幽霊じゃないね?」
陽向は、自分がかなりバカに質問をしていることに気づいていても、本当に目の前に生きている迅がいるのかを確かめないと気が済まない。
「そうだよ。幽霊じゃない。俺は生きてるよ」
迅はそう言うと、陽向の頬にそっと手を触れた。迅の手は僅かに暖かく、その温もりが陽向の心に、迅が生きていたという事実をダイレクトに響かせる。
「良かった……本当に良かった……生きてた……迅君が今ここにいる!」
陽向は喜びで溢れ出る涙を堪えながら、迅の首に腕を回し引き寄せた。迅も自分も雨で洋服がびちゃびちゃに濡れている。
「陽向さん。もう一度聞くけど、ここで何してるの?」
迅は陽向に抱き寄せられながら、同じ質問を陽向に投げかけた。
「ここに来れば迅君に会えると思ったんだよ。もし、今日会えなくても、毎日ここに来ればきっと、否、絶対会えるってそう信じて……」
「どうして会いたかったの? 俺に」
「愛してるから、迅君を。僕はもう二度と後悔しない人生を歩むって決めたんだ。何もかも捨ててきた。仕事も、家族も……君さえいれば、僕はもう何もいらない……」
「ああ、陽向さん……でももう遅いよ」
「え?」
陽向は迅の言葉に全身が硬直するのが分かった。慌てて迅の瞳を確認するように見つめるが、その瞳からは、上手く感情を読み取ることができない。
「俺、元カレとヨリ戻したから」
「え?……」
迅は陽向を見つめながら、さらりと残酷な言葉を吐いた。
「え、そ、そうなんだ……そっか、あはは……」
またしても自分は完全なる独りよがりを実行してしまった。勝手に思い込んでは勝手に行動して、でも結局すべてが手遅れで。陽向は迅の告白に、また自分の目の前に、真っ黒な幕が下りる感覚を味合わされる。
「あれ? 陽向さん……どうしたの?」
迅は陽向の頬にまた手を置くと、探るように陽向の目を見つめてくる。
「い、いや、自分って本当にバカだなあって思って……恥ずかしくて……」
声が震えてしまい上手くしゃべれない。あまりの愚かさに、このまま自分の存在など、雨と一緒に溶けてなくなればいいのにと思えてしまう。
「あのさ、陽向さん。亡くなった人はね、俺の会社の人じゃないよ。あれは誤報だったの。遺体の損傷が激しくて、身元不十分だったからかな。でも、俺が死んだと思って何もかも捨ててここに来るなんて、俺マジ感動なんだけど」
迅は陽向の頬を優しく撫でながら、僅かに言葉を詰まらせてそう言った。
「そっか、なるほど……誤報なんてことあるんだね」
陽向はショックのあまり、迅の話す言葉が上手く頭に入ってこない。
「ごく稀にあるらしいよ。だから陽向さんが今ここにいるんだ。なんか信じられない……」
「……どういう意味?」
陽向は、迅の言葉の意味が分からず困惑の表情をしたが、迅はいきなり、そんな陽向の腕を掴み立ち上がらせた。
「亡くなった人には凄く申し訳ないけど、こんなことがなかったら、陽向さんはずっと日本にいたままだったんだなぁってことだよ……」
「迅君? さっきから何を言ってるんだ?」
陽向は、迅の意味深な言葉の数々に苛立ちを覚え始める。
「はあ、実はね、俺もここに毎日来てたんだよ。もしかしたら陽向さんがいるかもしれないって期待して。見つけた時は、俺も大泣きしそうだったよ」
迅の言っている意味を陽向は必死に考える。でも、辿り着く答えは、結局手遅れでしかなかったということに行きつくだけだ。
「え? だって、元カレ……は? え? どういうこと?」
陽向は目を泳がせながら迅に問いかけた。
「ごめん。嘘だよ……少し意地悪してやろうと思って」
迅はそう言うと、いきなり陽向を強く抱きしめた。そのせいで傘が地面に落ち、二人は更にずぶ濡れになる。
「な、なんだよ……ひどいよ……僕は、死んじゃうくらいショックで……」
陽向は、自分の頬を流れる涙の熱を感じながら、必死に迅を抱きしめ返した。これは夢だろうか。もし夢だったら、今度こそ自分は雨に溶けてこの世から消えてしまうかもしれない。
「それは困る。やっと会えたのに」
迅はそう言うと、陽向の体をそっと引き剥がし、傘を拾った。
「ああ。もう俺たちずぶ濡れ……」
迅はまた傘を差すと、陽向の手を取って歩き始めた。雨は降りやまず、灰色の重たい空がアンコールワットに重く圧し掛かっている。
「元カレはね、ただ、直接俺に会って謝りたかっただけだったんだ。あの時喧嘩別れみたいになっちゃったから。今は、彼も自分を偽らず他の誰かと生きてるよ。俺にありがとうって言いに来た。陽向さんが日本を去った後直ぐ……」
陽向は自分の思い込みに恥ずかしくなる。すぐネガティブに考える癖は、もうずっと前から自分に染付いているとても迷惑な癖だ。
「そう、だったんだね……僕が勘違いして、恥ずかしいな」
陽向は足元見つめながら、そう小声で言った。
「ほんとだよ。もう、勝手に暴走しちゃってさ」
迅はそう言うと、さわやかな笑顔を見せた。
しばらく二人で無言のまま歩いていると、少しずつ雨足が弱まっていることに気づいた。その時、祠堂の入り口付近まで来た時、迅が突然立ち止まった。
「陽向さんが日本に帰っちゃった後、俺何も手に着かなくて……どうやって陽向さんにもう一度会えるか考えたけど、陽向さんには陽向さん人生があるって思うと、何も行動できなくて……だから俺、今凄く嬉しいんだ……陽向さん、本当に後悔してないよね?」
迅は陽向を真っ直ぐ見つめると、陽向の左肩に手を置きながら、自信無げに陽向に尋ねた。
陽向は肩に置かれた迅の手に自分の手を重ねると、『もちろん』と強く答える。
「あ、見て、雨が止んだよ。ほら、ちょうど中央祠堂に光が差しこんでる……」
陽向は中央祠堂の方を指さした。そこには雲間から一筋の光が伸び、それがアンコールワットの象徴でもある中央祠堂を照らしている。
「迅君知ってた? あれって天使の梯子って言うんだよ。きっと迅君と僕を祝福してくれてるんだよ。二人でずっと生きていきなさいって……」
陽向はネガティブな自分を返上するように、前向きな言葉を迅に伝えた。
「天使の梯子か……」
迅はそう呟くと、差していた傘を閉じて、陽向に向き直った。
「これからどうしようか?……俺仕事辞めちゃったんだよね……」
迅は困ったように眉根を寄せてそう言うと、陽向の両手を強く握った。
「僕も無職だよ……困ったなあ。取り敢えずビザを取らないとね」
「そうだね。やることが山積みだ」
「そうだよ。生きていくって大変なんだよ」
陽向は偉そうに胸を張って言うと、迅は声を出して笑った。
「あはは、陽向さん……本当に大好きだよ。俺も心から陽向さんを愛してる……」
迅は急に真剣な顔を作ると、陽向を甘く優しく抱きしめた。陽向は迅の言葉に、強烈な幸福で気を失いそうになった。でも、気を失っている暇などない。明日からやることが沢山あるし、迅となら何があっても怖くない。
「アンコールワットの神々に誓うよ。僕は迅君を、一生愛します」
陽向は、迅から体を離してそう言うと、迅にも同じ言葉をせがむように見つめながら、そっと迅の唇に、誓いのキスを落とした……。
了
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