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第6話
翌朝目を覚めた時、下腹部に覚える違和感に、自分がついに男とセックスをした事実に改めて衝撃を受けた。途中からもう陽向の酔いは覚めていた。自分から迅に好きだと告白したことも覚えている。でも、こうやって朝日を浴びながら目覚めると、夕べの自分の気持ちに、紛れなく自信を持てていたかと急に不安になる。自分は本当にゲイとして生きていくことを完全に受け入れたのかと。
陽向は自分の隣で眠る迅を見つめた。そっと手を伸ばし、起こさないようにその髪に優しく触れてみる。自分の手に触れる迅の髪の感触と僅かな体温が、揺らいでいる陽向の心を少しだけ落ち着かせてくれる。
(迅君が好きだ。この気持ちに迷いはない。)
陽向は自分の心に言い聞かせるようにそう心の中で呟いた。でも、自分はこの先のことを何も考えていなかったことに気づく。自分は今日、日本に帰国する予定だ。本当はプノンペンから飛行機に乗るはずだったが、今は朝の7時半だ。今から一番早いプノンペン行きのバスに乗っても、飛行機の出発時刻には到底間に合わない。シェムリアップ空港発の航空券を買って、そこから日本に帰るしかない。じゃあ、帰ったらどうするか。迅はまだカンボジアで駐在員の仕事がある。自分もこの先長い休暇を取れる保証はない。こんな状況なら、会いたくても会えないという日々が続くことは容易に想像がつく。
陽向はそんな生活を送る自分の姿を想像し、背筋を凍らせた。夕べの自分の醜態は下手したらストーカー並みの行動だ。陽向は自分の中にあるストーカー気質のようなものにゾっとしてしまう。
その時、ベッドサイドに置いてあった迅のスマホから着信音が一度だけ鳴った。陽向は自然に迅のスマホの待ち受け画面を見つめた。その画面には、誰かからのメッセージが表示されている。いけないとは思いつつも、陽向はついメッセージの内容を見てしまった。
陽向はその内容に目を見開いた。メッセージはしばらくすると画面から消えたが、陽向にはその文字がしっかりと頭に焼き付いている。
『迅。俺が悪かった。今すぐ会いたい。連絡をくれ』
陽向は心を潰されくらいの衝撃を受けた。きっと迅には恋人がいるのかもしれない。自分を好きだと言ったのは、好みのタイプだという陽向と、一夜限りの遊びをしたいがための嘘かもしれない。自分だけが運命の恋だと勝手に思い込み、夕べのような独りよがりの行動をしてしまったのだとしたら……。
陽向は、突然膨れ上がってくる恥ずかしさと情けなさで、この場からすぐに逃げ出したくなった。
「んん? あ、陽向さん……おはよう」
その時、迅が伸びをしながらむくりと起き上がった。陽向はハッとして迅の方を見るが、スマホのメッセージに動揺してしまったせいで、迅を直視できない。
「お、おはよう……迅君」
陽向は挙動不審な態度で迅にそう言った。
「あっ! 今何時?」
迅は叫ぶようにそう言うと、きょろきょろと辺りを見渡し、ベッドサイドの上にあったスマホに気づくと、それを掴み取った。
「うわっ、やばい!」
迅は慌ててスマホをベッドに投げ捨てると、『どうしよう! どうしよう!』と言いながらベッドから飛び降りた。そして、クローゼットに向かい服を選び出すと、慌ててそれを着始める。
「ごめん! 陽向さん、俺今日大事な会議があるんだよ。今すぐ会社行かないと。陽向さんは? 今日、日本に帰るんだよね?」
迅はズボンに片足を突っ込むと、よろけながら陽向に早口でそう問いかける。
「そうだよ、本当はプノンペンから帰る予定だったけど、もう無理だからシェムリアップから帰るよ」
「そうか、あっ、部屋の鍵、玄関のポストに入れといてくれる? 俺先に家出ないと間に合わないんだ」
迅はズボンを履き終わると、床に落ちているシャツを拾い袖を通し、ボタンを器用に上から閉め始める。
「そうか、了解。入れとくよ」
「……あと、陽向さん。連絡先メモして俺の机の上に置いといてくれる?」
陽向は迅の言葉にドキッと心臓を鳴らした。
「今、悠長に連絡先交換してる時間がないんだ。必ず俺から連絡するから。待ってて」
迅はそう言うと、ソファーの上にあるリュックを開け中身を確認すると、その中にスマホを入れて素早く肩に背負う。
「あーもう、マジで時間ないわ。じゃあね、陽向さん! また絶対会おう!」
迅は、陽向に思いを強く伝えるように見つめると、嵐のように部屋を出て行った。
✳︎
帰りの航空券は、シェムリアップから日本への便は少なく、結局十九時発の便しか取れなかった。日本に着くのは時差を含め朝の三時ぐらいだろうか。一旦自宅に戻り出勤するには何とか間に合う時間だ。明日は自分も大事な会議があるから、自分の都合で仕事を休むわけにはいかない。
プノンペンからのチケットをキャンセルしたことで、その分出費も嵩んでしまった。でもそれは全部自分のせいであり、今更どうこうあがいてもしょうがない。自分の弱さで逃げたことが、今こうやって金銭に替わって陽向の手からこぼれ落ちているだけ。でも、金銭よりも大切な物を、自分は手放してしまったのかもしれない。
陽向はフライトを待つ間ずっと自分の行動が正しかったのかを考えていた。本当に後悔してはいないかを何度も何度も自分に問いかけた。
陽向は、自分の携帯番号を迅の部屋へ置いてこなかった。独りよがりな自分の行動への羞恥心に気が動転してしまったのもある。それに、迅からもらったゲイとして生きていく勇気が、あの時、完全に揺らいでしまった。本当の自分なんてものは単なる思い込みの幻なのだから、今まで通り、自分はノーマルとして生きていけばいいのだと、そう思った。
そんな混乱した頭のまま、自分は魂が抜けたみたいに迅の部屋を出て、空港に向かった。空港に着いたのはお昼過ぎだったが、その間の記憶が全くない。どうやって空港まで来たのか。交通手段は何だったのか。空港に着くまでの間自分は何をしていたのか。今、搭乗時間が来るのを待っている間に、少し冷静になった頭で、陽向は自分の行動を振り返り、自問自答を繰り返している。
(聞けばいいだけじゃないか……あのメッセージの相手は誰なのかって。)
今なら冷静にそう思える。会いたいことを望み連絡を求めてくるということは、迅がメッセージの相手と会うことを拒否しているからかもしれない。そう前向きに捉える余裕が、あの時の自分にはなかった。ただ、恥ずかしさと情けなさに傷ついたプライドが、子どもみたいに震えながら泣いていた。
陽向は腕時計の時間を確認すると、時計の針は搭乗時間の一時間前を指していた。カフェテリアでコーヒーを飲み始めたのはどのくらい前だろうか。何杯目か分からない、冷え切ったカップの中のコーヒーを、陽向はぼんやりと見つめた。
「さてと」
そうわざと声に出して立ち上がると、陽向は会計を済ませ、重たいスーツケースを引きながら店を出た。
陽向は、空港内の案内板に目を凝らしながら、チェックインカウンタ―まで行き、搭乗手続きを済ませた。同時にスーツケースを預けると、スーツケースに体重を預けることができない自分に、余計迅とのことが、激しい後悔となって圧し掛かって来る。
陽向はその思いを抱えたまま、重い足取りで保安検査場に向かった。元の日常に戻るには、淡々と飛行機に乗る準備を進めなければならない。
「陽向さん!!」
その時、背後で自分の名を呼ぶ声が聞こえた。陽向は心臓を鳴らしながらゆっくりと声のする方に振り返った。
「待って! そこでストップ!」
人目も憚らず大声を出しながら迅がこっちに向かって走って来る。迅は、朝のあの格好のまま、陽向を逃がすまいと、必死に陽向を見つめながらこちらに向かって走って来る。陽向はそんな迅の姿を茫然と見つめた。
迅は陽向の目の前まで来ると、両手を膝に当てながら息を整え始めた。背中には汗で濡れたシャツが張り付いている。
「はあ、はあ、良かった……間に合った……」
迅は息を切らしながらそう言うと、いきなり陽向を強く抱きしめた。
「何で? 何で連絡先置いといてくれなかったの? 俺、何か陽向さんに嫌われるようなことした?」
汗で濡れた頭を遠慮なく陽向の頬に押し付けながら、迅は叫ぶようにそう言った。
「家に帰ったら、探したけどなくて……でも、諦めきれなくて、ダメもとで空港まで来たんだ。本当に会えて良かった……でも、何でなの?」
迅は陽向から体を離すと、眉間に皺を寄せながらそう必死に尋ねる。その目には悲しみと困惑が見事に混在している。
陽向は、本当はその場に膝から崩れ落ちそうになったが必死に我慢した。迅に会えたことが素直に嬉しいのと、ここまで必死に自分に会いに来てくれたことへの感動に、胸が張り裂けそうになる。
「何でって、それは……」
陽向はその先の言葉に詰まる。自分が見てしまったメッセージの話をここでしても良いのだろうか。でも、それが原因なのは確かだ。自分は迅のことを何も知らない。過去にどんな恋愛をしてきたのかも。どんな辛いことがあったのかも。何もかもを。
「『迅、俺が悪かった。今すぐ会いたい、連絡をくれ』……ごめん。朝に届いた迅君へのメッセージ、見ちゃったんだ」
迅は陽向の言葉に大きく目を見開くと、陽向から慌てて目を逸らした。陽向は迅のその動揺した態度に、自分の心が一瞬で傷つくのが分かった。
「もしさ、僕とのことが遊びだとしても構わないよ。旅行の良い思い出として、胸の奥にしまっとく」
陽向は、それが強がりだと分かっているのに、迅の態度に傷ついた心は、そんな言葉を無情にも選択してしまう。
「ち、違うんだ……あのメッセージは、日本にいた頃付き合ってた元カレからだよ。俺は別れたつもりでいたけど、向こうはそう思ってなかったみたいで……だから、俺が陽向さんを好きな気持ちに間違いはないよ!」
迅は身振り手振りを交えながら、陽向にそう強く伝えた。
「・・・・・・日本で彼と何があったの?」
陽向はそれが気になり迅に尋ねた。初めて迅と酒を飲んだ夜、迅がカンボジアに来た理由を知ることはできたが、元カレの話など、当たり前だが全く知らない。
「……俺はね、いつかばれるって思いながら生きるのが嫌だったから、正直に自分がゲイだってことを、会社にも家族にも打ち明けたの。でも会社側は、あからさまに同性愛者の俺を煙たがって、俺にカンボジア駐在員の話を勧めてきたんだよ。正直傷ついたけど、これが現実だと思って俺はそれを受け入れたよ……けど、俺はやっぱり元カレと離れたくなくて、一緒についてきて欲しいって頼んだんだ。でも元カレって、代々続く由緒正しい家の跡取りで、俺はお前のようには生きられないって断られたんだ……あの人自分もゲイなのに、クローゼットのまま生きてくって……じゃあ、何でこのタイミングで今頃連絡してくるんだよ!」
迅は今にも泣きそうな目をしながらそう叫んだ。その迅の様子が、本当は今でも元カレのことが忘れられないからではないかと、陽向は訝しんでしまう。
「もし、何もかもを捨てて、その元カレが迅君の前に現れたら、迅君はどうするの?」
「え? そんなの、急すぎて何も考えられない……」
迅は陽向の質問に声を震わせながら答えた。いつものあの自信に満ちた精悍な顔が僅かに崩れている。
「だったら僕はこのままここを去った方がいいね。僕は多分、迅君のように強くは生きられない。親にも会社にも自分がゲイだって言えないし。僕は臆病だから、すぐに逃げる。そんな僕は、迅君に相応しくないよ」
陽向は自分の問いかけに、迅は迷わず陽向を選ぶと言ってくれることを僅かに期待していた。でももし、そうだったとしても、自分はやはり迅のようには生きられないだろう。
「ひ、陽向さん、相応しいとかないとかそんなの関係ないよ。俺言ったよね? 後悔しないで生きていこうって。あの言葉の意味が分かったから、陽向さんは俺に会いに来たんだよね?」
迅は陽向の肩を痛いほど強く掴むと、前後に揺さぶりながら問いかけた。
(そうだよ! その通りだよ! でも!)
陽向は心の中でそう叫んだ。夕べ自分は、ただ迅に会いたいという激情のまま迅の家に向かった。自分はその激情だけでは足りず、酒の力を借りた。だって、それでも会いたかったから。二度と迅に会えないと思うと、気が狂いそうだったから。でも、このまっすぐで勇気のある青年に相応しいのは自分じゃない。きっと元カレの方だ。彼は気づいたに違いない。一度は逃げたけど、自分が一番大切なのは、世間体などではなく迅だということに。
「大丈夫。僕は後悔しないで生きていく。だから迅君は、元カレに会うんだ。前に二人で恋愛の話をしただろう? 迅君は彼を心から愛していたんだから、今度こそ君は幸せになるべきだ」
「陽向さん……」
迅は、陽向の両肩に手を置いたままぐったりと項垂れた。でも、意を決したように顔を上げると、もう一度強く陽向を抱きしめた。迅の体温は高く、その熱が陽向の胸を痛いくらい疼かせる。
「陽向さん。幸せになるかならないかは、俺が決めることだ……俺は陽向さんが好きだよ。それだけは忘れないでいてね」
迅は陽向の耳元にそう囁くと、『じゃあ』といって手を振り、陽向の前から勢いを付けて走り去った……。
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