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三 百夜

 翌日の朝、志千(しち)は頭を抱えてどんよりとしていた。  まだ酒が抜けきっていない。 「昨夜のあれ、初代よりも、むしろ二代目に見えたよな……。それなら可能性は……。いやいや、どっちにしろ、こんなところにいるわけねえ」  向かいの襖をひらけば、麗しい女が花々に囲まれて眠っている。  そんな御伽(おとぎ)みたいな話があるわけがない。  そうだ、すべて夢だったのだ。 「なにをぶつぶつ呟いているんだい」 「いやー、昨日は呑みすぎちまったみてえだ」 「御前(おまえ)さんねえ。せっかくの晴れ舞台なのに、二日酔いの顔をしてちゃだめじゃないか」  家主の相変わらずの説教にも、今日は言い返せそうになかった。  蝶子は椿油につけた(くし)で、懸命に志千の髪を梳いている。  硬い黒髪は、洗いざらしでいると毛先が無造作に跳ねてしまう。肩につく程度に伸ばして、しばったほうが楽なのである。  前髪はポマードで上げて流し、頭部の上半分は後ろで結ってうまくまとめてくれた。  生やそうとして失敗した無精ひげも、さっぱりと剃刀で落とした。 「うん、見違えたね。男前だ」  皺ひとつない漆黒のフロックコートに袖をとおす。  首元には幅広のタイ。懐中時計のチェーンをボタン穴につたわせる。  この大仰な礼装が、志千にとっては制服のようなものだ。  上背に恵まれているおかげで洋装が様になる。鏡を眺め、我ながら悪くないと悦に入った。 「その見た目と声じゃ、女がほっとかないだろ」 「さあ、どうかな」 「謙遜しちゃって。故郷(くに)にいいひとでも置いてきたんじゃないのかい」 「はは、まさか」  子ども相手だからとごまかしたが、実際女にはもてるのだ。  地元にいた頃は、街を歩けば熱心なご婦人方の黄色い声援が飛び交っていた。  スケコマシだの、ダンスホールにいるジゴロみたいだのと、外見の印象だけで同性からやっかみを買う機会も多かったが、いい年頃だというのに決まった恋人がいたことはなかった。 「俺の想い人は、いつでも会えるのに、絶対に触れられない場所にいるからな」  嘘はついていない。  うまく切り返したつもりが、蝶子はもはや聞いていなかった。  志千の全身を眺め、着付けに不備がないかをくまなく確認している。 「髭がないと、案外若造だね」  女児にいわれるのは違和感があるが、この不思議な家主の物言いにも徐々に慣れてきた。 「うまいこと揃って生えねえんだ。付け髭でもするか」 「似合わないからやめときな。いまいくつだい?」 「二十二だよ。芸歴はそれなりに長いんだが、まあ、まだ若手扱いだな」  礼をいって銭を渡す。  蝶子は料理だけでなく身の回りの世話が得意で、大抵の用事は頼まれてくれる。無論、きっちり別料金だ。 「今日が封切(ふうきり)の新作なんだろ。ウチも観にいくよ」 「子どもだけで入れてもらえるのか?」 「秘策があるから、だいじょーぶ」  ひひひと、また怪しげに笑う。  怖いもの見たさで秘策とやらを尋ねてみようか迷っていると、二階からおりてくる足音が響いた。 「おや、ももちゃん。こんなに朝早く起きてくるなんてめずらしい」  四日目にして隣人の初登場だ。  いかにも眠そうに、のたのたと動いている。  ちゃぶ台の前に腰をおろすと、煙草盆を引き寄せて煙管(きせる)を咥えた。 「今日から本番かね。昨日は打ち合わせにいってたもんね」 「ああ」 「家に帰ってそのまま寝たろ。肌が荒れるから気をつけなね!」 「いつのまにか椅子で眠っていた。顔はさっき洗った」  淡々とした喋りかたで、気のない返事をする声は低く、ややかすれている。  だが、その低音に似合わず、本人の風体は結構な優男だった。  長すぎる髪を雑にくくっており、目元がほとんど隠れている。眺めているとこちらまでうっとうしい気分になってくる。  白地に黒い縞のはいった浴衣からのぞく肌は生っ白い。普段、部屋からでてこないというだけある。  朝食にすぐ手をつけるでもなく、襖にもたれて細い煙を吐いている。  二日酔いが薄れていくにつれて、だんだんと嫌な予感がしてきた。  まさか──  昨晩、この青年と女優の残菊を見間違えたのだろうか。  柳腰で、気だるそうな仕草に妙な色気は感じるが、骨格はけっして女のものではない。  酔っていたとはいえ、ただの髪が長くて白い浴衣姿の男ではないか。 「そういや初対面だったかね? 紹介するよ。新しい下宿の仲間、しちちゃん」  当然のようにちゃん付けで呼ばれているが、昨晩見惚(みと)れてしまった後悔が押し寄せてきて、訂正するどころではない。 「こっちは百夜(ももや)。仲良くするんだよ」 「……おう、よろしく。ももちゃん」  悔しまぎれに雑な挨拶をすると、見事に無視された。  腹が立ったので、徹底的に絡むことにした。 「その髪色さ、異人の幽霊に間違われてるのっておまえなんじゃねえの?」  膝をついたまま近くに寄って、くわえっ放しの煙管を横から奪う。  髪の隙間からじろりと上目遣いに睨まれた。 「瞳の色はどうなって──」  勝手に前髪を掻きあげたところで、思わず息を飲む。  百夜は男とは思えないほど、美しく繊細な顔立ちをしていた。  輪郭や鼻筋は水彩画の巨匠がそっと筆を流したような細い線で、そのぶん瞳の印象が強い。  猫みたいに大きな胡桃形をしているのに、目尻だけが上に跳ねており、まるで目張りの化粧が自然に施されているようだった。  虹彩はやはり瑪瑙(めのう)みたいだ。  やや三白眼気味なのも感情が読み取りにくく、かえって艶っぽい。  異人のような髪色と瞳に反して、顔立ち自体は涼やかで日本的である。  男らしいのでもなく、女らしいのでもなく、絶妙な調和で成り立った美。  整いすぎて眼差し以外に特徴がないため、なんにでもなれそうだった。  これほどの美形はなかなかお目にかかれない。  蝶子に男前だと褒められて、得意になっていた自分が気恥ずかしくなるくらいだ。 「ほら、ももちゃん。同業者なんだからさ。もうちょっと愛想よくおし」 「同業?」 「役者だよ」  どうりで綺麗な顔をしている。  さすがは帝都。役者の水準も別格なのだと見せつけられたようで内心焦るが、同時に親近感も湧いてきた。 「衣装合わせと通し稽古が終わって、今日は朝から撮影所入りなんだよね。ふたりとも、お昼の握り飯をつくるから持っておいき」  撮影ということは、舞台ではなく活動俳優である。  活動写真──近ごろでは映画と呼ばれることも多い。  志千が幼少時から人生をすべて賭けてきた、白と黒だけの銀幕の世界。  俄然(がぜん)、百夜に興味がでてきた。 「もしかして、女形(おやま)か?」  女形とは男の俳優が演じる女役のことで、活動写真ではいまだ女優よりも主流だった。  もし女形専門の役者ならば、これだけ美形にもかかわらず見覚えがないのもうなずける。彼らは役にはいると妖艶に化けるからだ。  そう勝手に納得していると、 「ちがう」  短い言葉であっさりと否定された。 「似合いそうなのにもったいねえな。どんな作品にでてんだ? 主演作はあるか?」 「はぁ……」  また、無視。しかもため息のおまけつき。  まだデビューして日の浅い新人なのかもしれない。歳も志千よりいくつか下に見える。  それにしても、綺麗なのは顔立ちだけで、社交性の欠片もない男だった。  煙草をひっきりなしに()むばかり。まともに目を合わせようともしない。  上下関係に厳しい役者の世界でよくやっていけるものだ。  しょうがねえ、ここは俺が大人になってやるか──と、仕切りなおす。 「俺は寿志千。伊勢佐木町からきた『活動写真弁士』だ。これでも向こうじゃちょっとした人気弁士で──」 「ハッ」と、百夜が高飛車に笑った。 「イセザキ? どこの集落だ?」  横浜一を誇る興行の聖地になにをいう。  こめかみで血管が動いたと自覚したのは、はじめての経験である。  握り飯を竹の皮で包みながら、蝶子が呑気(のんき)な口調でいった。 「あ。ももちゃんは高慢ちきで性悪だから気をつけて。仲良くしなね」 「仲良くできねえ情報を後からだすな」  にこにこと弁当を渡してくる幼い家主に免じて事を荒立てるのはやめ、青筋を浮かべた笑顔のままで浅草での初仕事へ向かった。

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