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四 活動写真

 浅草公園第六区の一角にある鳳館(おおとりかん)は、志千(しち)が今日から働く場所である。  六区でもそこそこ規模の大きい活動写真の常設館であり、伝手(つて)あって紹介してもらったのだ。  作品の看板が大きく掲げられ、すでに多くの客が並んで新作フイルムの封切(ふうきり)を待っている。  豪勢に立ち並んだ(のぼり)には作品名と主演俳優、そして弁士の名が染められていた。  志千は、自分の名前がはいった幟を満足げに見あげた。  活動写真弁士とは──無声映画の説明者のことをいう。  明治時代に映画が輸入されてきた後、日本では映像に合わせて『弁士による説明と台詞』を加える文化が独自に発達した。  たっぷりと期待をあおる前口上、ときには複数人の掛け合いで行われる劇中台詞、喜怒哀楽の臨場感を語りで表現する。  無声映画が大衆娯楽として定着してからというもの、弁士の存在はいまや花形であった。  監督や俳優だけでなく、弁士にも客がつく。作品がヒットするか否か、弁士の人気と技巧で大きく左右するといわれているくらいだ。  モーニングやフロックコートを着込み、頭には山高帽、口髭をたずさえて、胸に一輪の花。  背筋を伸ばしてスクリーンの左側にある弁士台に立つ。 『さあ、みなさま、これより開幕で御座(ござ)います。本日の説明はわたくし……』  上映前にそう名乗りをあげられるのも、名入りの幟が立つのも、一人前の弁士だけの特権だ。  志千は子役から弁士台にあがって十年以上経つが、二年前にようやく幟に名が入るようになった。  しかし、いくら幟が立とうとも、その名前で客を呼べなければ意味がない。  帝都最大の興行街で認められるかどうか、大事な初日である。 「今日の弁士は、伊勢佐木の新星だってよ」 「ああ、『七色の声を持つ男』──だっけ?」 「さっきフロックで仲見世を歩いているのを見たわよ。凛々しくて、なかなかのハンサムじゃないの」 「粋な感じよねえ!」 「どうだか。横浜の奴らってえのは、変に気取ってやがっていけ好かねえなぁ」  上映を待つ客が、口々に噂話をしている。  七色の声を持つ男。  新星とともに、人気の出はじめた志千に与えられた称号だ。  栄誉ともいえる異名が、志千自身、じつはあまり好きではない。  開幕のベルとともに、オーケストラボックスから楽隊の演奏が鳴りはじめた。  舞台袖でタイの緩みを正し、深く呼吸する。 「しーちちゃん」 「うお、びっくりした。蝶子!? ……さん」  振り返ると、下宿屋の幼い主人が志千を見あげていた。  関係者しか入れないはずの舞台裏に、どうやって入ったのだろうか。 「ふふん。浅草はウチの庭みたいなものさ」  表情から志千の疑問を読みとって、得意げにいう。あまり答えになっていない。  いれてもらったのか忍びこんだのかは不明だが、子どもゆえに見逃されているのだろう。 「すごいね、大入りじゃないか」  客席を見渡すと、たしかに客入りは上々だった。  若手の男弁士だけあって、とくに婦人席は満員御礼だ。  浅草での初出演。前評判でこれだけ客を呼べれば上出来といえる。  だが、人気商売はそんなに甘くない。 「見ろよ、観客の目を。どいつもこいつも、よそ者の弁士がどの程度か試してやるってぎらぎらしてやがる。下手な説明をしたらすぐにでも野次が飛んでくるだろうよ」  いまさら怖気づくのなら、浅草まできてやしない。かえってやる気が湧いてきた。  ──上等だ。  跳ねのける実力がなければ、この先やっていけはしないだろう。 「はい、これ。朝渡そうと思っていたのに、うっかりしていてさ。鳳館は裏口の鍵が壊れてるって、知ってるかい?」 「やっぱり侵入じゃねえか」  蝶子は後ろ手に持っていた紫色の菊を一輪、志千の胸に差した。 「ありがとう。いってくるよ」  志千は笑って、銀幕の前、舞台の中心に進みでた。  ***  幾度となく聴いたオーケストラによる入場曲。  帽子を脱ぎ、紳士の一礼。音楽に負けない声量で名乗りをあげる。 「本日、紳士淑女の皆様にご来場(たまわ)りまして、館主楽屋一同に代わり、不肖(ふしょう)寿志千が厚く御礼申し上げます……。これからご観覧いれますのは、芝居から講談、浪花節まで、幾度となく上演された皆様ご存知のロングセラァ。明治に散った未完の大ヒット作が、この大正の時代に銀幕へ蘇って参りました……。さあ、これより尾崎紅葉(おざきこうよう)原作の『新説・金色夜叉(こんじきやしゃ)』を(べん)じあげます!」  このような前置きはやや古臭いのだが、客には受けた。  映写技師に合図をして左手の弁士台に移動すると、フイルムがまわり始める。  弁士による場面の解説を挟みながら物語は進んでいく。 「貫一(かんいち)とお(みや)、ふたりは将来を約束した許嫁(いいなずけ)でありました。仲睦(なかむつ)まじい様子で肩を寄せ、片時も離れることなく──。しかし、運命の悪戯(いたずら)がふたりを翻弄します。美しいお宮は金持ちの高利貸しに見初(みそ)められ、金に目が眩んだ両親によって嫁がされてしまうのです。貫一は裏切られた傷心で、お宮を熱海まで追いかけていき──」  もっとも有名な海辺のシーンが映しだされる。  貫一を演じているのは近ごろ人気の二枚目。そして宮役は女形である。  俳優の顔がスクリーンいっぱいに拡大された。頬を伝う涙までもが鮮明に撮影されている。視点を切り替えて、ヒロインから見た主人公にカメラが移る。  これらは舞台では不可能な、活動写真だからこそできる技法だ。 『宮、おのれ、おのれ、金のためにその操をやぶった姦婦(かんぷ)め! (はらわた)の腐った女め!』 『貫一さん、聞いてくださいまし。わたくしのほんとうの気持ちは──』  感情をふり絞った男女の熱演に、観客がわっと湧く。  複数人でそれぞれ台詞の掛け合いをする場合も多いが、志千はすべての役を自分ひとりで演じわける。 『おぼえていろ。来年の今月今夜の月を、必ず僕の涙で曇らせてみせよう。もし、月が……月が、曇ったならば……。宮、僕がどこかで君を恨んで、今夜のように泣いているのだと思ってくれ……』  無声映画は弁士の『解釈』に委ねられているともいえる。  同じ泣き顔が映っても、どのように泣いたか、どのような哀しみだったのか、弁士が違えば、選ぶ言葉ひとつ、台詞の抑揚ひとつで、同じフイルムでもいかようにも印象を変えられるのだ。  ただひたすら客の好奇を煽って喋ればいいわけではない。  白熱した語りだけではなく、うまい引きと間にこそ、弁士の技巧が試される。  その日、その時の場内の空気を読み取って、客と一心同体となる臨場感を演出しなければならない。  物語は最高潮へ。  お宮が身を(てい)して火災から貫一を救いだす終幕。  声量をあえて落とし、女の心情を表現する。 『なぜだ、宮。どうして僕をかばったのだ』 『貫一さん、あなたが(ゆる)してくださらないのなら、わたくしはもとより死ぬ覚悟で御座いました……』  未完の原作とかけ離れたこの脚本独自の展開であり、お宮の悲劇性が強調された結末となっている。  会場のあちこちから(すす)り泣きが聞こえていた。 「嗚呼(ああ)、お宮、なんと哀れな女よ。彼女の想いは(いく)ばくかでも貫一に届いたのであろうか? 女の情は厚く、こと切れるその瞬間まで途絶えることなく、貫一に赦しを乞い続けるのであった──」  大勢の歓声と拍手に包まれて、銀幕は『完』の文字を残し、上映を終えた。  手ごたえはあった。  一度もとちらなかったし、楽隊との息も完璧だった。  舞台裏に戻ると、館主と監督から同時に背を叩かれた。 「志千君、良かったよ! 『七色の声を持つ男』は伊達じゃないね。口をひらくたび、まるっきり別の人物が喋っているようだ。恐れ入ったよ」 「さすがは伊勢佐木の新星。彼がきたからには、鳳館も安泰ですな」  映写技師や、観にきていた俳優たち、撮影所のスタッフにも拍手で迎えられた。  実力を認めさせた。受け入れられたのだ。  初日は無事にやりきった。  あとは、このまま駆け抜けるだけ。  もっと有名になって、唯一無二の活動弁士になってみせる。  ──そしていつかまた、憧れのあの女優に俺の声色をつけたい。  胸に秘めた思いを、再確認した矢先。  がやがやと興奮さめやらぬ空気の中、まるであたりが静まったみたいに、その言葉だけが耳に飛び込んできた。 「いいよなぁ。父親のコネがあって。七色じゃなくて七光(ななひかり)の間違いだろ」  わざと聞こえるように吐き捨てたのは、鳳館所属の弁士だった。  年齢、芸歴、どちらも志千にとっては先輩にあたる。  自分より後輩のよそ者が突然やってきて、持てはやされているのが気に入らないのだ。 「寿(ことぶき)(はち)先生には到底かなわねえよな。親の威光があるからって、館長もあんな若手に媚びてよぉ。情けねえったら」  普段は負けん気が強く、相手が年長者だとしても刃向(はむ)かっていく志千だが、今ばかりは聞こえていないふりをして顔をそむけた。  七色ではなく、七光の男。  いったい何度いわれてきただろうか。  成功すれば「七光だから」、失敗すれば「七光のくせに」と陰でささやかれる。  志千にどこまでついてまわる言葉だ。  父である寿八は、活動写真が日本で広まった当初から第一線で活躍しつづける弁士だった。『変幻自在の八色の声』と呼ばれている大御所だ。  この鳳館も父の伝手がなければ、このような好待遇で呼ばれていなかったかもしれない。  正直、妬まれるのもしかたがない。生まれ持った運に恵まれているのだ。  志千も反対の立場であれば、悪態のひとつくらいは吐いていただろう。  活動の世界にいるかぎり、父の影響力を受け続けてしまう。  帝都での志千の知名度はまだ低いが、伊勢佐木では街を歩いているだけで一回りも年上の先輩文士に頭を下げられていたのだ。たまったものではない。  志千自身は、決してトントン拍子にここまでやってこられたわけではないと思っている。  子役からはいって十年以上、むしろ遅咲きといってもいい。  父はとても厳しい人だった。息子だろうと、本番で台詞をとちれば容赦なく台本で頭を叩かれ、完璧にできるようになるまで弁士台にあがらせてもらえなかった。  大人になった今なら理解できる。周囲に引き立てられるのがわかっていたから、あえて厳しくしていたのだ。  ──なにも知らないくせに、勝手なこといいやがって。  そう言い返すことができれば気は楽になる。  だが、いまだ父の足元にも及ばないと自分でわかっているからこそ、否定する資格はないと感じるのである。  さきほどの上映でもやってみせたように、志千はいつも父の弁を彷彿(ほうふつ)とさせる古いスタイルを取って観客を喜ばせている。  客にも館主にもそれを求められるからだと言い訳しても、親の威を借る行為に違いはなく、七光といわれて否定はできない。  偉大な親の後追いをやめられず、立場が恵まれているわりに成りあがれもせず、もがいてばかりいる。  ようやく芽がではじめたところで、志千は地元をでた。  別の場所で中途半端な自分を変えたかったからだ。  目標は父と違う『自分の声』を確立すること。七光ではない、自分自身の名で客を呼ぶことだ。  そのはずなのに、初日から父親と自分を重ねる観客に媚びている。 「いやぁ、志千君は御父上ゆずりの声質でよく似ているから、うちの客も大喜びでね……」  館主たちはまだそんな会話を続けている。 「あー、すみません、ちょっと火照(ほて)ったから風に当たってきます」  近くの者にそう伝え、志千は裏口から鳳館をでた。  凌雲閣が一望できる池の淵を歩き、みるともなしに空や雲を眺める。  ──このままじゃだめだ。親父の猿真似を聴かせるために浅草にきたわけじゃねえんだぞ。  タイを緩めると首筋に汗が滲んでいた。  ハンケチをだした拍子に、蝶子がくれた菊の花が池に落ちた。その一瞬、芳香が鼻先にあがってきた。  水面に浮かんだ花は、噴水の流れに押されて静かに運ばれていった。

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