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六 月下の妖女

「また、いつもと同じように頼むね。あれが受けているんだから」 「はは……。へーい」  満足げな館主に肩を叩かれ、志千(しち)は曖昧に笑い返した。  要するに、今までどおり父を意識して弁じろということだ。  もとはといえば、自分が父の真似で客の受けを狙ったせいなのだが、自業自得とはいえ情けなさが募る。  午後の出番を終えて帰宅すると、居間には百夜(ももや)がいた。撮影が終わるまではまともな時間帯で生活しているらしい。  蝶子は台所にいるようで流しの水音が聴こえていた。  ふたりきりでいるのは、正直気まずい。  昨晩の悲痛な声を思いだし、なんだか悪いような気になる。  だが、あのくらいの仕返しはかまやしないだろうと居直って知らないふりをとおした。  青年は相変わらずひっきりなしに煙草を吸っていたが、いつもと違って志千を意識しているような、様子を窺っている気配がした。  空気に耐えかね、夕食の時間まで自室に引っ込もうか迷っていた矢先、 「おい、弁士」  百夜から声をかけてきた。  めずらしい、というより初めてだ。 「今日の『新説・金色夜叉(こんじきやしゃ)』だが」 「え、おまえ観にきたのか?」 「観たかったわけじゃない。しかたがなく」 「なんだそりゃ」  話を振ってきたくせに、開口一番に喧嘩を売ってくる。 「まず、貴様の口上は硬すぎる。その軟派な声と合っていない。もっと軽妙に喋れ。それになんだ、あの年寄くさい前説明は」 「あん? なんでおまえにそんなこと……」  一瞬また怒りに囚われそうになったが、思いとどまった。  すべて図星なのを自覚したからだ。 「……おまえさ、もしかしてうちの親のこと知らないのか?」 「親? よくわからないが、なんの関係があるんだ? 今は貴様の話をしている」  言い方は偉そうで腹が立つが、百夜はいっさい志千と父を比べてはいない。  父にあやかった猿真似をしているだけで持ちあげられる批評よりも、ずっと公平だった。  父の話芸は全盛期の明治に流行したもので、古くからついている常連客からの需要もあって、新しい時代のスタイルには変えていない。  それを悪いと思ったことはなかった。新しいものが必ずしも優れているわけではないからだ。  新旧関係なく、寿(ことぶき)(はち)の芸として確立されているから客が離れないのである。  声質は似ていても若いぶん重厚さが足りない、もっと自分自身の芸を追求するべきだと、以前から一部の熱心な客にはいわれていた。  ──親父の説明を聞いたことがなけりゃ、そりゃあ古臭いだけだと思うよな。  寿八の知名度を前提としたやり方は、知らなければ当然の指摘なのである。 「わりぃ」  (えり)を掴もうとして伸ばしていた手を戻す。 「まったく、(ぼん)育ちのくせに野蛮な奴だな」 「坊って……。やっぱり知ってるのか、うちの家のこと」 「だから、知らないし興味もない。貴様の持ち物や所作、振る舞いを見れば、どう育ったかくらい想像がつくだろう」  と、無頓着に卓上へと置いた金製の懐中時計を指さした。  現代の花形職業である活動弁士の稼ぎは、大御所であれば総理大臣の俸給を超えるともいわれている。  人気商売のため浮き沈みや競争は激しいが、両親ともに横浜の大きな商家の出であり、そもそも実家が太い。  少なくとも志千は、物心ついてから生活に困った経験はなかった。  折りに触れて母が見立ててくれる上質な衣装、父からも革靴や時計などの高級品をよく譲り受ける。  生家には女中がいて、身の回りの世話をしてくれていた。  だが、由緒正しい名家や華族様でもあるまいし、自分の家が特別恵まれていると思ったことはない。  売春宿とあばら家が並ぶ十二階下の環境と比べれば裕福といえるのかもしれないが、その程度である。 「何事にも無関心な野郎だと思ってたら、さっきの批判といい、意外と鋭いっつーか、よく見てんな……」 「ああ、もうひとつ文句があった。貴様、女役と比べて、男役の演技力が低くないか」 「追加の傷を与えてくんじゃねえよ! つうか興味ないなら文句もでねえはずだろ。ほんとは活動好きなんじゃねえの!?」 「ちがう。うるさい。近くで喚くな」  男ふたりでがやがやしていたところに、 「あらま。御前(おまえ)さんたち、案外仲良くやってるじゃないかい」  蝶子がひょっこりと顔をだした。 「いや喧嘩してんだけど!?」 「こんな活動馬鹿のボンボンと仲良くしてたまるか。無駄に声もでかい」 「無駄じゃね~し! 声量は俺の命なんだよ!」  どちらも即座に否定したが、家主はにこにこしていった。 「喧嘩できるのはいいことだよ。昨日までは挨拶もしなかったじゃないか」 「しなかったのはももちゃんだけな?」  百夜がふんとそっぽを向く。  それでも、これまでとは雰囲気が変わっていた。  少し会話を交わしただけだが、たしかに距離は縮まった気がする。  憎たらしい奴でも同業仲間ができるのは悪くない。  今日みたいに互いの芸について語れるし、自称活動嫌いの男がどんな作品に出演しているのかも興味がある。  せっかくなのでもう少し歩み寄ってみるかと、他愛のない雑談を振った。  ただ、それだけのつもりだった。 「そういや、おまえ出身は? まさか生まれた頃から十二階下にいたってわけじゃねえだろ? しばらく下宿を借りるくらいなら安くていいけどよ、人がまともに暮らせる場所じゃねえもんな」 「……は?」  今度は志千のほうが、相手の逆鱗に触れてしまったようだ。 「あーあ。ほんとお坊ちゃん育ちだね、しちちゃんは」  売春宿の女たちが、安全な地区から通いで身を売りにきているとでも思ってるんじゃないだろうね、と蝶子にまでため息をつかれる。  夕飯を食べ終わって部屋に戻るまで、百夜は二度と口をきいてくれなかった。  ***  そして、その日の晩。  今度は志千が化かされる番となった。  残暑がぶり返して寝苦しい夜だった。昼夜通しの出演で疲れているはずなのに、高揚が収まらずに眠れない。  寝汗もひどく、熱に浮かされているみたいだ。  何度も目覚めて、まどろみとのあいだを行き来した。  夜半はとうにまわっていた。布団にはいってどのくらい過ぎたのかもわからない時刻。  音もなく、襖が引かれた。  夢か、現か? その判別すらつかない。  しばらく何の気配もしなかったが、突然下腹のあたりに、人の体温と重みがのってきた。  窓から差しこむ月明かりを背に、ぼうっと浮かぶ白い影。 「だれだ……。女……?」  髪が長く、着物の前をはだけた女が志千の上にのっている。  髪も肌も光に透けて、とてもこの世のものだとは信じられない姿だ。  妖女。  月下の妖女が、目の前にいる──  女は、喋りはしなかったが、口の形だけでなにかを囁いたように見えた。 『まあ、いけませんわ。お(めし)が濡れてしまいますから、すっかりお脱ぎになって。ほら、御覧(ごらん)くださいまし。わたくしだって、()のように着物を脱いでおりますのよ……』  志千自身が声色をあてた『月下の妖女』の台詞が、はっきりと聴こえた気がした。  (なま)めかしい唇がたしかにそう動いたのだ。  白い指先が志千の胸元を這い、浴衣と肌の隙間に滑りはいってきた。  自分の汗が指でなぞられるのを感じているあいだに、いつのまにか上半身はさらけだされている。もう片方の手でつつっと腰の骨を撫でられた。  唇の端をかすかにあげて微笑んだ花のかんばせは、間違いなく二代目残菊そのひとであった。  銀幕の中にしかいないはずの残菊が、手を伸ばせば触れられるほど近くにいる──  腰の下が熱い。どくどくと脈打って、(たかぶ)りを強要されているような激しい感覚だった。  思わず身をよじると、直接触れてもいないのに精は放たれ、寝巻をじわりと濡らした。  そのまま、意識は遠のいていった。

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