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七 二代目残菊

「残菊、残菊!!」  翌朝、志千(しち)は目を覚ますなり慌てて飛び起き、階段を駆けおりた。  実際に疲れで発熱していたようだが、うなされて見た夢だとは到底思えなかった。  女の躰の重みも、細い指のやわらかな感触も、生々しく感覚に残っている。  窓の外は爽やかな午前の日が降りそそいでいた。  井戸で洗濯をする女たちの会話や、鶏の鳴き声が一緒くたになって響いている。  いつもの日常だ。  甘い夢を一夜で掻き消されてしまったかのようだった。  さらに、(ふんどし)と浴衣が半乾き状態で湿っているのに気がついた。 「うそだろ。まさかこの歳にもなって、夢で……? 俺、残菊のことはそういう目で見れねえはずなのに……」  志千にとっては天女か女神のような存在で、心の中でさえ汚すなど許されない。  そう思っていた分、余計に自己嫌悪で落ち込んでしまった。 「どうしたんだい。昨日といい、今日といい、御前(おまえ)さんたちは次から次へと」  ひらひらした寝巻を着た蝶子が瞼をこすって自室からでてきた。  さりげなく濡れた部分を隠し、平然とした態度を取る。 「一緒にするんじゃねえ。あいつのあれは……寝ぼけてたんだろ」  咄嗟(とっさ)にいい加減な返答をしたが、では、今朝の自分はいったいなんだ。  それをいうなら、自分こそ朦朧(もうろう)として幻想を見たのではないのか。  だんだん現実に引き戻されてきた。  残菊がこんなところにいるわけがない。まして着物をはだけて志千の上に乗ってくるはずがないのである。  恥ずかしくなるくらい、欲望で溢れた都合のいい夢だ。 「馬鹿な子たちだねえ。そろって残菊、残菊って。罪な女だよ」  水を換えるために食器棚の花瓶を下ろしながら、初代残菊の写真に話しかけている。  我に返って、志千は耳まで赤くなりそうな気分だった。 「だから、俺のファム・ファタルは二代目だっての……」  まぎらわすための写真立てを手にとり、ぼんやりと眺める。  完璧に計算された表情は、やはり女優。  初代だろうと二代目だろうと、遠い世界にいる人物なのである。  しかしこのとき、写真を間近で見て、ふと違和感をおぼえた。  初代残菊が消えて十年が経つ。年齢は非公開だったが、デビュー時の年齢からざっと数えると、表舞台に姿を見せなくなったのはおそらく二十代前半。  人気女優が突然いなくなって大騒ぎになり、当時はあらゆる新聞や雑誌に近影が掲載されていた。  だが、この写真に写っている残菊は、失踪時よりもっと歳を重ねている気がする。  単に光加減や写りの問題かもしれない。考えすぎだろうと思いながらも、なんとなしに写真立てを裏返した。 『大正六年 千代見 三十一才』  思わず周囲を確認する。蝶子はしゃがみこんで生け花を選別しており、志千のほうを見ていなかった。  写真をそっと元の位置に返す。  何事もなかったかのように食卓に戻り、眠気覚ましにと蝶子が用意してくれていた珈琲茶碗に口をつけた。  ──たった三年前?  三年前であれば、初代残菊が消えたあと、二代目もまだ現れていない空白の期間。  別人の写真なのだろうかと、まず疑いが頭をかすめる。  考えられるのは瓜二つの二代目だが、彼女の年頃はまだせいぜい十九か二十だ。三年前なら少女の面影が残っているはず。  初代も人形のように変わらぬ美しさを長年保っていたとはいえ、年の差がひらきすぎている。  二代目はあくまでも現役時代の初代にそっくりなだけである。  演劇雑誌かなにかで読んだ覚えがあるが、初代の本名は『花村(はなむら)千代見(ちよみ)』というらしい。やはり本人と考えるのが妥当だろう。  よくよく考えてみれば、初代残菊は表舞台から消えただけだ。  文士と心中しただの、病でこの世の去っただのは根拠のない噂話に過ぎない。女優を引退し、現在は穏やかに暮らしている可能性だって十分にある。 「詮索は野暮、か」  舞台を下りたなら、もう女優ではないのだ。  どうしてこんな写真が牡丹荘にあるのか疑問は残る。だが、記者ではあるまいし、野次馬根性で探る気にはなれない。  少女と幼子が写っているもう一枚にもなにか書いてあるのかもしれないが、手に取るのはやめておいた。  ***  移籍してきて初めての休日。  浅草寺の仲見世でもぶらつこうかと考えていると、蝶子がいった。 「今日さ、向島の撮影所にこいって。ももちゃんからの伝言」 「あぁ? なんで俺があいつの……」  一応反抗してみたものの、命じられるのが(しゃく)なだけで、正直にいえば奴が撮影している姿を見てみたかった。  ヒロインと恋に落ちる美青年の役でもやれば相当絵になりそうだ。  しかも、向島の撮影所といえば、二代目残菊が所属している松柏(しょうはく)キネマの所有物だった。 「え、あいつ、松柏の役者なのか?」 「そうだよ」  帝都でもそこそこ名の知れた映画会社である。  俳優たちも人気者揃いで、専属となるだけでも高い競争率をくぐり抜けているはず。  百夜(ももや)はまともに顔をだしてさえいれば、非常に華のある美形だ。  驚いたのはむしろ、なぜ無名なのかという一点である。 「もしかして、すっげえ大根役者なんじゃ」 「さあー? 自分の目で確かめてみたらどうだい」  運がよければ、残菊に会える可能性もある。 「まあ、どうしてもってんなら、べつに行ってやってもいいけどよ」  淡い期待と、残菊と交流があるかもしれない百夜への嫉妬が入り混じる。  複雑な感情を胸に、志千は蝶子とともに撮影所へと向かった。  向島まで(くるま)で十五分ほど。  蝶子は人力車に乗るのが初めてらしく、志千の膝の上で年相応にはしゃいでいた。 「速いねえ! 向島くらいなら普段は歩いていくし、滅多に浅草をでないから新鮮だよ」 「立派に下宿屋やってるもんな。でも、小学校には通わなくていいのか? 義務教育なんだから、子どもなら誰でも行っていいんだぜ」 「んー、そうだねえ……。あっ、あいすくりん屋!」 「はいはい、献上させていただきますよ。家主さまにはいつも大変お世話になってるんでね」  じつはずっと気になっていた学校の話は、歯切れ悪く終わった。  松柏キネマ向島撮影所に到着し、アーチ型の仰々しい看板に迎えられる。  正門には警備がいたが、蝶子がいるだけで通してもらえた。スタッフとも顔見知りのようで、誰かと顔を合わせるたびに可愛がられていた。  門をくぐると広い敷地があり、豪華な硝子(がらす)張りの撮影スタジオや、美術部、衣装部などのはいった西洋風の建物が建っている。  本日の撮影は室内でおこなわれていた。  スタジオでは技師がカメラの取っ手をまわす音、監督の掛け声が響いていた。  エキストラを合わせれば十数人で総出の仕事だ。心地のよい緊張感が走っている。  いつもは完成された作品だけを観て、説明をつける側でしかない。  こうして現場を見るのは楽しくもあった。  邪魔にならないように離れたところから見学しようと、セットをのぞいた志千は目を見張った。 「蝶子さん……」 「ん?」 「残菊が、二代目残菊がいる……!!」 「そうだねえ。主役だからねえ」  まさか、ほんとうに会えるとは。  距離こそ遠いが、これまでに出会った誰より神々しい。まるで天女みたいだ。 「う、うわぁ……。遠目でもすっげえ綺麗……!」 「しちちゃん、よだれでてる。追いだされるよ」  撮影しているのは作品はオスカー・ワイルドの戯曲『ウィンダミーヤ夫人の扇』を、日本の現代劇に脚色したものだった。  若く可憐なウィンダミーヤ夫人は、夫の浮気を人伝に聞いてショックを受けるが、じつは夫が会っていた相手は夫人の生き別れの母親であり、勘違いして別の男と駆け落ちしてしまう。  娘が何事もなく夫のもとに帰れるよう、母親は憎まれ役を引き受けて立ち回る……という喜劇である。  上流階級の洗練された会話劇が中心で、弁士の力量を存分に発揮できる脚本だ。  撮影風景を眺めているだけで志千の腕は鳴った。  可愛らしいウィンダミーヤ夫人と、敵役として登場するが、次々と周囲を魅了していく母親のアーリン夫人。  コミカルに、テンポよく……と、頭の中では、どんな説明をしようかと自然に言葉が浮かんでくる。 「残菊、きっと声も綺麗なんだろうなぁ。聴いてみてえなぁ。近くにいっても大丈夫かな?」 「この場面が終わったらいいんじゃないかい」  監督がカメラを止めたタイミングで、志千たちはスタジオの奥にはいっていた。  二代目残菊が、すぐそこにいる。  丸髷(まるまげ)に草色の留袖(とめそで)を身につけ、若奥様然とした姿がとても似合っていた。  実物はスクリーンで見るよりもずっと美しい。  頬には長い睫毛の影が落ち、肌は真珠の如く光り輝くようで、そして──想像していたより、でかかった。  さきほどはセットに隠れて見えなかったが、夫役の俳優のほうが夫人より少し背丈が低いため、カメラには映らない位置にわざわざ踏み台を置いている。  アップを多用したり、角度を斜め前から撮ったりすることによって、肩幅などの躰つきが華奢に映るよう調整しているようだ。  俳優が小柄なわけではない。どう見ても、残菊がでかい。 「蝶子さん、残菊は思っていたより……大柄だな」 「そうだね。しちちゃんほどじゃないけど、ここ一、二年くらいで結構伸びたね。最後の成長期かねえ。男の子って急に大きくなるんだから。でも、好き嫌いばっかりでろくに食べないから細身なんだよ。まったくもう、しようのない子だね」  いったい誰の話だそれは、と思う間もなく。  こちらに気づいた残菊が近寄ってきて、口をひらいた。 「きたか、弁士」 「その声……!!」  見た目の印象よりも低めの声には、聞き覚えがある。  そういえばと脇役やエキストラが控えているあたりを見渡してみるが、かの青年はどこにもいない。  つまり、目の前にいる憧れの女優こそが── 「まさか、お隣のももちゃん……!?」 「ああ」  ずいぶん雰囲気は違っているが、よくよく見れば端正な顔立ちはそのままだ。  特徴的なつり目は化粧で目尻を下げており、それだけでもかなり初代残菊とそっくりになっている。  初代はいかにも儚げで、二代目のほうに凛とした雰囲気があるのは、元の目の形が少し違うからなのだろう。 「ももちゃん、おまえ、そうか……。じつは女だったのか」 「ちがう。馬鹿か。そうじゃなくて、二代目残菊が男なんだ」 「ええと、つまり初代残菊の、娘……?」 「息子だ。いい加減、現実をみろ」  百夜が乱暴に着物をはだけると、平らな胸がさらけだされた。  志千はしばらくのあいだ、うつむいて指先で眉間を押さえていた。  ようやく事実を受け入れたところで、ガバッと顔をあげて叫んだ。 「女形(おやま)じゃないっていってたじゃねえか!!」 「おれは女形のつもりはない。残菊は『女優』でなくてはならないんだ」 「いやいや……。結局男なんだから一緒だろうよ」 「ぜんぜんちがうが?」  無用の議論をしている後ろで、蝶子が腹を抱えて笑っていた。 「ひとつ屋根の下に住んでるのに、気づかないもんだね。しちちゃん、御前さん、未来永劫なんとかっていってなかったっけ。どうするのさ?」 「どうって……」  未来永劫に二代目残菊一筋だと、たしかにそういった。  正体を知って自分がどう思ったのか。  自問自答してみたが、結論はすぐにでた。 「いや、べつにその気持ちは変わらねえけど? 映画はスクリーンに映っているものがすべてだしな。カメラの外でこいつが女だろうと、男だろうと関係ない。女優としての二代目残菊は変わらず好きだ」 「おお……ファンの鑑だねえ……」  少女は頬を紅潮させて、ふたりを交互に見あげた。 「よくわからないが、ちょっと気持ち悪いな」 「なんでだよ」  対して百夜は、相変わらずの不愛想だった。

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