9 / 41

八 失墜

 撮影が終わり、志千(しち)たちは三人で連れ立って浅草へ帰ることになった。  百夜(ももや)は男物に着替えていたが、目立つ髪色や顔を隠すためか、黒い袖頭巾(そでずきん)を被っている。 「どういう風の吹き回しで、俺を撮影に呼んだんだ?」 「素性を明かす理由があったからだ。実際に見せたほうが早い」  たしかに美青年には違いないが、志千が憧れてやまない女優の正体が、まさかこの無愛想な隣人だったとは──  自分の目で確かめなければ、とても信じられなかったと思う。  おちょくられているのではないかといまだ疑っているくらいだ。 「あ!! じゃあ、昨日の夜、俺の部屋に現れた二代目はおまえってことか!? なんのために!?」 「ただのお返しだ。おとついの晩、残菊……母の声色を使ったのは貴様だろう? 自在に変わるあの声を聴いて確信した」 「だから活動嫌いのくせに、わざわざ俺の説明を観にきたのか」 「あと、貴様が舐めた口をきいた分の怒りもある」 「俺、なんかいったか……?」  まずい発言をしただろうかと、思い返してみるが心当たりはない。 「おれはこの私娼窟(ししょうくつ)で生まれ育った。父親の顔も知らなければ、学校にも通っていない。貴様のような育ちの人間には想像できないだろう」 「あ……」  人間がまともに暮らせないこんな場所で生まれたわけじゃないだろうと、そういった気がする。  故意に蔑む意図があったわけではなかった。百夜のいうとおり、想像力が及ばなかったのだ。  それでも無意識の侮辱に違いない。  路傍で野花を見つけて座り込んでいる蝶子を横目に、百夜は続けた。 「蝶子も十二階下で捨てられていた子なんだ。売春宿で育ち、うちには幼い女中としてやってきた。親の顔を知らず、戸籍があるのかさえ不明だ。貴様の常識を外から持ちこんで、惨めにさせるようなことはいうな」  百夜は自分だけのことであれば怒らなかったのかもしれない。  学校に行かなくていいのかと尋ねたときの、蝶子の困った顔が浮かんだ。 「……悪かったな。軽はずみな発言をして」 「ひがんでいるわけじゃないから誤解はするなよ。本来は貴様が気に留める必要もない。住む世界が違うだけの話だ」 「いいや、俺が世間知らずだったよ。じゃあ、初代残菊は……」  この私娼窟で生まれ、父親は不明。  と、いうことは── 「公には元吉原の芸者見習いということになっていたが、ほんとうは浅草の銘酒屋(めいしや)で身を売る下層の売春婦だった。当時所属していた劇団の座長に引き立てられ、一躍スタアになったがな」  牡丹荘に帰ってきて、蝶子は摘んだ花を飾るために台所にはいっていった。  志千は促されるまま、百夜の部屋にむかった。  先日は酔っていたが、室内は記憶に残っているそのままだ。  引き伸ばした初代残菊の看板がいくつも飾られ、大量の菊の花が生けられている。 「母の過去を蔑んだりはしていない。他に生きていく方法がなかったのだから。だが、本人はそう考えていなかったようだ」  百夜は話を続けながら例の安楽椅子に座り、脚を組んだ。  志千も向かい合わせで床に腰をおろす。 「生い立ちをけっして世間に知られないよう細心の注意を払い、狂気じみた執念で女優の肩書きにしがみついていた。ゆえに気性は激しく、高慢で、色でもなんでも使って大女優と呼ばれる地位までのぼりつめた。巷で思われていたような、か弱いヒロインとは正反対だ」  そう話しながら、額縁の角を指でなぞっている。  百夜の話とまったく印象の一致しない天女の微笑みは、いっせいに志千を見つめていた。 「母は──残菊は、骨の髄まで女優だった。そうあり続けようとしていただけだったんだ」 「聞いていいのかわからねえが……。なぜ、いなくなったんだ?」 「おれにもわからない。生きているのか、死んでいるのかさえも」  表向きには、初代残菊が失踪したのは十年前だ。  引退後は牡丹荘で、息子の百夜とこの家で暮らしていたのだという。  しかし、三年前──あの写真を撮った直後だった。  跡形もなく、残菊は消えた。  百夜を置いて。 「正直なところ、母はもう死んだのだと思っていた。いなくなる前に前触れのような言動があったからな。だが、あとになって不審な出来事が起こった」  そこまで話してから、百夜は意を決したように顔を近づけてきた。  衿ぐりを掴まれ、髪の毛で隠れていた隙間から意志のこもった瞳がのぞく。 「弁士、貴様に頼みがある」  上から見おろす扇情的な視線は、間違いなく志千を夢中にさせた『月下の妖女』のものだった。 「おれに、残菊の声をくれ」  *** 「声を……? どういう意味だ?」 「母を捜したいんだ。ほんとうは、もっと早くそうすべきだった」  息子でさえ死んでいると思っていた、大女優の不審な失踪。  百夜は事の起こりを語った。 「いなくなる前日に、死を(ほの)めかすような言葉を漏らしていた。舞台から下りて七年、自分がもう二度と女優に戻れないことを悟ったのかもしれない」 「それほどの想いがあったのに、そもそも十年前はどうして辞めることになったんだ?」 「本人が望んだわけじゃない。余儀なくされたというのが正しい。よりにもよって最高潮だった時期に、酒に溺れた」  残菊が舞台に立った最後の演目は、オスカー・ワイルドの『サロメ』だった。  上演中に震えが止まらなくなり、預言者ヨカナーンの首を床に落としたその日、当時の座長は残菊を一座から追放した──と、百夜はいった。  残菊が演じたサロメは、有名な写真が残っている。エキゾチックな衣装を着た美しい姿だった。  それなのに、まさかそんな事情があったとはとても信じられなかった。  輝かしい活躍と栄光を手にしていた大女優が、なぜそんな事態になったのか。  志千の驚きを汲み取って、百夜はいった。 「芝居の世界ではよくある話だろう? 放蕩や色恋沙汰が原因で身を持ち崩した者はいくらでもいる。要は自業自得だからしかたない、おれもずっとそう思っていた。もとより心が強いひとではなかったからな」 「一発で永久追放ってのは厳しいな。こういっちゃなんだが、酒精中毒(アル中)みたいな役者なんてごろごろいるだろ」 「清廉な雰囲気で売りだしていたし、残菊がいたのは当時帝都でも一、二を争っていた大手の劇団だ。復帰が許されることはなかった」  帝都一といってもいい人気絶頂の看板女優を、たった一度の失敗で切るとは思いきったものだ。それほど酷い状態だったのか。  立つ舞台を失った残菊がその後どうなったか、志千にも想像できた。 「それからは、毎晩のように葡萄酒を呑み、煙草が増えていったのを覚えている。七年の時をかけて少しずつ女優残菊は崩壊していき、最後はろくに会話も成り立たなかった。そして、ついに失踪した」 「警察には?」 「この土地で女が行方不明になるのはめずらしくない。行ったところで相手にもされなかっただろう。そもそも、おれは捜そうとしなかった。母が自らの意志でいなくなったのならしかたないと思ったんだ。薄情な息子だな」  そう自嘲的に笑ったが、薄情だなど簡単にはいえない事情が隠れている気がした。  昨晩聴いた、残菊を呼ぶ百夜の悲痛な声がまだ耳に残っていたからだ。 「──で? 話はそこで終わらなかったんだよな?」 「そうだ」

ともだちにシェアしよう!