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十二 邂逅(前編)

 時間制の貸し小屋でもないかと、志千(しち)たちは食後の散歩も兼ねて六区にやってきた。  すでに日も暮れたというのに、興行街は店先に連なった提灯や電飾で、まだ昼間のような明るさだ。  劇場を出入りする観客で溢れ、屋台や大衆食堂も賑わっている。  はぐれないように蝶子と手を繋ぐ。少女は「えへへー」と笑って嬉しそうにしていた。  しかし、後ろをついてきている百夜(ももや)の様子がどうもおかしい。  日差しもないのに帽子を目深に被り、ひたすら志千の背に隠れて一言も喋ろうとしない。 「もしかして、人混みが苦手か?」 「……落ち着かないだけだ」  目的が自分の頼み事だから仕方なくついてきたが、本当ならば絶対に来たくなかったという顔をしていた。  六区は庭だと豪語している蝶子と同じように、百夜だって浅草で生まれ育っているはずだ。それなのに、こちらはなぜか借りてきた猫状態である。  二代目残菊の正体を伏せるため、目立たないように過ごしているのは知っている。  百夜自身の存在を消しているようで、志千は釈然としない気持ちを抱きつつも、本人なりのプロ意識なのだろうと捉えていた。  だが、背後で不安そうにしている姿は普段の印象と打って変わり、ただの幼い少年のようだ。 「怖いなら、ももちゃんも手ぇ繋ぐ?」 「馬鹿か。誰が怖いといった。黙って探せ」  と、体を強張(こわば)らせながらも噛みついてくる。  徐々にわかってきたのだが、百夜が攻撃的なのは、他人に対して極端に警戒心が強いのだ。  気位が高く、高慢で、人嫌いなだけの青年だと思っていた。  今では、本人にもどうしようもなくて人を遠ざけているのではないかと感じるようになった。  尊大な態度の根底に、脆弱(ぜいじゃく)な『何か』を秘めている。  原因の全貌は、まだ不明だ。 「威嚇する子猫みたいでちょっと可愛く見えてきたな……」 「は? 貴様、喧嘩を売っているのか?」  背に隠れたままで牙を剥かれても、説得力はない。  昨日もこんな状態でわざわざ志千の説明を聴きにきてくれたのかと想像したら、よけいに可愛く思えた。 「じゃ、ももちゃん。ウチと繋ごー」  空いた手を蝶子に差しだされると、若干迷いは感じられたものの拒否はしなかった。  青年ふたりが蝶子を挟み、三人で並んでいる状態である。 「なんだ、この構図は……」  戸惑いつつも、さっきよりは前方を向いて歩いているので少し安心した。 「はは、弟と妹みてえ」 「はぁ? 貴様が兄? 嫌なんだが」 「率直に否定してくんなよ」  頭上で揉めだした青年たちをよそに、蝶子が声をあげた。 「あっ、あそこの支那そば! ウチ食べてみたい!」  少女が指差した先には、行列のできている支那料理屋があった。 「ついさっき夕飯を食っただろう」 「そばは別腹!」  この夏に開店したばかりで、連日満席の人気店なのだと仕事仲間が話しているのを聞いたことがある。 「横浜の南京町から本場の料理人を連れてきたって評判の店だよな。入ってみてもいいが、ハマっ子は支那料理にゃ少しばかりうるさいぜ?」 「蝶子、やめよう。なにやらこいつが面倒くさそうだ。夜はスリが多いから金も持ってきていないしな」 「えー。しちちゃん、その面倒くさい薀蓄(うんちく)を聞いてあげるから食べさせておくれよ」  気遣われているみたいで、かえって胸がえぐられた。  しかも、志千が無防備に財布を持ち歩いていると見抜かれている。 「わかった、わかった。奢ってやるし、黙って食うから」 「やった! んじゃ、今度お礼に無料で繕いものしてあげるね」  いってみたかっただけで、文句をつけるつもりはなかったのだ。  家主との交渉は成立し、行列に混ざった。  支那そばを三人前注文して、丸いテーブルを囲む。  評判どおり味は美味かったのだが、残念なことにあまりいい気分にはならなかった。  隣の卓で、酒を呑んで騒いでいる集団がいたのである。 「同業だな、ありゃ」  嫌でも耳に入ってくる大声で、どこかの劇団員たちだとわかった。  よその監督や脚本、はては客に対してまで愚痴は尽きることなく、馬鹿笑いが店内に響いている。 「鶴月座(かくげつざ)の若い役者衆だね。主演級はいないけれど、何人か顔を見たことがあるよ」 「ああ、どおりで」  こそっと教えてくれた蝶子の言葉に納得する。  鶴月座には大学生や文化人などのエリートが多い。もともと娯楽よりも芸術志向だったが、現在ではとくに西洋劇至上主義の傾向が強まっているらしい。  話の内容は、いかに自分たち以外の演劇が低俗かという主張に始終している。 「ま、若い奴らが名の知れた劇団に入って粋がっちまってるだけだ。食べたらさっさと出ようぜ」  西洋を手本とした本格的な演劇を目指すという志は悪くない。  だが、彼らは周りを見下し、優越感を得るための道具としか思っていないようだ。  関わっても得はなさそうだと無視していたのだが、聞き捨てならない会話がはじまった。 「近ごろ活動屋どもが調子に乗っているのも、捨て置けねェよな」 「そうだ、そうだ」  悪態の矛先が活動写真に向いたのである。 「日本の活動なんてよ、活弁士の紙芝居じゃねェか。くだらない脚本、低水準の演技、歌舞伎の影響を引きずって旧態依然(きゅうたいいぜん)とした女(おやま)とチャンバラ……」 「要は説明してやらなきゃならん観客の教養が足りないんだよ。大衆に媚びた儲け主義者どもが。芸術をなんだと思っているんだ」  腹は立つが、相手にしても仕方がない。  そう割り切ってやり過ごそうとしていると、 「わっ」  彼らがふざけて乱暴に回し飲みしていたビール瓶の底が、蝶子の頬をかすめた。  さすがに我慢ならず、志千は立ちあがった。 「おまえら、酔っ払ってわめいてんじゃねえよ。みっともねえ」   人数が多いのもあって気が大きくなっているらしく、一斉にこちらを睨みつけてくる。 「なんだ、お前は。僕らは鶴月座の者だぞ──」  そのうちの一人が、志千に気づいた。 「待て。こいつ、活弁士の寿志千じゃないか?」 「ああ、伊勢佐木の……。七光の声を持つ男、だっけ?」  わざと間違えて、全員でどっと笑う。 「俳優に並ぶハンサムだとか触れ込んでるわりに、実物はたいしたことねェじゃんか。コネがあってよかったな」 「コネっていやぁ、父親の寿(ことぶき)(はち)って元は役者崩れなんだろ」 「ああ。無教養な庶民に流行りそうな活弁を嗅ぎつけて、我先に飛びついたおかげで大御所ぶれているが、所詮は舞台で大成できなかった負け犬よ」 「おやぁ、黙っちまった。さっきまでの威勢はどうしたよ?」  言葉を飲み込んだ志千に対し、奴らは勝機を見いだしたのかますます調子づいた。  父まで愚弄(ぐろう)されて言い返せないのは情けないが、七光と呼ばれるとどうしても萎縮してしまう癖がついていた。  弁士として名乗りをあげたときから、胸に刺さって抜けない棘のように痛んでいる。  (そし)りを受けて、なお立ち尽くす中──  場を一刀両断する低い声が響いた。 「おい、飯が不味くなるから店で騒ぐな、醜男(ぶおとこ)ども」 「なんだと!?」  隣に座っていた百夜である。  普段ちやほやされているであろう彼らは、自分たちがこき下ろされたのだと気づいて、顔を真っ赤に染めた。 「てめえこそ、いったいどんなツラして吠えてやがんだ!」  一人がこちらにやってきて、百夜の帽子を無理やり奪い取る。  あれだけうるさかった鶴月座が、現れたその顔を見て、一瞬でしんと静まり返った。  見た目で百夜に張れる男などそうそういない。  少なくとも、ここには皆無だ。 「……誰だ? 見たことのない奴だが、女形か?」 「……まあ、そんなとこじゃねえか。なぁ、女形ってェのは尻を使って役をもらってんだろ? 十二階下の薄汚い娼婦と変わらねェなぁ」  なおも負け惜しみの罵倒を絞りだす。 「おまえら、もういい加減──」  ふたたび制止に入ろうとしたそのとき、百夜が卓上にあったビール瓶を掴んだ。  注ぎ口側を握り、いちばん近くにいる役者に向けて振りかぶる。 「ちょっ……百夜、よせ!!」  暴力はまずい。そんなもので殴ったら殺しかねない。  だが、間に合わなかった。  硝子(がらす)の割れる音があたりに響く──かと思ったが、ゴツンという鈍い音がしただけだった。  瓶の底で、相手の眉間をどついたらしい。  触れた時点で勢いを止めたようで、幸い流血には至っていなかった。赤く丸い跡がついているが、これならば傷が残るほどではない。  最悪の事態にはならなくてほっとした。  硬直している相手の目元すれすれに、茶に透けた瓶底を突きつけ、 「ほら、下劣な言葉を吐く豚の姿が映っているのが見えるか? 酔って醜態を晒している今の貴様だ。こいつの軟派な(つら)のほうが、まだいくらかましだぞ」  と、志千を親指で差した。  据わった目でそう睨まれて、鶴月座の集団は完全に沈黙した。 「もう行こうぜ」  店員のあきらかに迷惑そうな視線をきっかけに、退散することにした。  百夜も気が済んだのか、逆らうことなくついてきた。

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