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一六 欲
『生ける菊人形』
それが、今回の舞台のために書き下ろされた脚本の題名だった。
第一幕の台本を読み終え、志千 は戸惑っていた。
「この話……いいのか?」
まだ冒頭だったが、世間には公表されていない、初代残菊の私生活を匂わせる内容だったからだ。
女優としてつくられた虚像としてだけではなく、花村 千代見 という女性個人の物語である。
犯人が彼女のことを深く知っている人物なら、大女優復活の信憑性が増す。
接触してくる可能性はあがるかもしれないが、真実を晒すことによって百夜 が傷つきやしないかと心配だった。
「桜蒔 先生らしいな。あの人にまかせよう」
違法芝居の効果を最大限にするには有効だ。
しかし、小山内桜蒔の作品のためには手段を選ばない面が垣間見えた気もする。
三冊を通しで二回ずつ読み、解釈のすり合わせをおこなった。
「あとは演技を合わせながら読むか」
「ああ。おれは表情と口だけだしな。動きの調整を入念にやりたい」
普段のように完成した映像に合わせるのではなく、舞台上で役者の演技と同時進行して声をあてなければならないのだ。
互いの息が揃わなければちぐはぐになってしまう。
「俺もいつもと勝手が違う。ちょっと試してみてもいいか?」
「わかった」
百夜を等身大の人形に見立て、背後で台詞を担当する。
声を発しているのは役者本人であり、志千はあくまでも演出の補助をしているだけの黒衣だと見せかける。
「声と唇の動きがずれたらすぐ客にばれちまう。次の台詞に移るときに知らせる方法を決めないとな」
後ろにいる志千からは、百夜の顔が見えない。
進行の合図が必要だ。
「こうやって、俺が後ろからおまえの両腕を持って支えるだろ。指で叩いて伝えるのはどうだ?」
実演するため、百夜を布団に座らせて背後にまわる。
両方の二の腕あたりをがっちり掴んだところで、ふと我に返る。
──稽古に夢中で忘れてた。こいつ裸だった。
全裸の相手を、動けないよう押さえつけているみたいな恰好になっていた。
「衣装がどの程度の厚さになるかわからないと、なんともいえないな」
百夜は気にしているふうではない。
自分だけ意識しているのを知られたくなかったので、なんとか平静を装った。
「そんときゃ、ぐっと握るとか」
「ああ……。それなら伝わりそうだ……」
「ん、どした? 百夜、おまえ熱くないか?」
腕や背、触れている部分が熱を持っているように感じた。
「べつになんでもない。触るな」
さっきまで自分から膝に頭をのせてきていたのに、今度は「触るな」とは。
なんという勝手なやつ。
猛烈に、からかいたくなってきた。
逃がさないよう後ろから羽交い絞めにして抱きすくめ、片手で顎をつかんで顔を自分のほうへ引き寄せる。
「ほら、頬が赤いじゃん。そんな恰好でいるから、風邪でも引いたんじゃねえの」
「触るなといっているのに、なんでさらにくっつくんだ!?」
「だって、おまえが我儘 だから、なんとなく?」
「その甘ったるい声でしゃべるな。近すぎて耳に息がかかる。ふざけていないで離れろ!」
前にうつ伏せた百夜に、上から覆いかぶさる状態になった。両手首を捕まえ、仰向けにひっくり返す。
力は志千のほうが強い。耳まで赤くして暴れているのを、意地で押さえ込んでいると──
勢いよく、襖がひらかれた。
「やっほーやっほー、なーんか筆がのって、ほかの仕事放りだしたら続きの脚本もさくさく書けてしもうた! やっぱ、わしって天才じゃ……」
唐突に戻ってきた桜蒔と、ばっちり目が合った。
一糸纏 わぬ姿の百夜を無理やり組み敷いていたのだ。しかも布団の上で。
この状況は誤解しか招かない。口から言い訳がこぼれでた。
「違うんだ。流れでこうなった」
「流れでこうなった……?」
間違ってはいないのだが、語弊がある。
「舞台での動作を確認をする流れで、な!?」
「あ~…ようあるやつじゃ。恋人役の稽古をしよったらいい感じの空気になって、そのままくんずほぐれつ、みたいな」
「いい感じの空気になったわけじゃねえよ!」
「痴情 のもつれで作品を台無しにされん限りは、わしはどうでもええがね。さ、お嬢と遊んでこよーっと」
桜蒔もあれだけ百夜に執心だったのだから、もっと文句をいわれるかと思っていた。
だが、意外にもあっさりと去っていった。
***
「……ごめんなさいは?」
「ごめん、悪かった、ほんとに。調子のってすんませんでした」
恨みがましい目で睨まれても、謝るしかない。
志千は部屋から紗 の夏羽織を持ってきて、安楽椅子に座っている百夜の背にかけた。
詫びの献上である。
百夜は煙管 を咥 え、乱れた息を落ち着けている。
上下する露出した肩と、紅潮した頬が艶っぽいなと、そう頭をよぎったあとで、いったいなにを想像しているんだと後悔した。
「……いや、知らねえぞ。この感覚は知らねえ。なんだこれは」
「ひとりでぶつぶついうな」
「へい」
百夜の機嫌が直るまで、おとなしく畳に正座していることにした。
「しかし、桜蒔先生ってふっつーにこの家にはいってくるんだな」
まさか桜蒔を迎えるときも全裸なのではないかと心配になったが、現状自分のほうが前科者なので口にはださなかった。
「名義上、牡丹荘の家主は先生だから」
「へっ、そうだったのか」
「残菊がいなくなったあと、先生が家を買い取ってくれた」
百夜も蝶子もまだ未成年者なのだ。
そこに桜蒔が救いの手を差し伸べたことになる。
「ふーん、意外といい人?」
「この家に住まわせてもらうのと、蝶子の生活費を援助する条件で、おれは女優をやらされている」
「悪いやつじゃん」
そこまでして二代目残菊にしたかったのかと、驚きを通りこして感心してしまった。
「弁士」
「ん、なんだ?」
「……貴様、好いた相手はいるのか。その、故郷 に恋人とか」
意外な質問だった。
この青年が、他人の私的な話に興味を持つとは思わなかったのだ。
「好きな女? 今はいねえなあ」
「過去にはいた?」
「いやぁ、周りにのせられて交際したことはあるけど、俺、よくわかんなかったんだよな。ガキの頃から活動に夢中だったし、他に興味が向かなかった。結局、好きになった相手なんざ今までに一人もいないんじゃねえかな」
「そんなに浮ついた顔をしているのに」
どんな顔だよ、と返したものの。
女遊びをしていそうな容姿だといわれるせいで、志千の知らないところで事実無根の浮名や醜聞が飛び交って苦労もしているのだ。
「まー、見合いの話はそこそこあるし、身を固めればそんな色眼鏡も減るだろ。活動弁士の仕事を理解してくれるなら、誰でもいいよ」
「誰でも?」
「結婚すりゃ、自然と好きになるんじゃねえの? みんなそんなもんだろ?」
百夜は一瞬絶句して、信じられないという口調でいった。
「……貴様、軽薄な見た目どおり、情の薄いやつだな」
「えっ」
まさか、この超絶不愛想な青年にいわれるとは。
自分が薄情だなんて、考えたこともなかった。
だが、思い返してみれば一理あるのかもしれない。
中学の頃、同級生が女学生に恋文を渡すのを手伝ったことがある。友人らと一緒になって騒いでいたが、心にはどこか冷え冷えとした部分があった。
物語の中で男女が命まで懸けている恋愛というものの価値が、志千にはよくわからなかったのだ。
どうしてそれほど賛美されるのか。いまだに理解できてはいない。
しかし、人を好きになれなくても欠陥のつもりはなく、そんなものなのだろうと思い込んでいた。
舞台や映画は誇張表現で、感化された思春期の若者たちが恋をした気になって空騒ぎしているのだろうと。
いずれ誰かの夫、父親になることと同じで、恋愛も義務とか役割に近いような、漠然とした想像しかしていなかった。
伴侶がいれば気持ちはあとからついてくるとか、子どもができれば絆されていくとか、そんな言説を信じ込んでいたのに。
気づいてしまえば、もしや自分はおかしいのだろうかと疑問がよぎった。
「って感じで、今までまともな恋愛なんかしてねえんだよ」
「そのわりに、思わせぶりだといわれないか?」
と、顔をしかめて訊いてくる。
「ん~、自覚はねえな……。どうしたんだよ、急にこんな話……」
「べつに。じゃあ、女と寝た経験はないのか?」
「あ、猥談がしたかったんだな? ももちゃんもお年頃だからなー」
「ぜんぜん違う。はなれろ、阿呆が」
からかい半分に膝頭を叩くと、胴体を足蹴にされた。
「なんでめちゃくちゃ冷たくなるんだよ! いや、元からこんなもんだったか?」
血気盛りなはずの二十二で、浮ついていると見られがちな活動弁士という職業、しかも女好きのする容姿──
これらのせいで、散々誤解されてきた。
だから、今まで白状したことはなかったのだが。
「ねえよ」
「本気か?」
「見栄にもならねえ嘘をついてもしかたないだろ。先輩に遊郭へ連れていかれたこともあるが、どうしてもその気になれなかった。俺は、恋も、欲もわかんねえのよ。仕事では男女の機微がどうのと情感たっぷりに語っているくせに、笑えるだろ?」
しいて挙げれば、恋心にもっとも近い感情を抱いていたのは二代目残菊に対してだけだが、本人を目の前にして口にはできなかった。
「笑いはしない」
志千の胸に置いていた白い足先をようやく引っ込め、
「……今後めぐり合う可能性もあるし、貴様のいったとおり、身を固めれば案外いい夫になるかもしれないしな」
百夜はどことなく寂しそうにいった。
夜も更けてきたので稽古を終え、自室に戻るとなぜか桜蒔がいた。
酒と煙草を持ち込んで、一人で寛 いでいる。
「わ、びっくりした。家主だからって勝手に入るなよ」
「とくに隠すもんないじゃろ。艶本も見当たらんし、つまらんのー」
「漁るなって」
もう寝るからと追いだそうとしたが、立ち上がるなり胸ぐらを掴まれた。
身長差があるため志千のほうが見下ろす形になっているが、この胡散臭い劇作家には妙な威圧感がある。
まるで蛇に睨まれたように動けなかった。
桜蒔は上目遣いに志千を見据え、笑いながらいった。
「ひっどい男じゃのう。その気にさせといて突き放すんか」
「はぁ? つーか盗み聞きすんな」
「おどれの声がでかいんじゃ」
一言いうときたくて待っとった、と桜蒔は前置きしていった。
「あれはわしが大事に、だーいじに育てた『残菊』じゃ。おどれみたいな半端な男にはやらんぞ」
物のような呼び方をされて苛立ち、掴まれていた手を払う。
「やるもやらないもねえだろ、嫁入りでもあるまいし。あいつは男なんだから」
「女じゃったら、責任の取りようがあるだけまだええわ」
桜蒔はさもおかしそうに笑い声をあげ、
「恋も欲もわからんって? よくいうわ。あんなにもの欲しそうな目つきで、もものこと見とるくせにのう」
志千の耳元で囁いて、部屋をでていった。
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