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十七 名前(後編)

 蝶子は残菊の写真を棚に戻し、話を続けた。 「売春宿の姐さん方はみんな優しかったけど、そのままだとウチも娼婦になるしか道はなくて」 「ああ……」 「なぜか残菊が女中としてこの家で引き取ってくれたんだ。他にもなにかできないかと思って、下宿をやることになったんだよ。でも、化物屋敷なんて呼ばれてるせいでなかなか見つからなくってね。ウチは昔から興行街に出入りしていたから、鳳館(おおとりかん)の館長とか、いろんな人が協力してくれたんだ」  そうして志千(しち)のところへ紹介状がまわってきたというわけだ。   「来てくれたのがしちちゃんでよかった。ウチ、ちゃんとやれてる?」 「うん、蝶子さんは立派に下宿屋の主人じゃん。すごいよ」  この幼さで、自分の将来をどうにかしようと決意したのだから頭が下がる。  年齢より大人びているのは、そうならざるを得なかったからだ。 「千代見(ちよみ)ねえさんが失踪して、ももちゃんもある意味では自由になったのかもしれないけど……すぐには外にでられなかった。今でも怖がっているだろ。最初に連れだしてくれたのが王子様だよ。松柏(しょうはく)キネマの仕事を紹介したのもそう」 「裏方のつもりが、女優にされたんだっけか」 「騙くらかされたのは事実かねえ」  本心ではなにを考えているのか、いまいちわからない小山内(おさない)桜蒔(おうじ)の笑い顔が浮かぶ。 「あっちも打算はあったかもしれない。それでも助けてくれた。千代見ねえさんと昔から親しくて、ももちゃんの存在を知っていた数少ない一人だったしね」  桜蒔がいなければ仕事もなく、住む家すら失くして路頭に迷っていたと、蝶子はいった。  ***  二階にあがり、襖を軽くノックする。  反応はなかったが、構わず戸を引いて部屋に入った。  百夜(ももや)は床に座って窓辺にもたれかかっていた。遠い眼差しで、外の景色を眺めている。 「よう、もう機嫌なおった?」 「うるさい。べつに拗ねていない」  いつもの態度でほっとした。志千(しち)も隣に腰をおろし、壁に背をあずける。 「蝶子さんがいろいろと話してくれたよ」  返事はなかった。  その視線の先を追い、同じ塔を眺める。 「こっちからも見えるんだな、浅草十二階」 「ああ。空想の中で、何度のぼったかわからない。この風景がおれの知っている、世界のぜんぶだった」  遠くから見れば壮麗な塔だが、煉瓦(れんが)があちこち剥がれ落ち、修繕だらけでボロボロの張りぼてだ。  だが、日本一高い頂上から眺める帝都はきっと見事だろう。 「外にでてから、のぼってみたか?」 「いいや」 「今度一緒にいこう。俺もまだ観光してねえんだ」 「……いつ?」  と、上目遣いの視線をこちらに向けた。 「藤色の着物ができたらいこうな。俺が自分の腕で勝ち取ったもんなんだぜ?」 「玉突きのプロに転職したらどうだ。あるのか知らないが」 「残念。俺は根っからの活動弁士なんだ。なあ、着てくれるだろ?」 「……ん」  百夜は控えめながら、素直に頷いた。 「初めてだ。自分のための着物」 「じゃあ俺の見立てが、人生初だな」  またしても妙な独占欲だと蝶子にいわれそうだが、やはり特別なのは心をくすぐられる。 「他に行きたいところは?」 「活動写真館。貴様の説明をまた聴きたい」 「なんだよ、なんだよもう……」 「それ、喜んでいるのか?」  口を押さえて大げさに感動している志千の顔を、百夜が怪訝そうに覗きこんでくる。 「貴様の説明は楽しかった。少し窮屈そうにしている気がして、もっとやりたいようにやればいいのにとは感じたが」 「やっぱり好きなんじゃねえか、活動が」  説明を聴きたいといってくれたことも嬉しいが、なにより役者である百夜自身が、活動写真を好きでいてほしかった。 「よくわからないんだ。母が活動嫌いだったからな。当時は目新しくてなかなか受け入れられなかったんだろうし、舞台女優のプライドもあって、いつも悪態をついていたのを覚えている。その言葉を、おれは繰り返していだけだ。自分の意思なのかどうかも判断できなくなっていた」  母親と、この部屋がすべてだったのだ。  写真と菊の花で溢れた部屋を、あらためて見渡す。  まるで遺影と供花(くげ)(ひつぎ)みたいな部屋だ。 「ごめんな」 「なんで謝る?」  百夜は首をかしげた。  よりにもよって、この場所で模倣した残菊の声を響かせたのだ。 「なにも知らなかったからって、ごめん」  頭を撫でようとして、差しだしていた手をとめた。 「あ、触ってもいいか?」 「その許可の取り方は間が悪い」 「おまえが取れっていったからだろ!」  もう遠慮せずわしゃわしゃと髪をかき回すと、鬱陶(うっとう)しそうにしながらも目を細めていた。  ぽつぽつと、今度は百夜の口から残菊のことを聞かせてくれた。 「引退してからの七年間、母はこの部屋で、毎日のように演じていた。自分が記憶しているあらゆる台本を。時が経つにつれてまっすぐ立っていられなくなり、椅子にもたれながら、なお演じつづけた。最後には呂律がまわらず、台詞が発せられなくなった。自分の力で座っていられないほどになって……大女優残菊は、ついに終わりを迎えたんだ」  単調な喋りかたも、表情もいつもと変わらない。  それなのに、まるで泣いているように感じる。  雨粒の流れる窓硝子(まどがらす)を、手の届かない部屋の内側からただ眺めているような、もどかしい気分だった。 「おれも毎日相手をさせられて、いろんな役をやった。演技をしている母も、自分が演じることも嫌いではなかった。物語と現実が混在していたのか、おれは毎日変わる役名で呼ばれていた」  残菊は消える前にこういった、と百夜は続けた。 『お願い。わたしのうつくしさをおぼえていて』 「おれの頬を両手ではさんで、まるで瞳に映った自分を見つめているみたいに真剣な顔で。残菊はどこまでも母ではなく女優だったし、その眼差しの先におれがいることはなかった」  目が合うのにどこも見ていない、残菊の顔。  いなくなっても忘れないように、飾った写真はやがて部屋を埋め尽くした。 「母を恨んじゃいない。ぜんぶを失くして、あの人にはこの部屋という小さな舞台しか残らなかった。だから、唯一の観客だったおれが捜してあげないといけなかったのに。なにもせず見捨ててしまったんだ」 「百夜!」  名を呼び、思わず肩をつかんでいた。 「見捨てたんじゃなくて、どうしていいかわからなかったんだよな」  外を知らない少年は、何の術も持たなかった。  体を引き寄せ、そのまま抱きすくめる。 「でも、もう三年前ほどガキじゃないだろ? どこにでも行けるし、行ってもいいんだよ。それに俺もいるから。おまえだけじゃできないこともできる」  背中をさすると、肩に温かい涙が染みていった。 「名前……」 「ん?」 「ちゃんと名前を呼んでもらえなくなったのが、いちばん悲しかった」 「百夜」  耳元で名をささやく。 「俺のことも、名前で呼んで?」 「……志千」 「必ず見つけだそう。な?」  青年の嗚咽が収まるまで、髪と背を撫でつづけた。

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