22 / 41
十八 恋
生ける菊人形──かつて、そう呼ばれた伝説の大女優がいた。
そして、現在は二代目がその賞賛を引き継いでいる。
「できたよ、お化粧と着付け。どうだい?」
少女はそういって、借り物の化粧箱を閉じた。
準備中で乱雑な舞台の上に、花がひらいた。
打掛 に縫いつけられた菊を纏 い、家から持ってきた安楽椅子に座っている。
鬘 は世間にもっとも知られている初代の宣伝写真と同じ髪型だ。
「ぶ、ぶちかわええ~!! とくに顔周りを桃色の菊にしとるんが、ももの色白が引き立ってええのう!」
脚本を担当した桜蒔 が、百夜 の周囲を過剰にうろうろしながら褒め称えた。
「それはしちちゃんの希望。初代残菊といえば黄色い菊の印象なんだけれど、ももちゃんにはこっちのほうが似合うって」
「な!? 絶対桃色のほうがいいっていったろ!?」
と、得意げにする志千 に、桜蒔が応戦する。
「なんなん、こいつ。ぽっと出のくせに。もものことなら、わしのほうが詳しいんじゃけど~?」
「先生だって絶賛してんじゃん。俺の選んだ色が百夜に似合わないとでも?」
実際によく似合っていたので、桜蒔もそれ以上は文句をいわなかった。
「なんでこんなにうるさいんだ、この二人は」
火種であるはずの百夜は、若干引き気味にその様子を眺めている。
「古参ファンと新参ファンによる、無益な争いだねえ……」
舞台、衣装、脚本、映像。すべてが揃い、予行練習も終えた。
ついに本番の初日である。
「ウチが六区でビラを配ってきたからね。十年以上浅草に通ってる芝居好きならたくさん知ってるから、まかせとくれ」
「お嬢は頼りになるのう! いいこいいこ」
「いひひー」
さまざまな場所で可愛がられている蝶子の顔の広さは侮れない。
深夜にひらかれる違法芝居の噂は、順調に物好きたちのあいだに出回ったようだ。
「ももちゃん、帯はちゃんと締まってるかい?」
「問題ないが、重い」
非常に動きにくそうにしているが、そのほうが背後に黒衣がいるのが自然でいい。
桃、白、黄の色が層になった召し物はまさに豪華絢爛 でありながら、西洋の華美とはまた違う、しっとりとした空気感を醸 しだしていた。
色むらのない白い顔と、物憂 げな流し目。
生ける菊人形とはよくいったものだと、疑似とはいえ自分が恋に落ちた女優を前にして、志千は息を飲んだ。
最後の仕上げに、めずらしい桃色の狂い菊を一輪。
花弁に唇で触れ、百夜の髪に飾った。
「花は、あなたのために作られているのですから」
ふざけて戯曲の台詞をささやき、その足元にひざまずく。
百夜が撮影していた『ウィンダミーヤ夫人の扇』の作中で、夫人を道ならぬ恋に誘ったダーリントン卿の言葉だ。
「……貴様、ほんとうに声だけはいいな。顔はいかにも軽薄だが。まあ、間男が人妻を不倫に誘うときの口説き文句だから似つかわしいか」
普段どおりの高飛車な物言いが返ってくる。
「お褒めに預かり光栄です。おまえに見おろされるのは、結構好きだな」
冗談ついでに素足の爪先に口をつけようすると、さすがに邪魔がはいった。
「変態! 今のはアウトじゃ! うちの子から離れんさい!」
「うわ、うるせー」
顔を赤くして怒っていた桜蒔は、次の瞬間あっさりと劇作家の表情になった。
「それはそれとして、シッチー、間男の役がばり似合うのう。俳優に転向せん?」
「誰がシッチーだ。やらねえから」
騒がしく準備が終わり、いよいよ上演開始だ。
百夜以外は目立たないように黒衣を着た。
暗闇での判別のため、それぞれ胸に菊の花を一輪つけている。
志千が紫、蝶子が白、桜蒔が赤である。
開場の時間がくると、半信半疑の客たちがそろそろと小屋に入ってきた。
入場料は取っていない。いざというとき撤退するのに邪魔だからだ。
狭い箱はまだがらがらだが、今はこれでいい。
芝居好きが仲間に伝えたくなるものを観せればいい。
蝋燭 で照らされているだけの化物屋敷のような雰囲気に耐えかねた観客が、帰ろうかとざわつき始めたそのとき、銀幕に映像が映った。
満開の花畑で遊ぶ可憐な少女。
美しい映像はいきなり途切れ、燭台 を持った黒衣が瓦礫 の散らばった舞台を照らす。
そして、スクリーンの真下に百夜が扮 する菊人形がぼんやりと浮かびあがる。
椅子に座った人形が瞼 をひらいた。
志千から正面は見えないが、唇の動きと声の連携は何度も練習した。互いに相手を信じている。
『ここは打ち捨てられた見世物小屋。あたしは朽ちていくだけの菊人形。今宵 、あたしのお話を聴いてくださるかしら──』
物語が進んでいくほど、心地よい一体感に包まれていく。合図さえも無意識で、自分の手足を動かしているみたいに自由に動いた。
声が、自分だけの声じゃないみたいだ。
百夜は力を抜いて、完全に体を預けてきた。
志千の声が百夜に、百夜の体が志千になったような──
練習のときとはまったく違う。
通し稽古は何度もしたが、こんなのははじめてだ。
本番を迎え、二人の『初代残菊』は完成したのである。
***
桜蒔は映写機を片付けに、蝶子は興奮気味の客を全員外にだして入口を閉めにいった。
そのあいだ、志千たちも撤収の準備をする。
「衣装、脱がせるぞ」
「ああ。花が重たい」
前面のみとはいえ、百株近い花がついている。
花弁を潰さないように打掛はそのまま椅子に置いておき、裳抜 けの要領で百夜だけを起こすことにした。
「なあ、さっきのさ……」
あの一体感を覚えたのが自分だけだったらどうしようかと、尋ねるのが少し怖かった。
衿に手を滑りこませて打掛から肩を抜いていると、言い淀んだ志千のかわりに、百夜がいった。
「心地よかったな。まるで、志千とひとつになったみたいだった」
同じ感覚を共有していたことが嬉しくて、椅子から立ちあがらせた百夜の頬から耳のあたりを指でなぞり、そのまま──
唇を、触れ合わせた。
その瞬間、百夜が目を見張ったのがわかった。
しまった、許可を取るのを忘れていた。
そんな間の抜けた考えがよぎって、足蹴にくらいはされるかもしれないと覚悟を決める。
だが、百夜の反応は思っていたのと違っていた。
怒りもせず、傷ついた表情で眉を寄せて、志千をじっと見上げていた。
嫌だったのかもしれない。咄嗟 に謝罪を口にしようとしたそのとき、百夜がぽつりと尋ねた。
「……残菊だからか?」
志千にとっては予想外の言葉で、慌てて否定しようとした。
「えっ? いや、違──」
「ここは埃っぽい。外の空気を吸ってくる」
去っていく後ろ姿を追いかけようとしたが、何者かに背後からがっちりと肩をつかまれた。
「おんどりゃあ……わしはなにを見せられとんじゃ?」
首だけ振り返ると、映写室にいるはずの桜蒔がこめかみに青筋を浮かべている。
志千を解放した途端、怒鳴り散らしてきた。
「ほいじゃけ、いうとるじゃろ! 半端な覚悟で関わんなって!」
「半端って、そんなつもりは」
「おどれがどんなつもりでも、やっとることは全部思わせぶりじゃ! それに絵面がばり腹立つんじゃ!!」
母親捜しにもとことん付き合うつもりでいるし、途中で投げだす気はない。
しかし、くちづけたのは衝動だ。
上演後の高揚を抑えられなかった。
「なあ、せんせ」
「あぁ!?」
「残菊だからかって……どうしてあんなふうに思われたんだ?」
「この流れで、なしてわしに相談はじめるん!?」
桜蒔は怒ったり呆れたりと忙しそうだったが、盛大にため息をついたあとで答えた。
「は~。そりゃあ、こないだおどれが『そのうちなんとなく見合いでもして、適当な女と結婚しまぁす♡』とかなんとかぬかしよったからじゃろ!?」
「……えっ!?」
思いもよらなかったことを指摘され、驚愕する。
「向こうからしたら、自分を恋愛対象に見てないっていうたも同然のやつに接吻 なんかされたら、ほんなら二代目残菊の姿に発情しよったんじゃろかって悩むに決まっとるじゃろ!?」
「いや、でも、そんな意味じゃなかったんだが、たしかにそう話した、のか……?」
口にしたのは事実だが、自分の気持ちとあまりにかけ離れていて、頭を抱えそうになった。
「そんなつもりじゃないとか、そんな意味じゃないとか、かばちたれんなや!! あ~これだからモテ男は嫌じゃ。自分がすることならなんでも喜ばれると思っとるんかのう!?」
そこまで傲慢ではないと思いたいが、今までやらかしてきた数々を思えば当たっているのかもしれない。
自分にとって普通だったものを強引に押しつけて、百夜の気持ちを理解しようとしていなかった。
「シッチー、ほんまにわかっとんか」
桜蒔は、急に真剣な声になっていった。
「おどれにとってはたいした意味がなくても、なんも持っとらんあいつには、なにもかもが特別なんじゃ。地元に帰って見合いがしたいんじゃったら、もう思わせぶりはやめろ。振りまわすな。それが半端に関わるなって意味じゃ」
そんなつもりはないと言い返そうとしたが、また同じ言い訳だ。
今まで桜蒔がどんな思惑で志千を牽制していたのかわからなかったが、少なくとも本気で百夜のことを案じている。
己の欲だけで行動している自分とはまったく違う。
「……わり、先生。ちょっと百夜を追ってくる」
「わしの話聞いとった~!?」
桜蒔の制止を振りきって、芝居小屋の外にでた。
残菊の姿をしたままで遠くには行かないはずだ。なるべく人の少ない方面に向かった。
もっと百夜を見ないとだめだ。二代目残菊ではない、百夜自身を。
言葉、表情、反応、喜んでいるのか、嫌がっているのか。
そして志千も、もう自分の気持ちがわからないなんていってはいられなかった。
「……百夜!」
銘酒屋の裏口が並ぶ路地で、煙管 を持って座り込んでいるのを見つけた。
汗ばんで衿元がはだけた、しどけない姿だ。
走り寄ると、先に別の人影が近づいてきた。
「おい、すんげえ美人 だな。一晩いくらだ!?」
絵に描いたような酔っぱらいが、娼婦と間違えて百夜に絡んでいる。
手首をつかまれ、百夜はあからさまに不快感をあらわにした。
志千は後ろから近寄って、男の腕をひねった。
「い、いたた!」
「わりぃな、俺の先約なんだ。それに、あんたなんか絶対に嫌だって顔してるぜ。あきらめな」
酔っぱらいはよろめきながら、慌てて逃げていった。
「……志千」
「そんな恰好で出るなって。危ねえな」
「べつに心配されるほどじゃない。いざとなれば、相手が一人なら殴ってでも追い払える」
そりゃあ百夜も男なのだから、多少の危険は切り抜けられるのかもしれないが。
「触られただろ」
「怪我もしていないし、なんともないぞ」
「俺が無理なんだよ……」
その場にしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。
「あー……こういう感じなのか……」
「は? 貴様も酔っているのか?」
志千の独り言を、百夜が訝 しげに訊き返す。
他の奴に触れられるなんて耐えられない。髪の一本から足の先まで愛おしい。
はじめて知った。これが、恋か。
ともだちにシェアしよう!