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十九 色彩(後編)

 ふっと舞台の上が明るくなる。壁に吊るされたスクリーンに映像が投写された。  独特の柔らかい光は、いつ見ても心が躍る。  映しだされたのは第一幕から三幕までの『生ける菊人形』である。  脚本や演出の調整に使うため、これまでの舞台はすべて桜蒔(おうじ)がカメラで撮って保存している。  志千(しち)の声は入っていないが、正面から観るのは新鮮な気分だった。 「──ああ、やっぱり綺麗だ」  花を(まと)い、ほのかな蝋燭(ろうそく)の火で闇に浮かびあがる百夜(ももや)の姿。  狙いどおり、菊と照明の効果で体の輪郭と暗闇との境目がぼやけ、華奢な女性にしか見えない。  活動写真の撮影のときのように角度や高さを調整せずとも、幼い頃に生の舞台で見た初代残菊の生き写しである。  眺めていると自然に台詞が湧いてきて、映像にのせた。   『とてもきれいな菊人形。みんな、みんながあたしのことを大好きだった』  志千が声をあてているあいだ、桜蒔はスクリーンを凝視していた。  あまりに真剣な眼差しだったため、場面の切り替わりで台詞を止め、顔の前で手を振る。 「おーい、せんせ。どした? 目ぇ開いてるぜ」 「一応いっつも開いとるわ!」  一瞬普段の調子に戻ってから、またすぐ映像に視線を戻し、静かな口調でいった。 「シッチーはすごいのう。正直、実際に聴くまでみくびっとったわ」 「声、そんなに似てる?」 「ああ。このか細い声を拡声器みたいに小屋全体に響かせるなんぞ、声量もたいしたもんじゃ」 「おっ、自慢だからな。腹筋も割れてるぜ!」 「男の腹なんか見とうないけん出さんとって」  しっしっと手で払いながらも、まだどこかぼうっとしている。  鶴月座(かくげつざ)が全盛期だった頃、初代残菊主演の脚本をすべて担当していたのが小山内桜蒔だ。  実物をよく知っている人間が驚くほどだったのであれば、目論見(もくろみ)は大成功のはずだが、どうも様子がおかしい。  いつもの飄々(ひょうひょう)とした態度は鳴りをひそめ、心がどこかへいってしまったみたいだった。 「ももの見た目がそっくりなんはわかっとったけど、耳から入る情報の威力は絶大じゃなぁ。これなら脅迫状の犯人にも効果覿面(てきめん)じゃろ。第一幕の本番を観たとき、千代見(ちよみ)がそこにおるかと思うた」  懐かしむような、切ないような視線で、百夜の映像を見つめている。  本名で呼んだのを少し意外に感じつつも、桜蒔に尋ねた。 「仲良かったんだな」 「わしがまだ高校にあがる前からじゃけえ、二十年来の旧友。千代見の言葉を借りれば『オトモダチ』じゃな」 「なぁ、初代残菊って、どんなひとなんだ?」  率直にいうならば、志千は花村千代見その人にあまりいい印象を持っていない。  百夜にとってはたったひとりの肉親だが、ずっと苦しめてきたのもまた、母親である彼女だからだ。  志那料理屋での騒動があったとき、百夜は自分の好き嫌いは無関係だといって代わりに怒ってくれた。  だから志千も、自分の感情は脇に置いて母捜しに協力している。  ただ、別の視点から見た彼女はいったいどんな人物なのだろうと気になった。 「どんなやつじゃって? はぁ~、千代見なぁ、あいつはほんっとにもう、ひっどい女でなぁ!」  桜蒔はため息とともに、盛大に悪態をついた。 「我儘(わがまま)で、高慢ちきで、自分が世界の中心におると思っとるような奴。ももの性格は完全に母親譲りじゃけど、ただの真似に過ぎんけえ根はいい子なんよ。でもあいつはダメ。もう性根から自分勝手じゃし、役を獲るためなら平気で他人を蹴落とすし、感情的なうえに無責任で、頭も尻も軽くて、役者の才能以外なんっもない女じゃ」 「そこまでいうか」  散々まくし立てたあと、ぽつりという。 「でも、最高の女優じゃった。あいつがおらんなった途端、このわしがまさか書けんようにまでなるとは……。自分でもびっくりしたわ。もう舞台からはとっくに下りとったのになぁ」  三年前からスランプに陥っていて、百夜が二代目をやらなければ筆を折っていたかもしれないと、初対面のときにも話していた。  ずっと残菊のために脚本を書いていた人だ。  登場人物の心情に声をのせるとき、頭の片隅から百夜の存在が離れなくなった今なら理解できるような気がした。 「先生にも意外と繊細な面があるんだ」 「やかましい。それよりシッチー、次の休みいつ?」  不意に訊かれ、あわてて返事をする。 「今週の木曜日。ちょうど百夜も休みでさ」 「じゃあ、その日はわしがお嬢をどっかええとこに連れてっちゃるわ」 「え?」 「誘うんじゃろ、逢引(あいびき)に」  蝶子を置いていくのは気が引けるので、有難い申し出ではある。  だが、なぜ協力してくれるのだろう。 「桜蒔先生は、俺と百夜を引き離したいのかと思ってた」 「今回の芝居を観て、ちょっとばかしシッチーの見方が変わっただけじゃ。人当たりがええだけで他人にあまり関心がなくて、自分しか見えとらん奴かと最初は思っとったんじゃが」 「そういわれると、外れてないだけに痛えなぁ……」  活動写真一筋といえば聞こえはいいが、愛想よく振舞っているわりに、他人とは一線を引いてきた。  今まで誰も好きにならなかった理由は、結局のところ、誰のことも深く知ろうとしなかったからだ。  人を好きになることで視界は開け、かえって芸の幅は広がった。  なんだかありがちで気恥ずかしいが、不思議なものだと思う。 「二人が一つになったときの演技があまりに完璧で、ももの居場所はここかもしれんって勝手に思うた。ももの奥底を理解しようとせんかったら、あの一体感はだせんわ。いくら大事じゃってゆうても、わしはももを最優先にはできんけえ。お嬢もいつかは巣立たせんといけんしな。誰かがそうしてくれるなら、一番ええ」  そして、また憎まれ口に戻って桜蒔はいった。 「ま、わしがどう感じようが、フラれるときはフラれるじゃろうけど。せいぜい頑張りんさい」  映写機は菊人形を映し続けていた。  声を得たことで百夜の演技はより残菊に近づいていき、純真無垢かつ魔性と評されていた初代と同じ微笑みを浮かべている。 「憎めたら、もっと楽じゃったろうな。あんなひどい母親なんか、見捨ててやりゃあよかったんじゃ。ほんまに性悪な女じゃのう。いなくなったあとまで人の心を掻き乱しよる」  それほどまでに人々を惹きつけた伝説の女優。  復活を信じて集まった観客の顔を、舞台の上から眺めていればわかる。  みんな、みんな残菊が大好きだった。

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