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二十四 ある作家と女優

 小山内(おさない)桜蒔(おうじ)が、数年に一度しか顔を合わせない父親に呼びだされたのは、中学二年生の冬であった。  はじめての東京。どこかへ遊びに連れていってくれるのだろうかと、少年らしい期待を持たなかったといえば嘘になる。  だが、自分の父がそのような思いやりを持ち合わせているとは到底思えなかった。  案の定、東京にきて父の指示する高校大学に進学するよう進路を命じられただけで、あとは放置された。  本当は小学校を卒業したらすぐ働きにでるつもりだったのだ。  しかし、自慢ではないが腕っぷしも体力もない自分が、海しかない地元で稼ぐ手段を見つけられる自信はない。  父は地方公演の折に妾である母に会いにきていたが、間隔は年々遠くなっている。  生活費もいつ打ち切られるかわからなかった。  ならば、東京になんぞ行かないでくれと泣いて懇願する母親を振りきってでも、父に媚びたほうが将来のためだと考えたのである。  庶子(しょし)にもかかわらず、桜蒔のことはいたくお気に入りであったようだ。  息子たちのなかで飛び抜けて成績優秀だったこと、そして、父が幼い頃に亡くなったという父方の祖母の血を色濃く継いだ顔立ちをしていることが理由らしい。  母の内職の稼ぎではけっして買えない高価な洋書、画集や小説などをいつも土産に携えていた。  愛情というよりは教育であり、読まねば厳しく叱責されていただろうが、幸いなことに本は好きだった。  父もエリートだったのかというとそうでもなく、だからこそ権威を欲しがる。  正妻には没落寸前の華族令嬢を人買い同然に迎え、どんなに夫婦関係が冷えきっていても離縁はしない。代わりにあちこちの美しい女に手をだしては、ゴミのように捨てる。  身分や学歴のメッキだけを飾りたがるのだから(たち)が悪い。芝居の芸術性にこだわるのも真の教養ではなく、単に俗人だからなのだ。  はっきりいえば父親など大嫌いだったし、いつか鼻を明かしてやりたいとばかり考えていた。  東京にきたら寄宿舎に入ればいいし、高校も全寮制だ。わざわざあちらから会いにくることもないだろう。  別に好きではなくとも、利用しない手はない。  斜に構えた少年は、父に従う道を選んだ。  金銭を気にせず帝都に滞在できるせっかくの機会だ。割り切ることにした桜蒔は、活動や芝居を観てまわり、勝手に楽しんでいた。  将来の夢は劇作家。  虚飾にまみれた父とは違う、本物の演劇がやりたい。  父の運営している劇場に顔をだしてみれば、座長の息子というだけで、ずっと年上の者たちにぺこぺこと頭を下げられた。  いずれはこの場所に巣食い、のしあがるつもりなのだから悪くない傾向だ。  親の立場も金も、なんだって使えばいい。  だが、桜蒔はその日、権威も身分もいっさい通用しない人物に出会った。  稽古場の隅で孤立して、ぼろぼろの人形に話しかけている、幼い子どものように澄んだ声の少女。 「ももよちゃん、ももよちゃん、かわいいね」  少し変なのかもしれないと、警戒しながら近寄ってみる。 「あ、座長の愛人の子!」  いきなり桜蒔を指差して、失礼極まりない言葉を投げつけてきた。 「なんじゃ、小娘」  思いっきりしかめ面をして返事をすると、まったく同じ表情を真似された。 「む、あんたいくつよ」 「十五」 「なんだ、一つ下じゃないの。あたし十六よ」  小柄であどけない顔をしているので、せいぜい十三くらいかと思ったら。 「十六にもなって人形遊び? ガキっぽいのー」 「べつにいいでしょ、あたしこの子しかいないの。小さい頃に親が死んじゃって、思い出はこれだけなのよ」  明るくてふわふわした栗色の髪。じっと瞳をのぞき込むと、色素が薄いせいで虹彩がはっきりと浮かんで、水中花のような不思議な模様を描いている。  作り物みたいに綺麗な目だ。少女自身も人形めいて感じるのはそのせいだろう。 「お母さんは病気で死んだの。お父さんは会ったことないけれど、あたしが生まれる前に、この人形を置いて故郷に帰っちゃったって」  目鼻立ちは日本人らしいが、胸に抱かれた西洋人形を見て、もしかしたら異国の血が混じっているのもしれないと思った。 「ね、あんた頭いいんでしょ? いい学校に通わせるために東京に呼ぶんだって、座長が話してたわ」 「わしゃあ優秀じゃけえのう。おかげさまで本妻の子よりお気に入りじゃ」  当然、正妻からは鬼の子の如く嫌われていたが、どうでもよかった。なんの対抗心も湧かないのに、妬まれたってどうしようもない。 「難しい漢字もたくさん読める?」 「馬鹿にしとるんかい」 「ううん、あたし字が読めないのよ。初舞台の台本をさっきもらったんだけど、ばれたら降ろされちゃうかもしれないでしょ。ね、かわりに読んで。内緒よ」  いずれ露呈するだろうし、あの父親のことだから蔑みもするだろう。  そうわかっていたのだが、頼まれるままに読み聞かせてしまった。  くるくると変わる表情や小鳥みたいな仕草。  情けないことに、思春期の少年は少女の愛嬌に勝てなかったのである。 「あんた、名前は?」 「桜蒔」 「オージね。あたしは千代見(ちよみ)。女優になるためにお稽古してるのよ。もうすぐ初舞台なの。東京にきたら、お友だちになってくれる?」  少女は可憐に微笑んだあと、座長が稽古場にやってきたのに気づいて、そちらに走っていった。  その後ろ姿を目で追いながら、なんだかふわふわとした気持ちでつぶやく。 「さすがは帝都。あがいに可愛らしい容姿の娘が存在するんじゃのう……。頭のほうは、ちょっと空っぽそうじゃけど」  だが、父にまとわりつく少女の媚態(びたい)ですぐに勘づいてしまった。 「なんじゃ、親父の女か……。少女愛好趣味もあったんかいな、あのサドジジイ」  桜蒔に媚びてこなかったのは、座長の手付きならいまさら息子なんかに取り入る必要がなかったからだったのだ。  諦めと、侮蔑と、悔しさと、自己嫌悪。  少年がはじめて味わう、複雑な感情だった。  それから数ヶ月後。  春になり、桜の季節であった。  千代見に残菊の芸名がつけられ、舞台で端役をこなしていた頃。  桜蒔は中学の途中で転校し、ふたたび東京にやってきていた。  台本を読んであげるという名目を引っさげて稽古場に向かうと、千代見がなぜか裏口の前で泣いている。 「入らんの? 今日は風強いけえ」  声をかけると、幼児みたいに泣きじゃくりながらいった。 「子どもができたの」 「……親父の子?」 「たぶん、ちがう。わからないの。あたし、あんたと会う直前まで娼婦だったもの」  おそらく元は父も客の一人だったと予想はついたが、時期を考えると、誰の子かなんてもう判明することはないだろうと思った。 「どうしてこんなときに……。せっかく女優になれたのに。ドブ川で生きてきた人生が変わるはずだったのよ」  動じていないふりを装い、ややもすれば冷酷に聞こえかねない口調で桜蒔はいった。 「堕ろすなら早いほうがええ。わしがちゃんとした医院に連れていっちゃる」 「……嫌よ、堕ろさない」 「一人で育てられんじゃろ。それに、女優の夢はどうするん?」 「でも、嫌なんだもん」  なんて感情的で、軽率で、身勝手なのだろう。  それでも、どうにかしてやりたいと思ってしまった。  父親を口車でどうにか説得して、十二階の近くにあったボロボロの一軒家を買わせた。  腹に子がいることを知り、冷たいため息を吐きはしたが、千代見の美貌と素質を手放すのは惜しかったらしい。  世間知らずでまっさらゆえか、演技の才能は目を見張るものがあったのだ。  幸いにもまだ名は売れておらず、体型も目立たなかった。数ヶ月だけ隠れていれば舞台には戻れると踏んだようだ。  そして、秋。  重陽の節句の日、千代見は自分にそっくりな男児を産んだ。 「あーあ、あたしに似なきゃよかったのに」 「似とったらいけんの?」 「髪と瞳のせいで、いつもいじめられてたんだもの。まるであたしの小さなお人形みたい。どうせならももよちゃんって名前をつけたかったなぁ」 「男の子じゃのう。ほんなら、ももやでええじゃろ」 「ももやちゃん、かわいいね」  無事に生まれたはいいが、どうしたって不安が募る。 「わしはみなまで助けてやれんぞ。ちゃんと育てるんじゃろうな……」  所詮は父に養われている中学生。できることはほとんどないに等しい。  予想どおりだが、瓜二(うりふた)つに生まれてしまった子は、女優を続けるための障害となった。  その代わりというように、千代見は女優として大きく開花していった。  桜蒔も順調に高校、大学へと進み、鶴月座(かくげつざ)で脚本を書くようになっていた。  すべての言葉は、女優残菊に捧げた。  さらに時は過ぎていき、帝都中が残菊に熱中していた頃。  人気の絶頂とはいえ、父が養成所の若い女優たちに目を向けることが多くなって、焦りがあったのかもしれない。  たいして強くもない酒を毎晩呑んでいたり、急に長いあいだ姿を消したりと、今までになかった不審な行動が目立つようになった。  ある夜、千代見が桜蒔の家に葡萄酒を持ち込んできて、勝手にくだを巻いていた。 「どうせ一杯で寝るくせに。酒なんか呑んどらんで、はよ家に帰ってやれや」 「もらったの。『苦しみを忘れられるお薬』だって。最近よく眠れないんだもの」 「この前みたいにいきなり二ヶ月も面倒見ろなんて、無茶いわれても困るけん。わしは来年から洋行じゃ。五年は帰れん」 「知ってるわよ。座長命令なんでしょ」  透明なグラスを傾け、葡萄酒を煽る。 「ねえ、オージ。永遠に美しくいることはできると思う?」  女優然とした立ち振る舞い、喋りかたがすっかり板についていたが、中身はいつまでも少女のまま。  千代見はそんな女だった。 「まずは定義がいるのう。なにをもって美しいとするか」  ほんと理屈っぽいんだから、と口を尖らせる。 「容貌の話よ。いつまでも今と変わらずいられる?」 「そりゃあ無理じゃ。お人形じゃあるまいし」 「人形も朽ちるわよ」  そういえば、もう随分と長いあいだボロボロの西洋人形を見ていなかった。捨ててしまったのか、それとも閉じ込めてしまったのだろうか。  女優で居続けるため扉を閉ざしたあの家に、彼女の子とともに。  なるべく様子を気にしてはいたが、あの境遇を知っていて本気で救いだそうとしなかったのだから自分も同罪だ。 「座長がね、あたしは美しくなければ価値がないっていうの。きっと観客もそう。あたしが醜くなったらみんな離れてしまう。ようやく人として扱われるようになったのに、またドブ川に戻るのは嫌よ。このまま女優をやっていけるのかしら」 「大女優残菊が、えらい弱気じゃの」 「ここで選択してしまったら、もう二度と戻れないもの」  酔いがまわってきたらしく、徐々に会話が不明瞭になってきた。 「あんたの洋行、あたしもついていこうかな」 「演技の勉強に? わし、親父のいうこと聞くふりしてこっそり欧米で活動写真を学んでこようと思っとるんじゃけど、千代見も出てみん? 今の姿が永遠に残るで」 「やーよ、あんな口パク紙芝居。あたしは舞台女優なの」  もう一杯注ごうとした手を押しのけ、瓶を隠す。  千代見はとくに反抗もせず、あきらめて桜蒔に差しだされた水を飲んだ。 「ああ、永遠が手に入るなら、なんだってするのに」 「悪魔に魂を売るくらいしか、思いつかんな」 「なによそれ。そんな御伽(おとぎ)話みたいなこと、オージはできるの?」 「とうに売っとるで。わしの魂は安いんじゃ」  千代見はひとしきり笑い、テーブルに突っ伏してしまった。   「あんたはお友だちだから、美醜なんて関係ないわよね?」 「まあ、お互い歳を食っていくだけじゃなぁ」 「オージだけは、ずっとお友だちでいてね。いつまでも変わらずに、ずっとこのままで」  彼女が望んだこの関係を裏切ってしまえば、いったいどうなっていたのか。そんな意味のない想像を、何度したかわからない。  あの子が閉じ込められる前に、この手で抱きあげていたらどうなっていたのだろう。  魂を売ったとしても、欲しいものは手に入らない。  千代見の様子はますますおかしくなって、葡萄酒を手放さなくなった。  大女優残菊が舞台で魔術師の首を落としたと、日本からの噂を耳にしたのはこの後すぐ。  すでに桜蒔が異邦へ旅立ったあとだった。

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