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二十三 会話(後編)
「どんな話が聞きたい? なんでもいいよ」
志千 の普通が知りたい──そう求めてきた百夜 を後ろから抱きしめて、優しくささやいた。
「家族の話とか。きょうだいがいるんだろう」
「ああ、うちは五人。上に兄貴がいて、俺は二番目」
「兄と似てる?」
「いーや、まったく。成績優秀で、性格は真面目でさ。兄貴は大学をでて、祖父の商家を引き継いだんだ」
顔立ちも志千は父親似で、兄は母親似だ。
祖父と父はどちらも自分の跡目を継いでほしそうだったので、うまいこと素質が分かれてよかったと思う。
「そんで、兄貴は名前に『九』の数字が入ってるんだよな」
「父親が八だから」
「そう。自分を超える男になるようにって。でも、俺は下がって『七 』だ。親父が八色の声なら、俺は七色。一生超えられないような気がして、前はこの名前があまり好きじゃなかった」
活動弁士として少しずつ注目を浴びはじめ、七光 と揶揄されることが多くなってから、余計に荷物みたいに感じるようになった。
「まあ親父には悪気なんか一切なくて、十より先が増えたら次がつけにくいから下げただけなんだとさ。いい加減だよな」
「今も自分の名前、嫌いか?」
「いや、もし十なら十兵衛 になってたらしいから、これでいいや。寿十兵衛じゃ弁士ってより歌舞伎役者みてえだし」
「じゅうべえ……」
頬を擦りつけて百夜の長い髪を掻き分け、こめかみに唇を落とす。
「それに、百夜が呼んでくれるのが嬉しいから」
「そうか、十兵衛」
「なんでだよ」
「おれは志千の名前、好きだぞ。何度でも呼びたくなる響きだ」
百夜の手が後ろに伸びてきて、いつもとは逆に頭をぐりぐり撫でられた。
「志千、しーち」
「犬みてえな撫でかた」
そういえば、と百夜が思いついたようにいった。
「しちって、数字の七じゃないだろう。幟 では二文字で『千』がはいっていた。読めなかったが、どんな字を書くんだ?」
「ああ、志すって字だよ。同志とか、大志を抱けと同じ。そのあとに千」
「じゃあ、単なる七じゃなくて『千を志す』って意味だな。やっぱりいい名じゃないか」
「あ……」
数字にちなんでいるというだけで、字の成り立ちまでは深く考えたことがなかった。
きょうだいで唯一活動弁士の道に進んだ志千に対して、父は厳しかった。
それでも一度も迷うことなくここまでこれたのは、期待の大きさゆえだとわかっていたからだ。
父を超えて遥か遠くへ。自分の名に込められた願いに、はじめて気づいた。
「千色の声ね。途方もねえけど、目指してみるのもいいかな」
それから、百夜に訊かれるまま、取り留めもなく会話は続いた。
家族、学友、昔好きだったものや読んだ本、芝居、よく行った店、地元の風景。
「きょうだいの下は?」
「女学生の妹が二人。これがまあ囂 しくて、百夜なんて連れていったら大騒ぎだろうな」
父親の職業柄か、蝶子に負けず劣らずのミーハーな妹たちだ。
こんなに綺麗な男を見たら悲鳴をあげそうである。
「末の弟はまだ小学生で、俺がガキだった頃にそっくり」
「賑やかそうな家だ。学校は? 勉強は得意だった?」
「中学までは通った。成績は中くらい。勉強はあまり好きじゃねえな。庭球とか野球とか、運動のほうが得意だったよ」
「その頃から天然ジゴロだったのか?」
「なんだそりゃ。学校帰りに付け文されるのはよくあったけど。あと下級生からしょっちゅう呼び出されたり」
「下級生って、それ男子生徒じゃないのか」
深夜まで話しこんで、いつのまにか同じ布団で眠りについていた。
百夜の安らいだ寝顔を眺め、自らも深い眠りに落ちていった。
***
翌朝──乱暴に襖を開け放たれる音が、寝不足の頭にこだました。
「朝飯じゃ!! はよ起きんさい!! うわっ、こがいに狭っ苦しい布団でよう同衾 できるのう!?」
「うるさっ。なんだよ、朝から」
無理やり覚醒させられ、志千は気だるく上半身を起こした。
枕元で仁王立ちした桜蒔がこちらを見下ろしている。
「はぁ~、お嬢の代わりにわしが起こしにきて正解じゃった。見た目どおり手ぇ早いわ~」
「まだだしてねーよ!」
「意気地なしじゃな。見掛け倒しジゴロめ」
「どっちにしろ文句いうんじゃねえ」
百夜は出歩いて疲れていたのか、桜蒔の大声にも反応せずまだ隣で眠っていた。
「あっ、ももの寝顔かわいー。ぐっすり寝とるんはめずらしいな。ちゅーしちゃろ」
と、ふざけて額や頬に接吻 している。
無視して着替えていると、なぜか心外そうな顔をされた。
「え、妬かんの? つまらん」
「先生って百夜の親みたいなもんじゃん。家族はよくね?」
「うるさい! わしゃまだ独身じゃ!」
「なんで急に怒るんだよ」
「昨日、百回くらい『お父さん』って呼ばれたけえ」
桜蒔と蝶子は顔や雰囲気が似ているため、余計に親子に見えたのだろう。
「でも、あんまりしつこいとやっぱ嫌かも」
と、小柄な桜蒔をひょいと抱えて引き剥がした。
「シッチーはももになんかされたら、嫉妬どころかブチギレしそうじゃけえの。調子乗らんとくわ」
見抜かれているのは癪 だが、見ず知らずの奴に勝手に触られたとしたら激昂しない自信はない。
「先生、百夜が酔った姿見たことある?」
「一口呑んだら無言で寝るで。まあ起きとっても口数少ないけん、あんま変わらんけど。それがどしたん?」
「じゃあいい。なんでもない」
誰の前でもああなるというわけではなさそうで、少し安心した。
「そうだ。桜蒔先生、ちょっとお説教があんだけど」
そういって首根っこを捕まえると、桜蒔は子どもみたいに手足をばたつかせて抵抗してきた。
「なんじゃ、わりゃあ!!」
「あいつに煙草を吸わせたの先生なんだって? だめじゃん、未成年に悪いこと教えちゃ」
「はぁ~!? 早くも恋人面か!? うっとうし!!」
志千の手を払いのけ、もっと怒るかと思いきや、すっと冷静な表情になって立ちあがった。
「しゃあないの。いずれは見せるつもりじゃったが。ちょっとこっち来んさい」
どこへ行くのかと思いきや、向かいの百夜の部屋である。
とくに遠慮もなく立ち入り、眠っている百夜や階下に聞こえないよう、ちょいちょいと手招きをする。
着物用の箪笥 の前にしゃがんで鍵を解錠し、一番下の抽斗 をあけた。
「これ……なんだ?」
中にはいっていたのは、きらびやかな着物とは程遠い、黒く光ってゴツゴツとしたもの。
煙管 と似た形だが、ずっと大きい。
他にも器具や容器などがごちゃっとしまわれていた。
「この筒は吸煙器 じゃ。千代見 は『悲しみを忘れられる薬』って呼んどったのう」
「悲しみを忘れるって……絶対にまともなもんじゃねえだろ」
「ももは使うとる姿を何度も見とったみたいで、これがなにか訊かれて咄嗟 に煙管じゃって誤魔化した」
百夜は残菊がよく煙草を吸っていたと話していたが、その実は──
「じゃあ、酒でおかしくなってたんじゃないのか」
「あいつはももと同じ体質でアルコホルに弱くて、一杯も空けたらすぐ寝とった。溺れるほどは呑めんかったよ。そんな奴が酒だけでああはならん」
酒に混ぜるのだけじゃ物足りんようになって、次は吸煙。注射針まである。どんどん強くしていったみたいじゃな、と桜蒔は忌々しそうにいった。
最後は廃人同然だったと聞いていたが、危険な薬を常用していたのなら当然だ。
「こんなの、いったいどこで? 日本で簡単に買えるようなものじゃねえんだろ」
「自分で手に入れられたとは思えん。千代見は誰かに薬を盛られたんじゃ。あいつが引退する直前くらいから、わしは親父の命令で五年ほど洋行しとったけど、日本に帰ってきたときはもう手遅れじゃった」
初代残菊はすでに壊れていた。
脅迫状の件で、疑いは確信に変わったという。
銀の容器の蓋を開けてみると、焦茶色をした松脂 に似たものが入っていた。
どこかで嗅いだことのある、特徴的な臭いが鼻をつく。
他の瓶には液体や錠剤もある。すべて同じ成分を抽出した薬物らしい。
「こんなもんさえ使ってなかったら、大女優残菊が観客の前で首を落とすなんて醜態を晒すわけない。十年前の失脚には黒幕がおる。千代見は誰かに嵌められて、舞台から引きずり降ろされた」
桜蒔は憤りを滲 ませながらも、どこか冷たく乾いた声をしていた。
この感情は、たった今沸きだしたものではない。もっと長年耐えて、風化することなく蓄積されていった怒りだ。
「桜蒔先生……。あんたもしかして、初代残菊の失踪を、もっと前から一人で追ってたのか。俺らの案にたまたま乗ったふりをしただけで」
答えの代わりに、桜蒔はいった。
「手がかりは綺麗に消されてなんも残っとらん。しかも、最後には本人まで煙みたいに消えてしもうた。どうにかももを宥 めすかして、二代目としてデビューさせて……。脅迫状が届いたときはやっと尻尾を掴んだと思ったのに。二年前はわしのミスで逃したけえのう」
どす黒く、重たい筒で、桜蒔は志千の鳩尾 を押した。
「じゃけえ、シッチー。おどれの存在は、わしにとっても棚から落ちてきた牡丹餅 、もしくは葱 を背負った鴨。完全な僥倖 なんじゃ。可愛いももをやるのと引き換えに、とことん付き合ってもらうで。どうせ、もう離れられんじゃろ。童貞坊やの初恋じゃし」
対抗心の強い志千をあえて煽ったり、恋愛感情を自覚したところで協力したり。
いまいち不可解だった、桜蒔の百夜に対する態度や立ち位置、その答え合わせでもあった。
百夜への愛情に嘘はないのかもしれないが、この人にはもっと大切なものがあるのだ。
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