29 / 36
二十三 会話(前編)
会計を終えた帰り際、看板娘もとい看板少年に声をかけられた。
「活動弁士の寿 志千 さんですよね。僕、あなたのファンなんです。写真が載っていた雑誌も買いました」
「お、ありがとな。嬉しいよ」
「よかったら握手を……いえ、ハグしてくれませんか?」
気軽に了承して、異国人が親しい相手にしているような軽いハグをする。
「わぁ、ありがとうございます!」
喜んでいる少年を前に、志千は我に返った。
今は百夜 と一緒にいるのだ。
つい習慣で過剰なサービスをしてしまったが、想いが通じ合った直後に他の男に手をだすなど、どうしようもない奴ではないか。
おそるおそる振り返って青年の反応を確認すると、予想と違ってまったく関心がなさそうにしている。
髪の毛先を弄りながら、暇そうにいった。
「いつもそんなことをしているのか。抱かれたい活動弁士第一位も大変だな。終わったなら行くぞ」
「あれっ妬かねえの」
「それも仕事のうちだろう」
と、暖簾 をくぐってさっさと店をでていってしまった。
自分勝手は承知だが、嫉妬されないのはそれはそれで寂しい。でも不安にさせるよりはいいかと自身を納得させ、後を追って隣に並んだ。
そのとき、百夜が一度だけ後ろを振り返った。
どんな表情をしていたのか、志千からは見えなかったが──
「一応いっておくが、百夜が一番だからな?」
「うるさい。軽薄弁士。天然ジゴロ」
「やっぱりちょっと怒ってね??」
店先まで見送りにでてきていた少年は、ペロッと舌をだして悪戯 っぽく笑った。
「美人に牽制されちゃった。『おれの』だってさ」
***
空はすっかり暗くなっていた。
まだ蒸し暑いと思っていたが、日に日に夕暮が早まっている。
六区であれば連なる提灯の明かりで華やかだが、ひとたび離れると路地は薄暗い。
「百夜、そろそろ帰るか?」
顔を覗きこんだ瞬間、百夜がもたれかかってきた。
「どうした、具合でも──」
力の抜けた体を支えると、少し酒の匂いがする。
そういえば、東京の蕎麦 屋は酒をだすのだ。
志千は口にしなかったため気づかなかったが、盆に置かれていた椀には酒が注がれていたらしい。
幸い、家までさほど遠くない。
百夜に肩を貸しながら、街灯を頼りにして帰路についた。
牡丹荘の電気は消えている。桜蒔と蝶子はまだ帰っていないようだ。
自分の部屋に百夜を連れ帰り、帯を緩めて寝かせようとしたところ──
朦朧 としていた意識が少し戻ったらしく、布団の傍で畳に膝をついていた志千の胴体に腕を回してきた。
「志千、志千ー、しーちー」
名前を連呼しながら、しがみついてくる。
「え、誰だこれ……」
驚愕しながらも手が勝手に髪を撫でてしまう。
百夜は嬉しそうにして、さらに志千の胸元に頬を埋めてきた。
「うそだろ……。酔うと甘えん坊になる感じ? 可愛すぎるんだけど……」
「しーち、のどが乾いた」
「お、おう。水飲むか?」
机に置いていた湯冷ましを注いでやると、むっとした調子でいった。
「早く飲ませろ」
「そこは命令口調なのかよ」
湯呑みから水を含んで、口移しで流し込む。
ごく、と喉を鳴らす音が静かな部屋に響いた。
しばらく唇を合わせてから離すと、口元の端から伝った一滴が顎先を濡らした。
「ちゃんと飲めた?」
「うまい」
「そりゃよかった」
水滴を指で拭ってやっていると、百夜が下からこちらをじっと見あげながらいった。
「……さっきの、いやだった。おれの志千なのに」
「さっき? 蕎麦屋のときか? ごめんな、もうしないから」
慌てて謝ると、安心したのか腰に巻きついたまま眠ってしまった。
意地っ張りというか、なんというか。
遠慮なく物を言うように見えて、本心を隠す癖がある。長年張りつけていた仮面はなかなか剥がれない。
それなのに一旦感情が高ぶれば、堰 を切ったように吐きだすこともある。
不安定で怯えた子どものような、本当の姿。
今日の百夜は、様々な顔を見せてくれた。喜怒哀楽のすべてを堪能した気がする。
ぜんぶ認めて、受け入れて、甘やかしたくなる。
同時に、志千自身が知らなかった自分にも気がついた。
細い指先を握りしめていると、悶々 とした想いが湧きあがってきた。
役者をやっていれば、仕事関係で酒に付き合わされる機会もあるだろう。
演劇界隈には男色家も多い。お偉方が女形 などに手をつけているのはよく聞く話だ。
さて、どうやって自分がいないときに酒を呑むのをやめさせようか──
「うーん、こりゃやべえな。底なし沼に落ちていくみてえ……」
家族や友人は人並みに大事にしていたつもりだが、こんなふうに必死になったり、独占欲が湧いた経験はない。
なぜここまで、とか、なぜ百夜だったのかと、不思議には思う。
だが、理屈で説明できるものではなさそうだ。
桜蒔 がいっていたように、互いの姿と声で、磁石が引き合うみたいにぴったりと当て嵌まってしまった。
その強烈な感覚の前には、相手が男だとか些細 な問題で、疑問を挟む余地すらない。
かつて自分が他人の恋愛に対してそう感じていたように、熱に浮かされた空騒ぎなのかもしれない。
実態はなんでも構わない。ただ、この手を離したくはなかった。
今日一日を思い返しながら窓辺で月を眺めていると、しばらく経った頃に百夜が目を覚ました。
「起きたか。どこまで憶えてる?」
「蕎麦を食ったところまで……?」
「まだぽやぽやしてんな」
少量しか口にしなかったらしく、さほど悪い残り方はしていなさそうだ。
「今、何時だ?」
「もうすぐ夜半。蝶子さんたち遅いな」
「外出したときはいつも桜蒔先生の家に泊まっている。あそこは女中もいるから、たまには下宿屋の主人を休んでゆっくりできるだろう」
「あ、そうなの?」
つまり夜通し二人きりだ。
そうとわかれば、急に緊張してきた。
桜蒔にも先走るなと忠告されている。無理に関係を進める気はないが、鼻先に餌をぶら下げられたような試練である。
「もう寝るか? 他にしたいことある?」
「ある」
ずいっと志千に顔を近づけて、上目遣いに見つめてきた。
これは頼み事をするときの距離だ。
酔いが完全に醒めていないせいか、月の光を反射する瞳は潤んでいる。
体が無意識に動いて、髪の毛を梳 くようにその両耳あたりを手で挟んだ。
唇を重ねようとした矢先、百夜が口にしたのは意外な提案だった。
「もっと話がしたい」
「へっ?」
「なにか、べつの想像をしていたか?」
「いや、してないです……」
思わず敬語で返事をし、気を取り直して尋ねる。
「どんな話がいい?」
「志千のことが知りたい」
「俺?」
出会ったばかりの頃に、自分の常識を当たり前のように話すなと百夜に窘 められた。
だから、余計に意外だった。
「あのときは悪かった。外の世界を知ったら惨めになるのかもしれないと勝手に思っていたんだ。でも、こだわっていたのはおれだけだった」
百夜は体を離し、改まって謝罪を口にした。
「自分をわかってもらうだけじゃ、気遣われるばかりじゃだめだ。志千の目で見てきたものを知りたい。なにが好きで、どうやって育ったのか。家族の話とか、学校の話。なんでもいいから、志千の普通を教えてほしい」
布団の上に移動して座り直し、両腕を広げて名を呼んだ。
「百夜、おいで」
やや警戒しながらも近づいてきて、志千の足のあいだに座る。
後ろから抱きすくめ、青年の肩に顎先をのせた。
「そんなに疑うなよ。くっつきたいだけ。なにもしないって」
「その言葉、いっさい信用ならないんだが……」
髪やうなじから、かすかな汗の匂いがのぼってくる。
思う存分吸い込んでいると、心が満たされるようだった。
「志千、案外べたべたとしたがる質 なんだな」
「俺もはじめて知った」
酔うとおまえだってそうだけどな、という言葉は飲みこむ。
あの姿は自分だけのものにしておきたかった。
ともだちにシェアしよう!