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二十二 告白(後編)

 百夜(ももや)は立ちあがり、志千(しち)の上半身を足蹴にして布団に押し倒した。  さほど力は込められていないが、胸を圧迫されて(うめ)き声が漏れる。 「足癖悪ぃな、おまえは……」  志千を見おろす目は冷たい。  でも、これはつらいときの顔だ。  嫉妬が可愛いなどと暢気(のんき)に思っている場合ではなかった。  誰かの代わりにされていると感じるのは、百夜にとってなによりも傷つくことなのだ。  理解したくて対話をしているはずなのに、互いに人を好きになったことのない者同士でうまく伝わらない。すれ違ってしまう。 「貴様はごちゃごちゃと気を回しすぎなんだ。そんな扱いには慣れていないからな、薄気味が悪い。このあいだみたいに、欲のままに行動したらどうだ」  いつかの夜を再現するように、志千の下腹あたりに(またが)って、覆いかぶさってきた。  至近距離で目が合い、絹糸みたいな髪が頬をくすぐって敷布団に落ちる。  百夜は触れるだけのくちづけを落として、すぐに顔を離した。  志千の肩に添えた手が少し震えていた。 「ああ、おれじゃその気になれないか。貴様の好きな残菊の姿になって、この先までしてやろうか? 残念ながら声までは似せられないが」  威圧的で、攻撃的で、怯えた声。 「……百夜、たまに自暴自棄になるよな。自分をあまり大事にしてねえっつーか」 「百夜だと? そんな人間は存在しない。求められているのは残菊だけだ」 「ああもう、駄々こねんな。いるだろうが! ここに!」  両方の手首をつかんで、力まかせに上半身を起こす。  着物の裾から白い脚が露出し、対面で膝にのせている体勢になったが、構わず続ける。 「他の奴らがなんていおうが、俺がおまえを証明してやるよ。名前を呼び続けてやる。なぁ、百夜!」  抵抗はしなかったが、不安そうに目を逸らされた。 「だが、おれが二代目残菊じゃなければ視界にも入っていないだろう」 「んなわけねーじゃん。そりゃきっかけにはなったし、女優として敬愛してる。誤解してるようだけど、べつに俺は女装後が好きなわけじゃねえ。見た目の話なら残菊のときより、男の恰好のおまえのほうが好きだぜ」 「女より、男が趣味ってことか?」 「ってより、初代に似せるために目尻を下げた化粧してるだろ。俺はああいう儚げな垂れ目より、素顔のおまえの気が強そうで挑発的な眼差しのほうが断然好みだな」 「つまり、どういう意味だ。なにがいいたい」 「おまえ自身が、百夜が好きなんだよ」  遠回りしすぎていた。  最初から、こういえばよかった。  所詮は誰かの代わりで、本当に必要とされていない──そのつらさは志千にもわかるはずだったのに、どうしてもっと早く伝えてやらなかったんだろう。 「ついでにいっておくが、二代目だって俺にとっちゃ残菊の恰好をした百夜であって、ただのおまえなんだよ。惹かれたのは見てくれだけじゃないし、どんな恰好でも、男でも女でも関係ねえよ。俺が好きになったのは、最初から最後までぜんぶ百夜だ」  自分でも筋が通っているのか不明だが、正直な気持ちそのままの吐露だった。  髪と同じ亜麻色にわずかな鴇色(ときいろ)を垂らして掻き混ぜたような、不思議な模様を描く瑪瑙(めのう)の瞳に涙があふれた。  自らを守るために無愛想な仮面で隠しているが、心の中はとても過敏かつ不安定に揺れ動いていて、意外にもすぐに怒り、すぐに泣く。  そんなところも愛しくて、もっとすべてを(さら)けだしてほしいと思う。  手首を解放し、背に手をまわして抱きしめた。 「百夜は? 俺のこと好き?」 「……わからない」 「この流れでその答えかよ」  言葉とは裏腹に、百夜は志千の首に両腕をぎゅっと巻きつけてきた。 「蝶子や桜蒔先生に感じているのとは違う。この気持ちは知らない。なんなのかわからない」  自分と同じ戸惑いを共有していたのだと理解し、ふっと自然に笑みがこぼれる。  後ろに流れている長い髪を一掬(ひとすく)いして、見つからないようにそっと唇をつけた。  百夜はしばらく口ごもっていたが、一生懸命に言葉を探してくれているのがわかった。 「部屋に充満している菊の香りは、子ども心に死の匂いなんだろうと思っていた。おれは生きた人間ではなく、人形だからあそこに閉じ込められて、死者の花を手向けられているのだろうと。思い返せば他愛ない空想だ。でも、自分の生を証明してくれるものは、なにもなかった。見えるのは(すす)けた風景と、窓枠の中の十二階。むせ返る花の匂い。外にでたあとも、空はずっと灰色だった」  しゃくりあげとともに喉の奥が痙攣(けいれん)して、声が上擦っていた。 「ゆっくりでいいから」と、少しでも落ち着くように背をとんとんと叩いた。 「志千と出会ってから、少しずつおれ自身の存在が認められていって、はじめて世界に色がついたような気がした。時間が動きだす感覚が怖くて、いっそ眼中にも入れたくないくらい嫌な奴だったらいいのにと願っていた。それなのに……志千が視界から消えなくなった。だから、こんなに優しくするな。怖いんだ」 「ぜんぶ受け入れる覚悟ができてるなら、してもいいか?」  さするような動きで手のひらを腰に移動すると、百夜の躰がびくんと跳ねた。  くっつけた胸の鼓動が互いに混じって、うるさいほど響いている。 「なぁ、心臓の音、他の奴でもこんなふうになる?」 「ならない。志千だけ」 「俺もだよ。じゃあ、同じ気持ちだ」  襖越しに、料理の到着を告げる店員の声が届いた。  返事をする前に室内の気配を察してか「ここに置いておきますね」とだけ言い残して、階段を下りる足音が遠ざかっていった。  その間のおかげでだいぶ落ち着いたようで、肩で息はしているものの、おとなしく膝に乗っている。 「百夜、自分がさっきなんていってたか覚えてる?」 「さっき、って」 「欲のままにしろとか、この先までしてやるとか、いったよな? いったからには、おまえこそ覚悟できてんだろうな?」  腰を抱きよせてそう挑発すると、困惑した、見たことのないような顔になった。 「……できていない」 「なにもしねえから、今度から簡単にいうなよ。とくに俺以外には絶対やめろな?」  百夜は素直にこくりと頷く。 「そろそろおろすぞ。ずっとそこにいられると色々と困る」  ちゃんと、我慢するつもりはあったのだが──  首筋まで真っ赤に染めているのを見て、からかいたくなってしまった。  退こうとした百夜の躰を引き留め、片手で顎を掴んだ。 「なにもしないっていっただろう!?」  手のひらで近づいた志千の顔を押しのけようとする。  弱々しい抵抗を引き離すついでに、そのまま指を絡めて握りしめ、片手の自由を奪った。 「これの先はな。もう三回目だしよくね?」 「よくない!」 「じゃあ、今回はちゃんと許可取ろっかな。していい?」 「いつも勝手に触るくせに、この期に及んで、そんなこと訊くなんて卑怯だ……。拒絶できるわけないだろう、馬鹿」 「許可取れっていったのはおまえなんだから、ほら、答えろよ?」  たっぷりと間をあけてから、 「して、いい。してほしい」  少し拗ねたような声で、小さく答えた。  一、二度目よりもずっと長く、二人の息があがるくらいに。  唇は離さないままで、何度も浅く、深く、繰り返す。  最初はされるがままだった百夜が必死に求めてきて、よけいに離しがたくなった。 「はぁ、こうしてるだけで、なんでこんなに楽しいんだろ。馬鹿になりそ」 「今日はずっと、まあまあ馬鹿だぞ、貴様」  もはや漏れる言葉はなんでもよく、会話にすらなっていないかもしれない。  笑い合って、ようやく襖の前に置かれた盆を取りにいった頃には、蕎麦はすっかりのびてしまっていた。

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