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二十二 告白(前編)

 劇場で最新のオペラと活動を観て、公園内の掛茶屋(かけぢゃや)で一息つく。  観劇の感想をああだこうだと語りながらぶらついていると、小路に蕎麦(そば)屋の看板がでているのを志千(しち)が見つけた。 「なー、蕎麦食べてかねえ? 東京の天ぷらが食いてえな」 「この店は……」  なんということのないはずの提案に、百夜(ももや)はやや戸惑った様子だった。 「なに、不味いの?」 「味は知らないが」 「じゃあ入ってみようぜ」 「まあ、一階で食うだけならいいか……」  群青の暖簾(のれん)をくぐり、店内にはいる。  食欲を刺激するつゆの匂いが漂ってきた。 「お二人様、いらっしゃいませ」  看板娘といった雰囲気の若い娘が志千たちに近づいてくるなり、 「二階のお座敷にあがります?」  と、意味深な笑顔で尋ねてきた。 「そのほうゆっくりできそうだし、いいよな?」  返事をして百夜のほうを振り返ると、青年は指で眉間を押さえてため息をついていた。  階段をあがり、六畳ほどの小座敷に通される。  部屋に入ってすぐ視界に飛び込んできたのは一組の綿布団。  食事をするための座卓もあるにはあるが、なぜか床の用意がされている。 「天ぷら蕎麦を二人前ですね。ご注文いただいてから揚げておりますので、少々お時間をいただきます」  動揺を隠せない志千をよそに、娘は澄まし顔で注文を取った。  そして、意味深な口振りでこちらを上目遣いに見あげる。 「おもてなしはしなくてもいい……ですよね」 「いらない」  かわりに即答した百夜に対して、心得たような微笑みを残し、 「では、お飲み物だけ置いておきますね。ごゆっくりどうぞ」  と、襖を閉めて去っていった。  室内に漂っている気まずい空気を断ち切り、志千はなんとか口をひらく。 「ええと、ふつうの蕎麦屋じゃねえの?」 「二階は連れ込み宿だ」 「んん!?」 「この通りの飲食屋は大抵そうだぞ」  浅草の銘酒屋に酌婦がいることや、待合(まちあい)で芸者を呼べるのは知っていたが、まさか蕎麦屋が連れ込み宿を併設しているとは思っていなかった。 「東京では蕎麦屋と(うなぎ)屋はとくに多いそうだ。横浜にはないのか?」 「あるのかもしんねえけど、二階にあがるかなんてはじめて聞かれた」  家族以外の女性と連れ立って歩く機会もなかったのだから当然だ。  しかし、男同士なら蕎麦屋くらい寄っていた気がするのだが、友人とは違う雰囲気でも滲みでていたのか。もしくはあの看板娘の勘がいいのか。 「百夜、もっと世事に疎いのかと思ってたのに、その、詳しいんだな」 「暮らしている場所のせいだ。あとは桜蒔(おうじ)先生が教えてくれる知識」 「ろくなこと教えねーな、あの大人」 「貴様こそ、色事になると信じられないほどものを知らないんだな」 「だから、いっさい遊んでねえのよ。野暮天ですんませんね」  志千は必死に緊張を抑えようとしていたが、心臓の音は耳元で聴こえているかのように大きくなっていくばかりだった。  ひとつ屋根の下に暮らしているのだから、二人きりなどいまさらだ。  家にも布団はある。裸だったのを押し倒したことすらある。なにも特別な状況ではない。  物事には順序というものがあるし、今日は百夜の気持ちを確かめるためにわざわざ誘って外出しているのだ。  それなのに、こんな場所に連れ込んでは下心満載と思われてしまう。  なにも知らないふりをして騙くらかしたと勘違いされていたらどうしよう。  そう心配していると、百夜が不機嫌な口調でいった。 「そんなことより……さっきの店員をじろじろと見ていただろう。ああいうのがいいのか?」 「あー、なんか気になって」  まだ十五、六で、つるりとした白肌の頬に赤味が差し、唇には紅を塗っているのか、濡れたような艶を含んでいた。  一見どこにでもいそうな若い娘だが、かすかな違和感があってつい観察してしまったのである。 「いっておくが、あれは男だぞ」 「えっ!?」 「このあたりには、数は少ないが男娼もいる。昔の陰間茶屋(かげまちゃや)の名残りで大抵は女物の着物を着ている。飲食店で働きながら、客に呼ばれたら身を売っているんだ」 「へえ、いわれるまで気づかなかった。可愛らしいもんだな」  違和感の正体がわかってすっきりしていると、百夜がいつもより低い声でいった。 「……貴様、そういう嗜好か? 女の恰好をした男が好きなだけなのか? もてなしを受けたいなら金を払えばいい」  まずい。ただの女装好きだと思われている。  誤解にもほどがある。  子どもにいうような気持ちで口にしただけで、他意はなかったのだ。  まずはあのくちづけのときの弁解をしたかったのだが、このままではますますこじれてしまいそうである。 「とりあえず一旦落ち着こう。ほら、座って煙草でも吸え」 「今はいい」  隣に座らせて備えつけてあった煙草盆を取りだしても、すげなく断られた。 「貴様の横では吸わない。唯一の取り柄の声が悪くなって、失業でもしたら困るだろう」  素直ではない言い方だが、そういえば今日は吸っている姿を見ていないと思ったら、一緒にいるときには控えてくれていたらしい。 「そっか。ありがとよ。おまえにも良くはないだろ。なんで吸ってんだ?」 「母が使っていた煙管(きせる)が部屋にあって、真似をしてみたかっただけだ。桜蒔先生に吸いたいといったら葉をくれた」 「ほんと、あの人は……」  百夜の口調は、打ち解けていなかった頃みたいなそっけなさに戻ってしまっている。  やはりこんな場所に連れてきたのが悪かったのか。  だが、志千のために煙草を我慢したりと気遣いも感じられる。  なにを考えているか見定めようとじっと見つめていたら、居心地悪そうに目を逸らされた。  唇を尖らせた横顔は、まるで拗ねた子どもみたいだ。  これ、べつに嫌われたわけじゃねえな、と反応を見て理解した。 「百夜、もしかして妬いてる?」 「ちがう」  さっと顔色を変え、いつもの無口さからは信じられない早さで(まく)したてた。 「だいたい、貴様がよくない。普段からべたべたと触ってきたり、思わせぶりばかりいうくせに、女の恰好なら結局は誰でもよかったんじゃないか」  つまり妬いていると白状しているようなものだが、必死に否定しているのが可愛くて、思わず噴きだした。 「ふっ、ふふふ。ふーん? 嫌だったんだ?」 「は? 誰が? なにを?」 「俺が他の子を褒めるの、百夜は嫌だったんだ」 「ちゃんと言い直さなくていい」 「訊き返すからだろ。心配しなくても、おまえが日本一かわいいって」 「腹立つな、その軽さ……」  頭を撫でようとして食い止められる、という攻防を繰り広げているうち、もうすっかり通じあっているつもりになってしまった。  嫉妬までするのだからきっと百夜も好いてくれているのだろうと、すでに確認を終えた気分でいたのは(おご)りだった。  仏頂面に隠れているが、百夜は志千が思っていたよりずっと深い傷を負っていたのだ。  生まれたときから隠され、偽られ、存在を否定され続けてきた傷。 「こんな面もあるんだってわかって、俺は嬉しいけどな。おまえのこと、もっと知りたいから」  そういった途端、空気が重くなった。 「……これまでに話したことで終わりだ。なにもないぞ。すべてが虚構で贋物(にせもの)。知識も経験も思い出もからっぽで、残菊の身代わりの人形。ただの造花。時間の流れないあの家で、最後にひとり残される玩具。それがおれだからな」  志千がいったのはそんな意味ではない。  なにをして喜ぶのか、どんなことが好きなのか、知りたいと思っているのは現在の百夜だ。  だが、また言葉を間違えた。 「俺が好きなのはもともと二代目で、初代じゃない。だから贋物なんて思ったことねえよ」 「同じことだろう。二代目だってただの模倣だ。おれ自身じゃない」  百夜は立ちあがったかと思うと、畳に座っていた志千の上半身を足蹴にした。  そのまま、布団の上に倒された。

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